キリスト以外のアイデンティティー

ヘブル文化を知らないと、聖書を理解できない?

 「ヘブル的解釈」を軸に教会の中で運動をしている人々がいます。その運動体の中にいる人々全員がそうだということではなく、一定の距離を置いて、聖書理解の助けとして活用している方々が多くいます。その一方で、深く関わっていて人々の間には、数多くの問題を教会に起こしています。一言でいうと、「分派」です。

 私の友人の牧師が、以下のように理解しています。

日本の多くの教会が聖書のいうイスラエルを単にクリスチャンと置き換えた『置換神学』となってしまい、時間軸を忘れて、いつしか聖書の教えが道徳や理念のように受け取られる間違いを打破しようとして、既存の教会に通う信徒たちに聖書が言うイスラエルを教えた。

当然彼らが毎週彼らの所属する教会で聞く聖書のメッセージとは異なる。日本のクリスチャンを、日本の教会を内側から変えないと本当の福音宣教はないという理念で、既存の『置換神学』打破のために「ヘブル的聖書解釈」という視点を強調し、今度その「ヘブル的聖書解釈」がアイデンティティになった。

① 既存の教会内に『こっちがホントウだ』という分派を作った。
② 知識を得たクリスチャンが勘違いした。1コリント8:1
③ 既存の教会内に分派ができることを正当化するために、地域教会ではなく「普遍教会」こそが本来の教会だと言って地域教会軽視が生まれた。
https://twitter.com/Santou/status/1263304675551399947

 「分派」は、肉の行いであり(ガラテヤ5:20)、除名しなければいけない罪として数えられています(テトス3:10)。パウロは、分裂をもたらす者に警戒しなさい、遠ざかりなさいと教えました(ローマ16:17)。 続きを読む キリスト以外のアイデンティティー

「中国モデル2.0」

 2年半前の記事ですが、非常に的確です、おそらくコロナ後の世界はこうなるのでは?と思えるものです。

視点:「中国モデル2.0」の衝撃、日本企業も進退判断を=呉軍華氏

 「中国モデル2.0」とは何か?それを知るためには、「中国モデル1.0」を知る必要があります。

この間、旧ソ連の崩壊や冷戦の終結などの大事件があった。中国共産党がソ連共産党の轍を踏まずに済んだのは、基本的には党の政治エリートと、資産家や経営者などの経済エリート、そしてインテリ層の間で、経済成長至上主義に利害の一致をみる同盟関係が成立していたからだ。この同盟の下では、一党独裁政治に楯突かない限り金儲けし放題で、実質的に中国社会の多元化は大きく進んだ。

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コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

(4月28日にフェイスブックに掲載)

コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

 こちらの論考、私もずっと、神がコロナを通して、何を語っておられるのか?という問いに、ここ1-2週間、語ってくださった応えでした。それは、「御子にあって神と和解し、自然と和解する」ということです。

 きっかけは、自身が企画していた聖地旅行です。3月に、トルコとイスラエルに人々を連れて案内する予定でした。ところが2月終わりに、イスラエルが、韓国人の観光客に陽性反応が出たことから、日本も合わせて入国拒否になったため、断念しました。とても悲しく、悔しかったです。

 その涙の心を持っていた時に、段々、これまでも見て親しんでいたイスラエルの自然が、信じられない美しさをもって回復しているのを見ました。ガリラヤ湖の水位が冬季に雨が降ったということもあり、どんどん上がり、ついに溢れるほどになったことです。自分が、ガリラヤ湖に行けなかった悔しさがある一方で、神が鮮やかに、「わたしは、わたしの造ったもので、栄光を受けているのだ」と語られた思いでした。

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ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス

(フェイスブック4月28日に掲載)

ネット礼拝・ネット信仰生活の是非をガチで考えてみた⑤「ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス」

 

ちょっと牧師さん向けの内容になってしまいますが、でも、すべてのクリスチャンに考えられる内容になります。ネット礼拝において、大きな誘惑は、まさに、ヨハネ第一に最も明確に書かれている、反キリストの霊、グノーシス主義です。齋藤牧師は、これをガチで語ってくださっていて、私も強く感じていた部分です。

あるところで、私はこう書いていました。「けれども、オンラインでいくら顔を合わせても補うことのできない、直で交わることが、主の命令であり、聖書に書かれていることであり、そうでなければ、イエス様は「仮現」しても、肉体を取られる必要はなかったのです。「仮現」は、まさにグノーシス主義者の主張でした。最近のデジタル礼拝が、生身の人間が会って礼拝しないことが通常のこととなれば、そうした異端の霊の中に引きずられていってしまうことでしょう。」 続きを読む ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス