偽の救世主 その1 - その出現は閉塞感の中から

世界はめまぐるしく変わっています。中東情勢を見ますと、ロシアのプーチンがイスラエルを訪問する というニュース、そしてシリアに対してロシア軍を進軍させたという動きなどを見ていますと、不気味なゴグとマゴグの預言(エゼキエル39-39章)を思い出させます。イスラエルは近年、石油や天然ガスが見つかっていますから、これを貪っているのかもしれません。

こうした世界情勢の動きと共に、私たちが気をつけなければいけないのは私たち自身と国内のことです。私たちが偽救世主の出現を間近にして、その相克の中に生きているということを忘れてはいけません。

ずっと気づいていることですが国内の状況が、アメリカと日本には今、似た流れがあります。アメリカ人から話を聞くと、まるで日本で起こっていることのように感じるときがあります。

日本はバブル崩壊以降の経済停滞から抜け出すことができず、その産業が右上がりになることはありませんでした。その構造を変革させるべく小泉首相が政治改革も試みましたが、結果は自民党の衰退、そして民主党への政権交代となりました。民主党はかつて自民党政権を批判していたその一つ一つを自らが行っているという状況であります。首相があまりにも短期間に交代していきました。それに追い討ちをかけるように東日本大震災と、それにともなう原発事故により、日本がこれからどこに行くのか、多くの人が深い懸念を抱いています。

アメリカは対イラク戦争から戦時体制に入り、対アフガン戦により国力が疲弊しています。それに加えてリーマンショックが起こり、アメリカの一極体制はそこで終焉を迎えました。これを変革すべくオバマ氏が大統領に選ばれましたが、その債務は天文学的にさえなり、国の基盤を揺るがしかねない方向に動いています。興味深いことに、イスラエルに何度も訪問している牧者チャック・スミス氏は、イスラエルにもアメリカと同じものを見、かつては愛国心に満ちていた雰囲気がなくなって自信を失っている、と言います。日本にも同じことが言えるでしょう、経済の底力が落ち、人々に自信がなくなっています。

そんな中で、人々の動きの中に、既成の制度や権威に対する不満が噴出しています。ヨーロッパにおける暴動、アメリカの「ウォール街を占拠せよ」、そして日本では反原発運動など、かつてはイデオロギーによる反権力運動としては存在していたものの、そうした確固たる信念のない、感情の捌け口としての動きが世界に広がっています。このように、先進国の中にある特有の動きは、アメリカにおいても日本においても共通しています。つまり行き場のない焦りと閉塞感です。

そしてその解決法も、極めて似ています。それは、「心を裂いて、主に叫び求める」というものです。「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル2:13)」

重厚なキリスト教の歴史を持つアメリカと、その基盤のない日本では前者は、「主に立ち返る」という解決となるでしょうが、日本は「伝道の機会を精力的につかむ」と言ったら良いでしょう。いずれにしても神にのみ救いがあり、指導者もまた国民も主に叫び求めることをしなければ、国は深い淵の中に落ち込んでいくのではないかという危機を感じます。

このブログで何冊か本を紹介したジョエル・ローゼンバーグ氏が今、新しいノン・フィクションの本を準備しています。

Implosion

本題は日本語に訳すと「内破」であり、米国がかつて歴史上に起こった二つの霊的復興のように、三度目の霊的復興が起こらなければ、単なる衰退ではなく内部破裂するであろう、という警鐘の内容です。彼は最近、上に挙げたヨエル書から、心を裂いて悔い改めて、断食をし、祈ることに今、専念しなければいけないと強く勧めています。アメリカに内在している深刻な諸問題に、人間の考えられる方策が尽き果てたからです。(彼の講演の一つが日本語記事になっています。)

そしてまた、昨日、チャック・スミス牧師とマイク・マッキントッシュ牧師の、世界情勢ニュースについての対談の番組を見たら、同じことを話していました。

World News Briefing  2012年3月29日

(ちなみに、牧者チャックは肺癌を患って放射線治療を受け、それが終わった前後にこれを収録していると思われます。治療中も精力的に説教活動を行なっておられました。)

マイクが、「この番組を政治家の人たちが見てくださっているかもしれないけれども、彼らに対する言葉は?」と質問し、チャックが次のような内容で答えました。「数々の問題があるなかで、政治家として自分が修正、変革をしなければいけないのだという心理的圧迫が圧し掛かっているのとだと思います。けれども、だれが行なおうとも状況は悪化していくのです。神がこれらのことを掌握しておられるので、主にお任せすることが必要です。」そして二人は国の指導者のために祈る時を持ちました。

今、数々の問題が山積している中で、主は「わたしが神なのだよ」という声を次第に大きくして、アメリカに対しても日本に対しても、声をかけておられるのです。それをマスコミそして迎合する一般国民が、かつて国力のあった時代と同じように、従来の方法で政治家へその解決を求めています。政治家も同じように、とてつもない問題・課題を自分自身の身に背負っていますが ― いや、ある人々は他人事のように無責任になっていますが ― いずれにしろ、魂の救いのみならず、この世界もイエス・キリストの名以外には救いはないことを知らないといけないのです。

その2に続く)

「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!

「聖書ハンドブック」購入のお薦め

連続投稿します。聖地旅行に行きたい人のみならず、聖書をもっと知りたいという人にぜひお薦めなのが次の本です。

「新聖書ハンドブック」(ヘンリー・H・ハーレイ著)

これは「聖書の歴史」を知ることのできる本です。聖書各巻の概要と共にその歴史の説明と考古学の発見が盛りだくさん盛り込まれています。その他、聖書編纂の歴史、キリスト教史も含まれており、文字通り「お手ごろ(“Hand”book)」です。チャック・スミス牧師も、水のバプテスマを受けた新しい信者には、この本をプレゼントしていたとのこと。私も聖書の学びの準備でしばしば開いています。

聖書地図購入の薦め

ずっと聖書通読の学びを礼拝の中で行っていて、興味深かったのは参加者の方々が机を欲していたことです。私が学校のような雰囲気を作りたくなかったので椅子だけを並べていたところ、机も出してきて、ついに学校みたいになってしまいました!それもそのはず、みなさん熱心にノートを取っているので、机があると非常に便利なのです。

そしてこの頃は、必死になって中サイズ以上の聖書についている地図を眺めながら御言葉を聞いている姿も見ます。それでついに、昨日の礼拝でおすすめしたのですが、「聖書地図」を購入するといいと話しました。ネットで調べる限り、お手ごろなのは次です。

バイブルアトラス―『聖書新共同訳』準拠聖書地図

一番おすすめできる本望は「マクミラン聖書歴史地図」(アハロニ/アヴィ=ヨナ著 原書房)というものです。アーノルド・フルクテンバウム博士がいつも薦めている聖書地図で、イスラエル留学時にアハロニ博士本人から教鞭を受けたとのこと。しかし邦訳が古本しかなく、金額もとてもはります(例:友愛書房で今現在9500円です)。原書はこちらです。(また、School of Ministry時代に教科書になったのは、NIV Atlas of the Bibleでこれも使用しています。)

PEN 2012年3月1日号購入を薦めます!

今朝、無事に妻が夜行バスで東京に到着、自宅に帰宅しました。今回の旅行のご報告は改めて行なわせていただきますが、昨日、教会の人からお借りした雑誌を一読して感動しました。

PEN2012年3月1日号「ユダヤ・キリスト・イスラム3宗教の聖地へ。エルサレム」

PENは男性向けライフスタイル誌なのですが、この特集の充実さは圧巻です。いくつかの聖地の要所を鮮明な写真と共に紹介し、古代から現代イスラエルまでの歴史をきめ細かく紹介しています。そして、イスラエルがユダヤ人国家であるというありのままの姿を伝え、ユダヤ人とユダヤ教の中身を詳しく説明しています。綴じ込み付録には現代イスラエルの現状を客観的に分かりやすく伝えています。一つ一つのコラムを熟読すれば、イスラエル旅行に行きたいと思われている方には大きな助けになること間違いありません。(これで値段が630円ですから驚き!)

聖書の歴史の記述には違和感はありませんでした。旧約聖書の世界をありのままに伝えています。そして現代イスラエル政治については、民主左派の見方(ハアレツ紙のような、日本でいう朝日新聞のような見方)ではあるけれども、そのことを踏まえれば公正に書かれていると思います。

オンラインでも購入できますし(送料無料 Amazon セブンネット)、本号は大好評のようで多くの書店の店頭でまだ置かれているようです。

ちなみに私はブランド服を身にまとっても全然様にならない無精男なので、PEN誌の回し者ではないことを付記しておきます。(笑)

「イスラエル建国の歴史物語」

昨夜と今日一日で、次の書物を完読しました。

「イスラエル建国の歴史物語」河合一充著 ミルトス社出版

ブログ記事「初めから物語る歴史 その5」で参照図書にしていましたが、実はまだ読んでいませんでした。ハーベストタイムに連載されている「イスラエル建国史」の紹介で、人物像に焦点を当てている本ということで推薦していたので、これは専門的、無味乾燥になりがちなイスラエルの近代史を知るには、良書かもしれないと思いました。そしていま読み終えて「その通りだった」と確認しました。

内容は、私個人は「イスラエル全史」に多くが既出でしたが、やはり平易な文体で各章が短くまとめられているので心に残ると思います。そして著者の見方の特徴は、シオン帰還運動を神の一代叙詩(詩篇121)と捉えていることです。これは、信仰者にとって益になることだと思います。

個人的に気に入ったのは、シオニズム運動におけるキリスト者の働きに一章が割かれていることです。当時は米国ではなく英国の中で存在していました。そして、リクード党の初の首相になったベギン氏の歴史的再評価はすばらしかったです。(彼は先の投稿の、バビロン作戦を指示・決定した時の首相でもあります。)歴史というのは、その国の権力者の目で捉えられていることを踏まえて、テロリストであるかのように見られているイルグンの活動にも、新鮮な視点を与えてくれています。その反面、一般的なイスラエル建国史の中心人物であるベングリオン初代首相が中心になっていないことが面白いのですが、やはり彼が中心であったことは他の書物によって補完すべきでしょう。

さらに最期に補足として「ある過激アラブ民族主義者の生涯 ――ハジ・アミン・アル・フセイニーについて」という章を追記しています。これは、誤った中東近代史が常識化している今、必ず知らなければいけない人物でしょう。確かにアラブ人の中に、大量のユダヤ人の帰還民流入によって反感は出てきましたが、彼が扇動して対立を造り上げたと言ってよいでしょう。彼は亡命先でもナチスと手を組んでユダヤ人撲滅の運動を展開していました。その甥が、あのヤセル・アラファトであることも付記されています。

今だから考えたい「バビロン作戦」

イランの核兵器製造疑惑に関して、イスラエルのイラン先制攻撃が日増しに現実味を帯びています。米国防長官が「今年春に攻撃をするであろう、なぜなら核施設をイランが地下に埋めるなら、もはや攻撃不可能になるから、というイスラエルの見解があるからだ。」という旨のことを話しました。そしてイランは、最高指導者も大統領もイスラエルと同盟国を残滅する説教や演説をこれまでになく激しく行っています。

こうしたニュースは決して真新しいものではなく、イランの核兵器開発は1990年代からイスラエル指導層でも懸念材料になってきたものであり、長く続いてきたものです。現在進行中のイスラエルとイランにおける攻防戦は実際は水面下で行なわれており、断片的な情報しか浮上してきませんが、この時期に、私たちはかなり多くのことが公開されている歴史から多くを学ぶことができます。イスラエルは過去に二度、原子炉爆破を行なっています。

一つはイラクの原子炉を空軍機によって爆破させた「バビロン作戦」であり、もう一つはシリアの原子力施設爆破であります。前者は、世界からの非難を大いに浴びたと同時に、イスラエルとアメリカの軍事同盟をかえって生み出し、自衛のための大量破壊兵器に対する先制攻撃するという、イラク戦争において話題となった考えがこの時から始まりました。イスラエルは、ホロコーストという前代未聞の虐殺を経験している分、その安全保障に対する執念は世界の第一人者となっています。

概略としてはウィキペディアが良いでしょう。「イラク原子炉爆撃事件

そして、かつてNHKが特集を組んでいます。かなり良質で、しっかりとした作りになっています。

NHKハイビジョン特集「オシラク・オプション~イスラエル イラク原子炉攻撃の全貌~」

そして、図書館の返却期限が来てしまって途中までしか読んでいない本がありますが、おそらく下がバビロン作戦を包括的に、かつ最も詳細に描いているものだろうと思われます。

イラク原子炉攻撃!ロジャー・クレイア著

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聖書信仰者は、ここから何を知らなければいけないでしょうか?もちろん、「目を覚ましなさい、用心しなさい。」というイエス様の弟子たちに対する言葉です。ユダヤ人は諸国における虐げを受けた後で、神に立ち返り、そしてメシヤが来られるという新旧どちらにも記されている神の約束が近づいていることを証明しています。イスラエルが建国し、そして周辺アラブ諸国が攻撃をし、それでもその国は守られています。しかし、それら中東戦争の中でじわじわとロシアがイスラエルに接近しています。そして今までは何でもない国であったペルシヤが一気に、イスラム革命によって台頭しているという状態です。

アラブの春の中でこれまでの独裁制が崩れていますが、それは自由民主主義を信じている改革派ではなく、むしろイスラム原理主義派が台頭する結果となりました。(アラブではありませんが、イランのイスラム革命がその先駆的存在です。)それら当該国はほとんど全て、聖書の中で神が詳細にこれからの行く末を宣言されている対象です。

そして、昨日、バラムについての学びを礼拝の中で行いましたが、そこで得た最も大きな教訓は、「聖書知識が正確でも、それに応答する主への献身がなければ、人々につまずきを与える偽教師に成り果てる。」ということです。「表向きは敬虔でも、その実を否定する」という、パウロがテモテ第二の手紙で警告したとおりのことが起こります。聖書預言も知識だけなら、私たちは無益どころか有害にさえなりえます。愛をもって応答していくよう、神から召されています。よろしければ、下の聖書講解もお聞きください。

民数記23章10節 「正しい者の死」 原稿 ・ 音声
民数記22-25章 「バラムの迷い」 原稿 ・ 音声

チャック・スミス - 恵みの回顧録

昨日は、とても恵まれた礼拝になりました。久しぶりにLCFの仲間を会うことができ、家族のところに戻ってきた気分です。

ところで、Facebookでいくつか分かち合ったことをブログにも分かち合いたいと思っていることが沢山あるのですが、今、見終わったビデオを紹介します。

A Lifetime of Impact: Greg Laurie interview with Chuck Smith

チャック・スミス牧師は、1月1日の礼拝で自分が肺がんがかかったことを発表しました。私たちは年始に宣教会義に参加していますが、確か二年前は脳卒中で倒れ、去年は何かの摘出手術で入院をされていたのを覚えています。けれども今回は、死の時期が近づいていることを感じ取るものでした。けれどもチャックは、1月7日の宣教者の日に出席、8日の朝の礼拝、夕拝ともにきちんと説教しました。

上のリンク先のビデオは、その後、木曜日(1月5日)が、チャック自身の弟子であり、また世界的に用いられている伝道者でもあるグレッグ・ローリーが彼の生涯に注目してインタビューをしたものです。チャックの人なりを細かく見ることができます。

私が驚いたのは、このインタビュー自体が追悼式のようになっていることです。死んでしまってからでは質問できませんから、生きているうちにその生涯を回顧してもらいましょう、という意図が見えます。そのことができるのも、チャックがグレッグの「死への恐怖はありませんか」という質問に対して、「全然ありません」と答えているところに表れています。全き平安があるからこそ、生前の追悼が出来ていると言ってもいいです。

ところで、彼の生涯についてはチャックの長男である、チャックJr.が次の本を書き記しています。

Chuck Simith – A Memoir of Grace
(チャック・スミス - 恵みの回顧録)

上のAmazon.comの書評の一つに、「本書は、一貫している共通の主題があります。全ての事は何か他の事の為の準備なのだ、ということです(This book had a common theme running through it–that everything is preparation for something else.)」と書いてありました。彼の教えだけでなく、その生涯に神の恵みが織り込まれています。

そしてすばらしいのは今現在も、神が彼に与えられたその働きが継続し、世界中で現れているということです。信仰によって前に進み出て、聖霊の導きに従順になり、御言葉を教え続けることについての証しを、先日の宣教会議でたくさん聞きました。主は、ご自分の言葉でご自分の働きをなされることを最も尊ばれます。

日本語による彼の生涯の紹介は、プリズム社による「収穫の時代」です。そして拙文「チャック・スミスについて」もあります。

クリスマスの報告

昨日は、とってもすばらしいクリスマスの一時を過ごすことができました。土曜日にはいつもの聖書の学び会をして、それから祈り会をして、7月に信仰をもった唯さんが初めて祈ったりと、とっても祝福された時を過ごしました。

25日当日は、2時から礼拝、5時からディナーとパーティーを行ないました。礼拝前に、私たちが約10年前、小学校の子供たちに英語と聖書を教えていた、その教え子が来てくれました。なんと今はもう大学一年生です!あと、来られなかったけれども、メールで連絡をくれた子(今、高校二年生!)もいて、本当に嬉しくなりました。

礼拝は、私は伝統的な讃美歌と、クリスマスに関する聖書の箇所の朗読を交互に行う形を取りました。それからルカ2章1-20節から説教しましたが、私自身、「謙りの中に、王をも打ち倒す神の力があるのだ」という確信を深めることができました。

9月から直人さんという兄弟が教会の一員になりましたが、彼の知り合いの知り合いが何と足立区綾瀬に住んでいて、その女の子が来てくれました。香港からの語学留学生です。ディナーの時まで楽しく過ごすことができました。

そして、メンバーの一人ひとりがしっかりとディナーの為の準備をしてくださり、本当に主への感謝に満たされています。ディナーの後には、ビンゴゲーム&プレゼント交換、そして聖書クイズ&罰ゲームの「変顔」、最後に習字をチームで一角ずつ書くという習字ゲームをしました。聖書クイズは、メンバーが最低一問出題したのですが、なんとオタク的な質問なのか、と私が言ったら、「だって、あなたが聖書オタクだから、そうなったんじゃない。」という私の妻の発言で、みなが大笑いしていました。

罰ゲーム「変顔」は、メンバーの沙耶花さんの発案で、指示されたとおりの状況を顔や体で表し、それからいっしょに写真を撮る、というものです。そしてメンバーが変装用の道具も買ってきたので、変装した私たちの写真も撮りました!(私のデジタルカメラが故障していて、白飛びになっているのが残念です。)

ところで話はずれるのですが、今、牧者チャック・スミス著の”LOVE“という本を翻訳、校正しています。いつか出版できるよう、今、熱心に祈っていますが、その中に御霊の愛の現れとしての「親切」の説明で、こうあります。

アガペの愛は親切です。配慮があります。他の人の必要を感じとります。そしてその必要を満たそうと本当に配慮します。

LCFは、祈りによって、互いに配慮して、互いの必要に敏感になって、仕え合っている姿、そしてもう一つの聖霊の愛の現れである「喜び」もある交わりです。

本日、女性会(?)の三人が木村さん宅に訪問、お母さんが着付けの専門家なので、ばっちり写真を撮ってきました。とっても綺麗です!

益川敏英氏の「積極的無宗教」

先の「科学はキリスト教を否定する?」の記事で参照した本の一冊が、「 『大発見』の思考法」でした。山中伸弥氏と益川敏英氏の対談です。私の記事の一番下に、お二人が交わした進化論についての話題を引用していますが、どちらも進化論を信じていません。iPS細胞の第一人者である山中氏においては、「そのうち、ダーウィンの進化論は間違いだった、ということになるかもしれない」とまで言い切っています。

他の対談の内容の中でも、科学理論というのは徹底的な批判精神をもって検証するものであって、信じ込んではいけないという姿勢が見られ、やはり科学者のほうが、一般人よりも科学の限界というものを知っているんだな、と感心しました。私も高校時代に、化学の先生が教科書に載っている公式を「こうじゃないかもしれないからね」という紹介をしてくれた時に、科学とは何ぞや、というものを垣間見た気がしました。

けれども、益川氏は興味深いことを話しています。山中氏は生物学を専門にしていますから、「これは神様にしかできない、と思うようなことがたくさんある。」と告白していて、益川氏も呼応して、こう言っています。「医学系の先生の中には、ここ二十年ぐらいの間にクリスチャンになっている方がけっこう多い。子供の頃からクリスチャンというのではなく、五十歳前後になってから洗礼を受けられているんです。(183-184頁)」とのこと。これはすごい!お医者さんの中で小さなリバイバルが起こっているんですね、と思いました。

けれども、益川氏は「積極的無宗教」と自称して、それは「信じない」のではなく、「信じている人をやめさせる」ほうだと仰っておられます。

「神」というのが、自然法則を説明する時によく出てくる。例えば雪の結晶には一つとして同じものがなく、実に不思議だ。」と誰かが言った時に、「神様がお作りになったのだ。」と神様を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い、とのことです。

こうすれば、とりあえず問題は解決したように見えるけれども、近代科学は、せっかちに答えを求めることなく、「答えがわからなければ、わからないままにしておけ」という態度だ、ということです。山中氏が「一つの理論を証明するには、これ以上疑えないというところまで徹底的に突き詰めて検討するのが科学の常道」と言っている通りで、徹底的な批判精神が大事だということです。

私も、確かに雪の結晶がすべて独特であることについて、科学者に「神がなさったのだ」と言ってもらいたくはありません。(笑)それは信仰者また私のような聖書教師が伝えるべき職分であり、科学者の方には、まだ解明できていない自然法則に果敢に立ち向かってほしいと願います。

けれども益川氏は、「宗教」ことに「キリスト教」の性質について勘違いしておられると思います。ご自身は科学者の職分として、安易に神の帰することをやってはいけないという強い戒めの表れでしょう。けれども、その科学者として生きていくのみが果たして人生の全てなのでしょうか?山中氏は、ご自身の宗教について「苦しい時の神頼みはします。(笑)」とこぼしておられますが、仕事において、また家庭生活において、そして「死後」という、科学では絶対に検証不可能な、けれども百%明らかな「事実」に対して未解答であることこそ、「人間としては不全の状態、宙ぶらりんの状態」とは言えないでしょうか?

日本男にしばしばありがちな、「何ふりかまわず仕事だけやっていて、後は何も残っていない」ということにはならないでしょうか?

そして益川氏は、「宗教は嘘」だとして、その理由は「入信させるという『結果』が宗教において重要視されるのであって、『論理の過程』は必要とされない点で近代科学の考え方に真っ向から反する」と言っています。それで信じさせるためには、いくら嘘をついても良い、と言っています。

実に面白い論理です。けれども、これもキリスト教の性質の勘違いから来ている言葉です。

もし人が小難しい論理なしに、純粋に単純に神に信頼すれば、それにこしたことはありません。けれども神が、人が信じるに値する真実な方であることを示すために、いろいろな事象や論理を提供しています。これは神に対する態度のみならず、対人関係でも同じではないでしょうか?すべての実証を済ませて、ある人に信頼を置くのでしょうか?違いますよね、その人を信じるに至るには、すべての知識がなくても、どこかで信頼するという過程を踏んでいます。まさか、あらゆる人に益田氏は疑い深くなっているわけでもないでしょう。キリスト教は、俗にいう「入信」が目的ではなく、人と同じように人格を持っておられる「神」を知ることが目的です。

そして、嘘があることの例として、創世記5章にあるアダムからノアに至るまでの系図を益田氏は取り上げています。「アダムとイブの子孫の誰々は何百歳まで生きてから子を産んだという記述もあるけれども、それはとうてい信じられないので、人の寿命を百年として計算してみました」と言われていますが、なぜ現代の寿命と昔の寿命が同じだと言う前提に立つのでしょうか?科学者らしからぬ非論理性ですね。昔の環境と今のとでは同じなのでしょうか?もし違っていたら、長寿もあった可能性も十分にあり得るわけです。

そして人類の歴史を計算すると聖書では、「せいぜい六千年かそこらしかならなかった」と言って、「それよりももっと昔から人類がこの世に存在したことは、すでにいろいろな事象により明らかになっている」と言っていますが、そもそも計算を勝手に寿命百年にして勝手に本文を歪めているところに問題があります。自然現象に謎があるからといって、分かり易くするために検証された事実を歪めたら、それは捏造というもので、科学者としては犯罪です。嘘つきは宗教のほうではなく、聖書の謎めいた部分を自分の理解の中で勝手に解釈する方です。

聖書を解釈するときにも、「分からないものは分からない」にしておくという鉄則があります。そして、分からない箇所があっても文脈から、また聖書全体に流れているものから、それが書かれたであろう目的を見出すことができます。そうした聖書釈義という学問があり、それには近代科学に類似しているものがたくさん存在しているのです。下手にキリスト教が人間の歴史の中で存在していたのではありません。前述のように、近代科学の父祖たちは、聖書に立脚したキリスト教の中で、秩序、絶対の真理、一定の法則というものがあるに違いないという信仰によって、数々の発見をしてきたのです。