「ライオン」という名の大型犬

笑って、でも痛い記事を紹介します。水谷潔さんの「命と性の日記~日々是命、日々是性」から。

「ライオンという名の大型犬」に学ぶ「形状的類似性」の罠

African Lion?この写真、中国語で「アフリカ・ライオン」と書いてありますが、見ての通り大型犬です。先月の事件になってしまいますが、これは中国の動物園で起こったこと。「ライオン」と称して大型犬を展示していたけれども、“ライオン”が「ワンワン」と吠えだしたので、観客に真相が分かりました。本物を見たことがないという未経験によって、似て非なるものを見て本物だと思ってしまう、というところから、教会でも起こっている現象ではないか?という問いかけです。

  • 「礼拝付き伝道団体」と「キリスト教会」
  • 「音楽付き聖書講演会」と「礼拝」
  • 「聖句を発射台とした証し」と「説教」
  • 「礼拝音楽の歌唱」と「賛美」
  • 「未信者を教会に連れて来てクリスチャンにすること」と「伝道」
  • 「信徒の要求に応答してのお世話」と「牧会」
  • 「神に対しての自己願望要求」と「祈り」
  • 「代償的死を遂げたキリストの記念会」と「聖餐式」
  • 「礼拝出席・聖書・お祈り・奉仕・献金の5点セット実行」と「信仰生活」 続きを読む 「ライオン」という名の大型犬

信仰告白とは

(「「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに」の続き)

「信仰告白」という話題に、今、わくわくしています。同時に、信仰告白は、日本での宣教において、これをいかに伝えるか、説明できるか?という課題でもあります。

聖書に出てくる信仰告白とは何か?もっとも短く、端的なものは次の二つですね。

あなたはキリストです」(マルコ8:29)
イエスは主です」(ローマ10:9)

この二つでしょう。前者はペテロがイエス様に言った言葉、後者はローマ10章にある、このことを口で言い表せば救われると、パウロが説明している言葉です。この短い言葉が、いかにすぐれているのか、ここに感動せざるを得ないのです。

もう一つ、教会史においては「使徒信条」があります。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、
かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。 続きを読む 信仰告白とは

「半沢直樹の不在」から見える霊的葛藤

(「「半沢直樹」の不在」の続き)

昨日の投稿でリンクしたブログ記事「半沢直樹の不在」の筆者が、別記事で、実際の不良債権について、分かり易く説明していました。

「不良債権って何?」

一部を抜粋します。

「半沢直樹」と現実が違うのは、このように実際の不良債権問題では、「飛ばし」といって債権をあちこちに移し、ダミー会社で多くの人がからむので、破綻したとき、だれに責任があるのかわからないことです。ドラマのように単純な詐欺や背任ならまだいいのですが、たいていは会社の破綻をとりつくろうために(本人は善意で)やったので、だれも責任をとらない。

前記事で、教会にも同じような「責任の不明瞭化」が起こるのではないか?というコメントを残しましたが、具体的に詳しく書いてみたいと思います。実際の不良債権の構図が、実は教会という舞台でも起こり得えます。一つの話を仮定して書いてみます。

教会で、ある人Aが兄弟Bとの関係がうまくいかなくなりました。その兄弟Bとは仲良くしていましたが、次第に心が離れていきました。そこでその人は、他の兄弟姉妹に話を聞いていき、兄弟Bに対して自分と同じ感情を多かれ少なかれ持っていることに気づき、それで、「これは兄弟Bの問題だ」と確認し、兄弟Bと距離を取っていきます。

そうして、Aが動いていったので、他の兄弟姉妹たちも、兄弟Bの問題ということで話を交わしていくようになり、兄弟Bに問題があるということで「一致」してしまいました。 続きを読む 「半沢直樹の不在」から見える霊的葛藤

「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに

先週の日曜日、とても嬉しい事がありました。LCFの教会が始まる時から教会にいらしていた方が、この前の礼拝の中で救いの証しをされたことです。

最近示されていること、教会が何をしなければいけないか、三つのことが示されています。

①信仰告白 ②伝道 ③弁証

他に、教える働きや勧めの働きなどもありますが、それは信仰者の徳を高め、建て上げるための奉仕であるのに対して、上の三つはこの世、まだ神を知らない世界を意識して行なうものです。①の信仰告白は、人の心と良心に与えられている真理を、口をもって言い表すことです。②は他者に、キリストの福音を伝えることです。では、③は何であるかご存知でしょうか?「反対者の中で、あるいは反対の価値観に囲まれている中で、キリストにある希望を弁明また説明すること」と定義することができます。

これから、折を見て、この三つのことについてお話ししたいと思います。私の感触では、意外に①と②がクリスチャンの間に共有されていないのが現実ではないか、と見ています。「心で信じてさえいれば、良いではないか。なぜ、いちいち口で言い表すのか?」と思っている人が意外に多いです。また、教会はその日本語の名のごとく、ただ聖書の教えを受ければ良いと思っている人もいる。また、救いの証しについては、自分のことを話すことだと勘違いしている人も多いです。自分の経歴を話すのではなく、自分を救われたキリストを証言するのが救いの証しです。 続きを読む 「信仰告白・伝道・弁証」 はじめに

服従にある権威

この頃、いや、ここ数年、いつもひたすら考えている話題と課題は、「権威」というものです。福音を信じること、キリスト者として成長することはすべて、「権威にしたがう」ことに他なりません。神がキリストによって行われた救いの業が真実であると、意志をこの言葉に服従させる訳であり、ただ聞いて納得することではありません。また、キリスト者の成長は、真理の言葉にどれだけ留まれるか、なのですが、それは「自分自身を御言葉の下に置く」ことに他なりません。

そして、個人だけでなく、公の場における秩序があります。国についてもそうですが、教会において、教会の指導者に神が与えられた権威があります。信者は指導者に従うのです。そして、指導者は信者を養い、祈ることによってキリストに従います。そして、家庭においてもそうでしょう。妻は夫に従います。夫は妻を自分の体のように愛することによって、キリストに従います。先ほど、カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師、ブライアン・ブローダソンさんの奥さん、シェリルさんが、服従することについて、実に明快な答えを与えているビデオを見ました。大雑把な意訳ですが、読んでみてください。

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日本キリスト者が試される9・11

少し遅れましたが、先日の9月11日に、米国同時多発テロから12年が経ちました。米国人キリスト者から、いろいろな思いが記事にして出されましたが、心に残ったのは二つありました。一つは、カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師、ブライアン・ブローダソンによるものです。

御霊の導きと痛む神

9/11: Then and Now(9月11日:当時と今)

ブライアンさんは当日の朝、ペンタゴンの近くのホテルに宿泊しており、首都ワシントンの近くで行われる集会に参加する予定だったそうです。けれども、その事件により、飛行機の交通手段がなくなりました。けれども、ある人々が、ワゴン車で西海岸まで走る計画を立てており、行く先々で一人一人を降ろしていく、という話が入ってきました。彼は一席を確保したのですが、どうも心がそわそわして、結局、他に待っている人に席を譲ったそうです。

そして分かったのは、ニューヨークに行かなければいけない、そして必要な助けに応じていかなければいけないという感覚が訪れました。東海岸で牧会をしているカルバリーチャペルの牧者らと合流、ニューヨーク市内に入りました。

彼は、世界貿易センターに本部を持つ会社で、最も数多い従業員の死者を出したところで、残された家族のためのカウンセリング・チームに配属されました。人々に語りかけ、慰めを与えていく中で、それは重要な働きでしたが、主が何かをもっと用意されていると感じたそうです。 続きを読む 日本キリスト者が試される9・11

アメリカの教会を模範にすべきか?

今日、次のニュース、そしてビデオを見ました。

Christians Arrested for Reading Bible Outside DMV Declared ‘Not Guilty’ By California Court(車両管理局の外で聖書朗読をし逮捕されたクリスチャンが、カリフォルニア裁判所にて無罪)

車両管理局というのは、運転免許を取得するためのお役所です。始まる前に人々が一列に並んでいますが、そこでその役所の敷地から少し離れて、聖書朗読によって伝道しようとした時に、警察が来て彼らを捕縛した、という内容です。そして彼らは、クリスチャンの信教の自由を守るために法的手段で働く団体を通してその逮捕の不服申し立てを行い、無罪が確定した、という理由です。 続きを読む アメリカの教会を模範にすべきか?

マラナサ・バイブル・キャンプ 2013年

無事に昨日、毎夏恒例のマラナサ・バイブル・キャンプから戻ってきました。場所は、恒例の富士山麓山の村です。今年も去年と同様、一日目の夜は求道者や未信者向けのゴスペル・シンガーを招いての音楽のひと時を、そして二日目の夜は、主の再臨を思いつつ御言葉の学びをする時間を持ちました。その他は、小グループに分かれたり、感謝会をしたりと、非常に緩いプログラムになっており、ゆったりとした時間を兄弟たちで交わる貴重な機会でした。

マラナサ・バイブル・キャンプ

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山本太郎氏当選に思う

参院選が終わり、いつもなのですが、妻も私も、自分の投票した人はずっと落選しています。(汗)今回、東京で当選した元俳優、山本太郎氏に関して書いたほうがよいかな?と思いました。

反原発運動の功罪

山本太郎氏と言えば、もちろんその反原発運動が選挙の争点であります。日本のキリスト教会の中で、反原発の姿勢を取る教会、個人、教団が多く現れました。全体としての雰囲気は、個々人のキリスト者はいろいろな意見を有しているのに、「キリスト者 → 反原発」という構図になっています。

私は、これまでのブログで社会正義、また社会運動とキリスト者について論じてきましたが、私の立場は、「キリスト者は社会運動の活動家として召されているのではなく、あくまでも福音宣教者として召されていること。けれども福音そのものに、イザヤ書に預言され、福音書に実現された、社会的弱者に届くキリストご自身の宣教が含まれており、それゆえキリスト者は弱者に注がれている神の霊的祝福をもって、その人たちと共に生きる」というものです(参考ブログ)。ですから、反原発への活動を促す書籍や講演がキリスト教関係で出ていますが、私にはどうも肌に合いません。 続きを読む 山本太郎氏当選に思う

教会での愛の実践

SNSの時代になって、クリスチャンのフェイスブックやツイッターを眺めていますと、短文の励ましや慰め、また訓戒の言葉をよく見かけるようになりました。けれども、画面から目を離して、じっくり本そのものに時間をかけて目を向ける必要があるなと思うときがあります。

とは言いつつも、これは良いな!と思うのが、Calvary Chapelのホームページにあるブログや動画です。カルバリーチャペルの牧師らが投稿するブログ記事は、書き下ろしのものが多いですが、興味深いのは牧者チャック・スミスの記事です。その多くが、書籍の抜粋なのです。けれども実に一つの文章として完読し、読み応えのあるものばかりです。

What’s a Disciple?(弟子とは何か)

calvarychapel.blog

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