行動しながら学ぼう! その1

カルバリーチャペルのサイトが最近、大きな更新をしています。いろいろな牧者のブログと映像につながるようになっています。

www.calvarychapel.com
昨日新たに掲載されたもので、非常にうなずき、面白いとおもった記事が次です。

“Doing Something” by David Guzik(「何かをしている」デービッド・グジック)

意訳をしてみました。
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最近、スポルジョンの有名な「牧会入門」をまた読み始めましたが、その「はじめに」のところに以前見ていなかったものに気づきました。本書は、スポルジョンの有名な牧者大学の男性たちに行なったメッセージの集成ですが、この大学は数百人の、イエス様を愛し、神の働きのために聖書を説き明かす人たちを生み出してきました。その始めの言葉に、牧者大学に受け入れられる生徒がどのような人かを、スポルジョンが自分の考えを話している言葉が次です。

「この機関は、説教者を作り上げるための人は受け入れません。少なくとも二年間、いくらか説教において成功している兄弟たちに、さらなる教育の助けになるために設立されています。」

つまり、牧者大学は、(ある程度の成功をもって)説教を少なくとも二年間行っていなければ受け入れなかったのです。「説教者に作り上げる」ことはできないことをその大学は知っていました。ただ、その働きに召され、その働きに傾いており、そして既に行なっている人しか助けられないことを知っていました。

聖書大学や牧者訓練校における、新たな方針としてこのことを推奨しているわけではないのですが、スポルジョンが何を言わんとしているのかは理解できます。多くの人が、神に仕えるという本当の意味が曖昧になったっまあで、神の働きのための何らかの勉強を追及しようとしている、ということです。

ここに私が思っている教訓があります。もし、神に用いられたいと願うのであれば、何かを行なって忙しくなりなさい、ということです。牧者あるいは教師になりたければ、定期的に教えることに忙しくなってください。子供や青年を教えてください。あなたの若さ、気まぐれや未熟さに寛容になってくれる小さな集まりを見つけてください、そして教え始めるのです。そうした集まりを見つけられないなら、作り出してみてください。作り出せないのなら、自分で聖書の学びの準備をして、家のペットや植物に教えてください。

そうすることによって、自分の心と思いに大切な概念を建て上げることができます。それは、何よりも、あなたが教えることや宣べ伝えることは、神のためであり、神が聞かれるものであることです。そして、あなたの奉仕において神を敬うためである、ということです。牧者また教師であればどのような人も、教え伝えることはそれを受け取る聴衆がいるから重要だ、と思いがちです。聞いている人が多ければ、また影響のある人々であれば、それだけ良い、準備されたメッセージが必要であると思ってしまいます。けれども、私たちが行うことは、神が常に聴く者であることを忘れてはいけません。パウロがコロサイ3章23節で言ったことを思い出してください。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)」これは生活全般(「何をするにも」とあるように)に当てはまることですが、特に、神が下さった機会であればどんな教えることも、宣べ伝えることにも当てはまります。

私はヨーロッパで、六ヶ月近く、毎週日曜日、空の部屋で説教をした牧師を知っています。彼は忠実に準備し、教えました。神がこのような不自然なことを行うように呼ばれていると信じながら。この経験によって、彼はより優れた牧者、指導者、そして教師となり、毎週来る人々に仕えています。

神は教育の機会や機関をすばらしく用いられますが、既に何か行なっている人の生活においてそれが最善の形で機能するのではないかと思います。
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いかがでしょうか?家のペットにでも、植物にでも教えなさい、というのは「ええ、ちょっと!(笑)」と思いましたが、実際に、空の部屋で六ヶ月も説教を続けたというその牧師さんはすごいです。私がスクール・オブ・ミニストリーでしばしば聞いたのは、「聴衆が五人でも千人でも変わりなく、忠実に教えていきなさい。」というものでしたが、全然いないというのは正直、私も経験したことがありません。(さすがにペットや植物には説教したことはないですが、ICレコーダーだけを前にして行ったことはあります!でも、やはり人が聴くのだから、というのが前提でした。)

けれども、言わんとしていることは分かります。私も教会礼拝での説教はもちろんのこと、司式、公の祈りや、特に聖餐式の時には、そこにいる人々に対してしているというよりも、主の前で、主を代表して行なっているのだという意識になっているからです。

次に私自身のこと、それから他の皆さんに分かち合いたいことをお話したいと思います。

(「その2」に続く)

男よ、お前が悪いのだよ! その2

その1からの続き)

では解決への道は何でしょうか?フェミニズムのように、女性を社会構造的な弱者として見て、その構造を変革することが必要なのでしょうか?もちろん制度上の精力的な変革の努力は必要でしょう、けれども福音信仰に立つ者は、それが根本解決ではないことを知っています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5)

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、祭司を虐殺するという攻撃性を表しました。

それに対してダビデは真の男です。ダビデが息子ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(2列王2:2)」と言いましたが、男らしい、とはどういうことでしょうか?彼は知っていました。彼も自分の権力によって、姦淫の罪を犯した女の夫を殺すという重罪を犯しました。けれども、彼はこう告白したのです。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

そして友が必要です。先の性暴力事件の加害者が属していた教団の検証を読みますと、教団に対する批判的な態度、主任牧師に従えない、自分のしていることには誰も干渉させない、というような問題がずっと前からあったようです。神学校時代や信徒の時代からの友がいることが大切、という話も書かれています。

特に牧師として生涯を全うするためには、「△△教会の○○牧師」といった付加価値抜きの、素の自分を見せられる相手、一人の人として自分を見、意見してくれる存在が不可欠である。できることなら、こうした肩書や、成果を求められる状況が生じる以前、信徒、修養生時代にそのような相手を得られることが望ましい。と同時に、継続した訓練が必要である。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

記事の題名は、実はフェミニストの人が書いた性暴力についての本「あなたが悪いのではない」をもじったものです。女の人が、自分が悪いと思ってしまうことについて「そうではないのだよ」と断言している言葉でしょう。けれども私はさらに一歩踏み込んで聖書的立場から、「男よ、お前が悪いのだ」という見解で書かせていただきました。

男よ、お前が悪いのだよ! その1

ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。

あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。

家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。

男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。

アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。

そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。

現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。

こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。

- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

その2に続く)

My Last Day(私の最後の日)

先ほど、すばらしいお知らせをいただきました。マンガ「メサイア」など日本の漫画家による聖書物語が出てきていますが、ついにアニメも登場!!

My Last Day(私の最後の日)

イエス様の十字架の横で磔にされた囚人の目から、イエス様の姿を描いています。歴史的、考古学的にも正確さに拘っている点もすごいです!日本語だけでなく16の言語も訳されているので、外国の人に伝道する時もこのYoutubeをシェアしてみましょう!

http://www.youtube.com/jesusfilm

日本語用専用サイト: MyLastDay.jp

恵比寿バイブルスタディ後の交わり

恵比寿バイブルスタディが昨夜ありましたが、まず2月の予定の変更をここでお知らせしたいと思います。

2月8日と29日です。当初22日にしていたものを29日に変更しました。21-23日辺りに東松島への救援旅行に行けそうになったからです。

昨日はサムエル記第一4-7章からでした。サムエルが預言者として立てられてからも、彼に与えられた神の言葉がイスラエルの民に変化をもたらしたのは二十年という期間が必要でした。真のリバイバル(霊的復興)とは何かを学ぶことができました。

1サムエル記4-7章(音声)

そしてその後の交わりの時も充実していました。「プロテスタントとカトリック」の違いから、プロテスタント教会にある諸問題を分かち合わせていただきました。

一つは「カルト化」です。ある兄弟が、「教会に疑問を持ったときに、『教会は聖霊が満ちているところだから、疑問が沸くのはまだ自分の肉から出てくると考えなさい。』と言われた。」というものです。私は、「プロテスタントが教会主義に陥ると、カトリックよりもたちが悪い。組織や指導者への従属が強く、個を破壊する。」という話をしました。

もう一つは「自分中心主義」です。「見える教会」と「目に見えない教会」のどちらもがあるにも関わらず、自分の心にあることが全てとなり、外側の目に見える教会組織をすべて否定する傾向です。これは超教派の聖書研究の集会に出て、既存の教会から離れるという問題に如実に表れています。また、インターネットで聖書メッセージを聞いてそれで自分は教会をしていると錯覚していることです。家の中で夫婦や家族だけで礼拝を守っている、あるいは牧者や長老など、賜物がキリストから与えられた指導者なしで行なっている、という場合もあります。

また「教会成長主義」です。兄弟を愛し、仕えることのない、つまり具体的な教会活動のない信仰は実体がないわけなのですが、今日の教会が米国式マーケティングの手法のような「数や規模による拡大」の考えが入り込んでいること。表向きの伝道や教会成長は強調しても、集っている兄弟姉妹が実際に互いに仕えて、互いに祈りあう弟子化がないがしろにされていることを指摘しました。新しく信じた人には幼子を育てる親のようにじっくり時間をかけるべきこと、そして弟子作りは建物の土台を敷くようなもので、目立たない地味な作業であるが、最も大切な働きであることを話しました。

・・・こんな感じで、奥の深い交わりも神様の恵みで守られています。ぜひ、恵比寿バイブルスタディにもいらしてください!次回は、再来週の2月8日です。

今一番、世界が見ないもの その2

その1からの続き)

③ 暗闇の中にある光を伝える

私たちの主イエス・キリストは、むごたらしい死を遂げられた後、よみがえられました。暗闇の中に光を投じられました。この復活の命は、世の終わりに至るまで続きます。世は確かに悪くなっていく一方です。けれども同時に、その暗闇の中で主の御霊の力強い働きが同時進行で、同じ場所で起こっているのです。

それを知るのに良い書物は黙示録です。人々は黙示録は恐ろしいといいます。神の裁きの部分に衝撃を受けて、その他の部分や全体の流れを見失っているからそうなるのです。裁きの前に主は天における情景をはっきりとお見せになりました(4‐5章)。そして、裁きが行なわれている間も、天における讃美と礼拝を書き記しています。そして地上においては、そのような恐ろしい災いがあるにも関わらず、それでも救われる人々(注:教会ではなく、患難中に信仰を持つ聖徒たち)を神が起こしてくださっている姿を見ます。そして最後の呼びかけは、「渇いているものは、ただでいのちの水を飲みなさい」というものです。

ですから、地震による被害で今も苦しんでいるハイチで、驚くべき神の御業を見ることができるのです。(記事

昨日の報道で、エジプトにおける選挙の結果、ムスリム同胞団を始めとするイスラム党が70パーセントを占めたという暗いニュースがある一方で、以下のような報道があるのです。

想像を超えた希望
五千人から一万人のクリスチャンが、タハリール広場で大晦日に集会を開いたそうです。ちなみにリンク先のSAT7は、中東地域とイスラム圏に衛星放送で福音を届けている局であり、今、神が世界で行なわれている御業の最先端を報道していると言って良いでしょう。

確かにコプト教会は迫害を受けています。けれども、カイロ郊外のスラムで始まった「洞窟教会」は、今、このような礼拝賛美を捧げています。

この記事と、次の御言葉を重ね合わせてください。「それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。(イザヤ19:20-22)」

イランも激しい人権弾圧が行なわれています。しかし、リバイバルが爆発的に起こっており、米国からはペルシヤ語による福音宣教放送が行なわれているのです。(Youtubeビデオ)これによって、毎週、イエス様を受け入れると反応している人が1000人もいるとのことです!

この国にも希望の預言があります。「わたしはエラム(イランの古代の国名)にわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。・・主の御告げ。・・しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・(エレミヤ49:38-39)」

これらが、私たちキリスト者が最も注目しなければいけない流れであり、同時に、世界がもっとも注目しない、あるいは報道しない出来事であります。私たちは世から一歩進み出て、この聖霊の流れの深みにまで潜らなければいけません!

④ 感謝と祈りを捧げる

ツイッターで、カルバリーチャペル西東京の牧師、再び山東さんが良いコメントを残しています。

原発や国政に意見を唱えると同じだけ、いやそれ以上、指導者を覚えて祈ることが求められている。そせて、神がそのことも支配し、運んでいる視野を忘れてはならない。1テモテ2:1から思う。
https://twitter.com/#!/Santou/status/160507559193739267

金曜の夜、健康ランドで教会の男性会を持ちましたが、そこで話題に上がったのが「日本には感謝が足りない。」ということでした、現代日本人は問題を指摘することには長けていますが、感謝すること、そして執り成しの祈りをすることには非常に後進的であります。モンスターペアレントのようになっています。

もしかしたら、教会の指導者に対してもモンスター信徒になってはいませんか?(参照:昨日説教「神の家の中にある反逆」(原稿 ・ 音声

けれども、そうした総国民モンスター化の状況で、感謝をささげ、執り成しの祈りをささげるところに、エジプトやイラン等にあるように、暗闇に光を投ずる神の驚くべき働きの一歩になると信じます。今日も、今週も聖霊に満たされましょう。主の愛に満たされて、少しでも周りの人々にイエス様のことを知っていただきましょう!

チャック・スミス - 恵みの回顧録

昨日は、とても恵まれた礼拝になりました。久しぶりにLCFの仲間を会うことができ、家族のところに戻ってきた気分です。

ところで、Facebookでいくつか分かち合ったことをブログにも分かち合いたいと思っていることが沢山あるのですが、今、見終わったビデオを紹介します。

A Lifetime of Impact: Greg Laurie interview with Chuck Smith

チャック・スミス牧師は、1月1日の礼拝で自分が肺がんがかかったことを発表しました。私たちは年始に宣教会義に参加していますが、確か二年前は脳卒中で倒れ、去年は何かの摘出手術で入院をされていたのを覚えています。けれども今回は、死の時期が近づいていることを感じ取るものでした。けれどもチャックは、1月7日の宣教者の日に出席、8日の朝の礼拝、夕拝ともにきちんと説教しました。

上のリンク先のビデオは、その後、木曜日(1月5日)が、チャック自身の弟子であり、また世界的に用いられている伝道者でもあるグレッグ・ローリーが彼の生涯に注目してインタビューをしたものです。チャックの人なりを細かく見ることができます。

私が驚いたのは、このインタビュー自体が追悼式のようになっていることです。死んでしまってからでは質問できませんから、生きているうちにその生涯を回顧してもらいましょう、という意図が見えます。そのことができるのも、チャックがグレッグの「死への恐怖はありませんか」という質問に対して、「全然ありません」と答えているところに表れています。全き平安があるからこそ、生前の追悼が出来ていると言ってもいいです。

ところで、彼の生涯についてはチャックの長男である、チャックJr.が次の本を書き記しています。

Chuck Simith – A Memoir of Grace
(チャック・スミス - 恵みの回顧録)

上のAmazon.comの書評の一つに、「本書は、一貫している共通の主題があります。全ての事は何か他の事の為の準備なのだ、ということです(This book had a common theme running through it–that everything is preparation for something else.)」と書いてありました。彼の教えだけでなく、その生涯に神の恵みが織り込まれています。

そしてすばらしいのは今現在も、神が彼に与えられたその働きが継続し、世界中で現れているということです。信仰によって前に進み出て、聖霊の導きに従順になり、御言葉を教え続けることについての証しを、先日の宣教会議でたくさん聞きました。主は、ご自分の言葉でご自分の働きをなされることを最も尊ばれます。

日本語による彼の生涯の紹介は、プリズム社による「収穫の時代」です。そして拙文「チャック・スミスについて」もあります。

米国旅行の報告(1月2‐10日)

今、アメリカから報告しています。ほぼ全てのイベントが終わり、明日の午後発で帰国します。充実した日々でした。

まず初めに、カリフォルニアのMurrietaにおける宣教会議に参加しました。今年から一日さらに延びて、月曜日から金曜日までありました。各セッションの合間の自由時間が多くて、ゆっくりと過ごせました。交わりでいろいろな人と、鎌倉カルバリーのジャックさんを始め、日本の人たちとも交わりができて、良かったです。さらに、時差ぼけも手伝って、一番目が冴えていたのは早朝祈祷会でした!祈りあって、あっという間に一時間半が経っていき、非常に恵まれました。

セッションの聖書メッセージも非常に御言葉の真理による深い慰めを得ました。賛美によっても慰めを受け、本当に地上においても聖霊の喜びの御国を味わいました。

セッションの中で特にすばらしかったのは、メインスピーカーのパム・マーキーさんとブライアン・マクダニエルさんです。パムさんは、幼い時をアフリカへの宣教師の両親に育てられ、夫ジョージさんと結婚後、8人(後に9人)の子を連れて、初めはウクライナで教会開拓、そしてカザフスタンで開拓をしました。ジョージさんが突然死で、家族を母親として養い育てる中で、また夫を失った中で与えられている神の愛を証しされました。

ブライアン・マクダニエルさんは、ぜひここに証しの要約を記したいと思いますが、普通の、平凡で熱心な伝道者なのですが、なんとハイチに聖書訓練センターを主が彼を用いて設立できた、聖霊に導かれることの偉大な奇跡を証ししてくださいました。その中で、大統領の片腕の側近が信仰を持っています!ハイチを変えた男と言っても過言ではありません。私はこの兄弟から、「御霊に服従するというへりくだりと弱さの中に、神の恵みが力強く働き、国そのものを動かす」という流れを感じ取ることができました。


(メッセージの後の祈りと賛美の様子。祈っているのがブライアンさん)

そして週末はコスタメサで過ごしました。去年お世話になったホスト・ファミリーに再びお世話になり、濃密な交わりのときを持ちました。そこの大学一年生のサム君がいわゆる「軍事オタク」で、本物のライフル銃とピストルを見せてもらいました。日本では、本物の「ラスト・サムライ」木村さんが武士道を語ってくださったように、アメリカ版の木村さんがこちらにもいます!

そして土曜日(7日)に、「宣教者の日」つまり、カルバリーチャペル・コスタメサの教会の人々が宣教師たちに会える日がありました。久しぶりに会えた人々、そして日本に熱い思いを持っている人々に会えました。


(写真は2000年に日本で子供伝道の奉仕に来てくれたテビー、11年来の再会です)

日曜日(8日)は、コスタメサで第一礼拝に出た後、アナハイムにある、私たちの長年の友人でもあるステーブンズ・オウ牧師のカルバリーチャペル・グレイスに行きました。そこの第一礼拝で英語で説教、そして第二礼拝では韓国語で説教しました。(後者の準備とても大変でしたが、ちゃんと意思疎通はできたようで安心しています。)救援活動の証しも交えて、生まれつきの盲人を直されたイエス様の情熱について語りました。

それから、夕方にコスタメサの教会で行なわれている宣教者のための祈り会に参加しました。ここがまさに、宣教の働きの発電所です。私が彼らのために出した祈りの要請は、ことごとく聞かれていきました。その感謝の思いをみなさんに分かち合いました。

そして夕拝です。牧者チャックが朝も夕も礼拝で御言葉を取り次いでくださいました。実は1月1日の日曜礼拝で、肺がんになったということを明かしていたので、心配していました。けれども予断は全然許さない状態です、ぜひ彼の体と家族のためにお祈りください。久しぶりに聞けた、彼を通しての神の御言葉が心に沁みました。

そして月・火(9‐10日)は、在米の日本人の方々に聖書セミナーを行ないました。ダニエル書1-7章から、主題は「終末に生きる主の証人」です。聖霊の励ましを大いに受けて、兄弟姉妹が大変喜んでいました。

メッセージは「ダニエル書」のところにあります。

月曜の晩には、10年近く続いている恒例の「長谷川さん夫婦、ジム&ジャン、明石夫婦」のディナー会を持ちました。同じ教会奉仕者、そして同じスクール・オブ・ミニストリーの仲間で、いつも本当に心温まる、励ましの交わりになっています。

私が不在の間、ジェレマイヤご家族がいらしたことの報告を、LCFの仲間とジェレマイヤさん本人から聞きました。ものすごく濃密な交わりと祈りの時間を持ったようで、本当に僕はこの教会が好きになりました!

明日、戻ります。どうか、無事に次週の礼拝の備えができるようお祈りください。

クリスマスの報告

昨日は、とってもすばらしいクリスマスの一時を過ごすことができました。土曜日にはいつもの聖書の学び会をして、それから祈り会をして、7月に信仰をもった唯さんが初めて祈ったりと、とっても祝福された時を過ごしました。

25日当日は、2時から礼拝、5時からディナーとパーティーを行ないました。礼拝前に、私たちが約10年前、小学校の子供たちに英語と聖書を教えていた、その教え子が来てくれました。なんと今はもう大学一年生です!あと、来られなかったけれども、メールで連絡をくれた子(今、高校二年生!)もいて、本当に嬉しくなりました。

礼拝は、私は伝統的な讃美歌と、クリスマスに関する聖書の箇所の朗読を交互に行う形を取りました。それからルカ2章1-20節から説教しましたが、私自身、「謙りの中に、王をも打ち倒す神の力があるのだ」という確信を深めることができました。

9月から直人さんという兄弟が教会の一員になりましたが、彼の知り合いの知り合いが何と足立区綾瀬に住んでいて、その女の子が来てくれました。香港からの語学留学生です。ディナーの時まで楽しく過ごすことができました。

そして、メンバーの一人ひとりがしっかりとディナーの為の準備をしてくださり、本当に主への感謝に満たされています。ディナーの後には、ビンゴゲーム&プレゼント交換、そして聖書クイズ&罰ゲームの「変顔」、最後に習字をチームで一角ずつ書くという習字ゲームをしました。聖書クイズは、メンバーが最低一問出題したのですが、なんとオタク的な質問なのか、と私が言ったら、「だって、あなたが聖書オタクだから、そうなったんじゃない。」という私の妻の発言で、みなが大笑いしていました。

罰ゲーム「変顔」は、メンバーの沙耶花さんの発案で、指示されたとおりの状況を顔や体で表し、それからいっしょに写真を撮る、というものです。そしてメンバーが変装用の道具も買ってきたので、変装した私たちの写真も撮りました!(私のデジタルカメラが故障していて、白飛びになっているのが残念です。)

ところで話はずれるのですが、今、牧者チャック・スミス著の”LOVE“という本を翻訳、校正しています。いつか出版できるよう、今、熱心に祈っていますが、その中に御霊の愛の現れとしての「親切」の説明で、こうあります。

アガペの愛は親切です。配慮があります。他の人の必要を感じとります。そしてその必要を満たそうと本当に配慮します。

LCFは、祈りによって、互いに配慮して、互いの必要に敏感になって、仕え合っている姿、そしてもう一つの聖霊の愛の現れである「喜び」もある交わりです。

本日、女性会(?)の三人が木村さん宅に訪問、お母さんが着付けの専門家なので、ばっちり写真を撮ってきました。とっても綺麗です!

プロテスタントとカトリックはどう違うの?

再び、未信者・求道者向けの記事を「イエス様を知らない方へ」に掲載しました。

プロテスタントとカトリックはどう違うの?

そこにも書きましたが、普通に教会に通っている人でさえちゃんと答えられないのに、信仰を持っていない人たちのほうがかえって質問します。私もどう書けばよいか苦しみました。

あと、更新情報は、ここのブログだけでなく「更新履歴」には記していますので、頻繁にご利用されていることはそちらにも立ち寄ってください。

(注記)
以下は、クリスチャン向けに書かれたミサについての聖書的検証の記事です。

カトリックの教え 「ミサ」

カトリックの教義は、あくまでも秘跡と呼ばれる儀式を通した救いを教えているので、聖書にあるキリストにある救いの完全性を壊しています。私たちも罪意識を感じる時に「罪を赦していただくために礼拝に行く」と考えてしまいますが、間違えやすい点です。レビ記16章の説教もぜひご参照ください(原稿音声)。

また、プロテスタントとカトリックを一致させようとする運動(エキュメニカル)というものがありますが、それに警鐘を鳴らしている本があります。

プロテスタントとカトリックの団結ですか?

上の記事を書かれたモリエル・ミニストリー日本の森さんは、伝道をするならば真理を知らなければそこに力がない、ということをおっしゃっていました。そのとおりで、力は福音の真理の中に有ります。愛をもって真理を語ることが私たちの使命です。