改めてイスラム教の紹介

(前記事「北大生のイスラム国参加未遂事件」からの続き)

そこで改めてイスラム教についてご紹介したいと思います。それは、キリスト者が近々、迫ってくるであろうムスリム伝道に備えるためです。

2001年の米国同時多発テロ事件の直後、急いでイスラム教について調べて、記事に残しています。

イスラムに働く霊

けれども、この記事はイスラム・テロリズムを踏まえた紹介であり、イスラム教義全般のものではありません。日本語によるものでは、中田考氏の、今は亡き夫人の書いた次のPDFが読み易いでしょう。

『やさしいイスラーム講座』、ムスリム新聞社、2007

『続・やさしいイスラーム講座』、ムスリム新聞社、2007

アッラーの性質

イスラムというのは、「服従、ゆだねる、明け渡す」という意味があり、唯一神アッラーに帰依すること、これがイスラムの信仰の支柱です。中田考氏の旧サイトにて紹介されているイスラムの根本教義から抜粋しましょう。

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イスラームの根本教義とは偶像崇拝の禁止に他ならない。
この世界の中に存在するいかなる被造物をも神としないことが、イスラームの大前提であり、その前提の上に全世界の創造主たるアッラーへの絶対帰依、即ちイスラームの教えが帰結する。

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信仰告白

イスラームは「ラーイラーハイッラーッラー(アッラーの他に神はなし)」「ムハンマドゥンラスールッラー(ムハンマドはアッラーの使徒なり)」の2命題をもって信仰告白句とする。
イスラームには特別な入信儀礼はなく、通説では、この2句を唱えた者は、それだけでムスリム(イスラーム教徒)とみなされる。
他方、ハナフィー法学派の学説では、無神論者、多神教徒は「ラーイラーハイッラーッラー」と唱えることだけでムスリムとなる。

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アッラー

この世界にある存在者は、時空の中に存在する限り有限であり、有限な存在は全て被造物であるに過ぎない。宇宙は時空を超えた存在によって無から創造された。この時空を超えた宇宙の創造者がイスラームで言う「神」、アッラーである。

アッラーは時空の創造者であって、時空によって拘束されることはない。時空を超越し姿形を有さないにもかかわらず、アッラーは人間とコミュニケーションを行う人格神である。空間の中に位置する身体ではなく、心が神と人間のコミュニケーションの場であり、言語がその媒体となる。「人格神である」とは、アッラーが人間に語りかける神であることを意味する。そして人間に語りかける人格神アッラーは、言葉をもって人間に善を命じ、悪を禁じ、法を定める立法者でもある。 創造主にして、立法者。アッラーは宇宙の存在の根源であると共に、人間の法/道徳規範の源泉でもある。

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唯一神ならず「単一神」

このように、アッラーは私たちの信じるヤハウェなる神、聖書の神と同一であるように見えます。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教に続いて生まれ出た宗教ですから、クルアーン(コーラン)には数多く、キリスト教についての言及があります。私たちの信仰に非常に近い神観を持っています。

けれども僅かな差異があり、しかしその差異が非常に大きな違いに発展して、信じている者たちの行動に大きな影響を与えています。聖書では、明確に「複数の人格を持つ唯一神」を教えています。「神」のヘブル語エロヒムは複数形であり、ご自分のことを「われわれ」と呼ばれ、子を持っておられること、そして御霊が共に働いておられることを示しています。新約聖書には、その子はイエス・キリストであり、父・子・聖霊の三位一体の神であることを教えています。

しかし、イスラム教におけるアッラーは唯一神というより単一神です。クルアーンの中に、神は三つに一つの方ではない、神には子がいないと教えており、それが彼らの信仰の要にさえなっているのです。

だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。ブログ記事

私は、次の中田考氏のイスラム国支持のツイートを見て、イスラム信仰の何が問題なのかが分かりました。

ISカリフ国に対して「罪もない市民を殺す残虐行為」などと平気で書ける者は、人間にとって最も重い罪とは創造主を信じずその命令に背くことであり、人は誰でも罪人であり、中でも異教徒は創造主を信じない時点で最悪の罪人、哀れみにより生かされているだけの存在であることに思いが及ばないのか。
https://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/502503263178989568

被造物との和解がない

確かに、創造主を認めないということが罪であります。使徒パウロが、ローマ1章でそのことを論じています。しかし私たちキリスト者は、罪を認めていないからといって剣で殺すでしょうか?いいえ、裁きはもっぱら私たちの主、全知全能の神にゆだねられており、むしろ私たちはこの罪を神ご自身が、御子キリストにあって受けてくださったことを信じています。

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の性質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 」(コロサイ1:19‐20)

神が三つにして一つであるという三位一体は、イスラムの人たちにとって、またエホバの証人など、異端の人たちにとって妥協、多神教、あるいは理解しがたいものと受けとめるでしょう。しかし、もし神が人格神であれば、人格というのは対人があってこそ存在するのであり(例えば、愛する他の人格がなくて、どうやって慈悲深いと言えるのでしょうか)、神ご自身の中に複数の人格がなければ、真実な意味で成り立たないのです。

もし、対する相手が被造物である人間だけであるならば、神ご自身の中で解決しなければいけない問題を人に要求することになり、それが厳しい裁きの剣となって、対人に向かうのではないでしょうか?

これが三位一体の神においては、父なる神が子なるキリストをこよなく愛しておられる、そして子が父に完全に服しておられるという人格関係があるので、神ご自身の中で自存が可能となるのです。その一つとなっている関係を、ご自分のかたちに造られた人に対して向けておられ、その中に入ることによって、神との交わり、そして信じている者たちとの交わり、最後は被造物全体との調和を可能にするのです。

もし神が単一の人格しかないのであれば、神ご自身と、神の造られた物との間の距離をどのようにして埋めるのでしょか?そして何よりも、アダムが罪を犯して、それによって罪を宿す世界と、神との距離をどのようにして埋めるのでしょうか?神のご性質に従えば、世界は滅ぼされなければならないのです。しかし、神はその慈悲深さによってそれを控えておられる。

いや、控えておられるだけでなく、天にように高いその恵みによって、完全に和解させることができるのです。それがキリストの受肉と十字架なのです。神は、御子にあって、この子を人間の肉体を持たせ、そしてその肉体において、世界の罪を罰することによって、神ご自身が被造物との距離を縮め、一つにさせることができるのです。

その証拠に、元ムスリムの人でキリスト者になった人は一様に、「神が愛であられることは知らなかった。」「アッラーに祈っても、答えが返ってこなかった。」という証言なのです。人格的な神は、独り子がおられるからこそ、キリストを通してこそ近しく、親密に私たちに関われるのです。

罪の贖いがない

しかし、イスラム教においては、罪に対する厳しい現実が軽視されています。聖書には、アダムが罪を犯したことによって、それが神から引き離す原因となりました。その罪によって、被造物全体も罪の呪いを負いました。したがって、人は堕落して、全世界もうめき、ただ救い主を待たなければいけなくなったのです。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった、それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)」

ところが、イスラム教の教義においては、アダムとエバは罪を確かに犯したけれども、その後、悔い改めてその罪が赦されました。したがって、人間が生まれながら罪の性質を持っているという、神の真理がイスラム教にはないのです。

そこで、善行によって救いを得るという考えが生まれます。

この世界がいかに堕落しようと、我々キリスト者は、それはキリストがこの世に来られて救われることによってのみ、贖われると信じています。一方的な神の御業によって、キリストがすべての罪の呪いと苦しみを受けられることによって、この方がいわば身代金となって、世界が贖われると信じます。贖いの代価は十字架で支払われましたが、世界の買い戻しは我々ではなく、キリストが再臨されることによって完成するのです。したがって私たちはもっぱら、神の恵みに応答して、キリストを宣べ伝えるのです。

イスラムでは、この曲がった世に対して自分の行ないという動機が強く働きます。ジハードによる死はパラダイスが約束されており、天における報いが彼らをイスラム国等へ駆り立てる動機となっています。しかしキリスト者は、自分の行いが正しいと思われる時でさえ、神にとっては「不潔な着物(女の月の物で汚れたもの)」(イザヤ64:6)であると知っています。しかし、神は私たちを滅ぼさず、キリストが罪の滅びを十字架上で受けてくださった。ここに神の愛があり、私たちは神の愛をもって、互いに愛し、隣人を愛するように命じられています。

クルアーンにも、イエスが何度となく登場します。しかし、イスラム教ではイエスは十字架に付けられておらず、天に昇ったと教えられています。「十字架に付けられていない」というところに、罪の贖いの拒否があり、これは深刻な過ちなのです。

「神の国」と「カリフ制」の違い

私たちは、罪の苦しみを受けてくださったキリストを聖霊によって受け入れている者たちです。したがって、この方が私たちのうちに住まわれることは、私たちもこの世においては、「貧しき者」「悲しむ者」そして「柔和な者」となるよう召されています。

ユダヤ人は、世の終わりが近づいており、異邦人の支配から解放されるメシヤを待ち望んでいました。そこにイエスが現われたのですが、イエスは異邦人からの解放の前に、自分自身の罪からの解放を説かれたのです。自分が徹底的に、神なしには何もないこと、霊的には乞食のようなものであることを教えられたのです。敵は異教徒ではなく、自分自身にあるという過激派以上の情熱をもって教えられました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人の者だからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:3‐5)

したがって、異教徒に対して迫害を受けるけれども、彼らに剣を向けるのではなく、むしろ剣を向けられたままにしなさいと教えます。徹底的に敵を愛することで、全知全能の神、全権の与えられているキリストに服するのです。そこに神の国が拡がります。裁きは神にゆだね、悪に対して善で報いるように命じられています。

イエス様は、弟子が剣を取ろうとした時に、さやに収めろと命じられました。ローマの権威者ピラトに対してこう言われました。「わたしの国は、この世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)

中田考氏や内藤正典氏のツイートを見ると、他の国々にいるイスラム原理主義者の論理と同じ発言を見ることができます。つまり、いかに欧米諸国や世俗のアラブ諸国がムスリムを殺戮しているか、自分たちの受けている迫害を述べます。しかし、その前にムスリムによる暴力があり、それへの応酬として、自衛として行っているのに、自分たちが加担した暴力に対する責任を自分たちに負うことはありません。

なぜなら、この世界がイスラムの支配に入っていないこと自体が既に戦いを挑んでいると考えているからであり、それに対して怒りや復讐、また暴力に訴えても、それは平和のためであると考えるからです。彼らの考える平和は大多数がムスリムになっている領域であり、そうでなければ自分たちは戦いを挑まれていると考えているからです。例えると、隣でしゃべっている人に対して「あなたはうるさい!」と言って、「うるさい」と大声で叫び続けて、自分自身が最もうるさいことに気づいていない状態です。

確かにこの世の支配者は横暴です。しかしキリスト者は、当時の横暴で、多神教のローマに対して剣で対抗しないように、厳しく戒められました。使徒パウロも、「上の権威に従いなさい。」と述べ、その王や指導者のために感謝し、執り成しなさいと勧めました。そしてそれが、平和であり、その時にキリストを救い主として伝えることができると教えました。ペテロも、迫害下にあるキリスト者に対して、横暴な者たちに対して、しっかり善を行なうことによって、かえってその嫌がらせを恥入りさせるようにしなさいと命じています。

しかし、私はこの点において、自分自身も含めてキリスト者がその通りに生きていないことを恥じています。権力者に対してどれだけ執り成しているか、敬意を払っているか、自分を捨てて他者のために執り成し、善を行なっているかというと、自分中心で、世的になっていることを恥じ入るばかりです。この点において、中田考氏など、その他の原理主義的なムスリムが、個人生活においてむしろ紳士的な態度で臨み、穏健な姿勢を保っている場合があります。この面において、確かにキリスト教徒は偽善者であるという非は免れないのです。

しかしながら、キリストにある神の国の復興は、イスラム国のカリフ制以上に世界中で勢いよく進んでいるのです。なぜなら神の国は、むしろ反キリスト教的なところで見ることができるからです。中国は無神論と物質主義の国家ですが、そこが現在、最も教会が広がっていると言われているところで、実に人口の10%がキリスト者であると言われています。世俗の空間では、彼らは権威に服しています。彼らは共産党政権打倒を絶対に叫びません。しかしあくまでもキリスト者として服しており、家の教会は公認されずとも勢いが衰えるところを知らないのです。

ヒンズー教インドでも、迫害を受けながら急速に福音が広まっています。イスラムの国々でさえ、教会は広がっています。イランは、イスラム革命後に爆発的にキリスト者が増えました。迫害は厳しいです、しかしムスリムがイスラムの理想に幻滅し、キリストに希望を見出しているのです。在米の著名なイラン人伝道者は、「イランのイスラムの国がなくならないでほしい。」と言っています!なぜなら、その迫害によってかえって、政治的、妥協的なキリスト教ではなく、まことの王キリストを求めていくからです。

もしかしたら、先進国のキリスト教、世俗化し、形骸化し、妥協したキリスト教しか見ていないので、それを戦争の家とみなしておられるのでしょうが、本物のキリスト教はむしろ、権力や武力とは無縁の、ほとんど目に留められない小さきキリスト者たちの間で、着々と拡がっているのです。こちらのビデオは、中東の人々がイエスに出会う証言ビデオです。

そして元ムスリムでキリスト者になった証言がAnswering Islamというサイトに掲載されています。(Homeに戻れば、アラビア語など多数の言語でも閲覧できます。)

Truth, Love, and Newness of Life

ムスリムの多くの人が、とても純粋で、すばらしい人たちです。イエス様に出会うことさえできれば、聖霊によってこれほど神の栄光を表す被造物となることができるのか!と思います。

ムハンマドの人格とイエス

イスラム教では、アッラーへの信仰、クルアーン、そしてムハンマド(モハメット)が使徒であることを告白することによって成り立つので、ムハンマドを語らなければいけません。これはすでに、過去のブログ記事で述べましたので、それを抜粋したいと思います。

参照:A Comparison between Jesus and Muhammad, JESUS OR MUHAMMAD?

イエスはよみがえりましたが、ムハンマドは死んだままです。イエスが戦うことをされませんでしたが、ムハンマドは何度も戦争をしました。イエスは父なる神から声を聞き、誘惑を受けられた後、確信をもって宣教を行なわれましたが、ムハンマドは神の声を聞いたとき恐ろしくなって自殺したいと思いました。イエスは父なる神からいつも聞き、その使命を果たされましたが、ムハンマドは天使から聞き、暗い洞窟の中で言葉を受けていました。

イエスはだれも殺したことがありませんでしたが、ムハンマドが殺した人は数知れません。むしろイエスは傷を受けた人をいやし、死んだ人をよみがえられました。イエスは独身であられ、ムハンマドは20人の妻を持ち、その中には9歳の女の子もいました。イエスの周りでは奇跡がたくさんありましたが、コーランを受けたという以外、ムハンマドにはありません。イエスは、数百年前の預言をご自分の生涯で成就されましたが、ムハンマドについては何ひとつありません。イエスには罪はありませんでしたが、ムハンマドは自分が罪であることを告白し、彼はまた奴隷の主人でした。

イエスは他人のために命を捨てられましたが、ムハンマドは自分の命を救うために他の人を殺しました。イエスは女性を敬いましたが、ムハンマドは女性は男より二分の一の知性しかなく、地獄の大勢は女性であるとし、抵当に入れてもよい、としました。

これらは、私がムハンマドを悪く言っているのではなく、客観的に新約聖書とコーラン(またハディス)に書かれていることを比較しただけのことです。聖典において、その創始者の記述がこれだけ違います。この記述が原理的になっている人たちにも影響を与えていない、と言えるのでしょうか?

クルアーン自体にあるイエスの証言

最後に、クルアーンにあるイエスの証言を見てみましょう。

彼は、クルアーンを読んでキリスト信仰へと導かれました。上に私が話した聖書の説明の断片が実はクルアーンにもあるのです。じっくりと”アッラーの言葉”を眺めてください、イエスは神なのです!

「改めてイスラム教の紹介」への8件のフィードバック

  1. ご多忙のところ恐れ入ります。御サイトの「改めてイスラム教の紹介」のページを拝見し、疑問に感じたことがあり御教示をお願い致したく送信した次第です。2点あります。よろしくお願い申し上げます。
    (1)イスラム教はキリスト教と違って「唯一神教」ではなく「単一神教」とのことですが、ユダヤ教はどちらですか?そして「唯一」と「単一」とは神論においてどう違うのですか?ご文面からは前者には複数の人格があり、後者はそうではない点が違うようですが、キリスト教以外にそのような宗教があるのでしょうか?それともキリスト教だけが「唯一神教」だということでしょうか?
    (2)クルアーンには、キリスト教の「三位一体」を批判というか否定することが書かれてあるとのことですが、これはムハンマド自身の発言ですか?それとも天使を介してのアッラーの啓示なのですか?常識的にみれば、人間の言葉ですね。キリスト教の教義を否定してイスラム教を正当化する人間の言葉です。しかし相手の考えを批判する以上、その相手の考えをある程度は理解し得ていなければ批判というより誹謗にしかならないでしょう。クルアーンでキリスト教の三位一体を否定している人物(ムハンマド?)は、どこまで三位一体の教義を理解していたのでしょうか?ムハンマド自身は文盲で神学的議論などとうていわからなかったでしょうが、その後に出てくる高学歴の指導者、特にイスラム神学の学者なら、当然、キリスト教の神学にも精通していたでしょう。まさか三位一体を単純に、三神を説く多神教のように言ったわけではないでしょう。イスラム知識人による三位一体批判を記録した文献はありますか?

  2. ご質問感謝します。

    (1)についてですが、これは実は私がクルアーンの文言を呼んでいて、浮かんだ単語です。いわば造語なのですが、後でイスラム教の中において三位一体を論じる時に、それに近い用語が研究者の間でも使われてたのを後で発見しました(今、少し探してみましたが、見つかりませんでした。見つかった次第、掲載させていただきます)。

    そしてイスラム教ではもちろん、自分たちが「唯一神」を信じていると言います。しかし、キリスト教の立場からはそれは「単一神」であろうという主張です。仰る通り、私がここで意味しているのは前者が複数の人格があり、後者はそうではないということです。

    ユダヤ教においては、そうですね、現代のユダヤ教はメシヤは人であると言います。けれどもイエスが地上におられた時のユダヤ教には、明確に神の御子がおり、メシヤ(キリスト)は神の御子であるという立場がありました。旧約聖書そのものに、書いてあるからです。(詩篇2:7、箴言30:4、マルコ14:61)そして、神の御子というのは、神ご自身であることも前提で話しており、後世のユダヤ教のみが否定しています。

    この点を整理すれば、ユダヤ教とキリスト教の争点は、「イエスがメシヤ(キリスト)」であるかどうかに絞られます。

    (2)ご質問についてですが、クルアーンというのは、「唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示」ということで、アッラーの啓示とムハンマドの発言を分けていないと思います。ですから、イスラム教では、明確に、三位一体を否定しています。上にも引用していますが、こちらのブログをご覧ください、クルアーンそのものに、キリスト教の三位一体を直接的に否定している箇所を引用しています。

    http://www.logos-ministries.org/blog/?p=3981

    そして、二つのサイトをご紹介します。どちらもイスラム教におけるイエスについて論じており、元記事の論点と同じことを話していると思います。

    イスラームにおけるイーサー (ウィキペディア)
    ISLAM ~ムスリムとして知っておくべきこと~

  3. キリスト教側のご都合主義で書かれた偏屈な歪曲論理ですね
    進化論を論破できない知性の無さが納得できる

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