伝道の時に知らなければいけない日本人の死生観

私は以前「福音の立体的骨格を伝えるには?」という記事を書き、日本における伝道の課題と、従来の「四つの法則」に代表される言葉による伝道以上の働きが必要であることを訴えました。根気よく人々に付き合っていくことが、日本の人たちへの伝道では必要なのですが、最近、次のエッセイ集に出会って、目から鱗が落ちた気分になっています。

神とか霊とか占いとか

伝道また弟子作りをしている時に、多くの人がいろいろな課題にぶち当たります。思い出すのは、津波被災地で、ある姉妹が、罪と死について、そしてキリストの身代わりの死について話したところ、多くの死者が回りにいるにも関わらず、被災者の方から「死ぬということについては、あまり考え出すと気がおかしくなる。」という返答が帰ってきました。また、つい先日も、近しい人に伝道したところ、「理屈では分かるが、あまり今は考えたくない。」という反応が返ってきたとある姉妹が話していました。

私も神道の熱心な信者に、神の義と、罪による死、キリストの贖い、そして永遠の命までを話しましたが、「そんな深刻なことを日頃から考えていたら、大変ではないのか。もっと楽しく生きよう。」ということをおっしゃっていました。ちなみに彼女は津波や原発の被災者を助けるボランティアの方であり、やはり「死」という現実に直面せねばならぬのに、この問題を避けます。

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霊的復興とは?

(前記事「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の続き)

そこで紹介したい記事があります。カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師ブライアン・ブローダソンのブログ記事です。リバイバル(霊的復興)の定義と意義について書いています。日本にも必要な御霊の動きです。

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Revival Part2

(意訳)
リバイバル(霊的復興)の主題に入ります。初めに、霊的復興が何ではないかについて提起しましょう。霊的復興は、私たちが呼び起こすことのできるものではない、ということです。「今週のリバイバル集会 午後7時半より」という看板を掲げた教会を通り過ぎたことが、おそらくおありでしょう。リバイバルは確かに教会に関わるものですが、教会によって計画できるものではありません。神が霊的復興をいつ、どこで起こされか、私たち指図することはできないのです。私たちが自分を霊的復興に導かせるためにできる事はありますが、究極的には主権的な神の御業なのです。

霊的復興は、このように定義されてきました。「多くの信者が、聖霊による深い罪の自覚を同時に経験する時の、特別な回復の時であり、罪の告白と遺棄(時には公に捨て去る)をもたらす。最後には、主への献身を更新することになる。」リバイバルは、聖潔への新たな決意、新鮮な伝道の情熱、宣教の幻に導きます。

分かりますか、霊的復興は、私たちが信仰的に後退し、御霊に属する事柄について冷えてしまっているとき、神がご自分の民のためにしてくださる何かです。教会にはまだ通っているかもしれません、聖書を持って歩いているかもしれません、そうした決まった活動はしているかもしれませんが、心の中では、主イエス・キリストに対する親密さや全き献身から離れ去っているのです。

The Spiritual Awakeners(「霊的覚醒を与えるもの」)の中で、著者Keith Hardmanは、霊的復興に至らせる条件について、こう話しました。「霊的復興は、霊的沈滞、無気力、著しい罪の時期、名目上のキリスト者の大多数が、世俗社会の構成員と実質的にほとんど違わない時を経て、その後に普通続くものである。」

今日の私たち自身が、この状況なのではないでしょうか?多くの回心が起こっているように見え、新しい教会が始められており、ある時は、人々がぞろぞろとやってきます。けれども、実際の起こっていることを近くで眺めてみると、多くの教会が人々が来ていっぱいになっていても、その教会の中にいる人々の生活と、教会の外にいる人の生活が大きく違う、というわけではないことがはっきりしてきます。ですから、霊的復興が必要なのです!

さらなる霊的覚醒の必要

覚醒は、復興と並んでくるものであり、教会の外にいる人々に影響を与え、キリストへの救いの信仰に至らせます。一般的には、復興と覚醒は同時に起こります。神が御霊によってご自分の教会を動かし始め、新たな罪の自覚をもたらし、新たな決意を呼びかけられると、外の社会に対しても働き始め、人々に罪の自覚を与えられるのです。

これが私たちの世界で、大きな必要となっているのでないでしょうか?つまり、人々が罪の自覚の下に来ることです。人々に罪について話すとき、その考えを全て退けて、「そんなものはない」と言います。絶対真理を信じないで、真理は存在しないと思っている人に、すべての人が実は罪人であることをどのように説得できるのでしょうか?私たちは、論じる能力以上の何かが必要です。神の御霊の力が必要なのです!

Hardmanは、結論をこう述べています。「覚醒は、文化の歪み、個々人の深刻なストレスの時期に起こり始める。私たちが規範としているもの、制度の実存性、教会と国家にいる権威の正当性に信頼が失われるとき、起こり始める。」これは今日の私たちを描写していませんか?私たちは確かに、裁きを受けるに熟していますが、復興することにおいても熟しています。覚醒することにも熟しています。神の民として、このことを期待し、神がそれをもたらしてくだることを叫ばないといけません。
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参考文献:「第二次大覚醒」(ウィキペディア)

日本人クリスチャン・ヒップホップ (Mamiya / Shin)

皆さんも、ご自分の好きなゴスペル・ミュージック、ワーシップ、プレイズがあると思いますが、私はこの頃、何度も聞いていて、ちょっと応援したいなと思っているアーティストがいます。

Mamiya(松浦真実也 オフィシャルサイト)

Bioによると「平成生まれのアーバン、R&B、ヒップホップアーティスト。圧倒的な個性で人々を魅了する。幼少期より7年間アメリカ西海岸で育ち、ネイティブ英語、日本語、タガログ語を操るマルチリンガル。

10歳でドラムとエレキギターを始め、抜群なリズム感を持つ。この頃、図書館貯蔵音楽CDを棚から棚へとオールジャンル聴きあさり、自身の音楽センスを磨く。中学校・高校時代はオリジナル曲をMDレコーダーを2つ用いて多重録音する。青山学院大学中退後、本格的にDAWソフトをもちいて作詞作曲を始める。個人でアルバムを3枚製作する(2009年、2010年、2011年)ほか、作詞作曲などのプロデュースも手がける。」とのことです。

最近知ったアーティストなので、どのような方が分からなかったのですが、いろいろな歌の歌詞に証しが盛り込まれているのですが、そこから分かってきたのは一度信仰から離れたけれども主に立ち返り、今はフィリピンを拠点に、音楽活動を通して熱心に主に仕える兄弟です。

技術的にはプロです、生半可ではありません。最近、福音に日本人の人をつなげたいとのことで、以下のビデオを作ったそうです。

Discographyは”Kari-Tai”(2009) → JESUS(2010) → Revelation (2011)となります。(この題名からして「(主のもとに)帰りたい」→「イエス様!」→「黙示録」という暗示があるのは明らかです。)

Youtubeチャンネル “MamiyaMusic’s channel

Facebookページ “Mamiya

Twitter “MamiyaMatsuura

そして同じMamiyaさんですが、自身をクリスチャン・アーティストとしてShinという新しい名で活動を始めました!

Youtube “TheShinTV

Facebookページ “Shin

新しく出した”Jesus Beat Vol.1″が・・これが、凄い!!!!

これは無料でダウンロードできます。→ ここからダウンロード
(.rarという拡張子の圧縮ファイルですが、解凍ソフトを使えばよいです。)

全部気に入ったのですが、特に良かったのは”The Salvation Story”(救いの物語)です。下がその歌の一部ですが、Youtube(右下のボタン)を開けば下に歌詞も出て来ます。実際は、今の世界の問題から人の罪を語り、そして創世記の話に入っていき、そして下のビデオにあるイエス様の話になっていきます。


(私個人はただ歌詞だけ聞いて、思いを巡らしたほうが良かったですが、初心者の人には映像があったほうが助かるでしょう。)

次は「復活、昇天、聖霊降臨、それから再臨」までの壮大な神の救いの完成を歌ってほしいなと思いました。

私の家の近所に公園がありますが、若者たちがいつも、ラジカセを使いながらヒップホップ・ダンスの練習をしています。ぜひMamiya / Shinの音楽を若者に紹介してみてください!

2012年マラナサ・バイブル・フェローシップ その2

その1からの続き)

二日目の晩の私のメッセージは、マタイ13章1-50節から「天の御国の奥義の喩え」という題名で話させていただきました。

リンク先: 原稿 ・ 音声

下界(??)に降りたら再びストレスのある生活に戻る。けれども、そこにおいて御言葉を聞き、心を開くところに天の御国が展開していく。そして、御言葉を受け入れた人々の中にもサタンの働きがある偽物がはびこるが、広い心をもって忍耐していかなければいけない。最後は、必ず清算の時が来る。隠れたことがすべて明らかにされるので、私たちの周りにある不条理について、真理的・霊的圧迫について、主が解決してくださるという信仰を持つことができる。そして、主がこの世界に清算の日をもたらす前に、宝のように大切にされている主が私たちを贖ってくださる、という内容でした。

ところで今回のキャンプは、雨がたくさん降りました。けれども、不思議に何か活動をする時には晴れて、すべてを行うことができました!二日目の昼は、いつものように一部の人たちは広場でスポーツです。ソフトボールとサッカーをしました。

そして何よりも三日目の午後に行なったバプテスマ式は豊かに祝福されました!三日目の午前中は富士山二合目の現地は雨降りでしたが、午後にバプテスマ式を予定していた富士川の上流に近づくにつれ晴れてきて、川も冷たかったですが、濁流にもなっておらず最高の状態でした。

三日目の朝の感謝会で、バプテスマを受ける予定の三人から救いの証しを聞きました。その中の一人は私たちLCFの教会にいらして約三ヶ月の姉妹で今年正月に救いを受けました。彼女に与えられた赤ちゃんがキャンプの中でも可愛いスターでしたが、その子にまつわる話で、赦せなかった人を赦す心が与えられた、という内容です。

そしてもう一人の方はハワイに留学していたけれどもそこで救われ、日本に戻ってきたら決してイエス様から離れたくなかったけれども、ご出身が静岡市で帰国後すぐに静岡城北教会に導かれ、そしてそこの牧師さんで私の友人でもある見城和人さんがカルバリーチャペル所沢を紹介し、そしてそこで、これまた私たちの友人の宣教師が、職場に近い恵比寿バイブル・スタディを紹介し、私たちとも知り合いになりました。お二人とも、主に救われた喜びでいっぱいです!

2012年マラナサ・バイブル・フェローシップ その1

毎夏恒例のマラナサ・バイブル・フェローシップのファミリー・キャンプが、8月13‐15日に富士山麓山の村で行なわれました。昨年と同じところです。(2011年の様子はこちらのブログ記事でどうぞ。)

「米田ひろしミニストリー」の紹介

今年は、伝道にもっと力を入れた集会でした。ゴスペル・シンガーの米田ひろしさんが一日目晩の集会を担当され、ロゴスの私が二日目のバイブル・タイムを担当致しました。米田さんとは初めての出会いでしたが、たくさんの共通項があり、一気にいろいろなことを分かち合い、親しく交わることができ、とても嬉しかったです。

ご自身の教会生活ルーツがワシントン州のカルバリー・フェローシップを始めとし、遣わされている教会が私もよく耳にしている南加州にある日系教会、そして共通の友人や知人が数人おり、おまけに私の大学時代のクリスチャン先輩がご自身の所属される教団の牧師だった、などありますが、霊的には、ご自身が引きこもりとそれに伴う鬱との闘いから救いを受けた、というところに大きな共感を得ました。私も救いのきっかけは、高校の後期から大学初期に悩んでいた抑うつでした。

彼が今年出したアルバム「あなたに逢えてよかった」の同題の歌は、まさに私が霊の救いを受けたことによって得られた癒しにおける神の真実ですが、このような歌詞になっています。

涙流してよかった。心痛んでよかった。
傷ついたけどよかった。傷つけるよりよかった。

風が強くてよかった。雨が冷たくてよかった。
険しい道でよかった。遥か遠くてよかった。

すべての営みは、定められた時がある。
今がどんなに苦しくても、あなたがくれる意味がある。

あなたに逢えてよかった。心開いてよかった。
勇気を出してよかった。今すべてがよかった。
・・・・

これは伝道者の書3章1節の「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」から来ている言葉ですが、ここに流れている真理は、神がいかなる物事や出来事にも主権を持っておられることです。この世界は、クリスチャンの世界でさえ、悪いことについては蓋をして、それがあたかも神の領域から離れているかのように話します。これは非聖書的な神学であり、主は、すべてのことを、たとえそれが悪であってもご自分の主権の中に入れておられ、それをすべてご自身の栄光にされます。この真理によって、私も深い魂の癒しを受けました。

米田ひろしミニストリー

上のウェブサイトに、米田さんの証しも、また「あなたに逢えてよかった」の試聴もできます。

今回もノアの石原さんご夫妻がいらっしゃいましたが、静岡の牧師さんたち自身もフォークのバンドも組んでおられるほどの面々ですから、賛美に豊かな集会となりました。いろいろな人に教会賛美について質問をしましたが、みなが同様に「技術ではなく個々のクリスチャンの霊的成熟」を条件に挙げておられました。

下に、一日目の様子の一部を紹介します。

その2に続く)

日暮里移動を控えて - 牧者の瞑想 その2

その1からの続き)

イエス様という、多彩なお方

イエス様という方は、まるでたまねぎの皮のように、剥いても剥いても、また新しい側面を見出すことのでき、あらゆる働きの源である方であることに気づいています。ここ数年は、海外宣教の働きを始めたことによって新しく見えてきたイエス様がおられました。それは天から地に下るという、人々の生活の間に入られた方であることを知りました。言語はもちろんのこと、その人々の習慣や文化、社会制度に至るまで、罪ではない全てのものと一つになり、その中でキリストを自分のうちに見出してもらう、ということです。

けれども、イエス様は宣教者であられるだけでなく、大牧者でもあられます。なぜイエス様は、弱い人、苦しんでいる人、罪人の中におられたのか?そしてなぜ、あれほど、特にパリサイ派との確執があったのか、弟子たちの無知と無頓着にどうしてあれだけ忍耐されたのか、また何よりも、なぜあんなに父なる神に祈ることができたのか?これらの鍵は、「羊を世話する羊飼い」であります。「教えていることだけでなく、自分の命さえ捧げる」という愛にあります。これが牧者の思いです。

自分を変えるチャレンジ、ぎこちない愛

大きなチャレンジは、私自身です。先日、このブログでも紹介させていただいた、東松島の月浜地区の海苔産業の復興を目指す「月光グループ」の食事会が開かれました。月光の漁師さんにお会いできただけではなく、月浜を支援している他のボランティアの人々にも会えました。その一人の方が、こういう言葉を残しています。

彼らは自らを変えることと闘いながら、ここまで来た。
月浜の方々とは去年の四月以来のお付き合いをしてきました。そこは宮戸島という小島の端にあるため、自給自足精神の強い集落であり外部者に対して閉鎖的でした。津波が押し寄せ、数多くの人々が助けに来ることによって、「自分たちだけで生きていく」というところから、「他の人々との接点によって生きていく」という生活の転換を迫られました。けれども、後者の生活がいかに優れたものかを、喜びをもって体験していることを、月光の代表の方の満面の笑みから伺うことができました。

そして今、私自身も単なる聖書教師から牧師・教師への転換の喜びを味わっているのかもしれません。

そしてもう一つ、「愛」ということについてです。昨日、ある人の紹介によるビデオを観て感動しました。

なんと、これはタイ国の生命保険会社のCMなのですが、こんなに素朴な愛を短い時間で描いているのは珍しいのではないでしょうか?私がこれを見て思ったのは、このような愛を兄弟姉妹に持てるだろうか?というチャレンジもありますが、同時に、「こんな不器用な私でごめんなさい」という、口の利けない父と同じ思いがしています。

牧者という働きの中に身を置いて、不思議な体験をしました。これまでになかったことでした。それは、「神が与えられた人々を愛せる」という喜びでした。上からでなければ決して来なかった愛情です。だから、私自身が愛情深いとかそういうものでは決してなく、神がご自分の栄光のために、キリストを頭としている教会においては、愛を満ちあふれさせるようにしてくださるのだ、という実感です。

けれども、それをどう表現すればよいのかが自分に分かりません。下手くそだなって思います。とにかく御言葉を提供することに専念してきた生活を送ってきました。背後ではたくさん泣き、たくさん時間を使い、たくさん祈ってきたのですが、それをどう伝えればよいか分かりませんでした。不器用だなと思っています。でも、不器用だからといって落胆せず、愛がその欠点さえも乗り越えて押し流していくことを、切に祈りつつ奮闘していきたいと願っております。

今、教会に来られている方々は、私のことを愛し、支えてくださっていることを感謝します。またこれから教会に来てみたいと思われる方は、以上の通りですので今後とも何卒よろしくお願いします!

(参考文献:”Love: The More Excellent Way” by Chuck Smith)

日暮里移動を控えて - 牧者の瞑想 その1

あと一回を除いて足立区での礼拝は終わりです。次々回の8月一週目から日暮里駅前の東京国際日暮里教会内で礼拝を持ちます(午前礼拝のみ。午後礼拝はすぐ近くの日本語学校で行います)。(詳しい経緯はこちらの記事をお読みください。)

本格的に教会を始めたのは私個人の生活では初めてで、2011年初頭から始まったこの教会を通して大きな挑戦をイエス様から受けてきました。それは「牧者」とは何か?というチャレンジです。私は聖書教師としての働きを十五年ほど持ってきました。そして米国の教会からの宣教師として、日本国内また海外で働いてきました。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・(エペソ4:11-12)」

ここの「牧師また教師」は、ギリシヤ語では「牧師=教師」となっています。ですから牧者の働きには教師としての働きが前面にあります。神の御言葉を教えることによって、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせます。これは大前提です。けれども牧会の中に教える働きがあるのであり、教えているからと言って自動的に牧会ではありません。その違いは何なのか?それを考えていました。

教師と牧者の違い

1)聖書教師は「教える」ことに注意するが、牧者はそれだけでなく「個々の魂」を注視する。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17)」「魂を見張る」というと人を支配する監視のように聞こえますが、そうではなく「注視している」ということです。それはちょうど、公園で遊ぶ子供たちを見ている大人のようであり、プールサイドの監視員のようでもあり、危険がないかどうか見張っている、守りの働きであります。キリストの内にその人が留まっているかどうかをじっくりと見ていく働きです。

2)聖書教師は「教えている内容」によって信頼を得るが、牧者は「羊の生活全般」への関わりによって信頼を得る。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)」「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(1テサロニケ2:8)」イエス様のように、贖罪のための命の犠牲はしませんが、けれども自分の生活をかけて世話をするという面では、主のお姿を牧者は真似なければいけません。

教会を始めた時から、私は強く、教会とは「神の家族」であると思わされています。家族というのは、生活臭がするところです。御言葉を体系的に学ぶことは非常に大切ですが、教会は学校ではなく「家」の中そのものです。人格と人格がぶつかるところです。御言葉が、ノートに書き残していく文字ではなく、「自分」というものを退けて、打ち捨てていくことによって従順になる生きた言葉になります。大変なところも共有し、喜ばしいことも共有し、みなで成長し、その結果キリストをほめたたえるところです。

私は、妻はいますが子供がいません。ゆえに、次の御言葉の挑戦を受けています。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・(1テモテ3:4-5)」父親のような威厳とはどこから出てくるのか、これから模索していくことになるのでしょう。

3)聖書教師や説教者は「主への情熱」が試される。牧者は「主への情熱」に加えて、「人への同情」が試される。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:36)」ここの「かわいそう」という言葉は、まさに中国から来たことわざ「断腸の思い」に似ているものが使われているそうです。まさに肝が裂かれるような思いです。人が弱っている時に、決して傍観視できない心です。祈りをもって父なる神の前に出て執り成し、また聖霊の助けを得てその人に関わっていく労力です。

4)宣教師の楽しみは、御霊の流れに乗ることである。それはあたかも、サーフィンの波乗りをしているようだ。牧者の楽しみは、「神が育ててくださる植物」を見る喜びだ。

宣教師が楽で、牧者が大変だということでは決してありません。サーファーに聞けば誰でも、波に乗ることがどれだけ大変であるかを教えてくれるでしょう。御霊の流れを知ることは、濁流のような波の流れになおかつ板に乗っていくことのできる、霊的筋力が試されます。

けれども牧者は、園芸を楽しむような喜びがあります。時間をかけて楽しむ喜びです。神が成長させてくださいます。時に台風が来て、茎が折られ、根が切れてしまうかもしれません。けれども、根気良く水を与え、肥料を与え、どうやったら枯れないようにすればよいか工夫し、実が結ばれるまで見届けるのです。

その2に続く)

“不自然な”御霊の動き

教会にあるべき姿について、エッセイを書きました。長くなったのでブログではなく、違うところに掲載しました。

“不自然な”御霊の動き」 ルカ10章の「良きサマリヤ人」から

「快適」であることは、御霊の動きではなく、御霊が働かれる時は「愛」の動機が働き、愛していくのは労苦を伴い、違和感を乗り越えるものである、という内容です。よかったら読んでみてください。

世界一評判の悪い国 - イスラエル その2

(「その1」からの続き)

私は安易な謝罪には反対

私は、この問題を取り扱うときに、一種の恐れを感じています。それは、ナチスの反ユダヤ主義に最も露にされた「人の憎しみと怒り、ねたみ」と共に、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛と救い」という重い主題に入っていくからです。

私は個人的に、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに懐疑的です。誤解をしていただきたくないのですが、私が敬愛している聖書教師の多くがユダヤ系です。デービッド・ホーキング、アーノルド・フルクテンバウム、またジョエル・ローゼンバーグなど、聖書をユダヤ人であるからこそ、神から与えられた賜物を生かして説き明かしてくださることから大きな恩恵を受けています。そして、私はメシアニックの会衆の礼拝や過越の祭りにもアメリカで参加したことがあります。さらに、アメリカにはユダヤ系の兄弟が数多くいましたし、共に祈り、交わりもしていました。

けれども、私が彼らを愛しているのは、他民族の異邦人信者と同じく、「国や民族を超えたところにあるキリストの愛」によって、御霊の一致があるからです。それに加えて、選ばれた民であるがゆえに召命と賜物があるため、そこで霊的な徳が高められる部分が大きいです。「キリストにあって一つ」であることが大前提であり、そして「神の与えられた賜物」を尊んでいます。

私はユダヤ人に対してキリスト者として謝罪するときに、「反ユダヤ主義」というものにある、霊的、神学的、そして歴史的重みのかなりの部分をすっとばして、簡単に言うならば「口だけで」謝っているとしか思えないのです。私は、日韓クリスチャンの間にある「謝罪運動」にも懐疑的ですが、近隣の国でさえその歴史の重みを知らないのですから、ましてやユダヤ人に対してはあまりにも畏れ多くて、謝ることができません。

以前書いた記事「真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う」の中で、ホーリネス教会の上中牧師が書いた一部をここに引用します。

 その一つは、当事者でないために、事実を知ろうとしなくても、おおよその情報だけで、自らの心を探られずに悔い改めができてしまうことである。教会は痛みも恥も感じずに、笑顔で悔い改め、謝罪することもできる。
 さらに悔い改めることで、自分たちが善良なキリスト者であると、無意識のうちに自負することさえできる。主イエスの譬えに登場するパリサイ人が自分が《この取税人のようではないことを、感謝します》(ルカ18・11)と祈ったように。
 日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。

同じことが、ユダヤ人への謝罪についても言えます。(ちなみに、カトリック法王が謝罪する、というのは極めて意義あることだと思います。けれども、一般信者の謝罪にどこまでの意義があるのか・・・、ここが疑問点です。)

メシアニック・ジュー運動」というのは、「ヨーロッパを舞台にした反ユダヤ主義」なくして、発生することのなかった運動であります。先に説明したように、新約聖書時代に既にヨーロッパに存在していた反ユダヤ主義がキリスト教会の中に浸透し、それによって「ユダヤ人」と「クリスチャン」というのが正反対の言葉とまで発達するほど、歴史と文化と社会がその違いを形成していきました。ですから、イエスを信じるということは、「ユダヤ人であることを捨てる」という、とてつもない葛藤が生まれるのです。イスラエルで出会った、数年前に来日されたジョアンさんと交わって、彼女は、「日本人のクリスチャンとユダヤ人信者は似ていると思う。」とおっしゃっていましたが、それは「日本人がイエス様を信じようとするときに、日本人であることを失うのではないか、という恐れがあると聞く。」とのことです。その葛藤をなんとか修正しよう、ユダヤ人のままでイエスを信じることができるのだ、という主張が、メシアニック・ジュー運動です。

メシアニック・ジューの諸課題

そして、その相反する定義の中で翻弄されているユダヤ人信者が数多くいる、という現実を決して忘れてはいけません。私たちと仲良くしてくださっているモリエル・ミニストリーの創設者、ジェイコブ・ブラッシュさんの見解を下で読むことができます。

メシアニック運動についてのよくある質問

ジェイコブさん自身ユダヤ人であり、イスラエル国籍も有しており、かつメシアニックの会衆に集っておられる方です。けれども、やはりその運動の中にある「揺れ」に注意喚起をしておられます。一部引用します。「今あるメシアニック運動の70%が無知でおかしな人たちによって運営されており、聖書の教理を何も知らない人たちで、偽りのタルムード的ユダヤ教をまねしようとしています。」そしてコメント欄には、イスラエル在住の日本人の兄弟が、メシアニックの会衆にある様々な揺れを報告しています。それでも、彼らに同情し、愛している姿も見ることができます。

それもそのはず、私たちに与えられている「キリスト」という頭から離れては、どんなに霊的、聖書的装いをしても、どんどん彷徨ってしまうのです。

私たちは果たして、マルチン・ルターの反ユダヤ主義よりも優っているのでしょうか?私たちは簡単にユダヤ人に謝罪することはできても、彼らに伝道をしているでしょうか?ルターはそのことを行なったのです。その結果、彼は神に祈り叫ぶのではなく、苦味を抱いてしまったのです。けれども伝道は試みたのです。謝罪して伝道しないのと、伝道して苦味を持つのと、どちらが反ユダヤ的でしょうか?私はさほど変わりない、いや、前者のほうが反ユダヤ的だと思います。

エルサレムで奉仕をしている兄弟から、1999年にその働きの困難さを聞きました。ユダヤ人がいかにかたくなで、うなじがこわい民であるか、そして匙を投げて「ルターが、彼らを犬と呼んだように」あきらめたくなる誘惑もある。けれども、そこから始まる、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛がある」という内容を分かち合ってくれました。

私たちが、これまでのキリスト教徒が行った反ユダヤ行為を、人差し指でさすことはできるのでしょうか?私たちが日本人にでも、誰にでも、伝道を熱心に行って、それで人が誰も救われないどころか、かえって自分の信仰を変えてしまおうと迫ってきたら、それでも私たちはその人たちを愛せるでしょうか?・・・このような内容なのです!だから、私は「一種の恐れを感じる」と言いました。とことんまでかたくなで、拒んでいる人に対して、それでも、愚かにも愛し続けて、祝福を与え続けるということができるかどうか、です。

真の反ユダヤ主義とは?

だから、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに、私は霊的な意義をあまり見出せません。いや、意義を見出してみましょう。具体的な適用としては、在日イスラエル人に伝道を試みることです。この言葉を発したとたん、壮絶な霊の戦いに入ることになるでしょう。イスラエル国内では「宣教」という言葉は禁句です。日本国内でも、ちょうど宗教の自由が制限されているようなところに宣教に行くのと同じように、用意周到な霊的備えが必要です。

しかし、それでも福音を伝える、という人が本当にユダヤ人を愛しています。パウロと同じ情熱を持っています。彼は激しく、「ユダヤ人に対する神の御怒りは極みに達した」といいながら、かつ、「同胞のためなら、自分が呪われたものとなってよい」と言いました。そして欧米では、数多くのユダヤ人信者が異邦人の証しを通して救われています。

BBCの調査を再び見ますと、イスラエルの人にとって「アラブの春」は、ぜんぜん春でないことが分かります。これまで独裁制で抑えられていた反イスラエル感情が、エジプトで噴出しています。ヨーロッパでは、従来の反ユダヤ主義がじわじわと、鍋で料理を煮込んでいるような醸成が行なわれています。そして不思議に、中国や韓国、そして日本でも反イスラエル感情が増えています。けれども、少なくとも日本では言論空間にとどまっていることでしょう。歴史的に、反ユダヤ政策は国として採用しておらず、ドイツの政策に枢軸国でありながら距離を取っていたという経緯があります。けれども国内では戦時中、言語統制の手段として反ユダヤ思想が猛威をふるいました。

最後に聖書預言として、反ユダヤ主義の背後にある動きを見ましょう。

自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。(黙示録12:13)」

「男の子」とはイエス・キリストのことです。そして女とは「イスラエル」のことです。それを追いかけたのは「竜」、つまり悪魔のことです。イエスをこの世に生み出したイスラエルが、その後、悪魔に追いかけられるというのが終わりの日に起こることであり、その枠組みの中で人間の歴史に反ユダヤ主義が存在します。

そして、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、かたくな民に対しても変わらず抱く神の愛を、私たちがどこまで受け取ることができるのかが、私たちに与えられたチャレンジ(課題)です。

世界一評判の悪い国 - イスラエル その1

前投稿で、「世界一評判の良い国 - 日本」という内容を取り扱いましたが、今度は同じBBC調査でイスラエルを見てみます。

Poll: Israel viewed negatively around the world

イスラエルは厳密には世界一ではありませんが、イランがかろうじて世界一であり、けれども僅差で評判の悪い国となっています。パキスタンと北朝鮮と並んでいます。ロゴス・ミニストリーのブログや、聖書の学びをしている人は、「なんでー!」と大きな声を挙げることでしょう。日本人が自国を否定的に見ているが、世界的には良い評判を受けているとは対照的に、イスラエル人はことさら悪いことを世界に行っていないのに、世界から悪い評判を受けているのです。

入植地の住宅建設なのでしょうか、パレスチナ人テロリストやガザ地区への攻撃もユダヤ人が悪いというもあるのかもしれません。調査によると「対外政策」とのこと。「あなたたちがしていることのせいで、世界秩序が崩れているのですよ。あなたたちが、自分たちのことに固執しているから、私たちが迷惑を被っているのですよ。」ということなのでしょうか。

私たちが自分の住んでいるところで、一区画で住宅を建設するかどうかの揉め事が、一気に世界に広がっていき、外交政策として圧力がかけられることを考えてください。内政干渉どころではありません。普通ならば「あなたの国は承認しない」を暗示する脅しにも聞こえます。けれども、その相手が最大の友邦国であるアメリカから来るのですから、たまったものではありません。あるユダヤ教ラビは、新聞に「私たちはなぜ憎まれるのだ?彼らに私たちは何か悪いことをしたのか?」という叫びに近い意見を投稿しました。彼らが反ユダヤ主義に敏感になるのは当然であり、事実、反ユダヤ主義は存在しているのです。

フェイスブックでこの記事を引用したら、日本で宣教師として奉仕しているユダヤ系アメリカ人の兄弟が、「いつものことだ」との一言を残していました。この”nothing new here”という言葉に重みを感じない人がいれば、その人は極めて鈍感です。ユダヤ人が他者から嫌われていることは常態化しており、その常態化した状態の中でどのように生きるのか、といつも彼らは考えているのです。

私が好きな聖書教師の一人が、ジョエル・ローゼンバーグ氏ですが、彼はイエス様を信じるユダヤ人です。彼が最近、ドイツのカルバリーチャペルでの会議で講演者となりました。

私は彼が説き明かすエゼキエル書36‐39章の話はたくさん聞いていましたが、ドイツという地で行なった彼の説教内容は、これまでと違った重みのあるものです。

彼は、ヨーロッパが聖書の中で深い関わりを持っているところから始めました。パウロが小アジヤだけで宣教を留まらせておこうと思ったところ、イエスの御霊がそれを許さず、マケドニヤへと遣わされたのです。そしてヨーロッパの中心、いや当時の世界の中心であるローマにまで行き、ローマ人にも手紙を彼は書きました。

彼は続けて、ヨーロッパ人とユダヤ人には愛憎の関係があると論じました。ユダヤ人の宣教者によってヨーロッパに福音が伝えられた一方で、ローマの信者たちに対して警告を発しています。ローマ11章をじっくり読めばそれがよく分かります。1節には、「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」と問います。このように問う、ということは、ユダヤ人は退けられたと考える異邦人信者たちがいた、ということです。私は、ローマ11章はいつも読んでいましたが、そのような現実の歴史的背景に、ローマにいる異邦人信者がすでに反ユダヤ的な考えを持っていたという想像はしていませんでした。

そして、「あるドイツ人の指導者が言ったことば」としてこう紹介しています。

「それゆえ、この怒りによってユダヤ人は神にはっきりと拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また神も彼らの神ではないという結論に達せざるを得ないのだ。」

そしてこう具体的に提唱しました。

「まず第一にわれわれは、彼らが会堂をもつ権利を拒否する。・・・第二に、彼らのすべての書物、祈書、タルムードを没収すべきである。・・・第三に、彼らがわれわれの領地で神を讃え、感謝し、祈り、説教することは公けに禁止されねばならない。」

彼は言わずとしれた、プロテスタントの父祖マルチン・ルターです。日本語で、その一部をネットで読むことができます。 → 「ユダヤ人と彼らの嘘」マルチン・ルター

なぜこうなってしまったのか?彼はキリストをユダヤ人に宣べ伝えました。けれども、だれ一人、キリストを受け入れる者はありませんでした。それだけかたくなであることで、彼はその訴えを神に申し上げるよりも、苦々しくなったのです。ジョエルさんは、「私は、ルターは今、天国にいると信じています。けれども彼は、神がユダヤ人に持っておられるご計画を知らなかったのです。」と言っていました。彼らが福音を拒んだことが、神が彼らを拒んだことにはなりません。

確かに一時、神は彼らを退けたけれども、それは、懲らしめのためであって、長い期間かけてそれを行ない、今、その地に戻してくださっている。そして、それがエゼキエル36-37章にある、土地と国の回復の約束なのだ。それが今、実現しているのだ、という内容です。

(「その2」に続く)