カジノ構想の愚かさ

再び時事的話題になりますが、これまたクリスチャンにとっては直接関わる問題なので、ご紹介します。

維新 カジノ整備推進法案提出へ

愚か極まりないです。これによってお金が日本国内に入っていくということであれば、パチンコによってどれだけの人がその生活と人生が破壊されたかを考えるべきです。しかもこれに公費を使うのは、言語道断です。

ちなみに、カジノそのものがきれいなものではないですが、この法案提出に至る事情も裏があり汚いです。(参照サイト

カジノやパチンコにとどまらず、ここでキリスト者が賭け事に対してどのように対処すべきなのかを書き留めたいと思いますが、上手に回答しているページがありましたので、ここでご紹介します。

クリスチャンは宝くじを買ってはいけないのでしょうか?(Yahoo知恵袋)

結論から申し上げると「避けることが賢明である」です。聖書には賭けをしてはいけない、とは明言していませんが、「貪り」「競争心」「迷信にとらわれる」「家族をかえりみない」など、人間の様々な肉欲を刺激するものとなっています。

賭け事をする人に対する言葉

急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。(箴言13:11)

富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。
あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。(箴言23:4-5)

受難週 - 聖書考古学から

最近見つけた聖書考古学のサイト”SourceFlix“から、もう過ぎ去ってしまいましたが、決して心の中では過ぎ去らない「受難週」のビデオがありました。

イエス様が「石が叫びます(ルカ19:40)」と言われましたが、考古学の発見による石は、まさに神の証しを私たちに叫んでいます。十字架の釘が突き通された足の遺跡を見たとき、「イエス様が、このようにして私の罪のために死んでくださったのだ。」と思い、むせび泣きました。そして開いた墓はさらに一層、喜びの涙にあふれました。

日本語に訳したいと思います。

そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」 (マタイ21:9)

テル・ダン碑文 紀元前9世紀 「ダビデの家」を言及

しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネ11:49-50)

カヤパの骨箱 紀元1世紀 「カヤパ」という名が刻み込まれている

「ポンテオ・ピラト ユダヤ長官」と読める碑文 1世紀

ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」(マタイ27:22)

十字架につけられた男、釘を刺されたかかとの遺骸 一世紀

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒2:23)

ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。(マルコ16:4)

転がされた石のある墓(注:確かガリラヤ地方で、この墓を見たことがあります。同じく1世紀頃のものだと記憶しています)

ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:6)

関連記事:「明日から受難週

明日から受難週

明日から受難週ですね。ぜひこの一週間を、神が永遠の救いの計画を御子によって行なわれた、その一つ一つを噛みしめながら過ごしていきたいと思います。

第一日(日):棕櫚の主日(Palm Sunday)

主がエルサレムに入城された日です。メシヤとして公に入りつつも、ほふられる過越の小羊としても入られました(出エジプト12:3「十日」)。

参照聖句:マタイ21章1-11節(原稿音声

第二日(月):宮清め

主が、商売の場と化していた神殿を清められることによって、人にある宗教に対して対抗されました。そして、それを象徴するいちじくの木を呪われました。

参照聖句:マタイ21章12-21節(原稿音声

第三日(火):教えと論争の日

小羊なるイエスが、宗教者らによって試されました。しかし、誰も対抗できず、この方の真正が残りました。そして主は律法学者らを譴責され、ご自身の再臨までに起こるエルサレムの破壊を告げられました。その間に起こる世の終わりの出来事を、オリーブ山で弟子たちに語られます。

参照聖句:マタイ21章22節以降、25章まで
(原稿と音声:マタイ伝

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福音派は時流に乗るな!

ブログ記事「時代遅れの教会」に呼応するかのように、MGF教会の牧者、菊地一徳さんが、自由主義の問題を徹底的に論じる一連の記事を書き上げられました。

まず、自由主義とは何か、またそれに対抗する福音派(ファンダメンタリズム)が何か、その定義についての記事は次です。(注:いずれの記事もページの下のほうからお読みください。)

自由主義(リベラル)神学(エキュメニカル派)vs キリスト教原理(ファンダメンタル)主義(福音派)

最近、新書対象を受賞した「ふしぎなキリスト教」を取り上げて、それから自由主義の問題を取り扱っています。

次に、日本の教会における自由主義の悪影響について、その教会史から論じた長編があります。

日本プロテスタント教界に混乱と腐敗と分裂と破壊と低迷をもたらした自由主義神学

私がこのブログを立ち上げた初期の頃から、美濃ミッション事件ホーリネス弾圧など、ここで取り上げられている問題をずっと指摘しておりましたので、本当に非常に助かる背景知識を菊地さんは提供してくださいました。

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東アジア青年キリスト者大会(第三回)の報告

次の大会が無事に終わりました。

東アジア青年キリスト者大会

無事に昨夜、韓国済州から自宅に帰ってきました。済州は韓国の最南端の島で、「韓国のハワイ」とも言われていますが、実際は福岡県と同じ緯度で、今回は東京よりも寒かったです。けれども韓国の良い所はオンドル(床暖房)があること。夜は暑いぐらいでした。

韓国の若者、中国の若者がたくさん集まりました。韓国は旧正月の直後ということで、飛行機代が高く学生には飛行機代の費用がかさんだとのこと。中国人は、日本から東京日暮里国際教会のメンバーと、淀橋教会中国語部の牧師さんと姉妹一人が参加し、そして山東省からの兄弟姉妹がやってきました。中国人は私たちのように自由な往来はできないのですが、済州はビザ無しの特枠があります。それで済州を選んだという経緯があります。

残念ながらこの大会のお知らせが遅れて、日本人の参加者は私たち夫婦だけとなりました。だから日本の代表的な発言をいろいろ求められました。次回はぜひ日本人の兄弟たちがいらしてくれれば、と思っております。

内容は、神の国のために、歴史的なつながりの深い東洋の三ヶ国が、キリスト者を通じて平和と祝福を拡げる、ということであろうと思います。そして二十代を中心とする若者が集まっています。韓国と、中国それぞれの教会指導者が、この大会の霊的意義について、参加しながら模索をしていたのではないかと思いました。

三ヶ国語での賛美三ヶ国語同時に歌う礼拝賛美、御言葉による奨励、礼拝の他に、小グループによる聖書からの分かち合い、また文化理解や歴史についての講義もありました。通訳は韓国語と中国語がありますが、もちろん言語の障壁は避けられません。いや、むしろそれがある意味で目的だったと思います。言語を越えたところにある、キリストを中心として御霊の愛と一致を感じ取る必要があるからです。

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イエスが馬小屋に生まれなかった理由

メリークリスマス!この挨拶が出来るのは今日までになりました。「クリスマスを祝わないという人たちへ」に続いて、クリスマスのことについて話します。

讃美歌の中に馬槽(まぶね)という言葉が出てきます。イエス・キリストが生まれたのが馬小屋に生まれたと思われています。けれども、聖書では以下の箇所の「飼葉おけ」という言葉しかありません。

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

それで「家畜小屋」の意味を表す英語”stable”で主が生まれたという解釈が定着しました。けれどもこのstableという言葉、家畜小屋だけでなく、馬小屋も意味します。

どれが飼われていても細かいことは良いだろう、と言いたいのですが、実はそうではありません。聖書の中で「馬」が出てくるところを探してみてください。ほとんどすべてが「戦争」に関わることなのです。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

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クリスマスを祝わないという人たちへ

クリスマスについて、クリスチャンの間でいろいろな意見が出てきていますね。それが異教から発生した行事であるということで、クリスマスを祝わないという人たちが結構多いです。またクリスマスの商業化に対する反発として、それを祝わないという人もいます。

教会暦の存在を知る

まず知らなければいけないのは、教会は、西方教会(カトリック)、東方教会(正教会)などの、古くからある教派の中で、一年を周期とした典礼を持っており、それを「教会暦」と呼んでいることです。

カトリック教会では主なものは例えば、

待降節 → 降誕節 → 主の公現 → 主の洗礼 → 四旬節 → 過越の聖なる三日間 → 復活節 → 主の昇天 → 聖霊降臨の主日 → 第8主日 ~ 王であるキリストの祭日

となります。

その中で、福音・聖書信仰からは相容れない伝統(マリヤの被昇天等)もありますが、キリストの初臨から再臨までの働きを順番に、行事を通して辿っていくという役割を果たしています。

旧約時代には、イスラエルも例祭(レビ記23章)があり、過越の祭りを始めとし仮庵祭で終わる、祭りを通して主の御業を覚える行事があり、そういった意味から教会が、キリストの働きをある時期に思い巡し、主を礼拝するということはとても良いことだと私は思うのです。

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教会と人間関係

教会で起こる人間関係について、いくつかの投稿や記事を紹介したいと思います。

石の心と肉の心

今日、フェイスブックでとても感動した文章を読みましたので分かち合います。以前、拙書「聖書預言の旅」を出版していただいた編集長の谷口和一郎さんの文章ですが、何度読み返しても心が洗われる気持ちになります。

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取材をしていると、クリスチャン同士の葛藤のようなものにぶつかることがある。牧師と信徒、信徒同士のぶつかり合い。それをもたらすのは、どちらか一方、また双方にある「石の心」である。石と石がぶつかり合うと火花が散り、石の心と肉の心がぶつかり合うと、肉が傷つき血を流す。

では、どうすれば「石の心」が柔らかい心になるのか。それが実現すれば、教会内のあらゆるトラブルは終息していくはずだ。

聖書は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36章26節)と書く。つまり、それは神の業であるということだ。人の力や知恵にはよらない。

このエゼキエル書を16節から読んでみると、神が、ご自身の「御名」のために行動を起こしておられるのが分かる。御名が汚されたのでイスラエルを散らし、御名の名誉の回復のためにイスラエルを回復された。その流れの中で、イスラエルの民に「肉の心」が与えられている。

ヒューマニズムの影響を受けた福音は、「私たちのために」ということを強調するが、聖書の神は、まずもって「神ご自身のために」行動を起こされる。だから、神の御名が汚されないように、神の御名があがめられるように行動することが人間の務めである。

その結果、神が働かれて「石の心」を持つ人物が変えられ、「肉の心」を持つようになる。

私たちは、石の心を持つ人を何とか変えようとするけれど、それは変わらない。私たちが神の御名の栄光を求め、そのために行動する教会になるとき、神が働かれて「石の心」も取り扱われるのだ。

今日も、主の御名があがめられますように!
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LCFで歌われる礼拝賛美

明後日は主を礼拝する日です。LCFは、毎週、日暮里駅前の場所で午前礼拝と午後礼拝を捧げています。皆さんもぜひいらしてください。

ウェブ上では説教の音声は聞くことができますが、私たちがどのような歌を賛美として歌っているかは紹介していませんでした。礼拝賛美の様子は録音や録画はしていませんが、多くは以下のウェブサイトにあるものを歌っています。

カルバリーチャペル・ワーシップ

代表的なものを挙げますと、例えば・・・

御名は(Your Name)

美しい自然は 主への賛美へと
私を導く 御名をほめよ

Chorus:
御名は 強大な砦 御名は わが避け所
民は 喜び たたえる ほめよ 救いの名と力

イエスの御名で 祈り 安らぎ
主により 力得る 御名をほめよ

ほむべきかな主の御名(Blessed Be Your Name)

主の御名をほ-めたたえます
恵みと まことの 満ちる御名
主の御名をほ-めたたえます
試みのなかを 歩くとも
 
* 憐れみ にふ-れるたび 主に立ちかえり
暗闇 に閉ざされても 私は歌う
主の御名をほめよ 主の御名を
主の御名をほめよ 主イェスの輝く御名

主の御名をほ-めたたえます
変わりのない 日々 過ぎるとも
主の 御名をほ-めたたえます
苦しみのなかにあえぐとも

*繰り返し

主は与え 主は取られる
主の御名はほむべきかな

主の御名をほめよ 主の御名を
主の御名をほめよ 主イェスの輝く御名

下は、カルバリーチャペル所沢と西東京の野外礼拝の様子ですが、二つの歌もよく歌います。

ハレルヤ(詩篇117)

聖なる神全能の神 Holy is the Lord

ぜひ礼拝にいらして、共に主を賛美しましょう!

政治とクリスチャン

アメリカの政治について数回に渡りこのブログで取り上げましたが、日本のクリスチャンの中にもこういう疑問を持っている人が多いと思います。

クリスチャンが政治にどのように関われば良いのか、また良くないのか?

いつものジョエル・ローゼンバーグ氏が言っている要点を書き記したいと思います。彼はユダヤ系米国人で、それから新生体験をして福音的クリスチャンになりました。面白い経歴を持っており、初めは大統領選では民主党候補に投票していました。そして次に、共和党候補の選挙のために働いていました。興味深いことに、投票した民主党候補も、また働いていた共和党候補もみな落選しています!それだからというのではないですが、主が「御言葉を宣べ伝えるのに専念しなさい。」という語りかけを受けて、それで政治の世界から足を洗った、そうです。政治にかなり関わっていたので「解毒」が必要だったと言っています(笑)。

彼が、まとめたクリスチャンの政治への関わり方ですが、5つの要点です。

1)国の指導者のために祈る。その指導者が自分の投票しなかった政党であっても祈る。
2)自由民主主義の中に生かされているキリスト者として、選挙は責任であり、選挙に行くことは奨励する。
3)クリスチャンの中には、公的機関で働くのに召されている人もいる。政治家もいる。(聖書では「ダニエル」)
4)牧師は党派的意見を説教壇で言わない。それは市民の権利を放棄することではなく、御言葉を伝える召しのゆえに捨てる。
5)政治の話題にはまっているクリスチャンは、その党派的な世界からの解毒が必要である!

(以上、PODCAST: CHURCH NEEDS TO GET BACK TO MAKING DISCIPLES, FULFILLING GREAT COMMISSIONから。PODCASTの音声も聞きました。)

アメリカと日本の今の政治状況は少し違います。イラク戦争以後、以前にあった一致団結がアメリカになくなり、両極化が生まれて、党派的になっていきました。それは政治や経済についてのイデオロギーや思想に関わることであり、日本の党利党略の問題とは違います。ですから、党派心を持つことに対して警戒が必要であることをジョエルは述べています。日本の場合の政党の見方としては、混迷を増していくばかりなので、次の基本知識が役に立つと思います。「政治をゼロから考える(5) 自民党と民主党はどこが違うのか」(国際情報サイト「フォーサイト」からの記事)

私は二つの点に注目しました。一つは、1)の国の指導者のために祈ることです。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(テモテへの手紙第一2:1)」大事なのは、願って祈って、とりなして、最後に感謝が捧げられるようにすることです。「感謝」がその人のために祈った結実です。

政治の話題になる時に、どうしても「批判」が先立ちます。民主主義と、当時の帝国主義(今でなら専制国家)では違うでしょうが、ユダヤ人がローマからの独立をするという熱狂が根底にはあったので、私たちの指導者に対する不満と共通面があるでしょう。けれども、キリスト者は全く一般民と異なる召しを受けています。一般民は批判するのが自分の仕事だと思っていると思います。けれどもキリスト者は彼らのために「祈る」のです。そして「感謝」になるまで祈るのです。教会の中で、思いっきり忘れられている神の命令だと私は思いました。

311の大惨事の後からは、私はもっと祈ったと思います。菅首相のために祈りました。そして今は野田総理のために祈っています。すると面白いことが起こりました。批判をしている時には見えてこなかった、指導者としての苦悩を感じ取れるようになってきたのです。確実に、神の御心の中に、その個人がクリスチャンであろうとなかろうと、その人がその立場に置かれているということです。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:1)」彼らは公僕です。私たちのために仕えているのです。「いや、何が国民にためか!自分のこと、自分の党のことしか考えていない!」というのであれば、それは不信者でもいえることで、主の手の中、その水の流れに彼らがいることを感じ取れれば分かることです。

もう一つは、4)です。アメリカほどではないですが、日本では真っ二つに分かれる課題があります。「原発」がその先端にあるでしょう。ある教団では、原発は聖書に反するなどという声明文まで出しています。私は自分の強い意見がありますが、なるべく出さないようにしてきました。(漏らしてしまうことは、時々ありますが。(汗))とくに教会の説教では、出したとしても容認なのか反対なのか明確にする形ではなく、中庸な形で例として出しました。なぜなら、キリスト者としての霊的成長に役に立つ事はなく、むしろ「党派心」という肉の働きによって妨げになる可能性が大きいからです。

しかし聖書の命令に直接、抵触する主題については語ります。以前「クリスチャンの政治家」という記事でそれを取り上げました。ですから、何が聖書で明白になっているのか、そうでないのかを知る必要があります。今、「キリスト者の倫理」という文章を書いている最中です。そこで取り上げていきたいと思います。

【後記】
同じ課題を取り上げている、非常に同感、納得のいくブログ記事を読みました。教会に政治を持ち込むとどういうことになっているのか、よく考えておられます。

政治と教会の距離感について―同盟基督:「原発は聖書に反する」--理事会 見解を公表を受けて―