トラビスの牛網・下二郷・月浜旅行記(6月20-22日)

今回は、主に三つのチームが三つの避難所で代わる代わる奉仕をしていたので、お互いのことを知らずに行っていました。トラビスが旅行記を書きました。英文ですが、宜しくお願いします。(時間があったら、訳すかな?)

Latest update on our trip up to Higashi Matsushima- 6/20-6/22


(トラビスが月浜海岸で泳ぎました)

第七回目 月浜・牛網旅行 6月22日

三日目の朝は、魯先生と私の妻が牛網に行き、水餃子の具の準備をしに行きました。そして残りの男性たちは、月浜海岸に向かいました。この日は晴天で、神様に感謝しました!

そしてなんと、他の二つのチーム全員がこちら月浜海岸に向かっているとのことです!そして着き浜地区長の小野さんもいらして、私たちの午前中の活動にいっしょにおられました。後でジュースも用意してくださいました。

私は今回の旅行は人数が多いので、正直、困っていましたが、海岸の掃除のような時には人海戦術が最適です。なんと残りの三分の二が、きれいに片付きました!ハレルヤ!!

さすがハワイ人、彼らはなんと服を着たまま海に入って、泳いでしまいました!トラビスによると、まだ水は冷たいとのこと。私は、この夏にバプテスマ式をここでやったら良いのでは、という祈りをし始めています。

それから私たちは、牛網に向かいました。水餃子の準備はできており、数人の避難民の方が皮包みに参加してくださいました。その中に斎藤さんがおられます。チャックの奥さんの由美さんから聞いたのですが、宜野湾の人たちは、牛網に住んでいる斎藤さんの家の改装を手伝ったとのこと。

彼女が第一回目の私たちの旅行のとき、トラビスが津波の瓦礫から拾ったピアノを弾いているのを見て、涙を流し、私が祈らせていただき、そして「これを一回だけにしないでほしい。」と懇願された方です。彼女から「もう牛網避難所の住人になってもいいですね。」という、本当にうれしいおほめの言葉をいただきました。

水餃子も食べ終わり、すべてのチームが牛網でお昼をゆっくり過ごしました。山東さんが残りものでスパゲッティと醤油チキンを作ってくださいました。宜野湾のチームは、これからさらに数日、東松島に残っておられます。どのような活動をすればよいかをみなさんと私で話し合いました。月浜避難所担当の小野さんの連絡先を渡し、また木村さんもさらに数日いらっしゃるので、ぜひ月浜避難所での活動を勧めました。

今日、木村さんから連絡が入りましたが、彼らが避難所でスパムおにぎりを提供し、清掃など他の活動もしたかったのですが、雨だったので、室内で避難所の人たちの話を聞いたりして時間をすごしたとのことでした!ハレルヤ!

宜野湾とCCBCの人たちは、この夏、チームを交替させながら東松島を中心に東北救援旅行に来られる計画です。その第一弾がチャック・由美ご夫婦率いるチームです。どうか、続けて彼らのためにもお祈りください。

私たちは、魯先生のリクエストで、松島で温泉に入って、それから塩崎さん、私たち二人が車に乗って東京に戻ってきました。

私が救援旅行で魅力を感じるのは、伝道の機会が至る所に生じること、そして仕えるクリスチャンの麗しい姿です。不平をもらさず、小さなことでも喜びと感謝を感じ、そして一度手伝ったところにまた行きたいと願うクリスチャン。それが、被災者の方々に大きな光となっています。さらに、私たち奉仕者の間でも、その喜びを味わっている人々の間には麗しい御霊の一致があり、主をほめたたえています。

次回はぜひ、再びLCFの人たちを連れて行きたいです。何人かは既に参加していて、そのすばらしい御霊の働きを見ることができました。教会のためにもこの活動は必要と感じています。

第七回目 月浜・牛網旅行 6月21日

20日の夜、私は仲間に五時半起床、六時朝食を告げました。早いのにびっくりしていた人がいましたが、私は、「避難所の人々は通常五時前に起きて、六時には活動を開始していている。就寝が八時だ。彼らの活動に合わせないといけない。」と話しました。

朝、前々回と同じように、宿の部屋で自炊をして、それからデボーションをしました。私は、先週土曜日に説教した出エジプト記2章から、モーセが神の民の苦しみを共にして、エジプトの富や地位を捨て、永遠の報いを求めたことを話しました。救援活動によって、私たちの快適な生活は犠牲を負いますが、けれども、苦しみを共にすることが神の報いの道であることを離しました。

それから、チームを二つに分けました。女性と、運転手の魯先生は昼食の水餃子の具とフルーツの準備を、男性は月浜海岸に向かいました。

水餃子は手軽に作れる料理であり、また皮を包むときに避難所の人たちと一緒にできるという利点があります。そしてフルーツは、前日、避難所の女性たちから、「スイカが食べたい」という声が上がったからです。つまり、水気のある果物(スイカ、メロン、ブドウ等)や野菜(トマト等)に飢えていたみたいです。それで私の妻と魯先生が前日、スーパーマーケットまで車を走らせて買い物をしたのです。

もう一つ、メニューの中に「水キムチ」があります。綾瀬東部教会が作ってくださいました。これは日本の人たちにはあまり知られていませんが、冷たい汁の中に漬物があるという感じのキムチで辛くなく、さっぱりしています。暑くなってきたので、いいんじゃないかと思ったのです。

私たち男性陣が月浜海岸に到着し、そして牛網に宿泊しているカルバリー・ホノルルのマッチョの四人と、宜野湾のチャックさんが到着しました。大木など、砂浜に漂着しているごみをどんどん片付けて行きました。私は、細かいごみを拾い始めました。まだキャップの空いていない炭酸水のペットボトルがたくさん流れ着いていたのに、一本ずつ開けて中身を出したりもしました。

すると二時間ぐらいで、見事に三分の一ぐらいがきれいになりました。私はこの夏いっぱい、ここの海岸の掃除がかかるかなと思っていたので、本当に驚きました。兄弟たちも、「ぜひ残りの部分も終わらせたい。」とやる気満々でした。

11時に月浜避難所に戻り、水餃子の準備をしました。包む作業を避難されている方々にお願いしたら、女性たちがエプロンをして次々と包んでいきます!担当の小野さんが教えてくれましたが、それもそのはず、彼女たちの多くが民宿を経営していた人たちです。宮戸島の人々は民宿と漁業で生計を立てています。私も幼い頃と大人になってから二回、月浜海岸に来ています。

水餃子、水キムチ、フルーツを食べた後に、そこを片付けて、同じテーブルで見城さんと望月さんが同じくカントリー&ゴスペル・コンサートをしてくださいました。そして、さらに木村さんが自宅の掃除に来た女性のボランティアのグループも招いておられました。

私たちが二度に渡って木村宅から刀や着物を取り出した後、木村さんは、残っているものを東松島市を通してボランティアに取り出してもらっていたみたいです。一度、男性のボランティアに来てもらったら整理が雑だったので女性たちを要請したとのこと。そして木村さんは見城さんの音楽がとても気に入っていたので、昼食もゴスペル・コンサートも全部参加させたのです。

私と塩崎さんは、続けてホノルルの人たちと月浜海岸で掃除をしに行こうとしましたが、あいにく雨が降り出しました。それで再び避難所に戻りましたが、見城さんたちによると、じっくり福音を語ったとこと、神に感謝です。そして、私たちはトラビスの要請を受けて牛網避難所に移動しました。

牛網避難所には、カルバリー所沢のマイケルとチャックが醤油チキンを作っていました。山東さんが大まかなのを作り、それから下二郷でも食事を作りに行ったそうです。そして、他の人たちは20日に牛網で奉仕をしていたので、下二郷に移動し、そこで夕食とコンサートをしに行きました。料理だけ作って、私たちがそれを避難所の人たちに出します。

千葉さんが顔を見せてくれましたが、いつもと違って笑顔がありませんでした。ぜひ彼のためにお祈りください!避難所生活がすでに三ヶ月を越しています。多くの避難所で、人々が長い避難生活でいろいろな意味で疲れを覚えています。

けれども、魯先生と私は、塩崎さんと木村さんと、神の救いについての質問応答の時間を過ごし、就寝が午前1時近くになってしまいました!

第七回目 月浜・下二郷・牛網旅行 6月20日

無事に昨夜、東松島から帰ってきました。これで、LCFとしては第六回目、全体としては第七回目の旅行の報告をさせていただきます。

19日の正午は、奥松島の木村さんと福島富岡町の植田さんを交えて、昼食を取りました。新井さんが、大きな消しゴムを彫って文字のスタンプを木村さんに作りました。そして二時から礼拝です。私は、新しい人々が来ることを意識して聖書箇所を少なくしましたが、それでもたっぷり一時間かかった説教を興味深く聞いておられました。その後も濃密なお話しの時を持つことができました。

そしてそのまま木村さんは私たちの家に宿泊です。そして次の日、7時半には綾瀬東部教会の魯牧師と、ボランティアの塩崎さんが到着しました。

塩崎さんはこのブログ記事では初めての方ですが、実は、この方がおられなかったら私たちの救援旅行は全然違っていたと言っても良い重要な人です。塩崎さんは針灸をされている方ですが、武道館内でボランティア活動ができないとのことで、その場所を探していた時に魯先生と出会うことによって、その教会の中で活動場所ができるようになりました。それで武道館に避難されている人々が教会に来るようになった、という経緯です。そして、私が4月10日にその教会で説教の奉仕をしたその夕方に、その避難者の一人である木村さんに出会いました。

20日は、罹災者証明書を持っている人は高速道路が無料になる開始日でしたが、私は首都高も無料になると思っていたところ、東北道だけであったことが分かりました。車二台で行ったのですが、結局、災害救援車両許可書を取っていた魯先生の自動車は全行程が無料、木村さんの車が首都高の分だけ料金を払いました。

私たちは前々回の旅と同じく、宮城県の菅生PAで静岡チームと落ち合い、そこから宿泊する松島の湯の原温泉に向かい、荷物を降ろして、そして奥松島の宮戸島にある月浜避難所に向かいました。そこで、すでに数度、牛網などでお手伝いに来てくださっている仙台在住の武田さんと合流しました。月浜避難所で明日の予定について担当の小野さんと話し合った後、私たちは下二郷の避難所で人が足りないとの知らせをトラビスから受けたので、明日、掃除する予定の月浜海岸を見学したあと、そこに向かいました。

そこは、東松島市の北隣にある遠田郡美里町にありますが、牛網の隣町の浜市住民が避難しています。私は担当の熊谷さんと話ながら、私たちの牛網での救援活動や、浜市小学校を見ながら家の掃除をしていたことなどをお話しました。中を覗くと、かなり若い人々がいます。子供たちも多いです。

そして台所では、カルバリー西東京の山東さんと、沖縄宜野湾からチャック・ロブさん、そしてCC Bible College卒業生の松原さん、在校生の中村さんが夕食の準備をしていました。ハワイ風醤油チキンです。牛網の千葉さんがトラビスにこれを作ったら良いと勧めていたそうです。

そして静岡教会の牧師、見城さんとスケットの望月さんが、イブニング・コンサートの準備をしました。塩崎さんは針灸の奉仕をされました。

食事は、初めあまり人が来なかったのですが、一度、醤油チキンを味わった人が「おいしい!」との声を上げると、取りに行く人々が出てきました。そして台所の隣の部屋で行ったイブニング・コンサートにも、人々が入り始めました。

見城さんと望月さんは、前々回と同じように、ギターでしっとりとした歌を奏でました。望月さんは自分が引きこもりの状態から主に出会った体験を詩にして歌いましたが、みんな感動しました。そして、その部屋に聖書やトラクトも机に置いて帰りに取っていってもらうようにしました。

そして私たちは牛網避難所に向かいました。そこで、牛網で奉仕していたハワイのチームやトラビスたちがいました。なんと、彼らは避難所の駐車場に大きなテントを張っています!山東さんが、「ホノルルからのメンバーに、マッチョがいて、力仕事をしたがっているから、ぜひ月浜海岸の掃除をさせたらいい。」と教えてくださったので、私はトラビスに男たちを月浜に送ってくれるよう頼みました。

宿に帰ったら午後10時を過ぎていました。

次の東北救援旅行(6月20-22日)

次の東北救援旅行についてのお知らせです。

先週の月曜日、奥松島の木村さんと連絡が取れました。奥松島の月浜海岸では彼の半壊の家から所持品を取り出す作業を行ったのですが、現地にいる彼に避難所の人たちが私たちボランティアのことを覚えていて、「来てくんねえがなー」と仰っていたそうです。それで、私たちは元々20-22日に東松島救援旅行を計画していたので、では行きますと申し上げました。

東松島の牛網避難所には、現在、カルバリー所沢のトラビスの家族が訪問しています。家族旅行と来週の旅行のための前準備のために行きました。次回は、奉仕する新しい避難所が二つ与えられました。

下二郷地区コミュニティーセンター

場所は東松島市の北隣の「遠田郡美里町」という所ですが、これは東松島市牛網の隣町である「浜市」の住民がおられます。そこは牛網よりさらに海岸沿いにあるため、家は土台だけの全壊状態です。したがって、家の掃除や修理のために自分の家に戻る必要がなく、遠くの避難所に住んでおられる、とのことです。人数は40人ぐらいとのこと。

避難所を訪れて・・・

上は、六月上旬にあるボランティア団体が下二郷コミュニティーセンターを訪れた日記です。トラビス・リッチ・山東さん・マイケルが訪れた時と同じ建物の入り口の写真も掲載されています。


そして、もう一つの月浜住民の避難所は、大きいのと小さいのに分かれます。大きいのは奥松島縄文村歴史博物館の隣にある「漁協宮戸西部支所」で、もう一つは月浜海岸の高台にある「民宿かみの家」です。活動は、主に月浜海岸の瓦礫除去と、炊き出しとゴスペル・コンサートです。この二箇所にお知らせの紙を貼りたいとの要請がありましたので、作成し、郵送しました!

「水餃子」の炊き出し(?)は、静岡教会からの見城さんチームに今回は在米の台湾人の方が来られるとのことで、皆で一緒に皮を包んで親睦を深められる中国式をやってもらおうということになりました。

こちらに掃除する月浜海岸の津波前のブログ記事がありました。そして、ここは「宮戸島」の中にありますが、現地の人が被災と救援の状況を克明に記録しているブログがあります。

東松島市 地震 津波 宮戸 野蒜 現地情報

今回は、カルバリーチャペル・ホノルルからチームが、そして沖縄のカルバリー宜野湾からのチームも来るという事で合計20名強になります。「こんなに人数が多くてどうしよう・・・」と思っていたところの新しい奉仕先です、主に感謝します。そして宜野湾のチームは交替でこの夏、チームを送り続ける予定にしています。

お祈りください。

いつまでも THANK YOU LORD

下は、「第六回 東松島牛網旅行」の音楽タイムで、トラビスが歌った歌の映像です。彼は、ここの牛網避難所の人たちのことを想いながらオリジナルを作りました。僕も泣けてきました。もうこれは救援活動ではなく「絆」でしょう。そして私たちの内におられるキリストを見ていただく共同体です。

この曲は東松島市牛網の被災者のために歌いました。イエス様がどれほどこの人たちを愛してくださっているから。

~~ いつまでもTHANK YOU LORD ~~

1) ただ独りで、ここに座ってる
圧倒される気持ちを感じながら
こころは 超heavy どうすればいい? 
でもまた、気づいた

Chorus:
私のそばにいつもいるから
どれほど愛されてるか(が)わかった
だからこそあなたに言いたいのは
ただ、いつまでも Thank You Lord

2) ただ独りで, 人目を避ける
背負ってる重荷を思いながら
My heart は苦しい もうあきらめたい、
でもまた、気づいた

Bridge
いかなる嵐でも だきしめて
その大切なことを 思い出させて、

CHORUS

3) 独りでも、独と感じない
Agape愛と平安を持ってるから
なにが起こってもIn my heart 思い出す
いつもの一言

Last Chorus:
私のそばにいつもいるから
神様に愛されてると分かった
だからこそ主に言うべきことは
ただ、いつまでも Thank You Lord

私のために十字架に死んだ

ただ、いつまでも いつまでも
ただ、いつまでも Thank You Lord

第六回目 東松島牛網旅行

今回、5月23-25日まで、トラビス(CC所沢)、リッチ(CC府中)、山東さん(CC西東京)、そしてLCFに礼拝賛美の奉仕に来てくれているマイケル(CC所沢)が、東松島の牛網避難所で時間を過ごしました。そして仙台在住の武田さんも手伝いに来てくださいました。LCFが訪問したのは、合計四回ですが、避難所は六回の訪問を受けたことになります。

私は、カルバリー沖縄のリックの仙台拠点探しに別行動で仙台に行きました。CC LaHabraによる「コミティッド・リリーフ」を通して、今年の夏、米国から救援活動に来る人たちが泊まれる拠点を探す担当を担っていましたが、彼は今回の旅行でサマリタン・パースの人たちとの連携や、沖縄の米国系バプテスト教会の救援チームと行動を共にしていたため、CC那覇の大城さんと私が、拠点探しを24日に行ないました。午後4時までには望ましい所が見つかったので、それでその足で東松島まで行き、夕食とその後の音楽タイムに飛び入り参加することができました。

山東さんが早速、今回の旅行の報告をしてくれています。ぜひお読みください。

震災支援レポート-052511

大きな変化は、多くの人が仮設住宅に移っていき7月中には完了するそうだということ、です。最後の日に、千葉さんが彼らを既に仮設住宅に移り住んだ人の所と、関連のある避難所にも連れて行ってくださいました。今後は、そちらでの奉仕に移っていくものと思われます。

トラビスと山東さんが、音楽タイムの締めで軽く福音を語りましたが、山東さんが良いことを言われました。「ここには、たくさんのボランティアの人たちが行き来していますが、私たちはずっと皆さんの友達でいたいです」と。他の地域にもたくさんのボランティアの必要がある中で、私たちは同じ所に通いつめました。単に救援の手を差し伸べている以上の、彼らとの交流が私たちの目的だったからです。そして主の憐れみによって、その心の戸が開かれており、絆も結ばれています。

Facebookにある山東さんが掲載した写真の一部を、いくつか載せたいと思います。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月18日

この日は現場における仕事はありません。それぞれが、自分たちの所に出発するだけです。けれども、お仕事はいろいろあります。瀬谷さんは、第二回目の旅行で私の両親の家でお会いになった近所の方にぜひ会いたいとのことで、東北本線の松島駅から仙山線の最寄駅まで行き、実家に一泊しました。そして、木村さんとお母さんは20日まで滞在予定です。私たちは、晩にある恵比寿バイブルスタディに間に合わないといけません。さらに静岡のチームは、東京の木村さん宅に荷物を下ろしに行く前に、同じ教団の仲間だったシーサイド・バイブルチャペルに訪問しました。

シーサイド・バイブルチャペルと言えば、今や一般の新聞にも出た「荒れ野での十字架」で有名になった、仙台沿岸部に位置する教会です。私も見城さんから、被災している教会の話を聞いていました。そして今回もどんな感じなのか彼からいろいろ聞くことができました。見城さんは冗談で、「ちょうど観光地の案内人のように、牧師の内藤さんは訪問する大勢の人々の案内をしている。」とおっしゃっていました。

私は、「なぜ他の教会と共に働かないのか?」と聞かれたことがあります。私は震災直後から、すぐに仙台の教会の人たちに連絡したり、その情報を得ようと努めました。単純に、「道が開かれなかった。」ということです。そして情報を追っていくと、数多くの教会が既存の教会を支援しており、むしろその支援教会の対応で忙しくなっている様子を見聞きしていました。教会が教会を助ける働きは、使徒の働きでエルサレムの教会を手助けした話が出てくるように非常に聖書的であり、すばらしいことですが、やはり「御霊によって導かれなかった」と言って良いでしょう。直接、キリストを知らない被災者の方々へ福音を伝えるように導かれています。

けれども、Facebookで何人かの牧師さんと連絡を取ることができているのは幸いです。

朝は、見城さんがデボーションで御言葉から分かち合ってくださいました。木村さんが、またご自分の気持ちを話してくださいましたが、「私は、クリスチャンたちを見てきて、確実に神・キリストが働かれているのを見ている。そして私はその世界とは別であると思ったが、私自身がその働きの中に取り囲まれているのを感じる。」とのことです。つい一ヶ月前までは、キリスト教会とは無縁の生活を送られていた方が発する言葉です。

そして最後に、木村さんが松島の絶景を楽しめる見晴台へと連れて行ってくださいました。確かに、「日本三景」に数えられるだけある風景です。そして何とここは元々彼らの土地だったのこと。ずっと前に行政に売り渡しました、とのことです。

そして私たちは植田さんを運転手にして東京に戻りました。途中、妻が高速道路の一部を代わりに運転しました。年に一度だけアメリカだけで運転していた彼女は、今回初めて日本で運転です。それから瀬谷さんは無事に私の実家に到着し、福島県相馬市の農家で出会った私の母の友人にも会うことができ、そこで母が自分の救いの証しをすることができたとのことです。そして夜に近所の方にも会うことが出来たとのことです。・・・ずっと「証し」と「福音宣教」の旅になっていました。

今度は、来週の月曜から水曜まで、トラビス、リッチ、山東さん、そしてカルバリー所沢のマイケルが東松島牛網に行きます。そして六月第四週目に、ハワイからのチームが5-7名来る予定です。けれども、これまでもそうでしたが、主がまた新たなことを行なわれるかもしれません。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月17日

朝7時に自炊の朝食を皆でいっしょに取り、デボーションをして、それから活動開始です。昨日の「炊き出し部隊」は、昨日、牛網避難所を訪れたところ「炊き出しはお昼より夕のようが良いのに。」という要望を聞いて、それで人数が増えるため、再びマックス・バリューで買出しに行きました。そして、仙台お住まいの武田さんも合流し、牛網避難所に戻ってさっそく夕食のための準備を始めました。

メニューは「イタリアン風マカロニサラダ」です。これまでの炊き出しのメニューはずっと醤油チキンだったので、ちょっと趣向を変えようという妻のアイデアでした。サラダと言っても、チキンを中心にいろいろな素材の入っているボリュームのあるものです。当初、二時間で完成できると思っていたものが五時間ぐらいかかったのことです!

「木村宅所持品取り出し部隊」は、最終的な取り出しを行ないました。ダンボールに詰めて、それをコンビニまで運んでいき、そこから宅急便で木村さんの兄弟宅へ送付し、そして残りを静岡のグループが東京にある木村さんの仮住まい宅に18日に降ろす予定です。

それから牛網避難所に合流しました。まず、私たちは自分たち用の昼食(レトルトカレー)を食べ、それから作業にとりかかりました。女性三人と植田さんは、続けて夕食の準備をしました。木村さんのお母さんが、もう80歳なのに、ずっとお立ちになって皿等の洗い物をしてくださったそうです。

瀬谷さんは前回に引き続き、デザイン風の習字を教えました。それを後日、Tシャツにプリントして渡します。

他の男性陣は清掃のお手伝いがないか付近を歩き回りました。前回と前々回に来たところは、かなり片付いています。それでも避難所の目の前に住んでおられる方の庭の木々に津波による泥がついているのを払い落とす作業、そして千葉さん宅で残されているトイレの清掃がありました。トイレまで清掃するというのは、もちろん、後に使えるようにするためであり、私たちのようなボランティアがそこにテントで寝泊りできるようにするためでもあります。

そして見城さんと雅治さんは、他の家で、家の底にあるヘドロ取りが必要な人を見つめました。私も少しお手伝いしましたが、驚いたのはそこの被災者の人は、徒歩3分のところにある牛網避難所ではなく、他の避難所に行っているとのこと。避難所の存在さえ知りませんでした。

千葉さんからも今回話が上がってきたのは「在宅被災者」です。避難所、特に牛網の避難所はかなり祝福されています。けれども、彼が会議などに参加すると分かってくるのは、在宅の方々がまだまだ物資に困っているとのことです。次回以降、そのような人々にも届きたいという願いを千葉さんにお話しました。

そして夕食に近づき、人々がやってきました。自衛隊の人たちの炊き出しは、千葉さんによるとちょうど今日(19日)に終わり、これからは弁当の配布になるそうです。お風呂の部隊も人数を減らすとの事。次第に、自衛隊も違うことに部隊を動かす方法になっています。

そしてサラダは多く余ったので、自衛隊の人たちにおすそ分けし、私たち自身も自炊のご飯といっしょに食べました。そこにいつもいる小学校一年生のしょう君が、「さあ、おかわりをしなさい。」と命令口調で繰り返すので、しかたがなく(?)男性数人がそれに応じ、おなかがいっぱいになりました!

そして、避難所でのイブニング・ショーが始まりました。見城さん、望月雅治さん、そして望月誠司さんがミニ・コンサートを開いてくださいました。初めは一般のカントリー・ミュージックでしたが、すぐに賛美歌に移り、そして音楽の前説明の中に証しを盛り込みました。そして見城さんが最後に、はっきりと十字架のメッセージを語ってくださり、私たちは心の中で神をあがめました!

私はバンドの目の前でカメラを回していたのですが、隣にいるおじいさん(前回はフラランスを前に出ていっしょに踊った方)が私に話しかけてくださり、実に感謝していること、そして“教材”も読んでいて、その道についてもいろいろ考えているという話をしてくださいました。「教材」とは、もちろん私たちが第一回目、第二回目に渡していたトラクトのことを指しています。そして、「コンサートの終わりにお礼の一言をお話したい。」と申し出てくださったので、終わりに話していただきました。

そして避難所の人々と別れました。千葉さんも交えて、ここで別れる武田さんのために皆でお祈りしましたが、千葉さんが「いろいろな神様がいて、忙しい。」と冗談をもらしておられました。ちょうど前日に、仏式の葬儀に出席しなければならなかったそうです。そうは言ったものの、千葉さんはいつも「高台から津波を見ていた人と、実際に津波に飲まれてしまった人では違う。」とおっしゃいます。つまり、「生と死の捉え方が変わってしまった。」ということです。

そして宿に戻り、再び少し交わりをして床に就きました。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月16日

私たちは菅生PAにて、二つのグループに分かれて出発しました。一つは、「木村宅所持品取り出し部隊」で、もう一つは「牛網避難所炊き出し準備部隊」です。牛網での食事は17日に予定していますが、東京で買いきれなかったものを矢本にあるマックス・バリューで買い、そして東京で買った肉類を冷蔵庫に牛網で保存してもらうことが目的です。

奥松島の宮戸島の付け根には、野蒜という、運河の走っている地域があります。そこがニュースにもしばしば出てくる壊滅的被害を受けた所ですが、そこにようやく自衛隊や米軍が撤去作業を本格化させたようです。自動車や家の屋根などめちゃくちゃに落ちていた運河が少しだけきれいになっていました。

そして木村宅での作業が始まります。前回は日本刀の取出しが主でしたが、今回はお母さんの着物の取り出しを行ないました。二階の渡り廊下にあった家具など、邪魔になっていたものを取り除き、道を開きました。一部津波の水が被っているものもありましたが、かなり多くのものが被っていません。

そして一部をダンボールに詰め湯の原温泉の宿に持っていき、一回ピストン輸送をしました。

そして私たちは湯の原温泉に向かいました。妻と瀬谷さんと植田さんが、夕食の準備をしています。おかずはビーフンです。まず私たちは風呂に入って、皆でいっしょに食べておいしかったです。

その後に団欒の時間になりましたが、木村さんと植田さんから信仰に関わる話が出てきて、とても有意義な話の時となりました。木村さんとお母さんは基本的に、「このように皆さんと出会うことができたのは、絶対に神またイエス様以外に考えられない。」ということを仰っていました。そして植田は、「十字架につけられて死ぬということは、到底、人間にはできない犠牲の業だ。」という感想でした。

ですから、「救援活動」という目的で行なっているものを、主は、「伝道修養会」にしてくださいました。イエス様が弟子たちと寝食を共にされながらご自分を教えられたように、未信者の人々がクリスチャンと時間を過ごすことによって、良い行ないに裏付けされたキリストの教えを学ぶことができています。これが、前回と今回の旅行で最も大きな収穫でした。