リベラルにある破壊性

以下はフェイスブックで行なった投稿です。

キリスト教関係者による、「平和」の名の暴力行為を考えてみる

以前から、ブログでは「平和活動」という名の下でキリスト教関係者が、排他的な政治行動への化している点について、多く書いてきました。最近では、次のような暴力行為にまで発展しています。

ちょっと国内事情:反基地平和活動家牧師、暴力事件で懲役求刑

なぜ、「キリスト教」関係者が「暴力的」になるのか?しかも、そういった人々に限って、「平和」のイデオロギーを掲げて正反対のこと、裏腹のことをしているのでしょうか?

ここに、リベラル派の教会で信仰を持ってから、福音的な信仰に変わった経歴を持つ方が書いている記事があります。その体験から感情も込めて語っておられますが、なぜそうなってしまうのか?事の本質をしっかり話してくださっています。

リベラル派クリスチャンの矛盾 正義を叫ぶ人にも潜む暴力性、逃れられない人の罪」から:
リベラルの人々が抱える最大の問題は、人間の抱える罪の問題に対して、あまりに理解が浅いということです。人間の理性に信頼を置くリベラルは、人間の悪に対して驚くほど無力です。
(関連記事:「「悪を善、善を悪とする」時代」)

かつての自分と向き合う リベラル派クリスチャンとの議論をめぐる考察」から: 続きを読む リベラルにある破壊性