ご利益ではないキリスト教

未信者からの質問にどう答える?

礼拝後にした、ある人との会話がとっても良かったのでシェアします。ちょっと脚色つけていますが、ほとんど同じです。

「もし、こんな質問を信者でない人から受けたらどう言えばいいですか?『結局、キリスト教だって、「信じれば天国に行ける」と思っているから信じているんじゃないですか?ならば、それもご利益と変わりないですね。』」

私:「私たちキリスト者が『信じる』というのは、意味が違います。下から上に行けるのではなくて、天から地に来られた神が十字架で死んでくださったことによって、その愛を受け入れること、その応答が『信じる』であって、天国に行けるというのは飽くまでも結果なんですね。天国に行けるから信じるのではなく、罪を赦すために血を流して愛してくださったその愛に応答するのが、信じるですね。」

「なるほど、日本人の『信じる』という言葉の意味自体が、違っていますよね。」

私はこの会話の中で、「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)を思っていました。

私たち人間の心には、「~をすれば、祝福を受ける」という行ないによる救いが媚びりついています。けれども神のご計画は、「~をしてくださった」という恵みしかないんですね。その中に留まるために、自分に死ぬ。そうすると、神の恵みによる祝福が留めもなく流れてくる、ということなんですね。

「~をしなさい、そうすれば~なる」という約束 続きを読む ご利益ではないキリスト教

距離を置きたいような神学論議

私は、これまで、警戒しているというか、適当に距離を置いて見ている神学議論があります。その一例が、こちらの神学者のブログ記事です。こんな文言があります。「オープン神論では、全能の神は世界に対するご自分の支配を自発的に制限し、被造物が自由意志をもって自分の行動を選択できるようにされたと考えます。」(引用元)つまり、「神は支配者」という真理に制限をかけているのです。私は正直、このような発言に怒りさえ抱くことがあります。聖書が明言している真理について、人間の論理や感情でそれをばっさりと否定していくように見える文言が多いからです。

しかし、先日、ある牧師さんとよい交わりができました。結局、私たち日本人キリスト者(特に牧師のような教職者)は、「欧米の神学、欧米のキリスト教ばかりに目を向けている」というもっと前提になっている問題があるとのご指摘。プロテスタントの宗教改革以降存在している落とし穴があります。例えば、この記事において、

1.神は全能である。
2.神は善である。
3.世界には悪が存在する。

ということについて、問いかけをしています。しかし、その大前提に「一貫した合理性、前提から結論までつなげる論理をほしがっている」飢え渇きがあるのです。それで、従来の、全ての事象に対して神を第一原因に結びつけていくカルビン的な世界観なのか、それともそれをオープンにするべきかという二者択一の議論をしているのです。 続きを読む 距離を置きたいような神学論議

「平和活動」対「キリストの平和」

この頃、「平和」についての話題の記事が多くなっていますが、このことは、キリスト者に関わるいろいろな平和や和解の働きに関わっているので、強く考えさせられています。次の言葉の紹介から始めましょう。

多くの人が平和活動に対して強く躊躇する理由の一つは、平和活動家自身が求めている平和を、その人たちの中に見出せないことにあるのです。しばしば目に映るものは、恐れと怒りを抱く人が、自分たちの抵抗の緊急性を他人に説得しようとする姿だけです。悲劇なのは平和活動家がもたらそうとしている平和よりも、戦いを挑んでいる悪魔の姿しか見えないことです」(「平和への道」(ヘンリ・ナウエン著)92ページ

次のビデオは、パレスチナの町ベイト・ジャラという所で、分離フェンスに反対している、クリスチャンのグループが撮ったものです。

Non-Violent Resistance met with Lethal Force in Beit Jala from Stephen Sizer on Vimeo.

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感情の絶対化

前の投稿「「寛容」という名の「非寛容」」の続きの内容です。

「上」におられる神から、「心の中」の神を求める現代

この頃感じることで「人々が自分の感情を絶対正しいとしてしまっている。」ということです。次の記事に、このような文章がありました。

感情に支配された「絶対正しい」という考え

「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。

自分の感情が絶対に正しいとする基準はどこにも存在しない。他人も自らの感情に基づいて、自分が絶対に正しいと考えている。人間が絶対に正しいと考えることは確実に存在する。ただし、それは複数存在するのだ。自分の感情に固執して周囲から孤立しないようにするためには、近現代人にとって感情が神の位置を占めていることをよく認識しておく必要がある。」 続きを読む 感情の絶対化

「寛容」という名の「非寛容」

「新しい寛容」

パット・ズケラン(Pat Zukeran)さんという日系のハワイの人で、キリスト教弁証者(apologist)ですが、二年前にカルバリーチャペル府中で講演をし、私たちの教会にもお招きした方です。最近は、キリシタンの迫害史の探索のため、二回、ハワイの日系の人々を招いて巡礼旅行を導きました。彼はラジオ番組を持っていますが、クリスチャンのテレビ番組に登場して、今、世界に蔓延している一つの流れを紹介しています。

それは「寛容」の定義、意味です。従来の「寛容」は、「意見が異なっている貴方を受け入れる」というものでした。同意できないことがあっても、礼節をもって対話することができます。異なる意見の持ち主を受け入れ、愛することができる。自分の信じていることを説得することはあり、相手もその人の信じていることを説得することはあっても、それで迫害をしたり、牢屋に入れるようなことはない、というものです。これが従来の寛容でした。 続きを読む 「寛容」という名の「非寛容」

ビリー・グラハムの背教??

「村上密氏に注意!」・・と書かれたらどう思われるのだろうか?という疑問が、下の村上密牧師のブログを見て思いました。

ビリー・グラハムの背教

この方は、カルト化した教会などで被害を受けた人々を援助している貴重な人であり、ブログには出てこない凄まじい現場を通っているのだと思います。俎上に上げているのは氷山の一角であり、その十数倍の事件や出来事を抱えているのだと想像します。

しかし、このブログには必ずしも自分が取り組んでいる分野ではないものも取り上げており、その情報の選択が、「杜撰」と言わなければいけない時があります。インターネットで引っ張ってきて、継ぎ接ぎだけをしているのではないか?と疑われるものが混在しています。その「裏」を取っていないのです。後で説明しますが、上の「ビリー・グラハムの背教」というのは典型的な例です。

以前、カルバリーチャペルにおける不祥事を取り上げたので、そこで私がすぐに連絡したことがあります。(拙記事)文章の最後に、それとなく書いていますが、実は私がかなり情報を急いであげたことによって、ようやく止めることができた誤情報がありました。掲載している写真はカルバリー・チャペルではない、メガチャーチの写真を貼り付け、それがカルバリーのものであるかのように取り上げていました。そして異端的な教えを、カルバリーチャペル・コスタメサで主任牧師となったブライアン・ブローダソンが教え始めたという内容です。その異端的な教えに対する警鐘を鳴らす冊子を彼自身が書いていた、にも関わらずです。 続きを読む ビリー・グラハムの背教??

サイード・アベディニ牧師の釈放

昨日、そして現在進行中で、すばらしい知らせが入りました。イランと米国の二重国籍を持っている、サイード・アベディニ牧師が三年前に、キリスト教徒への支援活動などを理由に拘束された米国人のサイード・アベディニ牧師に、禁錮八年の刑を言い渡たされ収監中でした。しかし、米国とイランの収容者交換の中で、四人の米国人が釈放され、その中にサイードさんが含まれていました。

イラン、米国籍のキリスト教牧師に禁錮8年(2013年の記事)

イラン人7人に恩赦、米国人4人釈放と引き換え 米政府(昨日の記事)

サイードさんのために、全米のキリスト教会が熱心な祈りを捧げてきました。(ウェブサイト)奥様のナグメさんは、カリフォルニアで救われ、アイダホ州にあるカルバリーチャペル・ボイシでご両親も救われた方で、カルバリーチャペルの中では有名人としてよりも、同じ家族として心に留め、祈っていた人が多いと思います。

カルバリーチャペル・コスタメサでのインタビュー(2年前)

Naghmeh Abedini from Calvary Chapel on Vimeo.

彼女は生まれはイランで、育ちがアメリカです。米同時多発テロの後にカルバリーチャペルから遣わされイランに行った時に、サイードさんに出会いました。元ムスリムで、イランの地下教会で大きく用いられていた人でした。危険が増したのでイランを去り2005年にアメリカに戻り、彼も米国籍を得ました。そしてカルバリーチャペルで奉仕をしていました。 続きを読む サイード・アベディニ牧師の釈放

日韓合意の所感

以下は、私の勝手なつぶやき、独り事です。来年への抱負を含めて・・。 初めは、一キリスト者としての意見というよりも、一国民としての意見です。主に日韓関係のことですが、どちら側からも批判を受けそうです。(汗)独善も多分に含まれているかもしれません。

私の安倍首相に対する評価は高かったですが、今回の日韓合意でさらにアップしました。

日韓外相会談

それは政治家としての手腕です。おそらく個人的に持っている彼の思想というのは、かなり右寄りでしょう。私個人は、ちょっと付いていけないという思いを持っています。しかし日本の国益というか、日本の代表者としての使命(野望かもしれませんが)がその個人的信条を上回っています。もちろん、これからも一国民として注視していきますが。

そして、朴槿恵大統領もそのような人と私は見ています。

参考記事:「日韓慰安婦合意・歳暮のサプライズと「後暴風」
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悪という現実に付き合う神

この頃、思っていることの瞑想をお分かちします。

「瞑想」というほどのものではないのですが、「否定的なこと」についてです。聖書には、暴力であるとか、裁きであるとか、そうした否定的な事が初めから終わりまで書かれています。カインの殺人から始まり、最後、人々の争いをなくすために、イエス様ご自身が口からの剣で、その軍隊を滅ぼし、死体の山とせしめます。そして、それらが「主」が起こしたことだと、聖書には記述されています。

このままだと、まるでイスラム過激派のコーランの解釈と同じようになりかねないですね。けれども、主ご自身の教えは愛に満ちています。そして行ないも憐れみに満ちています。そこで多くのキリスト教会が、「神は愛である」という言葉で終わらせ、裁きや義、また戦争を神が引き起こしている部分については、避けている傾向があります。私も正直、そうでした。

けれども、主が引き起こしているように見える一つ一つを見ると、それは実は人が行なっていたり、アダムが罪を犯した後の地、つまり天災も罪の結果で呻いている自然界の表れであり、因果関係において神がしているというものではないのです。良き賜物は天から来ており、そうでないものは悪霊に属しますから。

では、どうやって主がこれらの否定的なことを引き起こしていることを、受けとめればよいのでしょうか?主は、「私たちが悪に取り囲まれているという現実に積極的に付き合ってくださる。」ということです。主がこれらの悪を許されて、それで私たちが取り組まなければいけない課題として放っておかれるのではなく、その悪のど真ん中に来てくださって、それで私たちの平安を与えるためにおられるのだ、ということです。 続きを読む 悪という現実に付き合う神

憎まれる愛

映画「オダシティ」

オダシティ(Audacity) 」(意味:厚かましさ、大胆さ)同性愛をテーマに、聖書から見た真実を訴える話題の最新作を、映画”180″を制作した、Living Watersが作りました。

見ましたが、この主人公のように、愛をもって真実が語れたらと願い、祈りました。(ところで映画のシーンに、カルバリーチャペル・コスタメサのLogos Building(我が校、School of Ministryも入っています)と駐車場がロケに使われています!)

この中で、クリスチャンの主人公ピーターが何とかして、同性愛者にキリストに愛をもって届こうとしている姿が出てきます。けれども、その愛をどのように示すのか?同性愛者の決まった反応は、「あなたがたクリスチャンは、同性愛者を憎んでいる。私たちが地獄に投げ込まれるということだけを、考えているのだろう。」ということです。しかし、主人公はあきらめずに、彼らにどうやって証しをするのかを考えます。その中で、伝道者レイ・コンフォートによる、質問や対話による同性愛者への伝道場面を録画した動画を観ます。 続きを読む 憎まれる愛