「我が国」と言えない日本人

先日FBで投稿した記事をこちらにも分かち合います(一部編集)。

7月に行われる、おそらく参院選を意識しているであろう某緊急セミナーの題名は「この国はどこへ行くのか」であります。私は、日本国を「この国」と呼んでいるところに違和感を抱きます。今、エレミヤ書を聖書講解しています。そこから流れ溢れる涙は、エルサレムをまるで自分のものであるかのように泣いている、その帰属意識でした。

ある方がこのようなことを書きました。「おそらく、本当に日本人の魂と文化を愛する人間が「偶像崇拝はダメ」といえば、なるほどと受け入れられます。でも、日本人の魂と文化を否定するものが「偶像崇拝はダメ」といえば、失敗して後々しっぺ返しを喰らうでしょう。」

同じ罪を指摘する時に、その指摘する心が愛から出ているのか、そうでないか、同じ言葉であっても歴然とした差が出てきます。最近の教会の講解説教は、エレミヤ書9-11章でした。エルサレムをバビロンによって裁くと宣言される主は、その厳しい言葉の合間に、「主はかつてあなたの名を、『良い実をみのらせる美しい緑のオリーブの木。』と呼ばれた(9:16)」と、彼らを恋い慕っているために、心が裂くようにして裁きを宣言されているのを見ることができます。

あるアメリカ人宣教師は、しばしば英字新聞の記事をシェアします。それらを見て、気分のよくない時があります。確かに書かれていることは事実を反映しているかもしれないのですが、基本的に日本の文化やあり方を見下げていることが分かるからです。日本が嫌いだ、というのがその文面から分かります。 続きを読む 「我が国」と言えない日本人

日本の伝道「押して駄目なら引いてみよう」

こちらも昨日書いたFBの投稿です:

今、私たちの教会にフロリダ州にあるカルバリーチャペルから、一人の短期宣教師が伝道のためにいらしています。日系の方なので、お独りでも伝道をしてくださっており、私たち教会の者たちも、時間の空いている者たちがいっしょに近所を回って、公園で声をかけながら、トラクトを配っています。

そこでの大きな課題は、いつも思いますが「強い拒絶感」です。我々日本人のクリスチャンは当たり前になってしまっている反応ですが、海外からの兄弟姉妹は極端な拒否に対して驚いています。私たちの教会は東京都荒川区にありますが、中国人を始め、いろいろな国の方々が住んでおり、公園にも数多くの人たちがいました。そういった人たちの声をかけると、普通の会話ができます。そして、中国人のママ二人は、「きっと日曜日の礼拝に行きます」と答え、ミャンマーの若者も「行きたいと思います。」と答えます。

この前の礼拝の後に、四つの法則を使って互いに未信者と信者の役を演じて、伝道の練習をしました。とりあえず、語らなければならないことを知るためにもやってみました。けれども、これをそのまま使って行うことは、無理があるかもしれません。今日、一緒に動いた姉妹は、ご自分で話しかける時、短く福音伝道できる内容を書いて、それで語っていました。感動しました、とても短く福音の話をまとめたもので、手際よく語っておられました。 続きを読む 日本の伝道「押して駄目なら引いてみよう」

牧者たちの交わり

以下は自分のFBで分かち合った投稿です。

今日、ある牧師さんたちと数名で、じっくり交わる時間が持てました。そこで、私たちが痛感したことは、「リアルな中での交わりの必要性」です。ネットで発信する情報というのは、裏取りをしない、匿名にするなど、無責任になる傾向があります。けれどもその発言の影響力は、とてつもなく大きくまた拡散するので、誤っていたり、偏った情報によって、リアルな中にいる人々が大きな被害を被っているという話をしていました。

そしてもう一つ、「自分の意見を率直に言うことのできる能力」とでも呼びましょうか、それが信頼関係においてとても重要になることです。もちろん、互いに理解するためには、その過程では語気が強くなったり、その表現に行き過ぎが出てくると思います。けれども、相手が何を言わんとしているのかの「真意」、そして言い方以上に「内容や事実」を見つめていくこと。これが健全な議論、実のある討論においてとても必要なことです。

そこから出てくる実は、「意見の明瞭化」です。それによって、私たちは何に同意して、そして意見に違いがあるのかを互いに知ることができ、それでもって初めて、信頼を培うことができます。

けれども、そうした率直な意見を交わせるまで到達できず、殻に閉じこもってしまう問題があります。これは特に、ディベートが苦手な日本人、また子供のように心を明かしてフラットに交わることが希薄で、孤独になりがちな我々牧師たちに顕著ではないのか?という大きな課題を見ました。傷を受けているので、自分を守るために、ヤドカリのように外部の異見を遮断してしまう傾向があるのではないか?。(関連記事:「きちんとした「牧師」の欠け」)

今、キリスト教会の中で問題や課題を見る時に、指導者の間の信頼関係の欠如が大きな原因になっているのかもしれないと感じました。困難になってきた時代、こうした信頼醸成こそが、今、前もって備えるべき霊的守りなのではないか?と思いました。

私たちの内にある「ご利益」の性質

自分の利益のための、神への従順

前投稿「ご利益ではないキリスト教」に引き続き、お話ししたいと思います。私たちの中には、内にある性質として「ご利益」があります。それは、「自分の益になるために、あることをする」という考えです。

蛇がエバのところに来た時のことを思い出してください。蛇が女に、主が言われたことについて、本当にそう言ったのかと挑まれた時に、「神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。(創世3:3)」と答えています。しかし、主は「死ぬといけないからだ」とは、言われませんでした。「必ず死ぬ(3:17)」と言われましたが、死ぬといけないから、食べてはならないとは言われなかったのです。しかしエバは、「自分は死にたくないから、食べてはいけないのだ。」と受けとめたのです。このように、神の言葉に対して、自分の利益になるかどうかの物差しを使い、益になるから従う考えは、人類の最初から埋め込まれていました。

しかし、主に命じられたことは、主が主であるから、そして私が神に造られた者、僕であるから、従うのです。それだけが動機であるべきです。自分に利益になるかどうかは、別問題なのです。

続けて読みますと、そのエバのご利益的返答を使って、蛇は、「あなたが、善悪の知識の木の実から取って食べたら、神のようになって、善悪を知るようになるのだ。」と言って、「食べれば、賢くなる」とご利益信仰の誘いをしたのです。そこでエバは、自分にとって益になるかどうかで「計算」して、それで食べることに決めました。 続きを読む 私たちの内にある「ご利益」の性質

ご利益ではないキリスト教

未信者からの質問にどう答える?

礼拝後にした、ある人との会話がとっても良かったのでシェアします。ちょっと脚色つけていますが、ほとんど同じです。

「もし、こんな質問を信者でない人から受けたらどう言えばいいですか?『結局、キリスト教だって、「信じれば天国に行ける」と思っているから信じているんじゃないですか?ならば、それもご利益と変わりないですね。』」

私:「私たちキリスト者が『信じる』というのは、意味が違います。下から上に行けるのではなくて、天から地に来られた神が十字架で死んでくださったことによって、その愛を受け入れること、その応答が『信じる』であって、天国に行けるというのは飽くまでも結果なんですね。天国に行けるから信じるのではなく、罪を赦すために血を流して愛してくださったその愛に応答するのが、信じるですね。」

「なるほど、日本人の『信じる』という言葉の意味自体が、違っていますよね。」

私はこの会話の中で、「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)を思っていました。

私たち人間の心には、「~をすれば、祝福を受ける」という行ないによる救いが媚びりついています。けれども神のご計画は、「~をしてくださった」という恵みしかないんですね。その中に留まるために、自分に死ぬ。そうすると、神の恵みによる祝福が留めもなく流れてくる、ということなんですね。

「~をしなさい、そうすれば~なる」という約束 続きを読む ご利益ではないキリスト教

素直に喜びました

以下の記事には、素直に喜びました。

牧師先生と奥さんを思いっきり励まそう!先生方をゴシップや中傷から守り、感謝のメッセージを伝えよう。

牧者だけでなく、忠実に、喜びをもって教会生活を歩んでいる兄弟姉妹にとって、良くない理由で人が離れたり、陰で批判を言っているのを知る時には、とても心が痛みます。私たちが霊的で、エリートのように見えるのかもしれませんが、忘れてほしくないことは、私たちも全く同じように生身の人間なのだ、ということです。同じように、痛み、悲しみ、泣いているのだということを知っていただけたら嬉しいです。

この前の東十条バイブルスタディで2テモテ1章を学びました(原稿音声)が、テモテに出す手紙の挨拶だけには、「恵みとあわれみと平安がありますように」とあります(1テモテ1:2、2テモテ1:2)。他の教会への手紙に、「恵みと平安がありますように」となっているのですが、それは、牧会者や奉仕者には「神の憐れみ」が他の人たち以上に必要だからに他なりません。

「教役者には、他の人以上に憐れみが必要だということに気づいていますか?全ての人が憐れみが必要ですが、私たちが忠実でなければ、御言葉を聞いている人たちよりも、もっと罪深い者となるのです。いつも忠実でいることには沢山の恵みが必要であり、私たちの欠けを覆うだけの沢山の憐れみが求められます。ですから、これらの三つの事を私自身にあてはめます、『恵みと憐れみと平安』です。皆さんは二つ、『恵みと平安』がありますが、私は皆さん以上に憐れみが必要なのです。そして、私の奉仕の務めの行程で、多くの不足、ひ弱さ、失態、失敗があるけれども、主の愛の御手から憐れみを受け取り、信頼して、恐れません。」(スポルジョン)
https://enduringword.com/commentary/2-timothy-1

日本のカルバリーチャペル

しばしば、私たちの教会の所属について、日本において、いつも説明がちょっと難しい時があります。私たちは、「カルバリーチャペル」の群れです。

日本のカルバリーチャペル http://www.calvaryjapan.com/

けれども、日本には「大和カルバリーチャペル」があり、そこからも枝教会があるため、その群れと誤解してしまう人々が多くおられます。けれども、私たちは、アメリカにあるカルバリーチャペルとのつながりのある仲間です。上のサイトが、正式なものですので、ご紹介される時や説明される時はサイト”calvaryjapan.com”をお使いになられるとよいと思います。

Calvary Chapel

その他、とても細かいことですが、区別をするには名称を見るとよいです。サイトの中の教会のリストを見ますと、「カルバリーチャペル(地名)」と、地名が英語のように後に来ています。大和カルバリーチャペルの群れの方々は、地名を先につけています。これが、区別できる方法かな?と思います。

そして私たちロゴス・クリスチャン・フェローシップは、まだ名称にカルバリーチャペルとつけていませんが、正式に一教会となっています。将来的には名前の変更あるいは追加を考えています。

ミレニアル世代クリスチャン

私たちの生きている世代がどのように変わってきたのか?アメリカの教会の状況を追っていると、「ミレニアル世代」という言葉を多く見かけます。

「ミレニアル世代、新世紀世代◆1980年前後から2005年ごろにかけて生まれた世代。10代からデジタル環境になじんだ初の世代に当たる◆【語源】millennium(千年紀)から」

この記事では、ミレニアル世代のキリスト者の紹介をしたいと思います。この用語が使われているのは欧米なので、ミレニアル世代に生きるキリスト者の課題を取り上げてる英文記事を紹介します。

I’m Christian, But I’m Not… (私クリスチャンだけど、~とは違うのよ)

最近、あるビデオが急速に広まったそうですが、それは「私はクリスチャンだけれども、~ではありません。」という題名のものです。

四人の若い女性と一人の男性が出てきて、自分はキリスト者だけれども、これこれではないと言っているのですが、他のクリスチャンだと言っている人々とは違うということを言っています。自分は同性愛嫌悪症ではないし、偏狭な考えではないし、人を裁かないし、高見の見物はしません。けれども自分は同性愛者だし、フェミニストだし、世の中の音楽を聞くし、「信者だからといって、同じクリスチャンにお堅い、閉鎖的な人がいるからといって、すべてがそうじゃないのよ。」と言い、それから、「愛が最も大事なことなんです。」と、会話を楽しそうに話しています。

けれども、こちら記事の記者は、「これはまるで、パリサイ派の祈りではないか?」と、疑問を呈しています。 続きを読む ミレニアル世代クリスチャン

礼拝賛美奉仕者は誰か?

礼拝賛美の心構えのようなことを書きます。

私が、ある、牧者や宣教者たちの集まる聖会に参加しました。そこで、大声を挙げ、両手を挙げて主を賛美する人々の声で満ちあふれました。それはある教会で行われたのですが、次の日曜日の礼拝で、全く同じ礼拝賛美チームが導いていました。けれども、後で会衆の何人かから、その賛美チームによる賛美がいかに心から主に向かって歌えなくなったかなど、不満を私に話しました。私はそこで、一言尋ねました。「この前の聖会で全く同じ賛美チームで、似たような賛美の歌で導いたんですけれども、みんな大声で歌っていましたよ。」

実際にそうだったのです。私も同じように声を挙げて神さまを賛美しようとしていたのですが、礼拝では私の声が大きくて周りの人々がちゃんと歌っていない感じなのが伝わってきました。その賛美チームの導き方よりも「礼拝者」の姿勢が違うからだということを、その聖会と日曜礼拝における違いで見ました。

「音楽」+「人々」=「コンサート」という方程式

何が問題なのか?私がこれまで疑問に思っていたことを書かせていただきますが、それは「礼拝」を他の「音楽」と混同しているため、と言えます。人々が集まり、楽器や歌で音楽が奏でられている所では、そこが「音楽コンサート」となるという考えが、ほとんど条件反射的に、私たちの中に埋め込まれているためであると考えます。

コンサートにおいては、演奏者また歌手が、その音楽と歌を「聴かせる」ということが主体であり、来ている人々は「聴衆」となっています。聴かせるものであり、聴きに行き、また舞台に上がっている人々の身振り、手ぶりのパフォーマンス、その音響や視覚効果を楽しむためのものになっています。特に現代音楽においては、舞台にいる人々の演技を見に行くことが目的になっているからです。

しかし、教会においては全く異なります。教会における礼拝賛美は、天における会衆賛美を地上で前味のようにして実践する場であります。 続きを読む 礼拝賛美奉仕者は誰か?

距離を置きたいような神学論議

私は、これまで、警戒しているというか、適当に距離を置いて見ている神学議論があります。その一例が、こちらの神学者のブログ記事です。こんな文言があります。「オープン神論では、全能の神は世界に対するご自分の支配を自発的に制限し、被造物が自由意志をもって自分の行動を選択できるようにされたと考えます。」(引用元)つまり、「神は支配者」という真理に制限をかけているのです。私は正直、このような発言に怒りさえ抱くことがあります。聖書が明言している真理について、人間の論理や感情でそれをばっさりと否定していくように見える文言が多いからです。

しかし、先日、ある牧師さんとよい交わりができました。結局、私たち日本人キリスト者(特に牧師のような教職者)は、「欧米の神学、欧米のキリスト教ばかりに目を向けている」というもっと前提になっている問題があるとのご指摘。プロテスタントの宗教改革以降存在している落とし穴があります。例えば、この記事において、

1.神は全能である。
2.神は善である。
3.世界には悪が存在する。

ということについて、問いかけをしています。しかし、その大前提に「一貫した合理性、前提から結論までつなげる論理をほしがっている」飢え渇きがあるのです。それで、従来の、全ての事象に対して神を第一原因に結びつけていくカルビン的な世界観なのか、それともそれをオープンにするべきかという二者択一の議論をしているのです。 続きを読む 距離を置きたいような神学論議