The Third Target(第三の標的)

アメリカから日本に帰る飛行機の中、次の本をずっと読んでいました。

The Third Target(出版社のサイト)

イスラム国がシリアで残されていた化学兵器サリンを入手、「第三の標的」をここで行なうと、イスラム国の指導者が語る「その国」とはどこか?これが意外や意外、(いや、本当は意外ではないが)種明かしをすると「ヨルダン」です。

これは、フィクション小説なのですが、ジョエル氏のこれまで出したフィクションはすべて、後でノンフィクションになってしまいました。(氏の著作リスト)イスラム国の台頭も、台頭する数か月前にこの本を書き記していたので、ドンピシャなのです。そういった視点で読むと、ヨルダン国王の政権を転覆させて、シリア、イラクに続けてヨルダンを倒し、そしてイスラエルに近づいて征服する、というシナリオはものすごく怖いほど、現実味を増しています。

そして本書の中に、ヨルダンに対する聖書預言を出しています。アモン(北部と中部)、モアブ(中部)、そしてエドム(南部)は、エレミヤ書等、すべてに荒廃が定められている裁きを受けます。中東和平のフィクサーであるヨルダン国王が除去されるのであれば、これらの預言の成就に現実味を増すという視点から書いたのでしょうが、ゆえにかえって、実際の専門家を越えて先んじて何が起こるかを読み取っています。

The Times of Israelの記事:The Islamic State’s Third Target

「イスラーム国の衝撃」(予告)

年始は、イスラム国についての新書がわんさか出て来ている感じです。これまで雑誌や新聞記事であってものが、体系的になったものとして出てきます。私は兼ねてから信頼できる、イスラム学者として池内恵(さとし)東京大学准教授の著作を追っていました。イスラム国についての解説も情報が溢れていますが、これから「イスラーム国の衝撃」という題名で、著書が出ます。オーソドックスな書物で基礎知識を付けて、それからニュースを追うのが良いかと思います。

イスラーム国の衝撃思い立ったら新書−−–−1月20日に『イスラーム国の衝撃』が文藝春秋から刊行されます

私の中東情勢やイスラムの動きについての主な情報源は英文のもので、イスラエルと周辺の中東発のものが大半です。またアメリカからのものもあります。それと池内氏の発信しているものに違和感がありません。けれども、欧米かぶれしている訳ではなく、実際の第一資料に当たって、自分で思考している姿を見ることができ、日本人としての主体性や、当事者としての意識も感じます。

「イスラム国」を理解する鍵

もちろん、キリスト者としてはさらに、霊的な判断、聖書的な見地を加えないといけません。私はイスラム国は、クリスチャンに分かり易く話すなら、「イスラム版の神の国」であるとみなしています。どの主権国家からも認知されない、アッラーから直接でてきた異次元の「国」であり、それは内的世界だけでなく、行政も機能する「可視的な国」となっています。キリスト者にとって御国は霊的なものであると同時に、将来、キリストの到来によって可視化されるものであるのと同じです。 続きを読む 「イスラーム国の衝撃」(予告)

「帝国の慰安婦」の書評から考える

私が予てから注目していた、朴裕河(パク・ユハ)教授による「帝国の慰安婦」の日本語版が最近出版されたようです。私はこの本をまだ読んでいないどころか、女史の他の著書もまだ読んでいないのですが、インターネット上に出てくる記事を読む中で、日韓の和解について、最も心に沁みて、癒される思いのする言葉を持っておられる方として注目しています。

まずはぜひ、書評をお読みください。

(書評)『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』 朴裕河〈著〉

(論壇時評)孤独な本 記憶の主人になるために 作家・高橋源一郎

(参考:彼女の主張について、良く分かる記事が次にあります。「それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由」)

私は女史の論じる二つの点について、私なりの感想を述べさせていただきます。

①「当事者である女性」の視点
②「帝国主義」という責任

「弱者」をありのままに受け入れる

まず、①「当事者である女性」の視点についてお話ししたいと思います。この論争において、一番置き去りにされているのは被害を受けた慰安婦たちの声、ということです。彼女たちの声を、必ずしも韓国政府や運動体が代弁していないこと、むしろ彼女たちの声を阻害さえしている面がある、ということです。

書評によると、慰安婦は、淡々といろいろなことを証言しています。それの大半は悲惨な状況でありましたが、しかし、人生の中でそれも自分の一部になっているという事実もあります。慰安婦に限らず、何らかの被害を受けた人々にとって、最も必要なのは、そういった、痛みを持っているけれども、それを寄り添って聞き、静かに受けとめてくれる人々、またその環境です。 続きを読む 「帝国の慰安婦」の書評から考える

単純な信仰のススメ

前回は、聖霊の賜物の今日の働きと、今すぐにでも来られる主への希望について、聖書の言葉をそのまま信じていくところに力があること、そしてそれは使徒の教えと初代教会の姿勢を受け継ぐものであることを話しました。

ところで一昨日、二冊の古本をネットで注文しました。

①「日本のキリスト教」古屋安雄著
日本のキリスト教
まずは本の紹介から。

キリスト教はなぜ日本に広まらないのか? 〈和魂洋才〉を追い、キリスト教抜きの近代化を進めてきた日本。その中で伝道し、事業を展開してきた教会各派と無教会、教育や社会事業などに例をとりながら日本のキリスト教の特質を検証し、将来を問う。
愚直一筋の耶蘇坊主菊地一徳Kazunari Kikuchiさんの感想・レビュー

古屋氏は次のような主張を持っていて、それが魅力的でした。「日本のキリスト教はインテリのキリスト教となっていて、大衆の方を向いていない、日本にキリスト教を広まるためには、インテリ的というエリート意識を捨てて大衆の方を向かなければならない・・」(古屋安雄「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教」)

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教会での愛の実践

SNSの時代になって、クリスチャンのフェイスブックやツイッターを眺めていますと、短文の励ましや慰め、また訓戒の言葉をよく見かけるようになりました。けれども、画面から目を離して、じっくり本そのものに時間をかけて目を向ける必要があるなと思うときがあります。

とは言いつつも、これは良いな!と思うのが、Calvary Chapelのホームページにあるブログや動画です。カルバリーチャペルの牧師らが投稿するブログ記事は、書き下ろしのものが多いですが、興味深いのは牧者チャック・スミスの記事です。その多くが、書籍の抜粋なのです。けれども実に一つの文章として完読し、読み応えのあるものばかりです。

What’s a Disciple?(弟子とは何か)

calvarychapel.blog

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日本人におすすめする中東問題の本

三つ前の記事「ここが変だよ!池上彰さん その3」の補足です。ある方から、「日本のマスコミにこのレベルで問題を理解することを求めるのは難しいと思った。」「パレスチナ問題の本を読んだが学者によるもので、イスラム研究者だと思う。」という感想を頂きました。

以上の三つの投稿記事は、マスコミの人たちが読むことを期待して書いたものでした。けれどもキリスト者としてもっと突っ込んで大胆に書くならば、エルサレムやユダヤ人を取り囲む問題を取り扱うことは、すなわち自分自身の問題を取り扱うことに他なりません。聖書にあるように、イスラエルの民を神が選ばれているので、彼らに起こっていることが、すなわち私たち人間一人一人と神との関係を映し出す鏡となっているからです。

ゆえに、日本の人たちがエルサレム問題を取り組むことは、すなわちキリストへの信仰を持つぐらい難しいことであると思います。1パーセントのクリスチャン人口は、パレスチナ問題もそれだけの理解力しかもてないと言っても過言ではないと思います。(例:日本人は、たいてい自分は無宗教だと言いますが、実は強固な多神教信仰の世界観を持っている、ということに気づかないと、正しい理解はできません。)

私自身も、悩みながらこれまで調べてきたのですが、中東問題については専門家でも何でもなく、初心者また学習者だと思っています。けれども、一般に出ている良書と呼ばれているものは読むように努めてきました。イスラエル近現代史としては、以下のブログ記事にリスト・アップしていました。

初めから物語る歴史 - イスラエル その5

全体の流れを知るには「イスラエル全史」がいいです。これで全体像がくっきり見えました。

そして独立戦争は「おお エルサレム! 」が定番だと言われています、ひどく感動しました。肌で彼らのことを感じたいなら、絶対これをお勧めします。六日戦争については、「第三次中東戦争全史(Six Days of War)」にまさるものはないと言われています。この二書はイスラエル側だけでなく、アラブも、また英国や米国等、それぞれの登場人物の生身の姿を描き出すことに非常に長けています。池上さんのように「まとめて」いないのです。そのまま出して、あとは読者に感想をゆだねるというアプローチです。

ヨムキプール戦争全史」も良かったです。戦争のすさまじさと、そしてシャロンなどいつも悪者にされていますが(実際、かなりあくの強い人ですが)、そうした人の発想がかえって特殊な状況の中で突破口を作り出しているなど、いろいろ見えてきます。

そして、滝川義人氏の著作や訳本ミルトス出版のものは良質のものが出ています。

訳本は概して値段が高かったり絶版になっているのですが、英語のできる方は原書をアマゾンなどで購入するのも一つの方法です。

これまでの中東というのは、アラブ・イスラム研究者、しかも左翼的な人による書籍が多いのですが、数少ない信頼できるのは池内恵(さとし)さんの著作です。彼のイスラエルの見方であれば、その批判はアラブ・イスラム研究者側の意見として見れば妥当だと思います。けれども多くの研究者は、彼の言葉を借りると、「「中東めぐる問題」などではなく、なによりも「日本をめぐる問題」」と言うように、自分の日本国内にある考えをただ中東に投影させているだけに過ぎません。

「愛 - さらにまさる道」チャック・スミス著

以前、「チャック・スミスの日本語訳サイト」を本ブログ紹介させていただきました。実は、私の妻と教会の何人かで、次の本を翻訳・校正してきていました。

Love: The More Excellent Way

私たち夫婦が、アメリカにいたときから、「Pastor Chuckから何を教わっているのか?」ということを考えるときに、これぞと思われる本がいくつかあるのですが、一番大きいものの一つは「恵み」です。「恵みはなぜすべてを変えるのか」という本がサイトに出ています。

そしてもう一つは「愛」です。当時の若いヒッピーの世代に、どうして保守伝統を重んじるクリスチャン家庭で育った彼が、福音をもって彼らに届くことができたのか?現代の流行っている考えであれば、「今の時代に合わせていかなければいけない」という答えでしょうが、彼は云わば「ふり」をしませんでした。けれども、愛を持っていました。これは元ヒッピーのクリスチャンが口を揃えて証言することです。ヒッピーは反権力的で、年上の権威的存在に反発心を抱いていましたが、その壁を通り抜けることができたのは、他でもない、彼から流れる神の愛でした。

今、アメリカの若い世代のクリスチャンに広まっているのが、「人々を愛していこう」という動きです。その急先鋒に立つ本が、物義を醸した”Love Wins”という本だそうです。福音を受け入れなければ地獄に行く、という教えに対する反発が色濃い本になっており、そこで「正義」なのか「愛」なのか、という問いかけを、多かれ少なかれ、アメリカにいるクリスチャンはしているのだと思います。(参照サイト:ブライアン・ブローダソン(Brian Brodersen)牧師による”Love Wins”の検証

そして、私が日本で奉仕の働きをしていて、「人」に触れるということは、「愛する」っていうことを絶えず自問自答していくことなのだ、ということに気づきました。Loveの紹介サイトの副題にも、こういう言葉があります。

every person craves it, only God can supply it.
(誰もがこれに飢えている。神のみが満たすことができる。)

そこで、calvarychapel.comで紹介されていた本書の一部抜粋の記事を、そこだけすでに翻訳した部分を紹介します。一見矛盾する「正義」と「愛」が、実はその正義の中に愛があることを上手に説明しています。

これから、そのサイトの日本語訳のところに翻訳を掲載してもらうようお願いをしていきますので、どうか無事に掲載できるようお祈りください。よろしくお願いします。

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神の正義の中の愛(原題:Love in Justice)

正義においてでさえ、神は愛を示してくださることを言わずにはおかれません。愛をもって、危害が及ぶような決定や行動に対し、神は警告をお与えになります。自分を破滅させる方向へと導く私たちの堕落した性質から、私たちを守ろうとされます。

行動の中には、それに伴う裁きをもたらすものがあります。もし何か邪悪なことをするなら、当然の帰結として、それがもたらすひどい影響に苦しむことになります。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ六章七節)。行動や行為は、自動的にそれに見合った結果をもたらします。

聖書の中で与えられている神の律法を学ぶと、結局神は、破壊的な選択をすることを禁じておられることがわかります。その選択とは、健康、配偶者や家族、友人との関係を破壊するもの、そして神との関係を破壊するものです。当然ながら、あなたをだめにしてしまうものを神は不法とされました。一方で、神はあなたの徳を高めるもの、よりよい人にするもの、他の人との関係を良くするもの、神との関係をほめたたえることを命じておられます。

ですから、神の律法を咎めることはできません。聖書はこのように言っています。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(詩篇十九篇七節)。神の律法を咎めることはできません。それなのに私たちはとかくそれに反抗します。私の肉は神の律法が禁じていること、それ自体の性質のゆえに、自分をだめにしてしまうことをしたがります。神が私に命じておられるにもかかわらず私がそれをするなら、必然的に自分の反抗の結果に苦しむことになります。ですから、神はみことばの中で、もし私たちがそれをするなら、しかじかのことが起こると警告しておられるのです。神はご自分の律法を犯した結果をはっきりと私たちに警告しておられます。しかもそれは神が恵み深くないからではなく、恵み深い方だからです。

私はとかく、自分をだめにするようなことをします。それなのに、神は続けてあわれみをかけてくださいます。神は奮闘の渦中にいる私をご覧になります。私が悲しみのうちにいるのをご覧になります。悲嘆のうちにいる私をご覧になります。私が自分を破滅させるようなことを避けてほしいと神は願われました。そして、それを私が回避するのを手伝ってさえくださいました。しかし私は反抗したのです。結局、私はそのようなことをする選択をします。それで、私はその結果に苦しむのです。

しかし、そうであっても神は恵み深く、あわれみ深く、同情心に満ちておられます。「ああ、かわいそうに。なんでそんなことをしたんだい。」と神はおっしゃっているようです。そして、手を差し伸べて、私を穴から引き揚げ、再び私が自分の足で立つようにしてくださるのです。

これまでに、自分の子が深刻な間違いを犯すのに指をくわえて見ていなければならなかったことがあったでしょうか。それは両親が直面する苛立ちの中で、最たるものだと思うのです。 青年が自分で物事を決めていかなければいけない年齢に達したとき、その青年が取ろうとしている選択が間違っていて、その子をだめにしてしまうとわかっているなら、胸が張り裂けます。その子の決断が痛みや傷をもたらすことがわかっています。ですから、できる限りのことをして、その子がそうしないようにします。法律が許す目いっぱい、できる限りあらゆることをします。けがや破滅を未然に防ぎたいのです。来るべき恐ろしい痛みや悲しみから、その子を逃れさせたいのです。そのようなすべてのものから、その子を必死になって守りたいのです。しかし、ときに子どもは強情を張ります。意固地になり反抗して、あなたのよい判断に反する、あなたの願いに反する、あなたの忠告や助言、脅しにさえも反する行為をします。自分の計画を実行し、その子を止めることができるものは、何一つないのです。

ただその恐ろしい悪循環がひとりでに完了するのを傍観し、待つしかないのです。

計画が全くだめになり、その子がひどい痛みの中にあるのを見るときは、それはまさに避けてやりたいと思っていた苦悩です。介入して、バラバラになった人生を拾い上げ、回復するのを助けます。人の話を聞いてさえいれば、そのようなことはすべて避けることができただろうに!

アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?


ついに、楽しみにしていた本を完読しました。以前「ハイテクのイスラエル」という題のブログ記事を書きましたが、この深い骨格を表しているのが、この書物と言えます。書名が、イスラエルに興味の薄い日本人に何とか興味を持ってほしいという苦肉の策としての邦題になっていますが、本来は、”Start-Up Nation(スタート・アップ国家) ”であり、次に出てくるあとがきの言葉に集約されます。

この本の主題はテクノロジーやイノベーションそのものではありません。むしろ、イノベーションを生み出す風土、人材、教育や文化といった側面、そしてイノベーションを事業として、産業として育成していく上での諸条件について、イスラエルの多くのハイテク企業を例に多面的・多角的にわかりやすく紹介しています。(341頁)

ペレス大統領の前書きから始まり、内容は、建国物語、IDF(イスラエル国防軍)、キブツ、ディアスポラ(離散のユダヤ人)などからの切り口で、具体的な起業の例をたくさん挙げています。少し紹介すると・・・

「ハイブリッド車は人魚のようなものです」
(イスラエルの起業家の「電気自動車」の考案を聞いて出てきた、日産のCEOゴーン氏の本音)

「砂漠で魚を養殖することは道理にかなっている、と説得するのは骨が折れた。」
(種明かし:ネゲブ砂漠でやっとの思いで掘り出した地下水は、塩分入りの温水だった。しかし、それが熱帯魚の養殖に極めて適した水である。)

「善人はインターネット上に自分の足どりを残す、つまりデジタルの足跡を残すのです。なぜなら、何ひとつ隠す必要がないからです。・・・悪人は足跡を残しません。身を隠そうとするからです。」
(「足跡」を辿るのではなく、足跡が「無い」ことを辿る発想。ペイパルに、電子詐欺の技術を売った起業家の言葉。この会社は十万件の調査確認をわずか三日で高度な確率で処理した。)

ここはロゴス・ミニストリーのブログですから、聖書に関連したことに焦点を当てたいのですが、実に現代イスラエルは、次の預言の成就なのです。

わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。(エゼキエル36:10)」

これまで大いに勉強になった、現代イスラエルの書物として本ブログで挙げたのは以下の三冊です。そして関連する聖書箇所を引用したいと思います。

全般の歴史: 「イスラエル全史
私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。(エゼキエル37:7-8)」

イスラエル人の人となり: 「イスラエル人とは何か
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。 (イザヤ書43:5)」

産業: 本書「スタート・アップ国家
・・・今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、・・・(エゼキエル書38:12)」

そして本書を読むと、日本の危機も同時に感じます。以下の書評記事が参考になるでしょう。

今、生まれ変わろうとしないなら、日本は廃墟となったデトロイトのようになっていく。

最近、在イスラエルの日本企業の人が、第二次インティファーダ以降、日本企業はヨルダンなどに移動し、イスラエルには戻ってこないという現状を伝えていました。この傾向は対イスラエルに限らず、日本全体が自らの製品や技術をお客に売るという奉仕精神が著しく欠けてきたことの現れではないか、と私は懸念しています。

現代の日本を厚く覆っている雰囲気、すなわち危険を回避しようとする態度、安全志向にある背後には、実は自分自身が内部から崩れていく前兆ではないのか、と私は感じています。「少々、弾が飛んできても、私は商売をしますよ。」という気概こそが人間生来の姿であり、内部から物を創造する力が出てくるのではないかと思います。そして危機の中に自分を置くからこそ、目標が明確になり、それがさらなる開発につながります。

霊的な側面においては、「世界一評判の良い国 ― 日本 その3」でお話ししました。外からは大きく期待されている日本人キリスト者が概して内向きになっており、外が見えていない姿を説明しています。

最後に、イスラエルに対する後進的なイメージを未だ持っている方に、経済的側面から次の図表を紹介して終わりにします。本書からの抜粋です。(クリックしてください、大きくなります。)

NHKスペシャル「オウム真理教 17年目の真実」

NHKスペシャルが「未解決事件」というシリーズを持っています。

File.01 「グリコ・森永事件」

去年は「グリコ・森永事件」を取り上げていました(動画)。観ましたが取材としては極めて優れており、ここまでの内部資料と当事者への取材を良くやったものだと関心しました。この事件そのものの報道を追ってきたわけではなくあくまでも当番組の感想ですが、「この劇場型犯罪は実は、犯人が警察・マスコミ・国民を巻き込んで操作していたのではなく、犯人本人もこの劇場の中で演じなければいけない束縛の中にいた。」ということでした。その縄目を断ち切ったのは、最後の高速道路に犯人が巻いていた白い布のガードレールの下の道で、この捜査のことを知らされていなかったので職務質問をした滋賀県の警察パトカーであり、そして退職時に焼身自殺した滋賀県警の本部長の無言の“抗議”であると見ました。(参照:ウィキペディア

File.02 オウム真理教

そして「オウム真理教 17年目の真実」はつい最近観ました(動画)。

こちらのドラマとドキュメンタリーの三部作も優れものです。ただ、麻原の声を何度も聞いていると、こびり付いて頭から離れず、異様で怪しい空気に苦しむことになるので、ご覧になる方は要注意です。けれども、古参信者で逮捕されなかった本人の視線から描いた初期のオウムを描いている点が極めて優れており、二つの教訓を得ました。

当然ながら一般社会はオウムの反社会性や犯罪性に注目しており、社会や公共の秩序に触れなければ文句は言わなかったでしょう。けれども私は、それではいけないと思います。彼らの連呼する「救済計画」という概念そのものに私は問題性を見ました。それを自らの修行で成し遂げる、というところです。その修行が瞑想から始まり、次に訓練へと移り、その訓練中に事故死する者が出て、そしてその隠蔽を行ないました。NHKの取材記者は、この事故死が原点であると迫っていますが、社会性としてはその通りですが、私は上で太字にした人間の恣意的努力による救済そのものが、そもそもの間違いであると感じました。

これはどの宗教、いや社会・政治運動、また経済活動でもいえることです。救済は、神がその主権によって行なわれることであり、人はその計画に服することによって関わることができます。「あと何人いなければ、救済計画は果たすことができない。」「我々は人を救う必要がある。」というところに、会社における業績達成に通じるものがあり、そして宗教そのものにある限界です。

特に1990年前後は、私自身も大学生で思い出すのですが、ドラマでも描かれているようにバブルの絶頂でした。人々が浮かれており、これがずっと続くはずはないと若い私もうすうす気づいていました。それで新・新宗教が数多く出てきたのを思い出します。そのような俗的なものから離れたいと思って宗教が起こっていったはずなのに、その宗教の中にさえ目標達成という企業活動と変わらない原理がその中に入っていて、それを宗教の名によって包んでしまっているということが起こっていたのではないかと思うのです。

人はどんなに霊的になろうとしても、キリストの十字架に肉をつけてしまわないかぎり、むしろ霊的装いをして肉が放置されていくということが起こります。今、毎週土曜日にマタイ伝の学びをしていますが、山上の垂訓で語られたイエス様の言葉は、律法学者やパリサイ人の義よりもまさったものでなければいけない、というものでした。そこに、人間のありのままの姿が炙り出されています。

「17年目の真実」とは「イラン核危機」

そしてもう一つ、NHKは正しく、これが初の化学兵器による無差別テロであるとしている点が重要です。けれども欠けているのは、これが「宗教の名のもとに行なわれている」という点を言及していないことです。ここがNHKに象徴的に表れている「穏健な日本世論」において著しく欠けている点であると思います。

この番組の第三部の「オウムVS警察 知られざる攻防」で、一連のオウムによる秘匿捜査であと一歩というところで踏み出せない警察関係者の取材があります。その人たちの反省は、「宗教団体が具体的な社会的破壊行為をするのだろうか?」という想像力の欠如にあった、ということです。それまでは赤軍を代表する唯物思想の過激派しか取り扱っていなかったのですから理解できます。また、戦時中に治安維持法によって国家権力が宗教団体内の教義にまで踏み込んだという過ちがあるので、そのような歴史的経緯から「宗教」そのものに対して権力が踏み入ってはいけないという思いが、関係者の間にはあったことでしょう。

しかし、戦後日本が政教分離の原則を社会的側面にまで極端に推し進めたために、日本では宗教に入信している人々が現実に極めて多いのにも関わらず、マスコミなどの公の場において宗教を一切論じないという空間ができあがりました。

その反動として、宗教の健全性を推し量る免疫がまったく付いていません。私が1999年頃初めて韓国に行ったとき説教奉仕が目的でしたが、同乗していた日本の若者に教会関係の働きであることを告げると、本人である私を目の前にして嫌悪感を露にしました。私は、「夜に降り立ちますから、ソウルに輝く、赤いネオンが着陸するときに見えますよ。それは全部、教会の十字架ですよ。」と話しました。公の空間から宗教を押し出してしまった結果、その初歩知識さえも知らない幼稚な状態に閉じ込めてしまっており、オウムに入信する人たちのように、その純朴な思いは歪んだ教義を見分けることができなかったのです。

オウムの中にあった「ポア」の教義は、イスラム過激派のジハードと類似点をみます。ポアの定義は単なる殺人ではないと彼らは言いますが、そして確かにもっと広範囲で使われていますが、イスラムの「ジハード」も全く同じように使用されています。

ウィキペディア「ジハード」

ジハードの語は元来アラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。この「努力」の語の元来の意味には「神聖」あるいは「戦争」の意味は含まれていなかった。しかしコーランに於いてはこの言葉が「異教徒との戦い」を指すことにも使われており、これが後に非ムスリムとの戦争を示す所謂「外へのジハード」として確立した。

ウィキペディア「ポア」

本来の意味の「ポア」とは、「死に際して、その魂を高い世界に移し変える(転生する)こと」を意味していた。ところがオウム真理教では魂を高い世界に転生させるためには、積極的にその魂の持ち主の生命を(実際に)奪っても構わないという「殺人正当化の教義」を意味することになった。

そしてイスラム過激派の数多くのテロ行為の直接的動機とオウムは酷似しています。そして、宗教国家を作り上げるという麻原の野望は、まさに1979年のイランで起こったイスラム革命の概念と同じであり、今のイラン政権の核開発はこの思想を基盤にしているのです。


1995年に現イスラエル首相のネタニヤフ氏は既に、「テロリズムとはこう戦え」を書き記し、その中で、地下鉄サリン事件を取り上げています。これら世界、特に自由・民主主義圏を脅かす要因になる警鐘を鳴らし、その後の世界はまさにその通りになりました。この事件が今の化学・生物テロ危機の拡散につながったのです。けれども日本や世界のリベラル界は未だに、イスラム世界で起こっているテロ行為を貧富の差、アメリカ覇権主義とか、新マルクス主義に基づく話を展開させています。(そうした意味でアラブ地域研究家の池内恵氏の洞察は優れています(「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」「中東 危機の震源を読む」)。彼は、テロを引き起こしたイスラムの内部構造を抉り出しています。)

したがって、「オウム真理教 17年目の真実」とは「イラン核危機」でもある、という世界的視野を持つ必要があります。

光あるうちに ― 道ありき第3部 信仰入門編

本の紹介ですが、これは私が大学一年生の三月頃に読み、二年生に入る直前に信仰を公にした、大きなきっかけを与えてくれた本です。かなり前に読んだ本であり、もう手元にないのですが、自分にとっては記念すべき本なので、ここに書き記しておきます。

この本についての推薦が次のブログ記事にあるので、内容はそちらでお読みください。

「光あるうちに-道ありき第三部 信仰入門編」を読みました

私にとって、そしておそらくは多くの日本の人にとって、キリスト教信仰に対するつまずきは「罪」であろうと思います。これまで、「聖書には良いことが書いてあるが、どうしてキリストだけなのか?」「十字架を強調しているが、どうしてなのか?」「自分が本当に駄目になったのであれば、信じるかもしれない。」など、いろいろな疑問や質問を聞いてきましたが、それは行き着くところどれだけ「罪」を理解しているかにかかっています。

三浦綾子さんの本書における説明が、私の罪概念を一気に変えました。そして、はっきりと「私は罪人だ」と断言できるようにしてくれました。

罪とは、義のものさしについて二重基準を持っていること、そのもの。」という趣旨が書かれていました。この本は元々、主婦向けの雑誌に掲載されていたものらしいのですが、それで主婦の視点になった例話が多いのですが、井戸端会議で、ある奥さんが他の女性が浮気していることについて、「なんと汚らわしいことでしょう。」と非難しているくせに、たいした月日も経っていないのにある男と付き合うようになり、「こんな愛、初めてだわ。」と言って、ぜんぜん矛盾を感じていない姿、ということです。

今となっては、ローマ2章1節の言葉の内容であることが分かります。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」その他のいろいろな例えも読み、聖書の言っている罪とは、単に何らかの行為ではなく、人の体の中に染み付いている性質そのものであることが分かりました。まさに、自分が「救いようのない存在」であることが体感できました。

彼女は、他の小説「氷点」において、これを原罪として描いていますが、原罪は私たちの償いによっては拭い去ることができません。原罪は、完全な方が罪人として罰せられることによって、つまりキリストが十字架に付けられたことによって、取り除きえるということです。ゆえに、やはり「キリストのみが救いの道」であり、他の宗教でも善行でも道徳でもない、ということです。

ちなみに三浦綾子さんは、男女関係、結婚についても数多くのエッセイを残しておられます。MGF教会の牧者、菊池一徳さんが、三浦夫婦の結婚観について詳しく紹介しています。

三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論