(その1からの続き)
アメリカの銃社会を指差す前に
そして次の記事をお読みください。
「国際平和装置としての暴力」
銃という暴力の手段を国家間のレベルで見ると、「核兵器」が平等化の機能を果たしているという見方です。私もこれに同意です。在日米軍完全撤退、自衛隊完全解消という選択を取らない限り、日本は、銃社会と同じ構造で平和を享受しています。
私の戦争についての考えは、以下の記事に残しました。
「改めて「戦争」を考える」
焦点は「イエス様」
私にとっての全ては、「力の行使について、では、イエス様はどうだったのか?」という問いになります。上の記事に書きましたが、戦争またその他の力の行使について、こう考えています。「「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としてはみなしておられるが、それを起こしてはならないという「べき」論としては語っておられない。」
イエス様は、反戦運動はしませんでした。むしろ福音書また使徒行伝では、ローマの百人隊長の信仰を良い視点でご覧になっています。彼らが信仰を持った後に、武力の行使をしてはならぬと言って兵役を辞めたのでしょうか?いいえ、そのような記述はありません。唯一、民を虐げる手段としてはならないという戒めを、バプテスマのヨハネがしているのみです。使徒パウロも、皇帝の親衛隊が信仰を持ったことを伝えていますが、彼らが兵士であることを咎めたことはありません。 続きを読む 米国の銃規制と自民党の改憲草案 その2