イスラエル旅行日記 6月5日 - 二回目のシャバット

今日は土曜日、すなわちイスラエル全体が正月みたいに休みに入る日です。前回と前々回の旅と違って困るのは、この日に休みを取るので、ホテルでは朝食のみで後は自分たちで食べるところを探さなければいけません。また自由時間ですから他の地域に行きたいと思っても、公共の交通はすべて休みです。

それでも今回は、初めてイスラエル旅行に来た人々の中に、上ガリラヤにある所に行きたいと言った人が出ました。それで、経験のある私と、もう一人の経験者がナビゲーターになって、ピリポ・カイザリヤとテル・ダンに行きました。

ピリポ・カイザリヤは今はバニヤスと呼ばれています。神「パン」が拝まれていたところで「パニヤス」がアラブ語訛りの「バニヤス」となりました。前回来たことのあるメンバーが、バニヤスの宮のみならず、その周囲にあるヘロデ・アグリッパ二世の建てた町の遺跡にも連れて行ってくれました。

そしてテル・ダンですが、ここもヨルダン川の水源になっているところで緑がたくさんありきれいなところです。ダン族がカナン人のこの町を攻め取り、またヤロブアムがベテルと共にここに金の子牛を立て、祭壇をきずいたところです。ここはものすごく感動しました!遺跡がそのままそっくり残っているからです。

そして帰りに、イエスの舟(Jesus Boat)の展示館に立ち寄りました。

そして今日のクライマックスは家庭夕拝です。1999年に会った、カルバリーチャペルからの宣教師がこの地域で続けて働きを行なっています。参加したいとメールを出したら、御言葉を分かち合ってくださいと頼まれ、奉仕させていただきました。雰囲気がとてもよく、深い休みを得ることができました。霊的にも、私が用意していた聖書箇所を彼も考えていて、きれいな御霊の流れが出来ていました。

テル・ダンにある祭壇と聖所

イスラエル旅行日記 6月4日 - 下ガリラヤ(西部)

今日は下ガリラヤの西部です。

ハティンの角(Horns of Hattin)
ナザレ
キション川
ベイト・シェアリム(Beit Shearim)
カルメル山
メギド

聞きなれない場所が二つ出てきたと思います。一つはハティンの角ですが、聖書では「マドン(ヨシュア11:1)」という地名で出てきます。ガリラヤ湖の南東部分に位置しますが、十字軍がサラディンとの戦いに負けた場所です。けれどももっと大事なことは、ここがプロテスタントの「八福の丘」だそうです。普通はガリラヤ湖畔の北にある、カ
トリックの教会があるところにプロテスタントの教会もほとんどが連れて行きます。道なき道をワゴン車に揺られながら行ったので、誰がこんなところに来るのか?と旅行メンバーの誰もが思いました。

もう一つは、ベイト・シェアリムです。カルメル山のふもと近くにあります。ここはデービッドの旅行で訪ねたツィポリに似ています。ユダヤ人の反乱によってエルサレムとユダヤ地方から追い出されたユダヤ人が、このローマの町にサンヘドリンを建て、ユダヤ教の中心地となりました。ここにある洞窟の墓は驚くべきものがあります。

昨日に比べて霞みも少なく、カルメル山から東を見て、昨日訪れた、タボル山、モレ山、ギルボア山、そして先ほど訪ねたナザレを一望できました。

このように、下ガリラヤはイズレエル平原を中心として、山と峠で囲んでいる所です。

カルメル山から見たイズレエル平原

イスラエル旅行日記 6月3日 - 下ガリラヤ(東部)

ガリラヤ湖周辺を見た後、6月3日には下ガリラヤの東部を見ました。旅程は次の通りです。

ベルヴォア(Belvoir)要塞
オフラ
ハロデの泉
モレ山
シュネム
ナイン
エン・ドル
タボル山
ギルボア山
ガン・ハシュロシャ(Gan Hashlosha)国立公園(サネSahne)

これまでになく、山を登って下っての繰り返しで、全体の地形を把握させようとする意図を見ました。ところがあいにく霞がかかっていて、はっきり見ることができませんでした。

ベルヴォア要塞は十字軍によって建てられたものですが、その高地からヨルダン渓谷を眺めることができます。ちょうどベテ・シェアンのテルから見たのと似ていました。

そしてワゴン車は、道ならぬ道を走りました。キブツの畑の中を突っ走っています。そしてあるアラブ人の町が見えてきましたが、そこがギデオンの町「オフラ」です。

それから車をさらに走らせると、ギデオンが三百人にまで軍隊を減らされた「ハロデの泉」に着きました。そこはギブオン山のふもとにあり国立公園になっています。

そして北側にモレ山があります。モレ山の南側にはシュネムがあり北側にはナインがあります。前者は、エリシャがシュネムの女の息子を生き返らせた町です。そしてナインはイエス様はやもめの息子を生き返らせた町です。この山が神の復活の力をあかししています。

お昼はモレ山のふもとにある町で、アラブ系イスラエル人の人のお店でイスラエルの簡単な料理を食べ、それから私たちはエン・ドルを見ました。サウルが魔女に伺いを立てたところです。

そしてタボル山に上りました。そこからナザレの町も見ることができます。

それから、ギルボア山を走り、そして最後はサネと呼ばれる国立公園に行きました。それは見るためではなく、水遊びを楽しむためです。なっ、なんと泉によるプールがあるのです。三つのプールに分かれていますが、独立戦争時に殉死した三人にちなんでいるそうです。

泉の水によるプールを生まれて初めて楽しみました。

イスラエル旅行日記6月2日 - ガリラヤ湖周辺

今日の旅程は次の通りでした。

ゲルガサ
ベツサイダ
ヨルダン川→ガリラヤ湖
カペナウム
八福の山
コラジン
ティベリヤ
湖上遊覧
アルベル山
ガリラヤ湖→ヨルダン川

南端にあるマアガン・ホテルを出て右回りで北上しました。ガリラヤ湖周辺は異邦人側の地域とユダヤ人側の地域に分かれます。ティベリヤから時計の反対周りで、豚に悪霊が乗り移った出来事が起こったゲルガサまでが異邦人の地域、北東にあるベツサイダからミグドル(マグダラ)辺りまでがユダヤ人の地域です。私たちはまず、異邦人のゲル
ガサに行きました。

そこにビザンチン時代の教会の遺跡があります。それを見ましたが、当時のひき臼とオリーブ圧搾機がありました。

そしてベツサイダの遺跡に行きました。ベツサイダの可能性のある地域は北東と、そして伝統的な北西があります。カトリックなどの教会は北西にあります。けれども遺跡として今、北東で盛んに行なわれており、どんどん発掘されています。

そしてカペナウムに行きました。そこで見ることのできるシナゴーグ(ユダヤ教会堂)は、数世紀後のものですが、基盤の部分が当時のものを使っていて、それが主が教えを垂れた所です。

さらにコラジンに行きました。この町と上の二つの町をイエス様が呪われましたね。コラジンは北東の丘の上にあります。カペナウムよりもここのほうが、シナゴーグをはじめそのまま残っているので、当時のユダヤ人の町を想像しやすかったです。とくに「モーセの座」と呼ばれるマタイ23章に出てくる椅子も見つかっています。

そしてティベリヤで聖ペテロの魚を食べ、それから湖上遊覧をしました。デービッドは必ずそこで説教をするのですが、アーノルドは運転や説明、すべてのことを起こっている疲れのせいか、船の真ん中の椅子に座ったまま眠ってしまいました!

舟はティベリヤに戻り、今度はアルベル(Arbel)に向かいました。ガリラヤ湖東端にある大きくそそり立つ丘です。ところが、公園に着いたらまだ30分ぐらい残っていたのに「もう閉門だ」と言われて引き返さなければいけませんでした。けれども途中で見えるガリラヤ湖全体の風景は圧巻でした。

6月1日の分で書くのを忘れましたが、6月1日の講義にアーノルドと古くからの親友で、ノアム&ジョアン・ヘンドレンさんが証しに来てくださいました。後でお二人も最近来日されていたことを知りました。ハーベストタイムの再臨待望聖会に四月に招かれていたのです。

アーノルドも五月に日本に来ていたので、「私たちのは前座だ」と冗談を言っておられましたが、ジョアンさんが日本人の信者とユダヤ人の信者の通る葛藤に類似点を見つけておられました。「クリスチャンになったら、日本人であることを失ってしまうのではないか。」というアイデンティティーの問題です。

そして、お二人は日本がとても気に入っておられていました(これは外国生活が多い私はよく聞く話ですが、きれいで、人々に親切で、秩序がある・・・などです。)そしてついでにアーノルドにも、「なぜ、日本に何度も行き続けるのですか?」と聞きましたが、「この国が好きで、その民も好きだから。」とにこにこしながら答えました。

私は冗談ぽく、「イスラエル人が東洋神秘に走る傾向があるが非常に驚く。私は神社や寺に囲まれて育って、もう嫌気がさしてイエスをメシヤとして信じたのに。」と言ったら三人とも笑っておられました。

コラジンのシナゴーグにあるモーセの座にすわる、お茶目な(?)アーノルド

イスラエル旅行日記 6月1日 - ヨルダン渓谷

今日はエルサレムからガリラヤ湖への移動日です。

ベツレヘム(聖誕教会、羊飼いの丘)
ヨルダン渓谷
エリコ
ギルアデ
アベル・メホラ
ベテ・シェアン
ヤムルク川 

荷物を整えてまずアラブ旅行社のバスに乗り、ベツレヘムに行きました。観光バスに乗り、初めて観光客になった気分になりました(いつもはかなり中古のワゴン車で、揺れがかなりひどい!)。

羊飼いの丘の教会は初めて行きましたが、当時の洞窟の中での一般の人々の暮らしが分かり、また主がお生まれになったときの様子を想像することができました。

あとガイドの人が、新生したパレスチナ人クリスチャンでした。いわゆる伝統的なキリスト教の共同体からの迫害があることを話してくれました。

そしてヨルダン渓谷ですが、少しずつ北上しながら、道端で止まってヨルダン川の向こう側を見ながら、その聖書的位置を確認しました。アモン、アダムの町、ヤボク川、ギルアデ、そしてヤムルク川を挟んでバシャンです。特にヤムルク川とヨルダン川が合流する、ヨルダン領とイスラエル領のすれすれまで行きました。

ヤボクの渡しではヤコブが神の使いと格闘し、そしてまた以前はアブラハムがここから来てヨルダン川を渡り、シェケムに行きました。(私が5月24日に行ったナブルスです。ちょうど道路が西向きにナブルス行きのがありました。)

あと、途中でエリシャの町であるアベル・メホラ(1列王19:16)のテルも確認し、エリヤからエリシャに主の働きが移行した時のことを想像できました。

かつてのデカポリスの町ベテ・シェアンにも訪問しました。その前はカナン人の町であり、サウルがここでペリシテ人によってさらし者にされたのはご存知だと思います。そのテルの上にあがると、イズレエル平原の東端を眺めることができます。

そしてマアガン・ホテルに到着です。ガリラヤ湖の南端にあります。普通、ティベリヤにホテルが集中しているのですが、そこにあるホテルだと湖畔まで距離があるとのことで、このホテルを選んでいるそうです。

外では孔雀が放し飼いになっていて、鳴いています!

ヤムルク川(左上に、イスラエルとヨルダンの国旗がなびいています。)

イスラエル旅行日記 5月31日 - シェフェラ

今日は、朝7時に西壁トンネルに行った後、「シェフェラ」というユダヤ山地とペリシテ人の地中海沿岸の間にある低地に行ってきました。旅程は次の通りです。

西壁トンネル
ラトルン(Latrun)
五つの谷
1)アヤロンの谷(ゲゼル、アヤロン、ベテ・ホロン)
2)ソレクの谷(ツォルア、ティムナ)
3)エラの谷(ソコ、アゼカ)
4)ツェファサ(Zephathah)の谷(モレシェテ・ガテ、マレシャ)
5)ラキシュの谷(ラキシュ)

「ラトルン」は聖書の地ではなく、独立戦争と六日戦争の戦地で有名なところです。そしてシェファラですが、ヨシュアの軍が五人の王を追いかけたところ、サムソンが行動したところ、ダビデとゴリヤテが対峙したところ、そしてアッシリヤ、バビロンがエルサレムを攻める時に通った要塞の町々(ラキシュなど)です。

シェフェラには五つの谷がありますが、その一つ一つを見ました。盛りだくさんの情報なので、改めて旅行記を書くときにご紹介したいと思います。

一つだけ、ヨシュアが五人の王と戦って、他の戦いが完了するまで彼らを洞窟の中に入れておきましたね。その洞窟がどのようなものであったかを教えてくれるような場所がシェフェラにはたくさんあります。その一つが下の写真です。

イスラエル旅行日記 5月30日 - 死海

今日は「死海」の日です。以下のところに行きました。

クムラン
マサダ
エン・ゲディ
死海遊泳

これまでも行ったところですが、やはり早歩きで進み、数々の地点で短い説明をしながら動く方法は非常に効率的です。特に今回は「マサダ」で、北の崖にあるヘロデの宮殿、特に個人用浴室まで降りる時間があったことです。

あとエン・ゲディでは最後の滝まで上りました。アーノルドは66歳なのに(以前70歳代と言いましたが、間違いでした)ものすごい体力があります。みごとにメンバーをそこまで引っ張っていって行きました。

マサダ要塞にあるヘロデの浴室

イスラエル旅行日記 5月29日 - シャバット

今日は安息日です。アリエルのグループも休みを取りました。といっても、ほとんど全員が近くの有名なメシアニック会衆の礼拝に参加しました。その後、現地の働き人の案内で、仲良しになった三人でオリーブ山に行ってきました。

その後、歩いてベン・イェフダ通りまで行きました。この閑散とした通りを見た後、再び10時頃にタクシーに乗っていってみたら、人々で賑わっていてシャバットが終わったことを教えてくれました。

メシアニック・ジューの墓
(当時のユダヤ人信者の墓が、オリーブ山にあります)

イスラエル旅行日記 5月28日 - ユダヤ地方(北部)

今日の旅は、主に二つに分かれます。一つは、ベニヤミン族の地で起こった聖書的出来事を辿ったことです。以下の地名を見てください。

アナトテ
ラマ
ギブア
ゲバ
ミクマス
ギブオン
キルヤテ・エアリム

エレミヤの故郷の町、ヨシュアがギブオン人にだまされたこと、サウル王の子ヨナタンがペリシテ人に対して戦い大勝利を収めたこと、サムエルの町、契約の箱が安置されていたところ等が、主な出来事です。

そしてもう一つは、独立戦争で起こったことを辿る旅です。

カステル
ハル・アダル
バブ・エル・ワド(Bal El Wad)
ビルマの道

これは、テルアビブとエルサレムの間に走る幹線道路にある要塞を巡る戦いの地点です。パレスチナ・アラブはこの補給線を遮断して、エルサレムにいるユダヤ人を絞め殺すつもりでした。

お昼は、典型的なイスラエル料理との説明を受けていましたが、行ってみたら、なんとエルビス・プレスリーのファンが経営しているお店でした。店の中が彼の写真や絵でいっぱいになっていて、本当に楽しかったです。そこで飲んだトルコ・コーヒーがとってもおいしかった!

この日は早めに終わり、メンバーはプールで泳いだり、買い物に行ったりしましたが、私は前夜、熱を出してしまい、ずっと寝ていました。今は良くなっています。

あと、講義の時間の時にアリエル・ミニストリーのイスラエル支部のご夫婦が証しをしてくださいました。ロシアからの帰還民です(旦那さんはロシア人で、奥さんがロシア系ユダヤ人です)。

ハル・アダルにて
(旅行メンバーの女の子が、六日戦争時に使用された戦車の上に立っています)

イスラエル旅行日記 5月27日 - エルサレム旧市街(ユダヤ地区)

今日は、主に以下の旅程でした。

1.最後の晩餐の部屋(ダビデの墓、メシアニックの集会所)
2.エルサレム考古学公園
3.嘆きの壁
4.アルメニア地区で食事
5.カルド
6.「ヘロデ地区」
7.神殿再建財団

ワゴン車を昨日と同じく、ダビデの町の横の駐車場に止めようとしましたが満車だったので、(現在の)シオンの山の駐車場に行きました。そのため初めに見たのが最後の晩餐の部屋です。

すでにここには二回来ていましたが、初めて確認したのはユダヤ人の信者がそこを集会所に使って、第二ユダヤ人反乱が起こるまで15人の監督者がいたことです。(彼の著書「ヘブル的キリスト教(Hebrew Christianity)にも説明されていますが、ユダヤ教の一派として数えられていた信者たちと、他のユダヤ人たちとの決定的な亀裂が走ったのは、彼らが第二ユダヤ人反乱の主導者であるバル・コクバをメシヤとして認めなかったことです。)

そして2.のエルサレム考古学公園(南壁)は本当に良かったです。2008年の旅行でも行きましたが、今回は、イスラエルで25年間も発掘を続けている考古学者がガイドをしてくれたからです。非常に分かりやすく、丁寧に説明してくれました。彼は、「ここが他のどこよりも最もヘロデ時代の神殿を感じることができる場所だ。」と言っていましたが全く同意です。イエス様が歩かれた階段、通りがそのまま発掘、保存されています。

そして嘆きの壁に行き、アルメニア地区でアルメニアの食事を取りました。

歩きながら、カルドを初めユダヤ地区にあるいろいろな遺跡、建物の説明を受けましたが、ウォール考古学博物館(別名「ヘロデ地区」)が圧巻でした。ヘロデ時代のエルサレムで上町の遺跡をそのまま残しているからです。裕福な祭司長の家の遺跡があります。

そして最後に、神殿再建財団(The Temple Institute)に行きました。これでもう三回目ですが、ガイドに質問するのが楽しみでした。彼らは正統派ユダヤ教徒ですが、正統派ユダヤ教の中でも独特な存在です。正統派は大抵、メシヤが来臨してから神殿が建てられると信じていますが、彼らは神殿を自分たちで建てて、それからメシヤが来ると信じています。

晩の講義の時にこのことについて質問しました。なぜ異邦人のクリスチャンたちを招いてくれるのか、と。アーノルドの答えは、「ユダヤ人の間からでも支援金を受け取れないから。」でした。何と福音派が最も支援しているとのこと。福音派が何を信じているかも承知しており、私たちが喜ぶようなことを語ります。残念なことですがこれが事実です。

正統派ユダヤ教の子供たち
(学校の休み時間、アイスキャンディのおやつが与えられたようです)