未信者や求道者向けページ「イエス様を知らない方へ」に、キリスト教Q&Aシリーズとして新たに記事を追加しました。
一般的なキリスト教の説明とは、少し異なる視点で書いてみました。普通は、「真理というのは排他的である」「宗教はそれぞれ排他的であり、一つにすることはできない」という回答なのですが、日本人は「人との関係」を大事にするので、その価値観から説明を試みました。
未信者や求道者向けページ「イエス様を知らない方へ」に、キリスト教Q&Aシリーズとして新たに記事を追加しました。
一般的なキリスト教の説明とは、少し異なる視点で書いてみました。普通は、「真理というのは排他的である」「宗教はそれぞれ排他的であり、一つにすることはできない」という回答なのですが、日本人は「人との関係」を大事にするので、その価値観から説明を試みました。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:5)」
上の御言葉に関して、超面白いYoutubeビデオを観ました。
Don’t judge too quickly. We won’t
https://youtu.be/uNdapXryZ98
アメリカの会社のCMみたいですが、本当に面白い。
ちょうど、悪いタイミングで、いくつかの出来事が重なって、見ている相手が完全に誤解してしまうって、意外にありますね?聖書の中でも、危なくイスラエル十二部族で内戦が勃発しようとした出来事があります。ヨシュア記22章にある、ルベン、ガド、マナセ半部族がヨルダン川岸に祭壇を造った出来事です。解説が下にあります。
「ヨシュア記22章」
これまで、皆さんがこのブログ記事を読まれている時に、私が必死になって書いている話題の共通点が、「相反する主張、議題をどのように対処するか」ということだと気づかれているかもしれません。
以前はイラク戦争についてでした。私は、米国と米国内の福音派教会に対する過度な批判に疑問を呈し、「米国が中心なのではない。神の預言の計画が一歩進んだだけなのだ。」「神は、このような戦争(善悪を判断せず)をも用いて、ご自分の栄光のために用いてくださる。」「米国を批判する人たちは、そこには生身の人間がいることを知るべきだ。米国人は聖人ではない、怒ることもするし、間違いもする。憐れむべきだ。」ところがこのようなことを書いたら、大変な目に遭いました。教会関係の人であろう人からも、一般人でも決して書くことはない脅しのようなメールも受け取りました。
そして、今は原発問題です。私は一度も原発を推進すべきという立場で書いたことはありません。それよりも、その大きな動きに対して、あえて牽引して、冷静になるべき多角的な見方を提供しようとしたつもりでした。「神の主権の中で政府と東電には感謝すべきだ。(支持するということではなく。)」「これまで事故が起こっていなかったこと、私たちが死んでいないこと、これも神の憐れみの中にある。」「たとえ危険があっても、主が守ってくださる。そうでなくても、被爆するよりも、さらに失ってはならない健康、すなわち霊的健康(平和、愛、寛容)がある。」けれども、どうしても政府や東電を支持しているように受け止められます。これはいったいどうしてでしょうか?
二項対立を楽しむディベート
私は、救われる前後は大学で英語ディベートを行なっていました。その討論は日本国の政策を主題としており、当時(1990年前後)から原発問題は大きな話題でした。民事裁判で、弁護人がどちら側の顧客につくか分からないように、ディベーターは肯定側につくか、否定側につくか直前まで分かりません。ですから両サイドの主張を用意するのです。これは完全に思考ゲームであり、相手を叩き潰すのが目的ではなく、第三者である審判にいかに説得力のある主張をすることができるかの訓練の場です。
ちなみにアメリカでは、ディベートで良い成績を収めた人たちは法廷で働いたり、弁護士や政治家になる人が多いです。福音派のキリスト教大学リバティはこの部門に力を入れており、良い成績を収めています。世の光、地の塩となるべく、世においてキリスト者の立場を弁明することができるようにする、というのが目的です。(CBN News)
そして、私の記憶では、「原発全面廃棄」の政策主張は非常に強固でした。「廃棄すべきである」という議題に対して、肯定側が数多く勝っていました。理論構築が非常に優れているからです。「放射能の被害」の甚大さを示し、かつ、原発放射能漏れの要因を列挙すれば、その要因がどんなに可能性が低くとも、否定側は、時間内にすべての要因を潰さない限り、負けてしまうのです。そして、肯定側にとってアキレス腱である「政策実効性」のところを否定側が叩いても、「原発全面廃棄しても、他の発電方法で十分に賄える」という議論で肯定側は対抗します。
けれども、ディベーターはその結果を見て、反原発になることはありません。なぜなら、「一つの事象には常に二つの視点があり、その対立する項目を擦り合わせることによって、本質が見えるから。」とわきまえているからです。肯定側・否定側のどちらにも付ける利点は、「物事を複眼的に、多角的に見なければいけない。」と思えることです。
二項対立に必要な慎み深さ
したがって、「反原発 対 原発推進」という二項対立は、専門家が議論している相対する論点を自分が第三者として、審判として聞き、自分の頭の中で判定を下せばよい内容のものです。どちら側に付かなければいけない、というものではありません。あるいは、付いても良いのですが、「自分がすべてを知っているのではない。」という慎み深さを持っている必要があるのです。
けれども、反原発運動をしていること自体が間違っているのではありません。あらゆる市民運動には、その達成すべき目的があり、社会において一定の役割を果たします。けれども、やはり、政府があり、行政があり、世論があり、その他の社会構成要素の一部に市民運動があるからこそ、その運動に意味を持つと言う「慎み」が必要です。しかし、運動は先鋭化しやすいです。あたかも万能であるかのように、酔いしれやすいのです。そして、少しでも異見を耳にすると排除し、排斥し、酷いときは粛清するのです。
「反キリスト」の霊
共産主義運動によって死んだ人々は、ナチスが殺したユダヤ人やその他の少数派の人々の人数を超えます。なぜそうなってしまったのか?理論構築をした後に、その理論を実践しようと言う純粋さがあったからです。頭の良い人ほど、そして純粋な人ほど、その過ちに陥りました。
聖書的に話すならば、それは「反キリスト」の霊です。ダニエル書7章8節をご覧ください。反キリストは「人間の目」として登場します。その目は知性を表します。そして小さな角として登場します。「角」は権力を表します。そして「大きな口」があります。それは口がうまいのです。
この口は大きなことを言って、そして角はどんどん多くなり、他の角を切り倒します。そして、ついに既存の法則を変えようとします(25節)。さらに、神ご自身に言い逆らう言葉を吐きます。そして先代ものを一切否定します(11章37節)。我こそが神であると宣言するのです。
要は「高慢になってはならない」という戒めです。
反原発の人たちからの批判
もしこれまでの私の一連の意見を、推進派の人たちが読むならば少し拍子抜けするでしょう。大いに賛同する人はいないと思います。けれども、反原発の人は批判または非難するでしょう。「あなたは政府のこと、東電のこと、放射能のことを何も知らない。」と言って。私はただ、多角的に、総合的に、キリスト者として今の出来事を判断しようと努力しているだけなのに、なぜか推進派のレッテルを貼るのです。これが題名で書いている「二項対立という罠」です。
キリスト教神学にある二項対立
キリスト教の神学の中では、「人間の選択」と「神の主権」の間で、「アルミニウス主義 対 カルビン主義」の議論が盛んです。神は救いを選ばれたのに、信じると言う選択によって救われるのか?という疑問です。事実は、人間の知性では相矛盾するその二つを隣り合わせに神はしておられます。
けれども、アルミニウス主義の人よりも、カルビン主義者のほうが先鋭化しやすいです。それ関連の本を読むと、何か覚醒したような気分になり、そして理論構築のために時間を費やします。そして、反対意見に対する弁証法も身に付け、自分の信仰をその理論で要塞化してしまうのです。そしてむろん、このような極端なカルビン主義に対する反カルビン主義論も盛んです。
イエス様は?
イエス様は、どちらにも当てはまらない方でした。イエス様は「バランス」の中におられました。エルサレムにて律法学者らに試しを受けた時に、例えば、税を支払うことは律法にかなっているのかどうかと試した時に、「神のものは神に、カエザルのものはカエザルに。」と語られました。
サドカイ人が復活について試した時には、「あなたは聖書も神の力も知らないからです。」と言われました。それはパリサイ派の意見と一致していました。だからパリサイ派なのかと言えばそうではなく、むしろパリサイ派の安息日の解釈に真っ向から対立し、それゆえ十字架刑に処せられたのです。
けれども、主はよみがえられました。復活後、そして聖霊によって教会が誕生した後の迫害者は、むしろサドカイ派でした。なぜなら、サドカイ派は復活を信じないからです。そしてパリサイ派の人から信者になる人が多く出ました(使徒21章)。しかし、また他の問題が起こりました。「ユダヤ主義」というものです。異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張したのです。
とらえどころのない真理
人間はどうしても極端になります。なぜか?それは私たちの肉を喜ばすからです。「自分」に理解しやすくなります。「自分」で全てを判断できると思ってしまいます。「自分」が正しくなります。肉の働きの中には、「党派心、分裂、分派」があることに注目してください(ガラテヤ5:20)。
真理はとらえどころのないところにあります。真理は、自分で理解・掌握することができないようにし、それに自らがひれ伏し、服従するようにさせます。へりくだって信じ、受け入れることによってのみしか悟れないようにさせます。知性を増幅させることができないようにさせます。
けれども、人間の理解を超えて、思いもつかないような偉大なことを行ないます。良い実を、真理を受け入れた人から見ることができるようにします。その人が無知でも、多くの知識人を賢くします。逆に私たちが人間的に賢くなる時、むしろ神の知恵を失うことになるのです。
日本が今、放射能汚染の危機にある時にこそ、より冷静になり、今、起こっている目の前の現象を見ると同時に、キリスト者であれば、神の視点から見る余裕、複眼的要素が必要なのです。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト記14章13節)」
私は、Twitterというものがまだよく分かりません。一言一言の序列があるだけに見えてしまうのですが、最近、NHKニュース等をフォローしています。けれども、クリスチャンの間では結構いろいろ知られている人が、カルバリーチャペル西東京の牧師、山東さんです。この前の月曜日に東松島に日帰り旅行をしたのですが、車中で隣の座席になり、ツイッターの威力みたいなものを教わりました。
それで、いろいろ努力をしてはいるのですが、彼のツイートをフォローしている時、昨日でしょうか変な突っ込みがありました。
山東さんの発言
放射能問題も、原発問題も、根本的にはお金と自己保全に群がる罪の問題。 ・・・東北の本当の救援もこの罪からの救い。まったくむつかしくないよ。罪から救うために人として来たイエスを知れば。宗教に救いはない。イエスとの出会いが鍵!
上に対する返信
神を信じれば死んでも死なない永遠の命を与えられるので、放射能なんて気にする必要なくなって万々歳……と言えるでしょうか? まったく異なる次元のことを同一地平で語ると、なんだかそれ自体が馬鹿馬鹿しく思えてしまいます。
私は、「何を勘違いしているんだろうか?」と思いました。案の定、山東さんも「全然違う」と言っていろいろ説明しましたが、ますますぼろくそに言ってきました。
私たちにとっての東北救援旅行には、「次の一歩への強い祈り」があります。それは、現地の人々がまことの救い、天地万物を造られた神に、キリストを通して立ち返ることです。原発の問題の背後にある人間の罪の問題、そして全人類の、東北の被災者も含めて存在している罪の問題は、全く同じ罪の問題であり、イエス様を知ると言うことでは至極簡単なことだ、という話です。
「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ローマ3:19)」
その相手は聖書についてのツイッターを持っています。そして自己紹介には「ノンクリ」と書いています。実に聖書のことについて詳しく知っているのですが、私たちの日本語の文章の全体を読まず、その一部一部をちぎりながら、ことごとく歪曲して批評するのです。こんなに聖書の知識があるのに、たった一文字の聖書の言葉も理解できないなんて、・・・可哀そうになってきます。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)」
山東さんが、おそらくこのことを振り返りながら、ツイッターに長い文章を書き込まれました。
なぜ、ある人たちがいくら聖書の福音を聞いてもわからないか一つの原因はここにあります。それは『日本教』にです。日本で生まれた私達は知らず知らずの内に『日本教』が刷り込まれて、神はいないんですよ。でもいる事にしましょう。それによって心や生活が変わるならおるわけで、って、それはいないんですよ。
だから本当に聖書のことを知りたければ、まず聖書の言う通り『天と地を造った神が実際におる』という所からスタートすることが不可欠です。
でも、神が今直面してる経済問題、放射能汚染、大学受験に何かしてくれんですか?
ま、こころの持ちようというのも大きいでしょうがって・・・。違うんです。
聖書のいう神は実際の私達の生活にもろ関わり、介入してくれるのを知らない、体験したことのない人の話で聖書を聞くから、目が閉ざされてるんですよ。ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には
報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。ですね。
いない者をいることにしてなら、まるでサンタクロースといっしょでしょ?
単なるプラシーボ効果ですよ。
聖書の神は実際にいる、ここからスタートしないと見えません。
聖書の神はあなたを愛し、あなたの今日の生活に介入してくださる
これを信じて、単なる気のもちようを遥かに超えた、神を体験してない人が色々なわけのわからない神学で、聖書を語るのですよ。それも責めません。だって彼らは知らないのですから。
では、知った私達は、洗脳された思い込みの人々ですか?思い込みでローマ帝国がひっくり返ったり、
思い込みで1948年に1900年間地上から消えていたイスラエルが
復活しますか。思い込みで、クリスチャンが存在しますか。
(もちろん、多くの宗教レベルの “クリスチャン”の存在も認めますが、
実際に聖霊が下って内に住むという 新生クリスチャンが存在します。)聖書の神は実際にいる、ここからスタートです。
この神はあなたのことを心より愛しています。
ここからスタートです。
実に愛のある文章ですね。その人はクリスチャンの仲間をかき乱す、狼になりえる人ですが同時に求道者です。忍耐が試されます!
上の題名の日本語訳は、「わたしはどちら側に付くために来たのではない。乗っ取るために来たのだ。」です。
この言葉は、「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏によるものです。ユダヤ人共同体の中でもイエスを信じる人が多く起こされ、またパレスチナ人の中でもたくさんイエス様を信じている人が起こされています。神がユダヤ人側に付くか、パレスチナ側に付くかではなく、どちら側に対してもその心を支配するために来られた、ということです。(その発言のビデオがこちらにあります。)
皆さんの中で、こういう経験はないでしょうか?自分にとって親しい人が、これまた自分にとって親しい人のことを批判している・・・。友人であれば、だれかから批判や非難を受けた時、その人を擁護するために立ち上がります。けれども、どちらも親しい人である時にはどうすればよいか迷います。
そして、それぞれの意見には一理あります。けれども、その判断はすべての事実に基づいておらず、一部だけを取り上げて話していることも分かります。意見そのものには同意できても、それが事実に基づかない判断から派生しているのも知っています。
その時に思い出すのが、上のユーセフ氏の言葉です。解決は、意見の擦り合わせや仲介も役立ちますが、それ以上に「主がどちら側も働きかけ、その心を乗っ取られる」ことによるものだと感じます。
ピリピ人への手紙にあるパウロの言葉の多くが、私には深く響いてきます。
1)パウロは感謝し、喜んでいた。
パウロがこの手紙を書いた時は、ローマの獄中にいました。けれども、この手紙には「喜び」が満ちています。彼は「獄中にいる」という否定的な要素を、親衛隊を始めとする周囲の人々が信仰を持つことになったという神の働きとして見ています。
しかも、彼が投獄されたことにより、福音を語り始める兄弟たちが一挙に増えました。中には、「党派心をもって、キリストを宣べ伝えている」という、相手を蹴落とすことによって自分の働きを広げようという、陰険な動きもあったにも関わらず、彼は、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。(1:18)」と言いました。
彼は、このように喜べる要素を知っていました。それは、「主にあって喜ぶ」ということ(4:4)。そして、「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8)」と言いました。主がすべての事柄において、たとえそれが否定的な要素であっても、生きて働いておられることを知って、そこから見えてくる真実、誉れ、正しさ、清さ、愛、評判、徳などに目を留める、ということです。
そのことができると、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。(4:5)」となることができます。どちら側に付くという狭い心ではなく、すべての人に心を広くすることができるのです。
2)自分をちりあくただと思う
パウロは感謝し、喜んでいられるもう一つの理由として、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。(3:8)」と言っています。詩篇103篇14節にも、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」とあります。
私たちがある人に対していらだたしく感じ、怒り、恨む時のきっかけは、「この人は私に対して、これこれ、こんなことをした。」という被害意識です。けれども、そもそも「私」は何者なのでしょうか?塵しか過ぎないと聖書は言っています。これらのことは、主の許しの中で、いや主ご自身が引き起こされた問題であり、「主が支配されているのだ」と分かれば、自己の世界の中で埋没せずに済むのです。自分のことはどうでも良いのです、大事なのは神の国とその義であります。
私たちは、他の人がしていることに対して、必要であれば、御霊の促しにより、戒めたり、責めたりする必要があります。けれども、それを行うときに実際は自分の判断が入り込んでいることが多く、自分自身が裁き主になっている時があります。その人は神の御手の中あり自分が直すのではない、ということを忘れてしまい、相手に介入しようとするのです。
思い出すのがヨブ記です。その物語は、神がサタンにヨブに触れるのを許された、という「神の領域」で起こったことに対して、ヨブの友人が自分の判断や意見を入れることによって介入し、またヨブ自身が友人の裁く言葉に反応することによって、神ご自身の義に立ち入るようなことをしてしまいました。
この時も主は、ヨブの側あるいは友人の側についたのではなく、嵐によって現れて完全に掌握されました。ヨブに神の自然界や動物界における力と知恵を見せつけることによって、彼が「ちりと灰」の中に伏し、悔い改めるように導かれました。そして友人らに対しては、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)」と言われました。まさにGod didn’t take sides; He took it over.だったのです!
3)敬意を払う
パウロは、ピリピにある教会で起こっている、二人の女性奉仕者の間にある意見の対立を意識してこの手紙を書きました(4:2-3)。それで、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(2:2)」と言っています。
そのように一致を持つことのできる方法は、議論や擦り合わせ以上に、むしろその背後にある「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という態度です。そして、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(2:3-4)」と言っています。つまり、相手を尊重する心、敬意を払う心が必要です。
そうすれば、自ずと今まで自分が見えていなかった、相手についての事情が見えるようになり、相手への同情心や寛容な思いが芽生えるのです。
昨夜、恵比寿バイブルスタディの帰りに兄弟たちと少し交わりましたが、みなが救援活動をしているので、少し福島の話題になりました。単に天災である地震と津波はある意味ですっきりしています。けれども原発事故は「人災」の要素もあるので、以前も記事に書きましたが非常に複雑です。放射性物質の数値さえ、専門家によって変わってしまうという状況で、福島県民の方々はいったいどういう思いをされているのかな、という話をしました。
ところで政府や東電が行っている一つ一つの挙動を、鬼の首をつかんだかのように怒り、責める姿に正直、辟易しています。私は東電に対するイメージは単純に「お役所みたいなところ」ということでした。巧妙な隠蔽工作などできる暇がなかっただろうし、東電の方々には申し訳ありませんが、そんな悪魔的に(?)頭脳明晰な人はそこにはいないと思います。
役所であれば、今の被災地でも本当に機能していない姿を見てきました。また個々の避難所においてでさえ、そこのリーダーの手腕によってまるで状況が変わってくるのです。
「なぜ、今頃メルトダウンが分かったのか?」という怒りの声はもちろん理解できますが、そのような杜撰な姿は、皆さんの身近な所でもこれまでいくらでも起こってきたと思うのです。役所のようなところに行けば、きちんと対応してくださる職員の方も大勢おられますが、2-3分で終わるような手続きで1時間ぐらいかかったり、相手に非があるのにこちらが悪いと逆に責めてくるとか・・・。小さなレベルでは沢山あるのです。
私たちも同罪
はたして私たちは今回の地震は「想定」していたでしょうか?また地震の事前防災はされていたでしょうか?水、食糧、避難場所がどこにあるかなど、分かっていた方はどれだけいたでしょうか?あれだけ買いだめしたのは、今回の地震が「想定外」だったからではないのでしょうか?
(私も、3月11日の二日前、沖縄カルバリーチャペルの水曜礼拝で説教の奉仕でした。ある方が、「仙台で震度4だったって。」と仰っていましたが、私は、「いつもの事だから。」と言って親に連絡しようとはしませんでした。だから、地震が起こって通信不能になった時に後悔しました。)
私たちでさえ混乱したのですから、人間の集まりである東電という企業もまた政府も混乱し、収拾がつかなくなったというのは容易に想像できます。
そして津波で死んだ方について言いますと、死んだ人々に鞭打つことになってしまいますが、被災地で生き残った方々の声を聞くと、多くの場合「そんな大きな津波ではないだろう」と思って、自分の家に戻ったり、混雑した道路にずっと止まっていたり、つまり「想定」していなかったからなのです。
そして、「福島県民のことを考えろ!」という怒号も聞こえます。けれども、福島県民こそ、長いこと原発推進の歴史をたどってきた人々であり、実に東電やその下請けで働いている人たちが大勢いるのです。県民の方のブログにはこう書いてあります。
原発事故の被害を受けている福島の人々は、「こんな被害を受けているのに、それでも原発をとめたくないという人は、私たちの気持ちがわからない」という気持ちでいっぱいのことだと思います。
しかし、私は、原因究明なしには、それを言える段階にはありません。確かに、自然とは共存しえないものだということは人間としてはわかるのですが、どうして想定外のことが、地球に何基もあるのにわざわざこの福島で起きてしまったのかということを知らなければ、これまで福島県が原発を誘致してきた意味がなくなってしまいます。今、原発とともに福島が歩んできたのがなぜか、わからなくなってしまいます。世の中で今、言われているように、「安全だから」という思考停止に陥ってしまったから、受け入れてきたというだけなのでしょうか。私にはなんとなく、そうは思えないのです。それを知らない以上、原発反対に足を踏み入れることはできません。
私が一番腹が立つのは、被害を受けていない人で、いきなり原発反対に目覚めた人たちです。微量たる放射性物質被害を受けているからそう感じているのか、それとも福島県民に同情せんがためにそう感じているのかは定かではありませんが、真に福島のことを思うのならば、そのように安易に原発反対に舵を切れることはないはずです。これこそ、思考停止の最たるものであり、私はそういう方々を軽蔑します。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare/35372712.html
ここで言われているように、津波の被災者が「これだけの津波がなぜ三陸に、そしてこの時に起こったのか?」と言っているのと同様、「地球に原発が何基もあるのに、わざわざこの福島で起きてしまったのか」が大きな疑問であり、これはまさに霊的困惑である「神がおられるなら、なぜ・・・」という問いなのです。こちらに私たちキリスト者はもっともっと、心を使って祈っていくべきであり、その答えを聖書の神は持っておられることを、心を砕いて伝えていくべきではないかと思います。
そして反原発運動の中でも、誠実な心から行っている人々はいます。(私は反原発に反対しているのではなく、一連のブログ記事で、「恐れ」「混乱」「裁き」「怒り」などの霊的問題を取り扱っています。)例えば、次の記事を見つけました。
反原発のキャンドル・ジュン、意外な言葉「原発を推進した人を責めないでください」東京電力の職員を思いやる
やはり私は、今回の大震災で思わされているのは、「神が憐れみによって、このことが起こるのを許してくださった。ヨブと同じように、全てがそがれた後で、それでも残る「命」そのものへの根本的問いを人々がすることができるようになるためだ。」ということです。そして、原発事故のことで必要以上に不安になる、混乱する、怒る、責め立てるなどの反応は、まだ、「旧態依然の安定した、物にあふれて、どこかが病んでいる日本の姿」のままでいるからだな、と感じるのです。
曾野綾子氏の過激発言
カトリックの小説家、曽野綾子氏がかなり叩かれているようですが、以下のような発言をしています。
瓦礫を薪にして暖を取れ
曽野 「原発や被災者支援などに対するマスコミの質問もおかしかったですよ。「明日はどうなるんですか」「物資は公平に配られていますか」ですって。もうやめてもらいたいですね。この非常時に、予定どおりの明日がくるなんて誰にも分からない。
そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。もっとひどいのは、「その委員会はいつ立ち上げたんですか」。緊急の時に過去のことなんか聞くな、でしたね。
私は報道に関しては、あれだけの地震や津波の映像をきっちり記録してすぐに国民に知らせたり、原子力保安員や東電がきちんとぺーパーをつくって毎日現状報告をしていることは、すばらしいことだと思う。」(中略)
曽野 「私は、未だに答えのない疑問を持っているんです。「避難所が寒くて凍えそうだ」「低体温症で体調を崩している」「温かいものが食べられない」という報道がありましたが、あれはなぜ? そこらじゅうにあんなに薪があるじゃないですか。瓦礫の処理が大変だと言っていますが、どうして木片は燃やさないんですか。
同じ高さの石を三つ積めば竈(かまど)ができるんです。そこに、あれだけ燃やすものがあるんだから、あとはどこからか鍋を拾ってくればいい。私だったら、あそこで薪を集めて食事をつくります。」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20110518/p1
こうした一連の発言に対して激しい非難がありますが、コメントの中にはいくつか「一理ある」としてこういう意見を言っています。
「曽野綾子の念頭にあるのはアフリカとかの日々の食事もままならない所の話。これまでの取材の経験などから最悪の想定が常人とは少し違う。だから日本のこれまでのモノにあふれた日常が甘っちょろいのであって…と言う話。」
「電気がとまれば民主主義が停止する、は『アラブの心』という著作で言及されています。「瓦礫を薪に」というのもおそらく日本財団の関係で訪問した発展途上国で見た風景を二重写しにされているものと推測します。」
実は私もこれに同感なのです。まだ批判・非難が出来ているということは、本当に被災していないのです。本当に被災した人々は、ただ黙って動いています。
被災地を含めた今回の震災の日本と私が以前いたところでは、まだ前者の方が状況は良いのです。私も分刻みの東電や保安院の報告には驚かされました。国によっては、職員や労働者はすぐに逃げて放射能は垂れ流し、政府も一年後ぐらいに、どうしようもない報告を出すだけに留まるでしょう。(そうした発展途上国が今、ドイツのような先進国とは裏腹にどんどん原発を設置しようとしています。)
そういう所にいる人々は、どんなに政府が腐敗していようが、行政が全く機能しないであろうが、不平など言えないし、言ったところで変わらないし、下手をすると投獄されます。だから、ひらすら生きるだけです。ゆえに、たくましい。
だから、私も曽野さんのように「最悪の想定」がもっと違う変な日本人(?)かもしれません。「車が流された?まあ、わが奥さんも一時間ぐらいかけて、リュック背負って泥まみれになって買い出しに行ったしな。」停電も、「えっ計画?抜き打ちじゃないようにしてくれているんだ、すごい!」と驚いたし、放射能汚染の東京の水道水も「ものすごい厳格な基準値だね!この水のほうが、他の多くの国の通常の水より、ずっときれいじゃん。」と真面目に感じてしまいました。
ですから、私はこの基準の高い日本を神に感謝しているし、同時に、その感謝を忘れているから、不安とかストレスとか、怒りが生じて、日本人を精神的にそして霊的に摩耗させているのではないか、と感じます。
今日(昨日?)は、久しぶりにプールに行って泳いできました。そして、ブログで個人的にコメントをしてきてくださった方と有意義な対話をすることができました。
それで、いろいろ原発に関わるいろいろな意見をネットで読みましたが、今日気付いたのは、「日本も北朝鮮と変わらないじゃないか。」ということです。北朝鮮では、「将軍様マンセー」というお題目を必ず自分の意見を発表する時に付けるのですが、日本は「菅政権はどうしようもない」と、どんな問題のことを話していても、出てくるのです!何の関係があるんだ?と思ってしまいます。これは反原発の人たちだけでなく、推進していたり、保守層の人々の口からも連呼のように出てきます。
そんな中で、実にうならされる良い記事を見つけました。
「最悪時」前提に設計見直せ 原発事故に学ぶ 畑村洋一郎 東京大学名誉教授
(上は日経の記事で登録会員にならないと読めないので、この記事を全文引用した福島県民の方のブログをリンクします。事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【1】 事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【2】)
また産経にも同氏に対するインタビュー記事があり、内容は似ています。
こうして感心して読んでいたら、なんと、福島第一原発を巡る政府の「事故調査・検証委員会」の委員長になった方なんですね、驚きました。
初めの日経のサイトの記事ですが、そこには宮古市の防潮堤についての話です。
被災地を回って気付かされることは多い。岩手県宮古市田老地区では、新しい防潮堤は津波で破壊されたが、昭和8年(1933年)の大津波直後に設計された防潮堤は原形をとどめている。
どういうことか。地形を見てみると分かる。新しい堤防は湾口に対して直角に、真正面を向いて建設されている。だから津波の勢いをまともに受けて破壊された。これに対し、古い堤防は湾口に対して斜めを向いている。津波の圧力を真正面から受け止めるのではなく、山の方向へ逃がす設計になっているのだ。
昭和8年には高さ15メートルの大津波が田老地区を襲った。先人はどれだけ巨大な防潮堤を建設したところで、津波を完全に押し返すことはできないと悟ったのだろう。水が入ってきたとしても、退避のための時間稼ぎができればいいという発想だ。古い防潮堤の内側は高台から放射線状に道が延びるなど町全体が高台に逃げやすいようにできている。
・・・
今回の復興でも高台に町を移転するというだけでいいのか。すぐに逃げられない高齢者は高台に住むとしても、むしろ防潮堤はあまり高くせず、いつでも逃げられるように適度な警戒感を持って生活した方がいいのではないか。
昔の人たちの方が、今の科学万能主義の考えよりもはるかに知恵を持っていたのです。「自然の驚異に対して人間の力が対抗できるわけがない、だからその勢いをある程度受け、それをかわすようにする」という発想です。そして「適度な警戒感を持って生活する」ほうが、よっぽど健全で理にかなっています。そして極めつけは次です。
もう一つ、田老地区の古い防潮堤の水門の事例を紹介しよう。筆者が1996年ごろに訪れた際、手動で水門を開閉していることに興味を持った。「なぜ手動なのか」「電動では、電気が来なくなると閉められないでしょう」。案内人は答えた。今回再度訪れたところ、津波が来る前に水門は閉められ、被害を小さくするのに役立ったという。
あまりにも当たり前ですね!電気がなくなるのは。でも、これは頭脳明晰な東電の人たちも「想定」していなかったすぐれた知恵です。
私も常々思うのですが、昔の人たちのほうが今の私たちよりも明晰であったのではないかと思います。キリスト教の中でも言えるのですが、比較的昔の人々の言葉のほうがずっと残ります。「もっと改良しなければならない。」と考える最近の人たちの話のほうが、かえって洗練されておらず、瓦解することが多いです。
東電を責めない
そしてこの方の議論で優れているのは、これを「東電を責める」ことにしていないことです。
しかし最悪の事態を想定しなかったとして、東電ばかりを責めるのはどうかと思う。「あいつが悪い」と指摘するのは「別の人ならばうまくできた」という問題のすり替えにつながり、物事の本質を分からなくしてしまう。
その物事の本質とは何かと言いますと、「日本的企業の体質」であると言います。国の基準を守っているから問題ないという東電の考え方は、緊急事態では機能しない。」とのことです。けれども、これは企業に限らず、個々人の私たちがそういう体質を持っており、災害対策で重要なこととして、「(1)自分の目で見る(2)自分で考える(3)自分で決める(4)自分で行動する。この4つが重要で、第三者が決めたことに従って失敗すると、「自分は悪くない」と言い訳をする。」とのこと。
そう、つまり東電の問題だけでなく、私たち自身が問題なのです。何か問題が起こるとすぐに政府のせいにする、行政のせいにする、学校でも会社でも少しでも不都合なことが起こるとすぐに文句を言う、という「問題の摩り替え」を行っているのです。自分自身が、物事に果敢に対処する、頭を使って状況判断をする、クリスチャンであればそれが「御霊に導かれる」ことである、ということです。
続けて三陸海岸の話をしておられます。
三陸海岸では小学校で津波に対する教育や訓練を日ごろから実施していた。しかし、あらかじめ町や村が決めた避難所に逃げたのに津波にのみ込まれてしまった惨事がある一方で、決められた避難所よりもっと高い場所に逃げないと危険だと自分たちで早く判断して逃げて助かった小学校もあった。
私たちがしばしば行く東松島の被災地においても、仙石線で石巻と仙台を結ぶ列車がそれぞれ上り、下りの二つが走っていて、片方は地震後、マニュアルに沿って避難してその避難所が津波で流されたのに対し、もう片方は車掌らが避難所に誘導しようとしたところ、地元の人がとっさに、「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」と叫び、皆、その言葉に従ったそうです。そしたら、津波がまさにその列車の周りに襲って、その高台だけが冠水しなかったとのこと。(運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅)
この咄嗟の状況判断が、東電はまるでできていなかったこと、けれども当人たちは「真面目に」現行通りのシナリオで動こうとしていたのです。(それでも例えば、現場の吉田所長が官邸や本部の指示ではなく、一時間注入をし続けたという面もあります。)
御霊に従うのは「もどかしい」
ぜひ、使徒の働き27章を読んでください。そこにローマに向かう船の中に、パウロを含む囚人が乗っている場面が出てきます。パウロは人々に注意して、「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。(10節)」と言いました。けれども、「百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。(11節)」とあります。パウロは状況を見て御霊によって語ったのに対して、百人隊長はいわば「マニュアル」を信じたのです。
けれども嵐の中で死ぬ思いをしていた彼らは、パウロが次に神から語られた言葉はようやく聞く耳をもって、彼の指示に一つ一つ従いました。それで一人も命を失う者はありませんでした。
この前のローマ人への学びは8章前半で、「御霊に従う」ことでした。これが、捉えどころがなく難しいという感想が出てきましたが、その通りで御霊の導きはまさに「捉えどころ」がありません。マニュアル化できないのです。他の人が行っていると言って、それを行ってもうまくいかないのです。そしてある時にうまくいったことも、次にうまくいくかわからないのです。そして、パウロのように信用されなかったりすることもあるし、批判されることもあります。けれども、「これだ」と御霊に示されたことを果敢に行っていくことが必要なのです。
神の御声を聞くことは、たった独りでしかすることができません。他の人が代わりにすることができないのです。けれども、これを行わない限り信仰が芽生えません。これはもどかしいです、けれども聞き従った時に、これまで体験しなかった、不思議で新鮮な御霊の働きを体験できるようになります。
昨日、午後の第二礼拝の後、その疲れを取るようにチェンネルサーフィンをしていたところ、次の番組に釘づけになりました。
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NHKスペシャル シリーズ 原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか
いまだに危機的な状況が続き予断を許さない原発事故。当初の想定を超え、水素爆発やメルトダウンなどが進行し、後手後手の対応の中で、汚染は拡大していった。
なぜ、ここまで事故は深刻化したのか。事故対応にあたった官邸、保安院、原子力安全委員会、そして東京電力はどう動いたのか。
当事者たちの証言と内部資料をもとに徹底検証する。
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非常に衝撃的な内容でした。先日の記事「政府や東電を信用するな?」に書きましたが、私は、「いわゆる意図的な隠蔽工作はしていないだろうが、それぞれが目の前にある問題に対処するのに精いっぱいで、全体像を見ていないために、その実直さが裏目に出たのだろう」と思っていましたが、まさにその通り、いやそれ以上でした。
詳しいことはぜひこの番組を見ていただきたいのですが、再放送が「6月13日(月)午前1時30分~2時28分 総合 (12日深夜) ※近畿ブロックは午前1時43分~2時41分)」にあります。
情報の錯乱と連絡系統の破綻
東電は、予備電源不能、ベントなど「もうこれで終わりだ」という絶望に近い声を上げ、保安院そして官邸までの連携が取れず、官邸では各党の党首と会う菅首相が会っているので待っている状態。原子力委員会は「水素爆発は起こらない」と判断したこと。あまりにも情報が官邸に上がってこず、官邸と保安院と原子力委員会の連携が破綻したため、菅首相は有識者らの集まりを別に設定、そこで「二号機も爆発する」と言った人がいたにも関わらず、それが知らされず自衛隊が出動し、ちょうど到着して車両のドアを開けた時爆発し、自衛隊員が被爆したこと、避難民への指示も「マスクを口に当てて」ということしか言っておらず、そして風向きの情報が官邸にあったにもかかわらず、その指示を出さず風向きに避難してしまったなど・・・情報錯乱と混乱の連続の姿を見ることができました。
けれども同時に、分刻みの記録は東電も保安院も克明に記しています。官邸も、届いた情報に基づき、国権で全力挙げて東電を手助けしている様子も伺え、菅首相も与えられた情報と混乱収拾のために、常識ある行動をしていたことも見ることができます。
しかし、「不確かな情報を流すことはできない(官邸)」「官邸はどう見ているのだろう(保安院)」など、慎重さと相手への配慮(?)が大きな仇となりました。また、東電の現場を指揮する吉田所長は下請けの作業員に被害を負わせてはいけないと判断し「撤退」と言った言葉が、東電社員は残っているにも関わらず、官邸の首相を激昂させ、東電本社に乗り込み、「撤退は絶対に許されない」という怒号を上げたことなど、それぞれが真剣であるがゆえに、その混乱も拡大されていった様子も伺うこともできます。
問題は現政府にあるのではない
ところで、私はちなみに、原発推進論者でないことを前もって言っておきます。けれども、「想定外という東電の言い分は間違っている」というのは、はたしてその通りなのでしょうか?反原発の人たちは、今回の未曾有の津波を想定したのでしょうか?けれども、核分裂というとてつもない危険な作業をしている発電所は、あらゆるシナリオを想定しなければならず、千年に一度と言われる地震が完全に予想できなかったわけではないことも踏まえると当然責任はあり、このような混乱をもたらした危機管理の不備は菅政権にその責任を問われてしかるべきだと思います。
しかし菅首相を退陣させることによって、問題は解決するのでしょうか?菅直人という個人の判断ミスというよりも、むしろその危機体制を整備していないことこそが問題であり、今後誰が首相の座に就こうとも、全く同じ問題が起こると思っています。これは、小泉政権以後、次々と首相が変わる日本全体がおかしくなっていることにも関わっています。
私がいつも思い出すのは、アッシリヤによって滅びる前の北イスラエルの後期の姿です。新たに王が立てられるや、その家臣が引きずりおろし、自らが王となり、それが繰り返されてころころ変わっていく姿です。
「彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリヤの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエとを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカは彼を殺し、彼に代わって王となった。(2列王記15:25)」
「そのとき、エラの子ホセアは、レマルヤの子ペカに対して謀反を企て、彼を打って、彼を殺し、ウジヤの子ヨタムの第二十年に、彼に代わって王となった。(同30節)」
北イスラエルは、「主の目の前に悪を行った」という根っこの問題があったために、王を摩り替えてもアッシリヤに滅ぼされたと同じように、日本にも現政権よりももっと深い、根っこにある問題があるように思われます。
太平洋戦争の教訓
私は東電・保安部・官邸にある意思決定のありさまを見るにつけ、太平洋戦争を決定せしめた指導部の意思決定を思い出しました。同じくNHKスペシャルがかつて、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」というシリーズで、「第4回 開戦・リーダーたちの迷走」という題名で取材をしています。
日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。
日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html
彼らは、冒険主義ではありませんでした。それぞれの組織の中で誠実であり、むしろ慎重な姿勢を貫きました。しかし、だれもが「責任」いいかえると「指導権」を取ることを避けました。そして、彼らが最も気にしていたのは、実は「国民」でした。「戦争できないということが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。」がそれです。
これは第4回ですが、第3回には、「”熱狂”はこうして作られた」という題で、こう要約しています。
日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110227.html
実はファシズムと言われていた戦時中の日本と今の日本は同じであり、指導層は、マスコミによって煽られた人々の空気に縛られていました。小泉以後の自民党政権にしろ、現民主党政権にしろ、いや日本だけでなく、実はブッシュ大統領以後の米国の政権にも見ます。
要は、「相手が気になる」「全体を調整しなければいけない」という、実際は「リーダーシップの回避」という問題があります。「実直さ」「慎重さ」によってさらに増幅されて、制御できない原子炉のように全体がどんでもない方向に突入していくのです。
大局のない人々
とどのつまり、これは私たち一人一人の課題です。それは大局から計画し行動する、ということです。政府や東電を批判する前に、私自身それができているのか?と思うことがあります。
今回、被災地に行き、特に初動段階では、リーダーシップの必要性を切実に思いました。先がどうなっているのか情報が入ってきません。ですから、常識で考えたらすべてが「やらないほうがいい」ということになります。けれども、祈りつつ、「これではないか」と感じることを次々と自分で判断して、決定して行わなければいけません。それを行なうと、自分がもっとそのことに時間と労力を費やさないといけません。その過程で、批判や誤解が生じても、勇気をもって行動に移す時に、事が進んでいきました。
それを別の言い方をすると、「御霊に導かれる」ことです。御霊に導かれるときには、相手がどう思うかとか、全体の調整を見て判断することはできず、ただ自分の意志を独りで働かせることしかできません。指導者とは、つまり全体に与えられている姿を見て、信仰者であれば神から示された幻として受け止めて、それに信仰をもって反応し、行動に移すことです。「この人はどう思うだろうか。」「これをやったら、自分が労苦しなければいけない」などの懸念を振り払って行っていきます。
以前、「ロゴス・ミニストリーと日本の教会」という論考を書かせていただきましたが、そこに「内から外へ向く御力」という部分がありますが、神が与えてくださるのは大局なのです。そして小さな事柄は、その大局に付いてくるものです。小事を調整するあまり、大きな方向性が誤ったところに向いていることに気づかないのです。
私の住んでいるマンションの総会に妻が参加しましたが、ほとんどの人が発言を控えていました。一人だけが延々と話していたとのことです。けれども、これが太平洋戦争前の日本の縮図であり、原発事故の危機管理の縮図でもあります。「どうしようもないな菅政権」と人差し指を差している時、三本の指は自分自身に向いているのです。リーダーシップを取ろうとしない姿、全体の和を崩したくない姿、自分の生活を乱したくない姿、すべてを静かに丸く収めようとする姿、それゆえ何が実際に起こっているのか真相をつかめない姿、けれども、文句だけは人一倍言っている姿です。
数日前、福島原発で実はメルトダウンが起こっていたというニュースが流れて、なおいっそうのこと「政府や東電を信頼するな」「彼らは嘘をついている」という言葉が多くなりました。そして、「風評被害」に対しても実際なのではないかという疑いを言う人たちが多くなってきたと思います。このことに関する私の困惑の思いを分かち合わせていただきます。
日本は良い国
私はアメリカに二年半、韓国にも三ヶ月、そしてまた別の国に五年ぐらい住んでいました。そして日本に再び定住する生活を送っているのですが、日本のことが本当に好きになりました。日本では当たり前にされている制度や習慣、態度が、他の国々では存在しておらず、当たり前に思っていたことが実は尊い遺産であり財産なのだと知るに至ったからです。
さらに、東日本大震災において被災地に何度か赴き、同じ体験をしています。当たり前に与えられていた安全や豊かさが取られた今、そこに残されたのは真の生きる意味でした。これまで安全や豊かさがあったがゆえに、人々が置き忘れていたものがそこにはあります。それがまことの神とキリストに出会う機会になってくれればと願ってやみません。
この前置きを言った後で極私的な意見を言わせていただきますと、政府や東電はずいぶん頑張っていると思います。誠実に国民に対して説明開示をしようと努力しています。「えっ?何を言っているんですか?!」と反発される人々も多いかと思います。けれども、日本在住の外国人たちがなぜ海外に逃げてしまったのかは、彼らにとって政府や企業はそれだけの存在だからです。自国の政府が隠し、また社会の中でも互いに騙しあうことが頻繁にあるために、災害のような危機に面する時は、全体で動くのではなく我が身の安全を守ることを優先するのです。
むしろ、今回政府や東電が犯してしまっている過ちは、過剰な慎重さにあります。科学的に正確でなければならないことだけに注目し(東電)、また後に国民から批判を受けないように言葉を慎重に選び(政府)、かえってその過剰な実直さから結果的に誤報を流しているのではないか、と感じています。そしてもちろん、目前の問題への対処に明け暮れた挙句、全体像を見ていなかった結果、問題解決する速度がいつも遅れているとも感じています。
政府は信頼できない???
そして本題に入りますが、私が驚いたのは「信頼できない」という言葉に含まれる、「過去は信用していた」という前提です。そもそも政府というのは信頼したり、頼ったりする対象なのか?ということです。
かつて鳩山首相がオバマ大統領に”Trust me.”と言ってみたり、ドラマでは頻繁に「それでも私はその人たちを信じます。」という台詞が美徳となっています。しかし人や政府、その他の事柄をそのまま信じていくということ自体が、実は「すべてを支配されている神」に信頼していないことを表れなのです。
東電についても、「東電はこれまで安全だと言っていたのに」と言っていますが、安全などもともと存在しないのです。むしろ、主の憐れみによってこれまで安全を保っていることができたのだ、というのが正解なのです。今も、放射線物質は原発から漏れていますが、主が憐れみ、守ってくださっているかぎり、絶対に安心なのです。もしそうでないなら、それでも御心の中で起こっているのですから平安です。
つまり、頼るべきお方は神のみであり、私たちの安全は主に属します。
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 (詩篇20:7)
これは国の軍事力により頼むのではなく、主ご自身に安全をより頼もうということで、日本について言えば災害に対して誰に拠り頼むのか、それは政府ではなく主の御名なのだ、ということになります。
そして詩篇91篇全体をお読みください。その一部だけを引用しますが、
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(3-5節)
疫病や恐怖は、まさに今、そのまま「放射能汚染の恐怖」に当てはめることができるでしょう。神を信頼している者は、基本的にそれらのものを恐れないのです。恐怖というのは、私たち人間にとっての敵です。神はイスラエルに戦いの勝利を与えられるとき、敵陣に恐怖を植えつけられました。それで例えば、300人のギデオンの軍が13万5千人のミデヤン人に勝利できたのは、彼らが恐れて同士討ちを行なったからです。恐怖は人間を破局的な行動に駆り立てる力となってしまいます。
けれども、恐れないのは無防備になることではありません。マルコ16章において、福音宣教に対する約束として、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、病院に手を置けば病人はいやされます。(18節)」とあります。この聖句を使って、蛇をつかむ集会を持ったりする極端なグループがいた話を聞きます。また無理やり病院に行かせず、適切な治療が受けられなかった信者が死んでしまった話も聞いたことがあります。それはすべて「主を試す」という罪であります。
けれども、福音宣教のように、主の御心を行なおうとするときに、やむを得ず生じる危険に対して、主が必ず守ってくださるし、また医療の手段がなければ超自然的に癒しも行なってくださる、という約束です。ですから無防備になれ、ということではなく、「注意を払うが、思い煩う必要はない。主が守ってくださる。」という立場なのです。ですから、私は毎日ニュース記事を読んでいるし、しばしば大気中の放射線量サイトも開いています。けれども恐れません。東北地方に行くのも、20キロ圏外であれば福島に行くのもためらわず行ないます。
むしろ、不安になったりするのは、本当の危険が迫っているからではなく、余裕があるからなのです。安全圏に自分がある程度いるので、思い煩っているために起こっています。風評についてこのような記事がありました。
まず、風評というのは危険が切迫しているから起きるのではないということがあります。むしろ、その時点での危険は「遠い存在」であること、そして危険回避行動について「選択の自由がある」という条件があって初めて「蔓延」するのです。まず「遠い存在」であることから、実態が良くわからないという状況になります。分からないから不安であるし、政府やマスコミは何かを隠しているのではないか、そんな疑心暗鬼も生むわけです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/04/post-282.php
そしてあるツイッター記事では、「東京の人々は放射性物質が自分に降りかかる事ばかり考えている。津波の被害を受けて大変な人たちの事もっと考えたらどうか。被災地で原発の話している人は殆どいないと思う。東京より福島原発に近いのに。」という内容がありました。今でこそ少し安定して、テレビでニュースを見る余裕もあるので、被災地では放射能の話をしておられる人々もいますが、基本的にこれは事実です。
思い煩いというのは、「自分で支配・制御できなくなった」ところから来る不安であり、罪です。自分を支配しておられるのは神なのです。私たちはこれまで、自分たちで守るという、自存心、相互への依頼心によって生きていました。だから、政府や行政、その他の機関が機能していないと不安になるのです。けれども、神は機能しておられます!むしろ、頼るべきものが取られたとき、神が支配しておられることを知ることができて幸いなのです。
私の実家も、いろいろなものが神にあって取られました。それで、「すっきりした。これまで思い悩んでいたものが、はっきりと取られて、神の御心をはっきり知ることができた。」と両親は言っています。ある教会の牧師は、「教会堂がなくなってしまって、かえってすっきりした。」という大声ではいえない(?)感想も漏らしています。
主が避難所なのです。「わが避け所。わがとりで。私の信頼するわが神。(詩篇91:2)」・・・興味深い話を聞いたことがありますが、1980年代、老夫婦が核戦争の危機に対処するために、地球上にある住居地をくまなく、細かく調べたそうです。世界中でどこが核戦争の危険を回避できるか、平和と安全を確保できるかを決めようとしていました。研究と旅行をし尽くしました。クリスマスに、その老夫婦は母国の教会の牧師に、新しい住居からのクリスマスカードを送りました。フォークランド諸島です。ところがその「楽園」は、今や現代史で「フォークランド紛争」と呼ばれる、英国とアルゼンチンとの間の戦地になったのでした。
政府は神のしもべ
そして、私たちは政府に対して、また公の機関に対して(東電もある意味で公的な役割を果たしています)、どのような態度を取るべきか、見てみましょう。ペテロ第一2章13-17節です。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
政府や行政は、私たちの神にその権威を与えられた、神のしもべです(ローマ13章1節)。キリストを信じる者は、これら政府などに従属していない神の子供であり、キリストにあって王であり祭司です(黙示1:5‐6)。日本政府も東電も神の御手の中で動いていることを確信することができ、ゆえに、政府を信じるとか信じないとか、まるで彼らの奴隷であるかのようにあたふたする必要はありません。
キリスト者はこのような自由と余裕を与えられているのですから、むしろ、積極的に神が置かれた権威に敬意と誠意を表していきます。善を行なっていきます。これゆえに、私は、批判しこそすれ、政府も東電も意地汚く罵ることはできません。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」とあるとおりです。そして全ての人を敬い、神を恐れ、王を尊びます。「日本人はお上の言うことに従う国民性を持っている」という人たちがいますが、私たちはお上だから従うのではなく、神の証人として従うのです。
それゆえ、私は自分の区にある災害対策室の人と話せたことを幸いに思いました。被災地で自衛隊の人たちと笑顔を交わし、挨拶をし、会話ができて幸せでした。そしてニュースで毎日見る菅首相や官邸にも、感謝しています。「菅首相、ご尽力ありがとうございます」と一言、メールにでも声をかけようかなとも思います。
そして私たちは、信仰は「議論」するものではなく、「行動に移す」ものであることを、ここで「善を行ないなさい」というところで見ることができます。政府や東電が間違った方向に進んでいると感じたのであれば、ぜひ祈ってください。神が私たちのために置いてくださった人々なのです!この日本の復興のために知恵が与えられるように、そして何よりも神の栄光が現れるように祈ってください。そして神のゆえに、彼らを敬ってください。
そして、この記事を読んでいる人で関東圏の人は、東電の恩恵を受けているから読めるのです。関東ではない人も、それぞれの電力会社が、24時間、間断なく電気を供給してくれていることを、主にあって感謝してください。私がいた所では、しょっちゅう抜き打ちの停電でした。デスクトップの人は、それまでのデータが消失することもよくあるのです。主の憐れみによって、このブログを読む電力が与えられているし、またそうした余裕も与えられているのです。主が少し思いを変えられれば、パソコンも津波で流され、火事で消失したり、何でも起こりえるのです。感謝してください。
そして私は今の日本の悲劇は、「指導力の欠如」だけでなく、「指導者が愛されていない、尊敬されていない」ことだと思っています。私たちは民主主義の国に生きている前に、神の国に生きている者たちです。表現の自由を悪口ではなく、尊敬と祈りのために費やそうではありませんか。
(さいごに)政府と東電の発表を信頼できない人へ
あのホリエモンがツイッターで面白いことを言っています。「政府や東電が信頼できないなら、民間のデータを参照すりゃあいい。これまでの膨大な研究結果もネットで閲覧できる。放射線被曝の基準も公開されているし統計的データを参照して作られた。それでも信用できないか?」ごもっとも!