「海難1870」から知る、日本とのつながり

ブログ「「史跡・都市を巡る トルコの歴史」」の続きです。
先日、この映画を妻と共に見ました。

海難1890

トルコが親日である理由

なぜ、トルコが親日なのか?その理由は、「エルトゥールル号遭難事件」にあると言われます。

日本とトルコの関係(ウィキペディア)

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「史跡・都市を巡る トルコの歴史」

今年に入ってから、次の本を発見し、長い期間をかけて、実に四月初めのトルコの旅にも持参しながら、少しずつ読んでいった次の本を完読しました。

史跡・都市を巡る トルコの歴史 古代から20世紀までの文明を探る(野中恵子 著)

まずは出版社の紹介から:「トルコ各地の史跡・旧跡・古都・博物館などを巡り、その見聞を語りながらトルコの歴史を描いていきます。トルコは古代より文明が重層する地であり、キリスト教とイスラム教の二大帝国が存在した要衝です。本書では、そのトルコ各地の魅力を語り、そこから立ち上る古代から20世紀前葉までの歴史に思いを馳せつつ解説します。また、トルコの通史を理解する鍵を、アジア・イスラムという一般的なイメージのなかで、じつはローマ史であるという点においていることもポイントです。トルコ史の一般教養書としても旅行ガイドとしても楽しめる内容となっています。」

旧約の人類の始まりから新約を超えた悠久の歴史

私の聖地に対する想いは、1999年のイスラエルへの旅から始まり、合計、イスラエルへは五回、旅をしています(「聖地旅行記」のページ)。そして、その間にエジプトに一回、ヨルダンには二回、足を運んでいます。それは、聖書の舞台は現代イスラエルに収まっているのではなく、その周辺国にも及んでいるからです。 続きを読む 「史跡・都市を巡る トルコの歴史」

キリスト教国家を申し出た天皇、断ったマッカーサー

今朝、非常に興味深い英文記事を読みました。昭和天皇とマッカーサー元帥とのやり取りを伝道者、故ビリー・グラハム氏が、マッカーサー氏本人から聞いた話です。

General Told of Barring Offer To Create a Christian Japan

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ビリー・グラハム師は、ここで昨日、ダグラス・マッカーサー元帥がかつて彼に語ったことに言及し、裕仁天皇が、日本をキリスト教国にするという申し出られたことを、断ったということだ。

なぜ申し出を断ったのか、「一国民にどんな宗教も強制してはならない」からだと、元帥がグラハム氏に言った。このバプテスト派の伝道者が思い出すに、日本が降伏後、天皇は私的にキリスト教を国家宗教にする用意があると言明しておられたと、マッカーサー元帥が言ったということだ。

元帥は、「考える時間を下さい」とお願いした後、その提案を考慮し、天皇にお応えした。「いいえ、そのようなことはあってはなりません。どの国も、どんな宗教に対しても遵奉させるようなことがあってはいけません。自主的に行なわなければならないものです。」

ウォルドルフ=アストリアにおける、市長朝食祈祷会にて、グラハム氏が説教し、元帥の死を哀悼を表した。彼は自分の説教の前置きとして、極東から帰国したばかりの時にあった会話を思い起こしていた。 続きを読む キリスト教国家を申し出た天皇、断ったマッカーサー

令和の新時代、キリストの御代

元号が、平成から令和になりました。これまで三十年間、国内、国外でご尽力された明仁ご夫妻、そしてこれから日本国民の象徴として牽引される徳仁ご夫妻に、創造主なる神の守りの御手が置かれ、そのお働きが守られるようお祈りいたします。(Ⅰテモテ2:1‐3)

それと同時に、キリストが昇天され、神の右の座に着かれてから、私たちはいわば「キリスト元号」の中で、人間の国々に生かされている者たちだということを思います。

流さないで受けるだけでは、いつかは腐って死ぬ”福音”

しばしば、「日本に根付く福音を」ということで、海外からの宣教師による福音宣教を、「欧米文化の移植である」という批判し、韓国からならば「反日主義を持ち込んでいる」という批判があります。「植民地主義的」という言葉もよく聞きます。

参考記事:「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」を読む①/⑫

そこで、確かに批判や再検討しなければいけない部分があるかもしれないけれども、注意が必要です。それは、ややもすると「神が人となられたキリスト」を否定するからです。

自分の聞いた福音、その純粋な福音とやらを聞いたのは、誰からなのでしょうか?海外から誰かが伝えて来なければ、自然発生的に声が聞こえて来るわけではなかったのです。自分たちが宣教の幻を持たずに、他国の宣教を批判することは、自分の首を絞めるようなものです。

参考図書:「宣教師―招かれざる客か?

カルビン主義の中に極端なものがあります。「人が選んで救われるのではない。神の選びで救われるのだ。だから決断の招きをする伝道は御心にかなわない」として、伝道活動を否定し、否定するだけでなく反対します。かつてのビリーグラハムや、今のグレッグローリー大衆伝道のイベントにて、球場のマウンドに降りて行こうとする信仰の決心者たちの前に立ちはだかり、降りるのを妨げることさえする者たちがいます。けれども、自分が初めに聞いた時に、福音を自分の意志を使って信じたのではないのか?それなのに、自分の意志を使って福音を信じることを否定しているのすから、矛盾に満ちています。 続きを読む 流さないで受けるだけでは、いつかは腐って死ぬ”福音”

ヘロデ宮殿 – イエスを尋問した総督官邸

2020年3月にロゴス・ミニストリーで企画している旅では、このビデオに出て来る「ダビデの塔」に訪問したいと思っています。私にとっても初めてなのですが、ここでの大きな出来事は、「総督ピラトによる、イエスに対する尋問」です。


Herod’s Palace: Site of Jesus’ Sentencing?

伝統的に、ヘロデ宮殿(ヨッパ門の脇)の反対側にある、アントニオ要塞(ステパノ門の傍)がピラトなどの総督官邸とされていました。そこから受難の道であるヴィア・ドロローサを経て聖墳墓教会に行くのですが、今は、ヘロデの宮殿が総督官邸であったと言われています。(APニュースの動画

当時のエルサレムの再現CG(ヘロデ宮殿とアントニオ要塞に注目)

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復活の証拠は法的なもの

※フェイスブック投稿からの転載です

復活の話をすると、「どうして、信じられるの?」という反応が多いです。けれども、それは自然科学的な証明を求めているからであって、当然、観察や実験はできないわけですから証明は不可能です。

けれども、復活というのは、証人の信憑性など、法廷における証明で考えれば、これほど確固な事実確認はできないほどなのです。古代で起こったことですが、他の古代の歴史文献と、比べ物にならないぐらい、膨大な証拠が残っています。今の人々に「地下鉄サリン事件は起こりましたか?」と尋ねているぐらい、否定するのが滑稽なぐらい、生々しい記録です。

映画「ベン・ハー」の原作者は、初め復活の事実を否定するための論文を書こうとして調べ始めたら、逆に、否定することが到底できないことを知り、信仰を持ち、それで小説を書きました。

「ベン・ハー」の作者

どのように復活したのかは、分かりません。それこそ、「神の領域」であり、神秘的であり、奇跡です。けれども、起こったのだという事実は、はっきりと証明できます。

関連記事:「受難週 - 聖書考古学から」「イエスは信長、聖徳太子以上の歴史的人物

スリランカにおけるキリスト教会での爆破テロ

※ この頃は、フェイスブックでの投稿が多くなっていて、ブログでは少なっています。けれども、そこで書いたもので他の方々にも分かち合いたいものを、掲載していこうと思います。

https://youtu.be/3-br4tvvtZE

本当に心が苦しくなりました。ええ、どうして主の復活を祝う礼拝において・・。他のニュースでは、ムスリムによる犯行だそうです。スリランカは仏教国なのに、驚きました。イスラム教の専門家である飯山陽さんのツイッターには、刻々と詳しい情報がツイートされています。

主の働きのある所には、サタンが激しく攻撃してきますね。私たちに対しても決して例外ではありません。しかし、どんなに攻撃しても、十字架に付けられ死なれたイエスは甦られました!私たちにも、キリストの命が働いています。 続きを読む スリランカにおけるキリスト教会での爆破テロ

ユダヤ人の間のイエス信仰の拡がり

※ この頃は、フェイスブックでの投稿が多くなっていて、ブログでは少なっています。けれども、そこで書いたもので他の方々にも分かち合いたいものを、掲載していこうと思います。

テルアビブにあるメシアニック・ジューの集会(教会)の指導者、ロン・カンターさんが、一般の報道局であるi24newsにて、なんとメシアニック・ジューのことについて、インタビューを受けています。すごいことですね、画期的です。インタビューをしている方も、素朴な疑問を投げかけてくださっているので、ロンさんも、明快に答えることができたのではないかと思います。 続きを読む ユダヤ人の間のイエス信仰の拡がり

「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて

“牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」に行ってきました。こちらに、撮影した映像をほぼ全てアップロードしました。

2019 Pastor’s Familiarization “FAM” Tour of Turkey with Jay McCarl

最後のディナーにて、ジェイさんと奥様といっしょに:

ジェイさん自身が、ご自身の教会で報告をされたようです。

フェイスブックに、以下の投稿を載せました、ご紹介ます。

<ユダヤ的だからといって”聖書的”ではない>
Pastor Jay McCarl’s Lectures on Hellenism vs. Hebraic world of the Bible:

トルコ旅行から無事に、先週金曜日夜に戻ってきました。東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(今のイスタンブール)から、シリアのアンティオキア(現在はトルコにあるアンタキア)へ、そしてバスで、パウロがヨーロッパへ旅立つトロアス近辺まで、東から西へ横断しました。

団長は、カルバリーチャペル・ジョージタウン・デバイドの牧者、ジェイ・マカールさんですが、彼の各所における牧者たち向けのメッセージは、「ヘレニズム化された私たち 対 聖書背景のヘブライ的な素朴な人々」でありました。

私にとっては既知であり、そして驚きでした。西洋人であるジェイさんから、東洋人である私が、去年のトルコ・ギリシアへの旅と今回で、自分たちの持っている非西欧的世界観が、実は聖書に近いことをずっと聞いて来たからです。変な、不思議な気分になりました。彼と交わって、「あなた方のことを例にとっていいですか?」と聞かれて、いいですよ、と答えたので、今回のメッセージの中で何度かJapaneseと言って、ヘレニズムそのものであるアメリカ人の思考と、そうではない者たちの歴史観や思考を対比して説明しています。

ところが、ここに捻りがあります。私がキリスト者であることは、西欧の宣教師からもたらされた教えの影響があり、自分がいかに、ヘレニズム的な信仰を持ちながら、実はそれから離れた聖書に近い習慣や心情を持っているかに気づくからです。

これは、聖地に住むアラブ人キリスト者にも起こっていることだそうです。ジェイさんは、ナザレにあるナザレン派の教会(笑)で、メッセージを語ったそうです。彼らは、無意識のうちに聖書の背景となる習慣でもって動いていることに彼ら自身が気づき、驚いていたそうです。けれども自分たちがキリスト者になっているのは、ヘレニズム化したキリスト教ですから、複雑なのです。そしてこの私も、おそらく多くの日本人キリスト者もこの複雑な信仰や心情を持っているのだと思います。

<多くのメシアニック・ジューはヘレニズム的ユダヤ人>

日本において、「ユダヤ的ルーツ」という言葉がしばしば使われます。私はこの通り、ユダヤ人やイスラエルのことをライフワークにしているぐらい、興味がありますが、それでもこの流行に多少なりとも、違和感を抱いていました。「ユダヤ的」と言いながら、今まで学んできたプロテスタントの神学や聖書理解と骨格は何も変わっていないからです。

実は、メシアニック・ジューの指導者の多くが、信仰を持って聖書を学ぶ時に、プロテスタントの神学校や教会指導者から学んでいます。また今のイスラエルも、欧州の啓蒙思想の影響を受けたユダヤ人によって建国されているので、ヘレニズム化したユダヤ人の考え方になっています。

歴史を辿れば、第二神殿時代に、アレキサンダー大王が世界にヘレニズムを伝播したことによって、またセレウコス朝のアンティオコス・エピファネス王(荒らす忌むべき者、反キリストの型)が、徹底したギリシア化をユダヤ人に強要したため、その時以来、ユダヤ人がヘレニズム化しました。

パウロなど、使徒たちには、ヘレニズムの世界を熟知して、彼らにも分かるように御言葉を語ることができましたが、パウロ自身がヘレニズム化していたわけではなく、ヘレニズムに激しく対抗したパリサイ派出身であったので、自分自身は距離を置くことができていました。そして、ヘレニズムから元々、無縁なのはペテロやヨハネであり、ヨハネの文体はまさに、素朴な、無学の人でもそのまま受け入れることのできる、深読みを必要としない、けれども非常に深淵な言葉を残しています。

ヘレニズムとは、要は神中心ではなく、人中心です。人が神を把握しようとする試みです。しかし聖書は、神が中心、主体で、この方の啓示をそのままひれ伏して、受け入れるのみです。

以下にいうことは矛盾するように聞こえますが、思うに、「ユダヤ的を強調すると、ヘブライ的思考、聖書的世界観から、むしろ離れてしまう」ということです。自分の思考の中に、どうしても体系化、理性的理解をしようとする性向があり、それがユダヤ的に理解しようとする試みの渦中においてさえ、入り込んでしまうからです。

ヘブライ的価値観や世界観の話を聞いていると、本当に日本の中に存在するもの思わされます。例えば、「過去を現在にもあるかのように捉える」ということがありますが、天皇家など、古代のものが現代にもそのままつながっています。

ところが、ジェイさんが警鐘を鳴らしています。「ヘブライ的ルーツ」運動そのものには、彼は警戒しているようです。多くの推奨者は、その根拠をミシュナやタルムードに拠っているのだそうですが、どちらもヘレニズム化したユダヤ人によって編纂されているからです。

神道や天皇家に、何か聖書に近いものを感じたとしても、「ルーツが同じ」ということを言い始めるところに、むしろ異質な、ヘレニズム的な考えが入って来ることを感じます。体系化する必要ないのです。

以前、この話題に付いて、以下のブログ記事を書いていました。

距離を置きたいような神学論議

日本宣教と「ヘブライ的思考」

ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ