2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第一・第二日目

8月14-16日に、静岡県富士山麓山の村で、無事にMBF(Maranatha Bible Fellowship)を終えることができました。この集まりは、10年以上も前に、当時イエス福音教団であった静岡県にある教会の方々が主催して、かつ他の教会の人々とも交わりをする集まりとして出発しました。とても穏やかで、ゆったりとした、そして笑いの耐えない交わりが魅力で、私も何度も行かせていただいています。

そしてその名称のように、「主が来られる」ことを思いながら、聖書を中心にした交わりということで、聖書の学びもしっかり行います。今回は、改めて「携挙」の希望を学ぶ趣旨で、わたくしと、マラナサ・グレイス・フェローシップの菊地さんが講師として話させていただきました。

まずご紹介したいのは、富士市のシオンチャペルの牧者、望月さんと奥様が演奏してくださいました。

讃美一曲目

二曲目はこちら

三曲目はこちら 

そして私が、「携挙」をテーマにして、テサロニケ人への手紙から二回に渡って御言葉を取り扱わせていただきました。

テサロニケ人への手紙第一 「携挙の慰め」

テサロニケ人への手紙第二 「携挙の救い」

メッセージの前に私の席から撮った皆さん

食事の準備

野外散策

2011年マラナサ・バイブル・フェローシップ 第二・第三日目へ

ハーベスト・クルセード @ アナハイム(8月12-14日)

いつも8月になるとやってくるハーベスト・クルセード・・・

今年は少し特別です。去年、ハーベスト・クルセードに参加したある日本人の女性が、今、私たちの教会に来ています。正月に渡米した時に、カリフォルニアにいる知人の日系の方が「姪が東京に住んでいるから、教会を始めるんなら誘ってください。」と頼まれました。すると、昨年末に信仰告白をしたお二人のために始めた学びに来てくださり、それからずっと来てくださっています!

明日、渡米します。そして再びこの伝道集会に参加できることを楽しみにしているとのこと。

Harvest Crusade Anaheim 2011

私たちもインターネットで実況中継を見ることができます。終わった後も、録画されているものが残っていますから安心です。カリフォルニアは今サマータイムなので日本時間に直すと・・・

第一回目: 8月13日午前11時から
第二回目: 8月14日午前11時から
第三回目: 8月15日午前10時から

となります。通訳を見ると、残念ながら日本語はありませんが、私の友人の夫婦(カルバリーチャペル・コスタメサの奉仕者)が、数日前、右の写真を送ってきてくれました。「この日本語の意味は確かに”Harvest”で良いのか?」と確認のメールだったのですが、「そのとおり!」と答えました。

地震・津波・原発事故があったからなのでしょうか、日本人への愛を伝えたいという気持ちから作成したTシャツのようです。今年も魂の収穫を多く見ることのできる集会となりますように!

改めて「戦争」を考える その2

改めて『戦争』を考える その1」の続きです。

それでは、戦争をなくし、平和を希求するためにはどうすればよいのでしょうか?

1)「戦争」は、一人一人の心の中にある

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4:1-2)

国と国との戦いを論じる前に、自分の身の周りで不和の関係になっている人はいないか?私たちの個人生活で、また自分の属している組織の中にさえ平和が存在しないのに、ましてや一・二億人の人間を抱える国家間に、争いをなくすべきだと言ってどうすんでしょうか?まず、根っこにあるのは一人一人の「心の中にある貪りや欲望」なのです。

そして人間関係以前に、「神との関係」はどうなっているのか?自分をこの地上に誕生させてくださったのは神であり、今に至るまで生かしてくださっているのも神であります。この神に背を向けていれば、それは完全な不和状態です。神は、その反抗のゆえに裁かなければいけません。

そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:3-5)

2)キリストが罪を取り除き「平和」となってくださった

キリストがその敵意を代わりに十字架上で負ってくださいました。ゆえに、罪は取り除かれました。国の戦争行為がなくなることが平和ではなく、「キリスト」=「平和」なのです!

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:15)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)

3)平和の君キリストを受け入れるよう招くことこそが、「平和を造る者」である。

イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」と言われました。それは、使徒パウロが言っているように、「足には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6:15)」というものです。

私も信仰を持つ前は、ヨーロッパにおけるキリスト教に絡んだ戦争の歴史を聞き、またアジア諸国にも帝国主義と共にキリスト教が伝播したのを知るにつけ、戦争についての疑問を持っていました。けれども私が聞かされていなかったのは、例えば中国内陸に入り、現地人と同じように辮髪にして福音を伝えたハドソン・テーラーの話
など、数多くの宣教師の個人犠牲の歴史です。

ですから、私はイラク戦争にしても、その戦争の是非は問いたくありませんでした。それは、それが私たちキリスト者の中心点ではないと思っているからです。むしろ、そのイラクに福音を携えて入っていった宣教師たちに注目しています。これは、はっきりした神の御心だからです。

4)キリストのうちにあるからこそ「一つ」になれる

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)

かつて敵同士であった者がキリストを信じて、親愛の仲になったという証しは数知れません。例えば、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄氏と、日本軍の捕虜となり拷問を受けたジェイコブ・デシーザー氏の出会い、元パレスチナテロリストと、元モサド工作員のユダヤ人がそれぞれキリストに回心し、親愛の仲になることなど、キリストが平和の源であるからこそ、この方を主とする者たちの間には、私たちの理解を超えた深い平和で結ばれるのです!

5)「平和」は、「自分に関するところ」から

国家の戦争をどのように平和裏に解決するのか、ということを考える時があっても良いでしょう。けれども、キリスト者は自分の身の周りで平和を保つように命じられています。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

そして国に対しては、「服従」と「執り成し」そして「感謝」によって平和をもたらします。

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(1ペテロ2:13-17)

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(1テモテ2:1-3)

6)「主よ、来りませ!」

そして、この世界全体に平和が来ることを求めるのであれば、それはまさに神が望まれていることです!神は初めに、アダムを造られた時にその平和な楽園を与えられました。けれどもアダムが罪を犯したために、この世界がサタンの傘下に入ってしまい、それで国家間にも不和が生じるのです。

キリストは、初めに来られた時に、私たちにある争いの心を取り除くために来られました。それから次に、この世界をご自分のものし、世界の争いを終結されます。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。(1コリント15:23-25)

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2:4)

したがって、世界平和を願うのであれば、世界の王であり、平和の主権者であられるイエス・キリストの到来を、熱烈に慕い求めることです!

主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、マラナ・タ(来てください) (1コリント16:22)

改めて「戦争」を考える その1

ちょっと重い内容です。けれども昨日は長崎原爆投下記念日、そして、間もなく終戦記念日なので、取り上げてみたいと思います。そして、戦争は信仰を持っていない人がキリスト教に対する疑問として、また信仰を持ってからもその整理をどうすればよいのか分からない、という方が多いかと思いますので、取り上げてみたいと思います。

昨日私は、ある福音派の教会の牧師さんのブログにコメントを入れました。元文は下のリンクに行ってください、ここでは私のコメントのみを転載します。

いま、改めて「聖戦論」を問う

私のコメント

K先生の旧約聖書における、イスラエルの戦争の説明は、私もすべてその通りだと私も強く思います。そして黙示録についての説明は、一点だけ同意できないのは(といっても小さい部分においてですが)、「象徴」と言っても、やはり実体を伴っているからこその表現だ、という点です。ノアの時代の洪水の時の裁きが文字通り物理的な「水」であったように、使徒ペテロは次の裁きは「火」によるものであると言っています(2ペテロ3:6-7)。

それが核ミサイルだ、ということではありません。けれども、その可能性はないとも断言できません。むしろ、核ミサイルを人類が製造したというところに、私は主イエスの再来というキリスト者が抱かなければいけない「目を覚ましなさい」、つまり、キリスト者として慎み深く生きていく、という終末的時代性があると思います(1ペテロ4:7-8)。これを、神からの警告的徴候と受け取るのは、私は充分に霊的に有益であると思います。

それから、アメリカの保守派のクリスチャンについてですが、K先生は、普段からどれだけ実際の人々に触れているでしょうか?私は自分の属しているグループがそうなので、四六時中付き合っているのですが、それゆえに、簡単に「アメリカ人の保守派のクリスチャン」と括られてしまうと、私の心は多少なりとも痛みます。

インターネットの記事や、あるいは政治的論議になれば、それこそ自分自身の意見を表明するかもしれませんが、核武装を聖書で是認するような議論はこれまで20年近く付き合ってきた仲間の間ではほぼ皆無でした。たとえ政治的また軍事的に個人的見解としてそれを是認したとしても、(しかも是認したとしても消極的です)、それはあくまでも個人的見解であり、聖書的見解や信仰的信条として取り上げる人はごくまれです。

ましてや、イスラムのジハード論にある「積極的に核を用いることによって、メシヤの到来を早める」という考えは、強烈に反対する保守的キリスト者のほうが圧倒的に多いでしょう。たとえキリストの名を使っても、コーランを破る牧師が出てきたり、中絶する医師を殺したりする出来事が起こるたびに、激しい嫌悪感を示しています。

したがって私は、簡単に「アメリカ人の福音派クリスチャンは」と括ってしまうことに、私は反対に、日本の福音派の人々の間で、彼らに対する偏見が生まれているのではないかと危惧しています。特に指導者が発する言葉は大きな影響を及ぼします。

普段の彼らは、主イエス・キリストのすばらしさ、罪の力から自分を解放してくださった生ける神を強く信じて、その喜びであふれている姿で満ちています。政治や社会現象に対する見解は横に追いやられています。キリストの弟子たちの間には、ローマの犬であった取税人もいたし、ローマ打倒の武闘派であった熱心党員もいました。この一致を、私は国や民族や、政治的意見を超えて存在しているところに、キリストの福音の醍醐味があるのではないかと思っています。

そして、聖戦論を掲げるのが間違っているのと同じように(私も上に申しあげたとおり、K先生の聖書理解に95パーセント以上同意しています)、絶対的平和論を聖書からどこまで導き出すことができるでしょうか?(今、K先生がそのような意見の持ち主だ、ということではなく)私が申し上げたいのは、「私たちには、すべてを知り尽くすことはできない。」ということです。勧善懲悪は、聖戦論のみならず平和論にも同じように存在します。

戦争については、私の聖書理解では「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としては述べていますが、それを起こしてはならないという「べき」論としては述べられていない、というものです。主イエスは、戦争反対運動を起こされなかったし、ローマの兵士への信仰をほめましした。あらゆる人々にご自身の姿に触れてもらうべく、全ての人々に仕えておられました。むしろ、そのような分派、意見の対立とは無関係のところで、けれども、その間に振り回されながら(イエスご自身も、使徒たちも、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党などの思惑の中で翻弄されました)、イエス・キリストの福音を伝え、また示したと思います。

それは聖書理解のみならず、私の実体験でもあります。いろいろな国に行って、住んで、やはり、「戦力はいけない」という考えは日本固有のものです。むしろ、軍隊と隣り合わせで生きており、それは生活の一部になっており、それを反対するという発想も起こっていません。(だからといって、それが正しいという判断も下していません。)

お隣の韓国は、男性がみな徴兵です。弾丸を込めるし、実射訓練も受けます。そして老年の方々は、朝鮮戦争を生き抜きました。その彼らに、「共産主義」と「自由」を同列に並べるようなことを話すものなら、顔を赤らめて怒られるだけでしょう。どれほど恐ろしい目に遭ったか、その実体験を持っているからです。

イラク戦争の性悪論も日本の福音派界でも盛んですが、戦争前の状態のほうが戦争による抑圧よりもひどかったことを、フセイン大統領の側近の一人であった福音派信者のジョージス・サダが述べています。

私は「イラク戦争」が正しかったと述べているのではありません。そうではなく、アメリカに存在する「聖戦論」また正戦論に焦点を合わせるうちに、実際に自国が戦場になった人々の声が聞けなくなってしまっているのではないか?という危惧です。

以上のことを申し上げましたが、それでも、日本国のみが戦争行為の中での被爆の体験をしています。そして、平和憲法も与えられています。その日本という国にいるからこそ発信できる、キリスト者から見た戦争というのもあります。こうした「自分を神はこの国に生まれさせてくださり、この国に生きているからこそ、発信できるものがあるのだ。」という慎み深さや謙虚さを持っているのであれば、実に有意義なことだと思います。そうすれば、日本国の慎ましい希望もあります。けれども、それをすべての戦争行為の事象に恣意的に当てはめるところに無理があるのでは・・・と思わざるを得ません。

私は広島に行ったことはありませんが、長崎には行った事があります。その本島市長はかつて広島に対して「広島よ、おごるなかれ」という題名の論文を出しました。

また被爆したカトリック信者永井隆は、敵であるアメリカに対して、徹底して「愛して、愛して、赦し抜け!」と攻撃的なまでに、赦しを説いています。

お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。  (「平和塔」より)
敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界には敵はない。敵がなければ戦争も起こらない。
http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html

カトリック信仰に支えられた発言ではありますが、それでも私は、こちらのほうに日本の希望、キリストにある希望に近いものを感じます。

そして、国家と宗教の分離についてですが、私の知っているアメリカ人保守派クリスチャンは、K先生のご意見とまったく同じです。「キリスト教が政府公認の宗教になることに対しても、私は断固たる反対を表明します。」まさに、英国から逃げてきたのがその自由を得るためであり、その伝統を守りたいと願っているのが、アメリカ保守キリスト教の流れです。

私たちが辿ってきた国家神道の歴史については、完全に同意します。けれども、その目線でアメリカという国を見てしまえば、とまどうばかりです。米国にはこのキリスト教の流れがあると同時に、リベラリズムの流れがあります。これは自由主義というよりも、キリスト教への対抗、反キリスト教の色彩が強いです。

多くの欧州・北米からの宣教師は、「日本は自由があっていい。」と言います。例えば、カナダではラジオにてキリスト教の番組は禁止されています。なぜなら、「同性愛は罪である」という信条が、政治的公正から外れるからです!ですから米国には「文化戦争」というのが繰り広げられているのであって、唯一、ユダヤ・キリスト教の価値観を保持しているのが福音派の人々です。彼らが力を失えば、そうした反キリスト教的な制度や法律が次々とできてしまうのであり、それこそ、日本の国家神道によるキリスト者が受けた抑圧を彼らが受けてしまいます。

こうした全体的背景を見なければ、それこそ「公正」という神のご性質から外れてしまうのではないでしょうか?

以前にも、「オサマ・ビン・ラディンの殺害」について米国人が喜ぶ姿を批判されていましたが、在米日系のクリスチャンで、日頃はアメリカの好戦的な姿、自由を標榜する姿に非常に批判的な方でも、「意外に私の周りでは冷静であり、意見が二手に分かれた。そして遺族のことを思えば、やみくもに喜んでしまう姿を批判することはできない。」と吐露しておられました。

以上です、文章が長くなり失礼しました。

(コメントはここまで)

この牧師さんは、私はあることでとてもお世話になっている方であり、信仰においても実践においても優れている評判を聞いています。他にも日本の福音派の牧師さんには、すばらしい方がたくさんおられる、ということをここで申し上げたいと思います。ですから、私がここで取り上げた異論は、決して個人や福音派の教会を引き落としたいのではない、ということを付け加えさせてください。

先のコメントに書き損じた部分がありますが、大きな疑問点は、「では、どうするのですか?」ということです。アメリカの聖戦論がおかしいのは分かった、けれども、では日本にいるキリスト者が何を、どうすればよいのでしょうか?

彼は、「キリストはむしろ平和の使者、愛の使者として来られた」と言われます。まさしくその通りです。でも、それは単に米軍の行っていることをブログにおいて批判することが、平和のキリストを伝えることなのか?米国人クリスチャンの戦争についての考えを批判することなのか?それとも反戦運動を展開するのか?在日米国大使館に陳述書を出すのか?ここの「手段」の辺りが、私はどうしてもわからないのです。

そして、もう一つの大きな疑問点は、米国の軍事行動を批判するキリスト者の行っている「平和」の意味も理解できません。いわゆる戦闘行為のない状態が、聖書の行っている平和なのか?・・・実際に、数多く旧約聖書には武器を持たず平和な状態が続く神の国を描いているが、それは王の王、主の主であられるメシヤが絶対的権力をもって君臨されている、再臨後の話です。それを再臨の主が来られていないのに、恣意的に持ち込もうと試みるのは、それこそ聖戦論を批判している「神がなさること」を「人間の行為」で行っていることではないでしょうか?

そして聖戦論を掲げる人の「罪の定義」を批判しているが、「平和」の意味もはき違えてはいないか?罪とは「人の自己中心性であり高慢」であるとおっしゃっているが、平和は、その罪に対する神の怒りが取り去られた状態、罪が取り除かれ、神との平和を私たち個々人が持っている状態なのではないか?「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)」国の戦闘行為がない状態を言っているのではありません。

私には、どうしてもいわゆる「平和論」も「聖戦論」と同類項に見えてしまうのです。

(「その2」に続く)

礼拝の心構え

来週の日曜日の夜から、水曜日のお昼まで、静岡城北教会の牧師、見城さんが主催する、有志の仲間たちによる「マラナサ・バイブル・フェローシップ」の集会に参加しに行きます。場所は「富士山麓の村」です。テーマはそのまま「再臨」で、私はテサロニケ人への手紙から二回に渡ってお話ししようと思っています。

そして、私たちが初めて南カリフォルニアのカルバリー聖書学校を訪問した時(1994年)、そこにに通われていた学生の一人が菊地一徳さん(Kaz カズ)でした。彼は今回、もう一人のスピーカーとして招かれています。また久しぶりにお会いできるので楽しみです。

彼は長野県で教会をしていて、「マラナサ・グレース・フェローシップ」と言います。そこにある内容は盛りだくさんで、読んでいてとても楽しいです。そこにある教会の紹介のページに、以下の礼拝の心構えについての言葉がありました。辛口ですが、私たちの心にちっくっと来るところがあるのではないでしょうか(私はありました!)。どうしても形式的になりがちな礼拝です。一度読んでみましょう!

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礼拝のようで礼拝にあらざるもの・・・

   日曜日だけクリスチャンになる事。  

   日曜日だけが礼拝日だと考える。

   特に用事がない時の余暇としての礼拝。

   クリスチャンは何処でも、いつ何時でも礼拝できるので、教会にわざわざ足を運ばなくてもよいと言い訳する事。

   親睦目的、ご利益目的等、神をほめたたえる事以外の他目的礼拝。

   礼拝に遅刻しそうになって慌てて苛立つ事。

   教会に着ていく服装のことで口論する事。

   礼拝に向かう車中で喧嘩し、教会に到着すると何もなかったかのように敬虔なフリをする事。

   礼拝に堂々と遅刻して人目をはばからない事。

   教会の椅子を他人の礼拝を観覧する為の客席とする事。

   礼拝厳守しない人を蔑視し、さばく事。

   賛美を説教前の前座、ウォーミングアップ程度だと考える事。

   何も考えずに国歌や校歌のように賛美を習慣的に口ずさむ事。

   カラオケのように賛美を歌い自分の歌声に酔いしれる事。

   自分に引きつけるような賛美のリード、発表会のような賛美演奏。

   人に聞かせる、作文のように読み上げる祈り。

   あたかも神が何も知らないかのように情報を並べ立てる祈り。

   念仏を唱えるような主の祈り。

   長い祈り、美辞麗句のオンパレードが立派な祈りだと考える事。

   退屈な決り文句を繰り返す、実のない無味乾燥な祈り。

   人の祈りの最中、別のことを考える事。

   祈りの課題を他人事として聞き流す事。

   礼拝中、時計をチラチラ見る事。

   礼拝前に遊び疲れて説教中に居眠りする事。

   説教を興味のない講義のように散漫な心で耐え忍ぶ事。

   先週の説教内容を忘れる事。

   説教を聖書によって吟味せず鵜呑みにする事。

   説教をいわゆるお説教として個人攻撃の場とする事。

   説教を寄席の興業、独演会のような小劇場だと考える事。

   説教を仕込みや下ごしらえを要する手の込んだ料理ではなく、レトルトやインスタント食品のように提供する事。

   説教後に説教のポイントを確認するような説教じみた祈りをする事。

   神が貧乏であるかのように献金のアピールをする事。

   献金を搾り取るような礼拝集金プログラム。

   神ではなく、人目を気にしながら献金する事。

   会費のように支払う献金。

   税金のように嫌々渋々支払う献金。

   プレッシャーの伴う献金、プライドの伴う献金。

   献金に見返りを求めるご利益主義。

   献金で牧師を食わしてやっているという思い上がり。

   献金を地域清掃に参加しない出不足金のように考える事。

   当番だから、他にやる人がいないから否応なしに機械的にする奉仕。

   奉仕に気を取られ、奉仕にかまけて礼拝どころではなくなる事。

   主の晩餐よりも今夜の晩餐の方が気になる事。

   キリストの裂かれた体と血を象徴するパンとぶどう液をスーパーの試食の如く軽率に口にする事。

   同じ礼典でも聖餐式を自分の洗礼式の時のように新鮮な気持ちで受けていない事。

   究めつけは、礼拝後が礼拝前よりもキリストの似姿に変えられていない事。

 これら全ては礼拝にあらざるもの。私たちは礼拝中に自分が礼拝していない瞬間を断続的に持つ。これら一つ一つを改めていけば、私たちの礼拝はより一層、神に喜ばれるものとなる。礼拝は自分や人を喜ばせるものではなく、神を喜ばせ、主の栄光を現わすもの。天のまことの教会における礼拝者は全てキリストに似た者とされている。そこで私たちは完全な礼拝をほふられた小羊に永続的に捧げるのだ。MGFは地上で礼拝を捧げながら携挙を待ち望みつつ、天の礼拝を目指す。
(http://www.mgf-jc.com/mgf-churchより)
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東松島救援旅行 8月3日

私たちの初穂

私たちLCFにとって、8月2日に続き、3日はとても重要な日です。LCFは、今年2月に礼拝が始まったばかりのほやほやの教会ですが、12月29日に私たちの家に来てくださった瀬谷さん、そして教会には通っていたものの救いの確信がないと言われる久喜さんが、イエス様を自分の心に救い主として受け入れる祈りを捧げました。そして一月に新井さんが、そしてその他、ロゴス・ミニストリーのサイトを通して来られた、互いに全く新しい間柄で始めました。

その初穂である瀬谷さんが、バプテスマ式を受けられます。教会というものが初めてなので、勇気がいるのではないかと気にしていましたが、「えっ、特に緊張していません。」とのことで、そんな心配もまったく要らないことが分かりました!

そして6月20-22日に月浜海岸の掃除をした時に、「ここでバプテスマ式をするのはどうか?」というアイデアが私の頭に浮かびまして、復旧しつつある被災地で新しい命をお祝いするという、斬新な出来事にあずかることができました。

今回は、私の両親が来てくれました。両親には第一回、第二回の救援旅行で大変お世話になっています。その時に近所の方が、不思議にも両親と同じ教会に通い始め、そして主イエス様を信じたばかりでした。その娘さんも同時に訪問してくださり、私たち(トラビス、リッチ、山東さんを含め)はその父子とも知り合いです。さらに、両親は、福島県相馬市を実家に持つご夫婦も誘ってくれました。このブログ記事にも書きましたが、私たちは三回そこに訪問し、畳出しや泥出しを手伝わせていただきました。

このようにして、続けてキリストの証しを立てる機会を与えてくださった主に感謝しています。

海岸の案内

朝のデボーションの箇所は、続けてエリシャの話で、らい病にかかったナアマン将軍の話でした。彼がヨルダン川に七度水に浸かったら、幼子のような皮膚になったところから、あらゆる誇りを捨てて、主の命令に従うなら、幼子のようになる新しい心が与えられることを分かち合いました。

この話をしているうちに、仙台から両親のグループが来てしまいました。少し待たせてしまいましたが、瀬谷さんと私で月浜海岸の紹介をし、それから月浜地区で全壊した家々をお見せしました。海水の温度が気になっていましたが、最初はひんやりするものの、十分に入ることができる程度でした。雨も降らず、だからといってかんかん照りにならず曇りで、昨日の祭りもそうでしたが主に天候のことも感謝しました。

バプテスマ式

そうこうしているうちに、松島のホテル大松荘に宿泊しているチームが到着し始めました。私は、アメリカからのチームに、市が重機で解体した木村さん宅の跡地を見せながら、主がしてくださったことの経過をお話ししました。

私は、讃美は見城さん、そしてバプテスマ式は山東さんにお手伝いをお願いしていました。セットアップも終わり、開始です。この後は、下の二つのビデオをお楽しみください。

讃美と祈り

御言葉とバプテスマ

マルコ3章31-35節から、バプテスマとは、キリストの十字架と復活にあずかる者になったことだけでなく、肉の家族から神の家族に入ったことを分かち合いました。そしてなぜ、ハワイからわざわざこの地に来て救援活動をしているのかというと、神の家族になったことの証しだから、ということを話しました。

そしてビデオでご覧になれば分かりますが、瀬谷さんが本当に喜んでいる姿を見ることができますが、彼女から後で聞くと、水から上がった瞬間に、バプテスマの大きな意味を初めて知ったとおっしゃっていました。水から上がると、砂浜には数多くの兄弟姉妹が祝福しています。自分がまさに、神の家族の中に招き入れられた祝福を感じ取られたそうです!

そして、砂浜のところでしばらく互いの交わりの時間を持ちました。昨日は奉仕で忙しかったけれども、余裕をもって交わりができたのではないかと思います。

そして、トラビスたちはおそらくその後、石巻に行き、初めて来た人たちにその被災地を見せて回ったのだと思います。私たちは、車の運転の安全のために、日が暮れる前に東京に到着したいと思っていたので、すぐに帰りました。事故もなく無事、昨日、7時頃到着できました。

全てのことを主に栄光をおかえしします!

なぜ神が見えないか

私は、Twitterというものがまだよく分かりません。一言一言の序列があるだけに見えてしまうのですが、最近、NHKニュース等をフォローしています。けれども、クリスチャンの間では結構いろいろ知られている人が、カルバリーチャペル西東京の牧師、山東さんです。この前の月曜日に東松島に日帰り旅行をしたのですが、車中で隣の座席になり、ツイッターの威力みたいなものを教わりました。

それで、いろいろ努力をしてはいるのですが、彼のツイートをフォローしている時、昨日でしょうか変な突っ込みがありました。

山東さんの発言

放射能問題も、原発問題も、根本的にはお金と自己保全に群がる罪の問題。 ・・・東北の本当の救援もこの罪からの救い。まったくむつかしくないよ。罪から救うために人として来たイエスを知れば。宗教に救いはない。イエスとの出会いが鍵!

上に対する返信

神を信じれば死んでも死なない永遠の命を与えられるので、放射能なんて気にする必要なくなって万々歳……と言えるでしょうか? まったく異なる次元のことを同一地平で語ると、なんだかそれ自体が馬鹿馬鹿しく思えてしまいます。

私は、「何を勘違いしているんだろうか?」と思いました。案の定、山東さんも「全然違う」と言っていろいろ説明しましたが、ますますぼろくそに言ってきました。

私たちにとっての東北救援旅行には、「次の一歩への強い祈り」があります。それは、現地の人々がまことの救い、天地万物を造られた神に、キリストを通して立ち返ることです。原発の問題の背後にある人間の罪の問題、そして全人類の、東北の被災者も含めて存在している罪の問題は、全く同じ罪の問題であり、イエス様を知ると言うことでは至極簡単なことだ、という話です。

「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ローマ3:19)」

その相手は聖書についてのツイッターを持っています。そして自己紹介には「ノンクリ」と書いています。実に聖書のことについて詳しく知っているのですが、私たちの日本語の文章の全体を読まず、その一部一部をちぎりながら、ことごとく歪曲して批評するのです。こんなに聖書の知識があるのに、たった一文字の聖書の言葉も理解できないなんて、・・・可哀そうになってきます。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)」

山東さんが、おそらくこのことを振り返りながら、ツイッターに長い文章を書き込まれました。

なぜ神が見えないか

なぜ、ある人たちがいくら聖書の福音を聞いてもわからないか一つの原因はここにあります。それは『日本教』にです。日本で生まれた私達は知らず知らずの内に『日本教』が刷り込まれて、神はいないんですよ。でもいる事にしましょう。それによって心や生活が変わるならおるわけで、って、それはいないんですよ。

だから本当に聖書のことを知りたければ、まず聖書の言う通り『天と地を造った神が実際におる』という所からスタートすることが不可欠です。
でも、神が今直面してる経済問題、放射能汚染、大学受験に何かしてくれんですか? 
ま、こころの持ちようというのも大きいでしょうがって・・・。

 違うんです。
聖書のいう神は実際の私達の生活にもろ関わり、介入してくれるのを知らない、体験したことのない人の話で聖書を聞くから、目が閉ざされてるんですよ。

ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には
報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ですね。

いない者をいることにしてなら、まるでサンタクロースといっしょでしょ?

単なるプラシーボ効果ですよ。

聖書の神は実際にいる、ここからスタートしないと見えません。
聖書の神はあなたを愛し、あなたの今日の生活に介入してくださる
これを信じて、単なる気のもちようを遥かに超えた、神を体験してない人が色々なわけのわからない神学で、聖書を語るのですよ。

それも責めません。だって彼らは知らないのですから。
では、知った私達は、洗脳された思い込みの人々ですか?

思い込みでローマ帝国がひっくり返ったり、
思い込みで1948年に1900年間地上から消えていたイスラエルが
復活しますか。

思い込みで、クリスチャンが存在しますか。
(もちろん、多くの宗教レベルの “クリスチャン”の存在も認めますが、
実際に聖霊が下って内に住むという 新生クリスチャンが存在します。)

聖書の神は実際にいる、ここからスタートです。
この神はあなたのことを心より愛しています。
ここからスタートです。

実に愛のある文章ですね。その人はクリスチャンの仲間をかき乱す、狼になりえる人ですが同時に求道者です。忍耐が試されます!

I didn’t come to take sides; I came to take over.

上の題名の日本語訳は、「わたしはどちら側に付くために来たのではない。乗っ取るために来たのだ。」です。

この言葉は、「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏によるものです。ユダヤ人共同体の中でもイエスを信じる人が多く起こされ、またパレスチナ人の中でもたくさんイエス様を信じている人が起こされています。神がユダヤ人側に付くか、パレスチナ側に付くかではなく、どちら側に対してもその心を支配するために来られた、ということです。(その発言のビデオがこちらにあります。)

皆さんの中で、こういう経験はないでしょうか?自分にとって親しい人が、これまた自分にとって親しい人のことを批判している・・・。友人であれば、だれかから批判や非難を受けた時、その人を擁護するために立ち上がります。けれども、どちらも親しい人である時にはどうすればよいか迷います。

そして、それぞれの意見には一理あります。けれども、その判断はすべての事実に基づいておらず、一部だけを取り上げて話していることも分かります。意見そのものには同意できても、それが事実に基づかない判断から派生しているのも知っています。

その時に思い出すのが、上のユーセフ氏の言葉です。解決は、意見の擦り合わせや仲介も役立ちますが、それ以上に「主がどちら側も働きかけ、その心を乗っ取られる」ことによるものだと感じます。

ピリピ人への手紙にあるパウロの言葉の多くが、私には深く響いてきます。

1)パウロは感謝し、喜んでいた。

パウロがこの手紙を書いた時は、ローマの獄中にいました。けれども、この手紙には「喜び」が満ちています。彼は「獄中にいる」という否定的な要素を、親衛隊を始めとする周囲の人々が信仰を持つことになったという神の働きとして見ています。

しかも、彼が投獄されたことにより、福音を語り始める兄弟たちが一挙に増えました。中には、「党派心をもって、キリストを宣べ伝えている」という、相手を蹴落とすことによって自分の働きを広げようという、陰険な動きもあったにも関わらず、彼は、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。(1:18)」と言いました。

彼は、このように喜べる要素を知っていました。それは、「主にあって喜ぶ」ということ(4:4)。そして、「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8)」と言いました。主がすべての事柄において、たとえそれが否定的な要素であっても、生きて働いておられることを知って、そこから見えてくる真実、誉れ、正しさ、清さ、愛、評判、徳などに目を留める、ということです。

そのことができると、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。(4:5)」となることができます。どちら側に付くという狭い心ではなく、すべての人に心を広くすることができるのです。

2)自分をちりあくただと思う

パウロは感謝し、喜んでいられるもう一つの理由として、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。(3:8)」と言っています。詩篇103篇14節にも、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」とあります。

私たちがある人に対していらだたしく感じ、怒り、恨む時のきっかけは、「この人は私に対して、これこれ、こんなことをした。」という被害意識です。けれども、そもそも「私」は何者なのでしょうか?塵しか過ぎないと聖書は言っています。これらのことは、主の許しの中で、いや主ご自身が引き起こされた問題であり、「主が支配されているのだ」と分かれば、自己の世界の中で埋没せずに済むのです。自分のことはどうでも良いのです、大事なのは神の国とその義であります。

私たちは、他の人がしていることに対して、必要であれば、御霊の促しにより、戒めたり、責めたりする必要があります。けれども、それを行うときに実際は自分の判断が入り込んでいることが多く、自分自身が裁き主になっている時があります。その人は神の御手の中あり自分が直すのではない、ということを忘れてしまい、相手に介入しようとするのです。

思い出すのがヨブ記です。その物語は、神がサタンにヨブに触れるのを許された、という「神の領域」で起こったことに対して、ヨブの友人が自分の判断や意見を入れることによって介入し、またヨブ自身が友人の裁く言葉に反応することによって、神ご自身の義に立ち入るようなことをしてしまいました。

この時も主は、ヨブの側あるいは友人の側についたのではなく、嵐によって現れて完全に掌握されました。ヨブに神の自然界や動物界における力と知恵を見せつけることによって、彼が「ちりと灰」の中に伏し、悔い改めるように導かれました。そして友人らに対しては、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)」と言われました。まさにGod didn’t take sides; He took it over.だったのです!

3)敬意を払う

パウロは、ピリピにある教会で起こっている、二人の女性奉仕者の間にある意見の対立を意識してこの手紙を書きました(4:2-3)。それで、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(2:2)」と言っています。

そのように一致を持つことのできる方法は、議論や擦り合わせ以上に、むしろその背後にある「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という態度です。そして、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(2:3-4)」と言っています。つまり、相手を尊重する心、敬意を払う心が必要です。

そうすれば、自ずと今まで自分が見えていなかった、相手についての事情が見えるようになり、相手への同情心や寛容な思いが芽生えるのです。

仲間の和解

昨日、紹介した「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏ですが、つい最近、似たような背景を持っているワリド・シューバト氏から非難を受けて、大きな痛みを受けています。

SON OF HAMASのブログ
(May 11,2011の”The Walid Shoebat Article”まで下がってから順にお読みください。)

ワリド・シューバト(Walid Shoebat)氏はかつてPLOテロリストでしたが、アメリカに移住後、信仰を持ちました。彼はイエス・キリストの救いに預かっただけでなく、ユダヤ人とイスラエルに対する愛も与えられ、パレスチナ人であるにも関わらず、イスラエルに対する強い支持と主張をしています。

私は彼の著書を読んだことがないのですが、ワリドさんからは欧米という安全圏にいる言っても、危害や迫害などの恐れも顧みず、はっきりと自分の信仰や主張を述べているところに、頼もしさを感じます。そして私はモサブさんからは、何と言っても、政治的主張よりもキリストの命令に従うこと、どんな人でも愛していくというキリスト者としての姿勢を学んでいます。

ワリド・シューベト氏が、モサブ・ハッサン・ユーセフ氏のアラブ・クリスチャンの衛星放送での発言に対して楯突いて、それから起こったやり取りが上のブログ記事に記されています。

実に悲しいことですが、同時に、キリスト者の間でしばしば起こることであり、聖書的な希望がある議論です。

パレスチナ人クリスチャンとは?

私は以前、パレスチナ人クリスチャンの証しをブラザー・アンドリュー著の”Light Force“を読んで知りました。パレスチナ人クリスチャンと言っても、アラブ系キリスト教の中にある歴史的・文化的にそうだと言っている人たちが大勢いるなかで、真にイエス・キリストを信じて、御霊の新生の体験をした福音的なクリスチャンたちがいる話です。ベツレヘムに、その人たちが始めた聖書学校があります。すばらしい証しですが、彼らの多くはパレスチナ人たちの政治的主張は捨てることはありません。イスラエルが先祖の土地に侵略し、今でも抑圧を続けているという立場です。

私はこの政治的主張に違和感を覚えます。ちょうど、日本の文脈に直してみると、原爆反対、イラク戦争反対など言っている左翼系の人がクリスチャンになったと言っても、その政治活動は依然と続けている、というイメージを持ちました。

けれども、福音的なパレスチナ人クリスチャンには希望があります。それは、「敵をも愛す」という強い動機です。彼らにはイスラエル人やユダヤ人に対する敵愾心がありません。政治的主張は変わっていないのですが、パレスチナ人が過激化して、過激派になったり、支持している暗澹とした状況の中で、その雰囲気が立ち込めているパレスチナ社会の中で、キリストの愛に突き動かされているのです。私は、イスラエル・パレスチナ紛争が解決するとしたら、政治的・外交的解決ではなく、真の霊的和解であると思っています。

私が2010年のイスラエル旅行にて、ベツレヘムを訪問した時のパレスチナ人のガイドさんが、先にふれた聖書学校を卒業した人で、彼からも同じスピリットを感じました。イスラエルへの敵愾心がないのです。最後に、「エルサレムの平和のために祈りましょう」と仰っていました。

そして、モサブさんの出演したアラブ人クリスチャンの衛星放送ですが、そこも政治的にならぬよう細心の注意を払っていると同時に、イスラム教の教えに対しては大胆に反駁し、キリストの福音を伝えている伝道師も出演するなど、福音宣教に重点を置いています。

真に聖書的になる

それに対して、ワリドさんの優れているところは、そうしたパレスチナ人クリスチャンが克服することのできていない、民族性や政治性をも聖書的立場から克服していることです。

彼は自らを「パレスチナ人」と呼ぶことさえ嫌っています。「私はユダヤ地方出身のアラブ人だ」と言い直しています。私はこの発言を聞いてほっとします。非常に聖書的だからです。「パレスチナ」という言葉そのものが、近代アラブ民族主義に基づく政治的主張を含んでいるからです。(ちょうど韓国の人が北朝鮮を「北韓」と呼び、北朝鮮の人は「南朝鮮」と呼びますが、名称だけで政治性を帯びています。NHKは政治的中立を保つために「ハングル講座」と名付けいます。)

モサブさんは政治的になりたくないと言っていますが、私たちは政治や周辺社会から完全に抜け出せるものではありません。そして、聖書的に、神学的に純正になりたければ、やはり「神はユダヤ人にあの土地を与え、そこは「イスラエル」と呼ぶ。」という見地に立たないといけないのです。当のイスラエル人がたとえ悪いことをしていたとしても、神は一時的に彼らを退けこそすれ、彼らを見捨てることは決してなさいません。

そして、イスラエルの地も「地中海からヨルダン川まで」、さらに「ユーフラテスからエジプトの川まで」というのが、神が定められた境界線です。ガザ地区や西岸はすっぽりイスラエルの地として神は与えておられます。シナイ半島の一部と、レバノンとシリアの大半も含まれています。これを「大イスラエル主義」と呼ばれ政治右翼にされるのですが、そうではなく、事実聖書に書かれているのです。

問題は、それが実現される方法です。それが人の手によるものなのか、純粋に神がもたらされるものなのか?の違いが出てきます。人の手であっても、その背後に神がおられるという見方もあります。私は、「今のイスラエルは、主イエス・キリストが再臨される前の、エゼキエルが預言された前段階の状態」だと見ています。主が戻られるには、そこにイスラエルの国とエルサレムがなければいけません。主が戻られるには、そこに御霊の新生を受ける前のユダヤ人がいなければいけません。それにまさに現代イスラエルが当てはまるのです。

方法論の差異

私は、今回起こってしまっている悲しいことは、「方法論」の違いに拠るものだと思っています。私は、モサブ氏が極めてパレスチナ寄りに聞こえるような発言に深く同情しています。彼の初めの応答の記事によれば、「パレスチナ人がイスラエル当局に通報すれば、命そのものが危うくなる。」という切迫した状況の中で、「自分はそれを行ったけれども、一般の、しかも新しく信じたばかりのアラブ人クリスチャンの質問者に、そんなことを強いることはできない。」という思いから、「パレスチナ当局に通報すればいいです。」と案じていったこということが言っています。

パレスチナやアラブ圏で宣教をしているその言葉を、西洋という安全圏から「彼がパレスチナの闘争イデオロギーを捨てていない」というワリドさんの発言はあまりにも酷です。大胆になるのは、あくまでもその人の自由意志であり、信仰の量りによるのです。「安全」であるとか、そういったものの要素が多分に含まれているのです。信仰や表現の自由が制限されているところで行っている宣教をそのような形で断じてはいけません。

けれどもワリド氏のように、原則論を話す人も絶対に必要なのです。要はここで起こってしまったのは、「方法論の違い」なのです。

パウロとバルナバの確執

そこで私が思い出したのは、使徒の働き15章36節から始まる、パウロとバルナバの確執です。

幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。(使徒15:36-41)

同じ主の働き人で、しかも同じように異邦人に対する宣教において一致し、同労者であった者通しがこのような激しい反目になってまい、残念なことでした。ここで私は原因と、そこから生まれる善を考えてみたいと思います。

原因は、その直前の出来事です。15章にはエルサレムにおける会議があります。アンティオケの教会にユダヤ主義者が来ました。「モーセの律法にしたがって割礼を受けなければ、救われない。」と言った者たちが来たのです。それで激しい対立が起き、その問題をエルサレムの教会に持っていったのです。そこでは、パウロとバルナバは一緒です。「そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。(2節)」

その緊張が主の憐れみと聖霊の導きによって一気に解決しました。教会に一致があり、かつ主の恵みによる救いという真理が固辞されたからです。それは「福音真理の自由」という闘いでした。そしてその直後に反目が起こりました。その自由が反対もなく享受できる雰囲気になったところで、他の違いが見えてきたのです。マルコを一緒に連れて行くかどうかの方法論が見えてきたのです。

私たちは、「自由」のあるところには「肉の対立」という危険にいつも注意していなければいけません。自由が侵される懼れがあるところでは、対立という肉の働きは自ずと抑制されるのです。自由が与えられる時に、私たちは強い自制が必要になります。

民主主義圏では、表現の自由が許されていますが、それゆえに「言葉」が多くなります。神が働かれる領域に至るまで、言葉で解決しようとします。祈りによる御霊の一致と、神の主権的な働きを待たなければいけないのに、「言葉の表現」という自由が与えられているから、それを武器にして用いようとしてしまうのです。けれども、私たちは「愛」という鎖に縛られているのです。キリスト者の自由は、愛によって仕えるところに用いるのです。また、「言葉」よりも「行動」なのです。

対立から生まれる善

そして「対立から生まれる善」について話したいと思います。それは、パウロはヨーロッパ宣教をすることができ、バルナバは他のところで宣教することができ、福音を聞いた人々は倍増したことです。主がその反目をも用いられて、ご自分の働きを増やされました。

さらにすばらしいことに、パウロは後にマルコを受け入れています。彼は思いを変えたのです。このように「働きが増えた」という善と、さらに対立そのものも和解へと導くという神のすばらしい御業を聖書で読むことができます。

私は、ワリドさんとモサブさんの間でも、そのような御霊の働きが起こることを願ってやみません。そしてこれは私たち働き人の間でも現に起こっている問題であり、と同時に希望でもあります。同じように主を愛しています。同じような働きをしています。けれども、方法論が違います。その時に、私たちがどのように動けばよいのか、祈りと御言葉において奮闘しながら進んでいきたいものです。

(後記1)
英語の分かる方は次の記事をお読みください。互いに相手を偽者として非難してしまった口論ですが、両者の働きを評価し、かつ愛をもって勧めを行っている、ワリド氏の友人の記事です。「イスラム教のマーディ(メシヤ)が聖書の反キリストである」と主張している著者ジョエル・リチャードソンによるものです。

On the Shoebat-Yousef squabble

(後記2)
モサブ氏の友人、ジョエル・ローゼンバーグ氏も、特定の名前は言っていませんが、実にこの問題に当てはまる内容を話しています。ジョエル氏こそ、ヨエル3章2節にある神の御言葉「わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ」の警告を真剣に受け止め、現代の兆候を非常に案じている一人ですが、次の記事では多くの部分を、パレスチナ人クリスチャンの苦しみに敏感になり、愛を持って真理を語ることへの重要性を説いています。

A MESSAGE OF WARNING TO THE NATIONS: DO NOT DIVIDE THE LAND OF ISRAEL — Understanding the Book of Joel, Part 5

Worship in Hard Times(苦しい時でも賛美)

ゴールデンウィークのハードなスケジュールが終わり、今日も午前中に親しくしている日暮里の韓国人教会で説教をし、午後に第二礼拝を終えて、少しほっとしている時間になりました。

震災によってその救援活動で日本のカルバリーチャペルの人たちは物凄く忙しくなったと思います。元々、地震の起こる前に準備していた宣教活動や集会があって、それをこなしながら救援活動が加わったからです。

その一つが、カルバリーチャペル国分寺が主に奉仕をしてくださった「カルバリーチャペル・カンファレンス2011」でした。精力的に石巻への救援旅行をこなしています。間もなく、そちらのウェブサイトでカンファレンスでの牧師たちのメッセージを聞くことができるようになるでしょう。

そして、カルバリーチャペル宜野湾が主体となって行なっていたのが、”Worship in Hard Times”(苦しい時でも賛美)という主題の集会です。4月初めに、韓国のカルバリーチャペル大田(テジョン)にて、そして四月の最後の週には、長野のマラナサ・グレース・フェローシップで行なわれました。

そこの牧師は「カズ」こと菊池一徳さんです。私が1994年秋に初めてカリフォルニアのバイブルカレッジを訪れた時に出会った日本人学生の一人でした。私が親しくさせてもらっている静岡の牧師さんたちともつながりがあり、そこでも出会いました。彼のブログはいつも楽しみにして読んでいます。

そして五月のゴールデンウィークに、沖縄で、宜野湾・沖縄・那覇・名護のそれぞれのカルバリーで行なったようです。ブログに詳しくその様子が載っています。

題名から、私はピリピで鞭打たれたパウロとシラスが、牢屋の中で祈りと賛美をしていたことを思い出しますが、沖縄にいる兄弟がブログで少し紹介しています。

ワーシップ・カンファレンス①

そしてカルバリー西東京の牧師、山東さんが動画をYoutubeにアップしてくださいました!

私は「ハクガイジン」のティムが大好きです。今、名護で教会を開拓していますが、なんと日本語だけの礼拝を持っています。沖縄の人たちにはこのような宣教師魂を持っている人たちが多いです。

※ カルバリーチャペル宜野湾のチャックさん・由美さんのブログに、この集会についての報告があります。
CC Worship Conference “Worship in Hard Times” (CCワーシップカンファレンス”苦難の時にも賛美”)