改めて「聖霊の働き」について その2

改めて「聖霊の働き」について」の続きです。

先の記事では、情報だけを紹介したような感じになりましたので、私がこのごろ感じていることを書きたいと思います。聖霊論についての言葉で、ジョン・ストットという著名な英国の福音派の指導者が、「今日における聖霊の働き」という著作の中でこう書いておられます。

教会はその統一性をカリス(恵み)に負っているが、その多様性をカリスマ(賜物)に負っているのである
(www.geocities.jp/ptl150/HolySpirit_Book.htmから引用)

これはとても意味深い言葉です。教会の統一性、つまり一致について何が足りないのか?ということを私はずっと考えてきました。ここのブログでも一連の記事を書いてきましたが、私はチャック・スミスという人物、またビリー・グラハムもそうですが、なぜ彼らの働きは教会を一つにしていく方向が出てくるのかを考えさせられています。他の人々は、同じことを語っていても、教理や神学がとても正しいことを語っていても、なぜ不必要な亀裂や分裂を引き起こすのかを考えさせられます。

つまりチャック・スミスは、一部の教団や教派を越えて、キリストの教会全体に奉仕することができています。カルバリーチャペルの群れをはるかに越えた人物であったことは確かです。彼の説教は、初心者が聞いても回心に導かれるものでありとても単純で簡単なのですが、何十年も牧会をしている人々、キリスト教の中で著名な人々が聞いても悔い改めに導かれるのです。ビリー・グラハム自身も彼の聖書講解を聞き、「チャックは私の牧師だ」と言わしめるものがありました。ビリー・グラハムも同じような働きを持ち、彼の場合は、一人の素朴な農夫も回心に導かれると同時に、同じ言葉なのに、歴代の米国大統領が祈りや助言を求めるほど知恵に富んでいるのです。彼は、妥協なき真理の言葉を語りつつ、平和の使者として用いられてきました。 続きを読む 改めて「聖霊の働き」について その2

改めて「聖霊の働き」について

4月1日に、カルバリーチャペルのウェブサイトが大幅に改定されました。

calvarychapel.com
calvarychapel.com
その中で初めに特集されているのが、ジョン・F・マッカーサー牧師による「異なる火」カンファレンスに対する、カルバリーチャペルからの返答です。チャック・スミス亡き後にすぐ行なった、彼の一連の発言は、彼がこれまでカルバリーチャペルに友好的で、事実、交わりを持っていたという経緯から、「ずるい(not fair)」というのが正直な感情でした。私自身も深い悲しみを抱き、以下の記事を書きました。

神学バランスにあるキリスト者の成熟

ジョン・マッカーサーだけではなく、他にも、周辺の人がチャック亡き後に、カルバリーチャペルや、その中の特定の指導者に対する辛辣な批判を向け始めたのを見るにつけ、私は自分の思いの中で愛が試されました。「もし批判している通りなら謙虚に受けとめるべきだが・・明らかに事実ではない、嘘だ。」という怒りも込みあがりました。しかし、それでもその人たちを兄弟であるとみなし、神のしもべとして主が用いられていることを認めていく、それによって交わりを保つことを主から語られました。

事実、特集の中に出てくるカルバリーの牧者による映像や記事は全て「友好的(friendly)」であります。改めて、カルバリーの群れにある御霊の一致を確認しましたし、また自分にある欠けが示されました。手本にしなければいけないと思いました。 続きを読む 改めて「聖霊の働き」について

兄弟愛のすばらしさ

昨晩は、西日暮里のバイブルスタディで、ヘブル書13章を学びました(音声原稿)。1節は、兄弟愛をいつも持ちなさい、という勧めです。教会を始めてから3年ちょっと、主が開拓伝道と牧会に導いてくださって、本当に嬉しいと思うこの頃です。兄弟姉妹たちが、主の恵みで成長している姿を見て、集まることによってそこに働く聖霊による証しがあり、イエス様の生きている姿を目撃し、感動しています。

二人の姉妹は、私たちが2010年末に海外宣教から帰って次の日に出会った人で初穂です。三年経って、初めに学んだ新しい信者の学びの内容が、今になってよく分かるという話を聞いた時に、パウロが話した、「私が植え、アポロが水を注いだけれども、成長させるのは神です。」という言葉を思い出しました。

そして、最近いらした兄弟姉妹が、礼拝と教会生活にある幸いと喜びをこれまでかというばかりに言い表しておられます。一夫婦は、一家全員がキリスト者になり、それゆえ親戚からの激しい迫害に遭っているという証しは、私が以前から「日本で迫害がないのは、それだけキリスト者が増えていないからだ。相手にもされていない。」と話していましたが、この家族だけはその御霊の働きの中にあることを知りました。そして、ご家族の一人の危機を通して、本人が主に立ち返り、一家も霊的に強い覚醒を得た話を伺いました。そこにある謙遜と悔い改めは、まさに聖霊の働きです。

もう一人は、夫からの迫害です。しかし、教会に根づき、そこで神の権威を学び、夫は神が自分のために置いてくださった賜物であることを深く知り、それで従うことを学んでいきました。すると今は、日曜日に教会に行くことについて、「教会だったら良いよ。」という言葉が夫から出たことです。まさに、1ペテロ3章にある御言葉の証しであり、私は日本においてこのような迫害による信仰の忍耐と清めと、勝利の証しを聞いたことはあったであろうか?と感動しています。

キリスト者の生活は、本質的なものから逸れていく戦いが常に付きまとっています。要は、神に服従し、御言葉に従順になることなのですが、伝道にしろ賛美集会にしろ、活動的になると活動中心になって逸れていることがしばしば起こります。私たちの教会のように、聖書の学びを強調するところでは、学びそのものが自己目的化し、聖書を知ること、その知識を得ることがあたかも霊的であるかのように錯覚します。キリストに触れられ、魂が砕かれ、謙遜になり、そして徹底して御言葉に従順になり、それで主の大きな勝利を経験するという過程が、実は全ての全てです。ともすると、活動的になること、熱心になることが、現実からの逃避の手段にさえなる中で、主が与えられる試練や訓練の賜物はかけがいのないものです。

西日暮里バイブルスタディは、ヘブル書が終わり次回からヤコブ書に入りますが、そこは「試練に会うことは、この上もない喜びだとみなしなさい。」という言葉から始まります。もちろん試練は受けたくありません。喜びではなく、悲しいものです。しかし、その悲しみは一時的で、持続的、恒久的な義と平和の実を結ぶことができる、またとない機会です。

他にも、兄弟姉妹が、何か辛いことがあっても、御言葉に従って対処している姿をあちらこちらで見聞きし、私はとても嬉しくて、わくわくします。次の土曜日の祈り会、また日曜の礼拝が楽しみです。

女性カンファレンス - 「互いに」

2月22日に、カルバリーチャペル西東京を会場にして、カルバリーチャペルの女性カンファレンスが行われました。テーマは「互いに」です。

互いに愛し合いなさい」桜井真理

互いに仕え合いなさい」Gigi Boek

互いに勧め合いなさい」Joanna Ruiz

参加した私たちの教会の姉妹たちが、とても良かったと聞いていて、分かち合ってくだっていたけれども、その内容がとても良かったので今、桜井真理さんのから聞き始めていますが、とても良いです!

最近、ある何人かと、教会を去っていく人々の共通する理由が「この教会には愛が足りない」というものだ、と話しました。あるいは「自分が愛を受けられない」という結果だ、ということです。けれども、神の命令は「互いに愛し合いなさい」ということであり、自分が愛をもって仕えるということです。どこかで教会の中にいる目的を見失ってしまっている、あるいはよく知っていなかったので、つまずいてしまうのだろう、と話し合いました。

だから、教会生活の中でこの神の命令を思い起こさせる学びが必要だね、という話をしました。

そこで私が思うに、去年から今年にかけて、不思議に神が同じテーマで、カンファレンスや修養会を与えくださったと思います。

カルバリチャペル・ジャパン・カンファレンス 2013
テーマ:「神の愛に応答する」

2013年秋の修養会(カルバリー西東京&LCF) 
テーマ:「どのように建てるのか」
(ページの下にあります)

③そして今年の女性カンファレンス
テーマ:「互いに」

教会生活をしばらく続けて、悩み始めた時に、またそのような方に、上の三つの聖書メッセージシリーズをご紹介されると思います。

関連記事:「日本カルバリーチャペル・カンファレンス」「2013年秋の合同修養会

指導者への執り成し - 安倍首相のために祈る

昨日の礼拝の後に、東アジアキリスト青年大会に、私たちの教会から参加した人々に恵みの分ち合いをしていただきました。

クリスチャン新聞の記者の方が参加されたので、ウェブ上では現地からの速報もあり、そして3月2日号の新聞にも早速、報告が書かれています。その一部を紹介します。

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直接中国からの牧師の参加はなかったが、日本人、韓国人の牧師が講演、メッセージし、実際的な国際関係の問題をふまえ、聖書的な生き方を勧めた。参加者は文化や政治体制、言語を越えて、学びや交わり、互いの理解を深めた。
2日目の夜には、各国で祈祷課題を挙げ、それぞれの国のために祈った。祈祷課題は以下の通り。[中国]①中国のキリスト教のリバイバルのために、クリスチャンが霊的な目が開かれて、成長できるように②神様が中国を用いられ、中国が神様のみこころに従えるように③国の指導者のため、国が神さまの公正と公義で支配されるように[日本]①日本人の救いのために②安倍晋三首相のため、指導者のために③教会が中国、韓国のことを知って、立ち上がってまず祈りから始められるように。[韓国]①南北統一のために。北朝鮮の指導者が、神さまのみこころを知ることができるように、南も北を理解できるように②脱北者のためにクリスチャンがどのように接するべきか模索し、やるべきことを見つけられるように③韓国のクリスチャンの間で、信仰と生活がかけ離れ、本質を失った状態があるので、回復できるように。宣教の情熱をもった若者が立ち上がるように。
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国際/互いを知り祈る 東アジアキリスト青年大会3

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等身大で見るキリスト者

水谷潔さんが、フランクリン・グラハムとその息子ウィル・グラハムが日本でクルセード(伝道集会)を開くことについて、疑問を抱いている牧師さんの下のブログ記事をリンクしておられます(元記事はこちら)。(注:【後記】を書いています、この記事の一番下にあります。)

福音派キリスト教とフランクリン・グラハム伝道大会

アメリカ主義が輸入された教会というものを体験した筆者にとって、確かにこの伝道大会とは心理的な距離を取りたいという思いが伝わってきます。日本の教会が、未だに米国の宣教活動に過度に依存していることへの嘆きは、よく伝わってきました。韓国の教会の宣教方法もそれがアメリカ式だという批判をされていますが、そのことも良く分かります。

この方の書かれた終末に生きる神の民についてのブログ記事で、大きく教わるところがあり、私も悔い改めに導かれました。これはぜひ、他の方々にもお勧めする論考です。そしてこの方の書かれた著書もざっと読みましたが、じっくりと聖書に取り組んだ跡が残っています。

「類型化」という過ち

ただ、その論点の背後にある流れには疑問があります。それを一言でいえば「類型化」です。

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東アジアキリスト青年大会第四回

去年暮れ、本ブログでご紹介した2月13‐15日に開かれた「東アジアキリスト青年大会」ですが、無事帰ってきました。今回は、第三回以上に霊的に充実した恵みに溢れた大会となりました。日中韓の関係が悪化している中で、むしろ世の光としてキリスト者がこれまでにない一致と平和を若者たちの間で享受できたと思います。

詳しい報告は、時を追ってこれから少しずつご紹介していくと思いますが、まだ興奮の冷めないうちに書き留めておきたいと思います。

まず、参加者の構成です。前回は、日本人が私たち夫婦しかいなかったのですが、今回は合計9名が参加できました。また日本に在住の中国と韓国の兄弟姉妹も参加し、日本からは合計20名以上になります。そして中国本土からは二名が参加、さらに脱北者の姉妹も二名参加です。合計50数名による大会です。

そして共通しているのは、大会前の「不安」です。初めての人は大きな期待を抱きながらも、青年のみならず講師として招かれている先生方も初めての人は不安だったと思います。一体この大会が何であるのか、その内容が見えないということ、さらに、日中韓の関係悪化の中で何か嫌な経験をするのではないか、という不安も少なからずあった`かもしれません。しかし、共に三か国語の歌詞が出ているスクリーンを見ながら同じ賛美を歌い、御言葉を聞き、共に祈りあう時間を過ごしながら、一気に主のご臨在に中に引き込まれました。 続きを読む 東アジアキリスト青年大会第四回

教会の使命と福音の本質

先ほど、食い入るようにして読んだ二つの小論考があります。ある教会の牧師さんが書かれたものです。

必要なことはただ一つ ~多元社会を生きる教会の役割~

ただキリストを伝えよう ~教会が宣べ伝える唯一の福音~

ここまで、しっかりと整え、礼拝中心の教会、キリストのみの福音を分かり易く論じておられると、とても感心しました。もちろん細部には、意見の違うところがいくつかありますが、本質では100%同意ですし、私自身、大きなチャレンジを受けました。

①の「多元社会を生きる教会の役割」では、まず「教会の役割ではないもの」ということで、企業ではない、カウンセリング・ルームではない、政府ではない、福祉施設ではない、学校ではない、と続きます。

企業ではないというのは、リック・ウォレンの「目的主導教会」に代表されるような成功哲学に基づく、いわゆるメガ・チャーチの考え方です。これの哲学は日本の教会に深く浸透しています。次の二つのブログ記事をご覧くださると良く分かります。確かに今の教会がこのようになっていて、私たちはこのようにならぬよう、熾烈な信仰の戦いを祈りと御言葉によってしているのだと思います。

いまどきの教会について、ちょっと考える
自分を高めようとする危険

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再紹介「愛:さらにまさる道」チャック・スミス著

先日のブログ記事「教会を傷つけるもの - 自己愛」のご紹介を、水谷潔先生がしてくださいました。(→こちら

その中で、「チャック・スミス師の霊的DNAを継承する」とのお褒めの言葉をいただいているのですが、決して私の功績ではありません。しかし確かに牧者チャック・スミスからの継承であり、チャック自身は主にお従いし、その深い経験から得た神の知恵を若い世代に分かち合ったのだと思います。こちらの本をぜひおすすめします。

「愛:さらにまさる道」チャック・スミス著(原書: Love – More Excellent Way
PDFファイル ・ 以前の紹介記事

ここの目次をご覧になるだけでも、神の愛の流れをお感じになれると思います。

「第一部 私たちに対する神の愛」
「第二部 神を愛すること」
「第三部 私たちを通して神の愛を伝える」

この三つは一つの流れになっており、バラバラの主題でもなく、ましてや相反したものではありません。私たちに神の愛が示されると、私たちが神を愛して応答します。そして神は、私たちを通して神の愛を他者に分かち合うことように導かれます。神の愛の性質そのものが、そのようになっているからです。ここに自分の愛が入ると、堰となって愛の流れを阻み、淀みを作り出し、聖い交わりを汚染させるのです。

時間を取って、ご一読されることをおすすめします。

教会を傷つけるもの - 自己愛

水谷潔さんが、ブログで一連のシリーズを書かれました。

自己愛性信仰障害の時代

大変貴重な記事だと思いました。特に(5)の「自尊心に仕える教会生活」と、(6)の「傷つきやすさに現われる潜在的自己愛」が良いでしょう。今日の社会の病巣をよく示しており、これが霊的な装いをもって心の中に、そして教会の中にまで浸透します。

実は私自身が、以前、「エッセイ「神の戒めと愛」 」という記事を書いています。こちらもぜひご一読ください。キリストが私たちに仕え、ご自身の命を贖い金とするまで愛してくださったのですから、その愛に感動し、今度は自分がこの方にすべてを捧げ、愛をもって神、そして人に仕えていきたいと願います。愛への応答があるのです。それで、イエス様は「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 (ヨハネ15:10)」と言われました。「そんなの、できないよ」という人は、できないのが問題ではなく、キリストの愛に留まっていない、というのがイエス様が言われていることです。

もしこの御言葉に激しい抵抗を覚え、心や思いの中で捨ててしまうのであれば、その人は自己愛者です。けれども水谷さんが、健全な自己愛者と不健全な自己愛者と区分けされています。健全なのは「痛い、私は自己愛になっている」と、聖霊から来る痛みを感じる人で、不健全なのはまるで無視する人です。

教会というのは、徹底的に自分を捨てるところです。自分ではなく、神の愛に満たされるところ。そして自分ではなく、他者に神の愛を分かち合うところです。喜びをもって主に仕える霊に支えられ、そして他者に対して愛をもって仕えるところです。自分を愛すると、教会は痛み、傷つき、不一致をもたらします。その原因となっているものを、列挙してみましょう。

他者の見下し、批判:「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:2-4)」

自分の事情だけを主張・貫徹する:「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めているのではありません。(ピリピ2:21)」

自分と考えややり方の違う人を裁く:「たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 (1コリント12:15)」「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(ローマ14:1)」

他の人、また教会と比較して論じる:「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことです。(2コリント10:12)」

自分のやりたいことを自由にできるのがキリスト者らしいと思う:「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(ローマ14:15)」

御霊によって、そしてキリストの十字架によって、「自分」という自分を縛る者から解放された喜びに満たされることができますように。

【補足】自己愛の反対語は「自己無関心」

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