第二回目 奥松島・東松島救援旅行 4月13日

この日は朝5時に起床、6時過ぎに私の実家の家を出発しました。仙台の市街地のラッシュ・アワーを避けるためです。

今日は、第一回目で関係の築けた、東松島の地区センターで一日を過ごす予定ですが、その前に手前にある奥松島を立ち寄りました。松島を過ぎて、東松島に入ると宮戸島があります。初めの記事に書きましたが、ここは私が幼い頃と大人になってから姉と甥といっしょに来たところで、非常に思い出深い所です。津波で無残な姿となった野蒜から右折して入ると、道は寸断されており、酷い状況でしたが、かろうじて砂利道による細い道が新たに作られていました。

そして月浜海岸に到着すると、そこで家の瓦礫で作業をしている方がおられたので、武道館に避難されている方の名前を告げると、「ああ、こちらですよ」と案内されました。家は数メートル全体が土台から外れてずれていて、一階部分は全壊、二階だけがかろうじて残っていました。中にも入って、写真を撮りました。

そして東松島の石巻寄りまで来て、地区センターに到着しました。なんか、ずっと前から知っている場所のような感じがして、親近感が持てます。今回は山東さんが元料理人とあって、手際いくハンバーガーなどをバーベキューで焼きました。

私たちは午後に家の片付けを申し出ていたのですが、そのセンターの長の方は、「それは本格的に来週に(来週はトラビスと沖縄宜野湾のチームが来ます)してもらうことにして、ぜひ私たちの地域の家々を見てください。」とのこと。廻っていきましたが、全壊や半壊の家がずっと並んでいます。土台だけでほとんど形跡のない所もあります。ちょうど、畳出しをしておられる家庭があったので、それを手伝いました。

その後、地区の長の方とその助っ人の方と団欒の時を持ちました。支援物資はかなり来ているようです、団欒をしていた和室には物資が積み上がっています。それから、家を建て直す人以外は、後片付けは一ヶ月ほどで終わりそうです。けれども、仮設住宅ができ、そこに移り住むまでは長い期間を必要とし、避難生活そのものは一年以上続くのではとほのめかしておられました。これから、どのような形で接していけばよいのか祈り始めなければいけません。

その助っ人の方は、石巻の病院で入院中だったのこと。首のところまで津波の水が来て、浮かんでいる死体を掻き分けながら難を逃れたそうです。今でこそ、避難民の方々は冷静さを保っておられますが、一人一人に心の傷は確実に残されているはずです。そのようなケアもこれから長期的な視野で行なっていきたいと願いました。


(写真は、センターの長の方の家の中です。他の人々のために動いていたので、彼の家だけは片づけがなされず、そのままになっていました。)