キリストの名を汚すクリスチャン活動

ある人による、叱責の言葉を紹介します。

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キリストの名を使って、世を楽しもうとする人たちがいる。

伝道と称して、異性に不純な思いでアプローチする人。
伝道と称して、伝道地にあるレクリエーションを楽しもうとする人。
宣教と称して、その異国の生活のほうが楽だとして住んでいる人。
交わりと称して、その仲間サークルが楽しくなっている人。

だったら、素直に恋愛してます、娯楽がしたい、異国生活が楽しい、サークル活動したい、と言えば良いのです。神の名を使わないこと。

これは名誉棄損の罪です、「神の御名」の毀損です。

自分が世的になっていると思うなら、その世の愛を捨てなさい。
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世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友になりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4:4)」

皆でなろう「変な日本人」!

先ほど、読んで痛快な記事を見つけました。

お役所始まったな! 総務省が通称「変な人」事業をスタート

総務省が、ICT(情報通信技術)分野の個人研究者を支援するプログラム「独創的な人向け特別枠(仮称)」の対象者を6月から募集します。それに向け、委託先となる業務実施機関の公募も始まりました。総務省によると、同プログラムの通称は「変な人」。事業概要にはお役所らしからぬユニークな言葉が並んでおり、ネットユーザーから注目を集めています。・・・

とのこと。ここで思い出したのが五月の日本カルバリーチャペル・カンファレンスのワークショップ(分科会)でディスカッションです。キーワードが「変な日本人」になりました!下が録音したものです。

「キリストを分かち合う」

一通り、伝道についての話をした後で、他の牧師が聞いている人に「伝道しようとする時に何が困難だと感じるか?」という質問に、「どういう思われるか、気になる。」というという返答が一番多かったです。そこで、解決として「だんだん慣れてくると、変な奴で良い。」という言葉が出てきました。会場が笑いで包まれて終わった分科会でした。

まともな日本人として生きると、人を恐れて福音を語れなくなります。福音はその性質から過激であり、日本の文化と対極にあります。だからまともなクリスチャンとして証しするなら、変な日本人になってもいいや!と吹っ切れた人が効果的な証しができる、ということです。「出る杭は打たれる」ですが「出過ぎた杭は放っておかれる」のです。

そこで私たちクリスチャンの標語は、キリストのゆえに「変な日本人」になろう!(笑)

最近、ルカ6章中盤の学び(原稿 ・ 音声)でもこのことを話しましたので、よかったらお聞きください。(^^

苦しみを共にする教会

一つ思い巡らしたことをご紹介します。

恵比寿バイブルスタディではルカによる福音書、西日暮里バイブルスタディではヤコブ書、そして日曜礼拝はヨブ記を学んでいて、一つのテーマが見えます、それは「貧しさと苦しみ」です。私たちの豊かな日本の社会では馴染みが出てこないと思うかもしれませんが、私は奉仕をしている中でますます感じることは、日本こそ、精神的に、霊的に一種の貧しさと苦しみを通っているということです。

祈り会を持つたびに思う事は、教会が、決して苦しんでいる人のために祈ることは終わらないということです。小さなことですが、これまで越えられなかった自分の肉の弱さを神の恵みによって乗り越え、主の御心を行なった証し、そこに喜びを抱きます。しかしそれも束の間、次の試練が他から聞こえていきます。休むことができないのです。

しかし、そのうめきに近い祈りは、まさに神ご自身が与えられた豊かな賜物であることを知ります。
bonhoeffer
神は、教会史に霊的な巨人を各時代に置いておられます。ナチス統治下のドイツで、キリストの告白を固持したディートリッヒ・ボンヘッファーは、その一人です。

同じく、迫害された兄弟姉妹のために祈り、支援する”Open Doors“(開かれた戸)という団体が、ボンヘッファーの言葉を借りてこう書きました。

「神が教会の内に起こしたいと願っておられる逆説があります。ディートリッヒ・ボンヘッファーが言うように、「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である。」地域教会が、次のバーベキューはどうしたらよいか、クリスマスの飾りはどうすればよいという事を、世界の信仰者の仲間の日々の窮状よりも多く考え始めたら、その教会はその目的と焦点を見失ったことになります。」
(記事:”How The Gospel Has Changed China“から)

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私を贖う方は生きておられる

教会ではヨブ記の学びが進んでいます。ロゴス・ミニストリーとして、聖書通読の学びは第二周に入っているのですが、どの書物も新しい発見なしに読むことはできません。一回目にヨブ記を教えた時に、とても苦手意識を持ちながら教えていたことを覚えていますが、今は、まるで違った視点で読むことができています。

ヨブ記の学び

Job's Sufferingヨブの苦悩を読めば、人生の壮絶な苦しみを味わっている人のあらゆる声を代弁しているので、誰もが孤独にならず、またごまかすことなく神に取り組むことができます。ヨブの友人とのやり取りの中で、その慰めを受けられない痛みの中で、彼の神への愚痴は、いつの間にかキリストご自身が正しい方なのに罪に拠る苦しみを負われている、その贖いの姿を浮き彫りにしていきます。

そしてヨブは、気が狂ってしまっているのではないかと思われる程の極度の呻きの中で、突然、光に打たれたかのような大胆な信仰の言葉を出します。神の仲介者による保証を宣言しました。体のよみがえりを希望しました。ついによみがえった肉体によって、神が贖い主として地上に立っている姿をそのまま見るという、とんでもない信仰の言葉を発します。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。(19:25-26)」

上の御言葉を歌ったのが、次のビデオです。 続きを読む 私を贖う方は生きておられる

日本カルバリーチャペル・カンファレンス2014年

去年に引き続き、毎年恒例のカルバリーチャペルカンファレンスが、5月5‐6日に国分寺で行われました。テーマは、「キリストにあって成長する」(2ペテロ3章18節)です。

2014年カルバリーチャペル・カンファレンス私たちの教会からは二十名で出席、一人一人が自由に他教会の兄弟たちと交わっていました。

今回は、アメリカからのスピーカーを招かないで行なった初めてのカンファレンスだったのではないかと思います。もちろんスピーカーにアメリカ人はいますが、皆、長期宣教師で、日本に根づいている兄弟たちです。牧者や宣教師は、いつもいろいろな所で顔を合わせ交わっているので、かなりきわどいジョークを互いに言い合えるぐらい仲良しになっています。私にとってLCFが家族であれば、日本のカルバリーは”かなり近い親戚”という感じです。「神の家族」という言葉が最も適切です。

所沢カルバリーのトラビスと西東京の山東さん
所沢カルバリーのトラビスと西東京の山東さん

次の日曜日には恵みの分かち合いをしました。初めて参加した兄弟の分かち合いが印象的でした。「後ろ向きになってしまいますが・・」という前置きとは裏腹に「一致があることが印象的だった。愛と尊敬による一致だ。そして国籍を超えている。アメリカ人でも、日本人でも、同じものを持っている。」というもので、私は改めて、空気のようになっていた神の恵みに気づきました。うちの教会の兄弟が書いたブログ記事を紹介します。

神の家族

メッセージもそれぞれが、素晴らしいものでした。少しずつ聞き返していますが、御言葉によって建て上げられる幸いを覚えます。下のカルバリーチャペル国分寺のサイトに、音声メッセージを全て聞けます。

Calvary Chapel Japan Conference 2014
カルバリチャペル・ジャパン・カンファレンス 2014 (5/5-6)
テーマ:「キリストにあって成長する」(2ペテロ3:18)
– Growing in Christ(2Pet3:18)-

Worship at Japan CC Conference 2014

カルバリーチャペルの衝撃

ボブ・コイ牧師の辞任

カルバリーチャペルにおいて、おそらく最大の教会である、フロリダ州にあるカルバリー・チャペル・フォートローダーデールにおいて、その牧師、ボブ・コイ(Bob Coy)が姦淫の罪を犯したことで、突然辞任したニュースが、4月3日以降に入りました。こちらに日本語の記事があります。

カルバリー・チャペルに激震

 私は、4月3日以降、ニュースを読んだ時にそのとおり、心に激震が走りました。フェイスブックにおいて次のように書き残しています。

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「不道徳や教会の金銭の不正使用に拠ることよりも、兄弟を告発することによってもっと多くの教会が壊されてきた。粗探しが我々の社会にあまりにも浸透しており、ほとんど『ミニストリー』の地位にまで引き上げられてしまっている!」(フランシス・フランジパーヌ)

既に英文の記事が数多く、ある著名なカルバリーチャペルの牧者の犯した罪についてFB上でシェアされています。そのほぼ全てが良い意図でシェアされていますが、私自身はあまりにも悲しくてただ泣いており、また主に対する畏れで震えています。

ここでの希望と慰めは、本人も含め、教会が厳格に聖書に基づいた戒規に則り動いていること、次に教会の兄弟姉妹が溢れるばかりの愛をその家族と本人に向けていることです。彼がこんなにも愛され尊敬されていたのか、と驚くばかりです。

私は批評する立場にありません。執り成す立場にあります。また自分自身を吟味し、裁く立場にあります。自分の仲間、つまり日本のカルバリーチャペルの牧者や宣教者のために互いに祈る立場にあります。

あるコメントで、こんな内容のものがありました。ノアがぶどう酒で酔いしれ、全裸で寝ているところをカインがじっと見て、軽蔑し、あざけっていた。けれども、セムとヤペテは、その裸を見ないで後ろ向きで覆いを持ってきて父にかけた、という内容です。「顔を背けて、父の裸を見なかった」とあります。

これが今の私の思いにぴったりです。忘れたい・・、けれどもそれは抑えているだけで、悲しみが心から溢れてきます。でも、これでいいんだと思います、これが主が与えられている吟味の時、また内なる罪の告白の時です。

そしてこのことについて議論せずに、前に向かっていく。当教会の人々を始め、直接関係しておられる方々が実に知恵深くこの問題に取り組んでいるので、彼らのために陰で祈るけれども、声高に是々非々を語りたくありません。主の御手にゆだねたい気持ちです。 続きを読む カルバリーチャペルの衝撃

権威に対する取り組み

牧者の喜び

昨日は無事に復活祭礼拝を捧げることができました。礼拝の後、初めて来た二十代の女性が、イエス様の復活の御業をご自分のものとして信仰告白をされました。

牧者にとって、何がやりがいなのか?と聞かれる時は、やはりこのような時でしょう。単に、口で告白したからという機械的なことを話しているのではありません。その人の人生、その苦しみや悩みを聞き、そこにキリストの十字架の血潮が注がれたこと、そこに注がれた御霊と新しくされた心を見る、それが喜びであります。

それだけではありません。むしろ信じた後が大事で、その信仰にあって本人が成長し、変えられる姿を見る時に、やっていて良かったと感じます。まだ本格的に牧会を始めて三年ちょっとです。聖書教師としては長い月日が経ちましたが、神が実質的に牧会の働きを与えられたのは、この開拓教会であります。されど、三年ちょっとです。神の畑で各人が、神を見つめ、その中で信仰によって近づいている姿を見ることができます。

次に喜びは、信者たちが互いに助け合い、祈り、そして他の信仰の若い人々を助けている姿を見る時です。私だけが伝道し、奉仕しているのではなく、私も彼らと同じ兄弟であり、共に教会を建て上げる一部になっていることを見る時に、喜びを感じます。まさにキリストが頭となっておられて、私たちが同じところに立っているその一部であることを見る時に嬉しくなります。

ところで、ずっと心に引っかかっている言葉があり、それは日本において、このことが克服できれば心が楽になるであろう、そして霊的刷新にもつながるだろうと、と思わされる言葉があります。それは「権威」であります。

権威には、牧会者のような霊的権威が与えられている職もあり、また、地上における権威は、妻にとっての夫、子にとっての親、会社における上司、学校の先生、そして納税などの行政機関、警官、そして国とその指導者がいます。クリスチャンにとって、一番身近な牧師という存在から説明します。

キリストの体を船に例えると

ブログ記事でも書いてきましたが、「牧師中心主義」という日本の教会にある課題がある一方で、「卒業信者」という名称ができているほど、教会から離れているという両極端になっている訳です。なぜ、このような二極化が起こるのかと言いますと、「権威」についての理解が、信者のみならず牧者であっても知らず知らずのうちに間違ってしまう、という課題があるからです。こちらのブログがとても分かり易い例えでしょう。

牧師は船長で、信徒は乗客か?

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“普遍教会”にある誤謬

(「民衆という”深海”を見よう」の続き)次に「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、内村鑑三によって始まった無教会のことです。これまで無教会について詳しく知らなかったのですが、現在の問題に直結しており、日本のキリスト教特有の問題としても顕在しています。古屋氏は、実際の無教会に長いこと触れてきたので、その実情を知っている方です。日本のキリスト者の病を抉り出しています。

1.「便利」な信仰

「それに、「無教会」と自称する人々はかなり居るのではないだろうか、と思われるのである。というのは、わが国には、教会に対する批判と不満を公然と表明できる自覚的な無教会の人々のほかに、いわゆる「隠れキリスト者」的な「無教会」信者がかなり居るからである。「無教会」というのは、自分のアイデンティティをはっきりしないのに都合が良いし、わが国に多いいわゆる「卒業信者」受洗後まもなく教会に行かなくなる人々が自称するのに便利だからである。」洗礼を受けているということで風当りが強くなるけれども、「この意味でも無教会というのは、わが国の精神風土に適合したキリスト教ではないか、と思われるのである。」

以前、ヤロブアムがダンとベテルに金の子牛を造って北イスラエルの住民に拝ませたところから、「コンビニ礼拝」という題名で説教をしたことがあります。(原稿音声)。自分に都合のよいように信じていくことは、たとえそれがイエスの名を使っていても、偶像になってしまっている、という話です。日本人が自分の都合で神々を選べるのと同じように選んでいけることを表しています。

2.「無制度」という名の強い制度

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民衆という”深海”を見よう

深みに入る信仰

(「きちんとした「牧師」の欠け」の続き)次に古屋氏の「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、「民衆にある力」です。このことは既に、「単純な信仰のススメ」で書きました。そして今週の西日暮里バイブルスタディで、ヤコブ書1章1‐11節の学びで取り上げました。その部分をご紹介します。

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私たちは救われるだけでなく、救われた後に霊的成熟に向かわなければいけません。そして霊的成熟に至らなければいけません。それによって、初めて救われたことが明らかにされます。その時に大切な要素をヤコブ書は教えてくれています。有名な言葉は、「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。(2:17)」成熟した信仰には、十分な、それを裏付ける行ないがあります。その信仰には深みがあります。表面的な信仰の言葉ではなく、実質の伴った、人を動かす力があります。

「日本のキリスト教」(古屋安雄著)という本を今、読んでいますが、そこにアメリカの教会を海の三つの層に分けている教会史の歴史家がいるとのことで紹介されていました。上層は海面、中層は海流、下層は深海となります。海面とは、海上を吹く風、すなわち時代思潮(=時代に流れ)によって、波のように風向きによって激しく左右上下に動揺します。その下にあるのが海流ですが、その時代の思潮に対しては、緩やかな反動しか示さない主流的なキリスト教思想のことだそうです。そして、それよりもっと下にあるのが深海ですが、これはどんなに風が全然動じない民衆の信仰のことだそうです。そして、この教会史の歴史家によると、「教会の生命と言うべき信仰が実際に生きているのは中層と下層、殊に下層の民衆の信仰においてである。」ということです。(ちなみにアメリカではその深海にあるキリスト教の筆頭に、ビリー・グラハムを挙げています。)

つまりヤコブ書は、この下層、最も深いところが真の信仰なのだよ、ということを話しています。表面的に信仰であると私たちが話しているものではなく、その深みがあってこその真実な信仰であるということです。表面的な信仰からの脱却です。
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こちらが原稿、そしてこちらが音声です。 続きを読む 民衆という”深海”を見よう

きちんとした「牧師」の欠け

福音派以上の福音的主流派の方々

今、続けて古屋安雄氏の「日本のキリスト教」を読んでいます。魂が揺さぶられる、とまで言いましたら大袈裟ですが、近代日本のキリスト教を追いながら、現代の日本のキリスト教が直面している課題に体当たりしている、これまでにない視点が与えられています。

けれども読者によっては、「なぜ、そんなに感動するの?」と思われる内容かもしれません。けれども、単純な一つ一つの指摘が、これまでにない違った切り口を示してくれているからです。

著者は日本基督教団に所属している神学者です。恥ずかしながら、私は主流派、殊に日基に対しては偏見を持っていたことを告白します。しかし、使徒信条の講義について以前、当ブログで紹介しましたがそれも日基の教会のもの、そしてキリストのみ、礼拝中心の教会と福音を書いた小冊子も紹介しましたが、日基の教会の牧師さんが書いたものです。

非常に不思議なのは、イデオロギー的には正反対の事を書いて事があるにも関わらず、それはあまり気にならないのです。例えば、先のブログで紹介した牧師の方々の書いたものには進化論の容認とも取れる発言も少しだけ見えます。仏式の葬儀で焼香をしてもよいだろう(?)いう話も少し出てきました。古屋氏も、例えば女性解放論には敏感で前面に出してきます。けれども、私は聖書的に男性しか牧会者になれないと思っています。 続きを読む きちんとした「牧師」の欠け