恵比寿バイブル・スタディ 5月21日

☆5月21日(金) 生メッセージ!!イザヤ最終回☆

お元気ですか?
季節は行ったり来たり、漸く5月らしい気候ですが、これで落ち着くのでしょうか?

さて、今週金曜日5月21日は、いよいよイザヤ書の最終回、そしてお待ちかねの生のメッセージです!神様に大いに期待してお集い下さい!!
21日の次の生のメッセージは6月16日の予定です。

☆イザヤ書の次に学ぶ箇所について、ご希望がありましたら、教えてください。皆さんのリクエストをお聞きして、決定したいと思います。

前回63章9節「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い抱いて来られた。」この箇所のメッセージから、神様は私たちが苦しむとき、遠くから見ているのではなく、一緒に苦しんで下さることを、改めて心に刻みました。

では、今週の学びのお知らせです。

◇5月21日(水)午後7時-
◇住区センター三田分室 第2会議室
◇聖書箇所 イザヤ書65-66章

♪ご持参の食事は、メッセージ前あるいはメッセージ終了後に、召し上がって頂けます。

☆6月の学びの日程
6月9日・16日
※6月後半のスケジュールは、確定次第お知らせします。

みなさん守られますように。

今後(3-5月)の恵比寿バイブル・スタディ

昨夜、無事に恵比寿バイブルスタディが終わり、その後、楽しい食事会も持つことができました。

次回から過去のテープを用いた学びの時となります。
きよきよが不在でも、十分、濃密な主にある交わりを持っているそうです。ぜひ、いらしてください。

今後の学び(3-5月)の予定:

 3月10日、24日
 4月14日、28日
 5月12日

いずれも水曜日午後7時からです。

そして5月21日(金)、6月16日(水)・・・と、本人によるメッセージが再開します。

連絡先: ebisu.bs @gmail.com
   (bsと@の間の一マスを取って送信してください。)

エビスBSのお知らせ 2月24日

☆2月24日、今シーズン最後の生メッセージ!☆

お元気ですか?
前回の52章そして53章、僕としてのイエス様の究極の姿・・・もう一度メッセージを聴き返しています。

これまで幾度となく読んでは涙した箇所・・・。

かつて不安神経症を患っていた私は、発作で苦しくて金縛りにあったみたいに身動きが取れなくなったとき、ここの聖句を反芻していました。すると、不思議と癒されていきました。この学びを通して、その理由が克明になりました。薄らいでいた記憶を、呼び覚まして下さった神様に感謝しています。どんなところから救い出されたのか、もう一度思い起こすことができました。

では、今週の学びのお知らせです。
〇2月24日(水)午後7時 ~
〇住区センター三田分室 第2会議室
〇聖書箇所 イザヤ書54章~

学び後、飲み物とお菓子中心に軽い食べ物をご用意致します。夕食は六~七分目に押さえていらして下さい。なお、準備の都合で、この交わり会にご出席の方は、下記アドレスにご返信をお願い致します。

ebisu.bs @gmail.com
(@の前の一マスを取ってください)

☆3月の学びの日程
3月10日・24日
全て水曜日です。

みなさん守られますように。

生ける水の川

今、2月21日に説教するヨハネによる福音書7章37節以降の箇所の準備をしています。(後日、「イエス様を知らない方へ」に掲載)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その人の腹(直訳)から、生ける水の川が流れ出るようになる。(7章37‐38節)」

ここの箇所についてチャック・スミス牧師の説教を見ると、「ここのギリシヤ語の言葉は強い言葉が使われています。谷をくねっている単なる穏やかな小川ではありません。荒れ狂う急流、山の峡谷に滝になって落ちている水のことです。」とあります。

私たちの、からからになっている心が、御霊によってこのような潤いがもたらされる、ということです。このことは前にも説教を聞いたり、本で(「生ける水(Living Water)」読んだりしていましたが、改めてそのギリシヤ語を調べてみました。

「ποταμός (potamos) river, of a general size, it can be a year-round river or stream (as the Jordan), or a wadi, i.e., a ravine practically void of water in the dry season, that can become a winter torrent」(Dictionary of Biblical Languages with Semantic Domains)訳すと、「ポタモス:普通の大きさの川。ヨルダン川のような年中流れている小川でもあるし、ワジ(涸川)でもありえる。つまり、乾季には実際に水のない峡谷に、冬には急流となるものである。」

驚きました、イエス様が「聖書が言っているとおりに」と言われていますが、旧約聖書の預言で「荒野で水が流れる」という約束があります。涸れた川を私たちはイスラエル旅行で何度も見ました。ユダの荒野やネゲブ砂漠に沢山ありますが、まったく水がありませんでした。けれども雨が降ると、ちょろちょろではなく、一気に洪水のように押し寄せると聞いていました。

つまりイエス様がお語りになっていたのは、今の私たちのからからになっている「心」に、ご自分が御霊の命が鉄砲水のように流れ出すようにしてくださる、という意味であることが分かったのです。

そこで動画がないか調べると・・・ありました!

いかがですか?そして、ダビデがサウルの手から逃れていた、死海ほとりにあるエン・ゲディの映像も見つかりました。

ユダの荒野からの水が、エンゲディの小川を急流に変えてしまい、それが死海沿いに走っている道路を乗り越えて、死海の中に入り込んでいます。これを主は、私たちの心の奥底から流れ出すのように約束しておられたのか!と感動しました。

そこで問いかけです。私たちは、この生ける水の川を経験しているでしょうか?

「イスラエル人とは何か」

再び本の紹介ですが、これは絶賛したい内容です。

「イスラエル人とは何か - ユダヤ人を含み超える真実」(ドナ・ローゼンタール著 徳間書店)
(原書: “THE ISRAELIS: Ordinary People in an Extraordinary Land” by Donna Rosenthal

今のイスラエルを知りたい方は、一読必須です。これまでも近現代イスラエルに関する書籍を紹介しましたが、それを今、実際に生きているイスラエル人に取材しながら、生きた証言として肉付けしているからです。だから非常に分かりやすいし、冗談も交ぜながら話を進めていくので「面白い」。本書にあった書評の一つを引用します。

こんな副題をつけることもできるだろう。『イスラエル人とイスラエル人について、常々知りたいと思いながらも、恐らく訊けなかったことすべて』。宗教、軍隊、社会的道徳観、民族集団などなど、いろいろな側面をほとんど網羅し、それらを客観的に、「普通のイスラエル人」の目を通して解説している。爽快なことに、政治家や社会学者の視点からではない。


これまでいろいろ日本人の著者によるイスラエルについての本を目にしてきました。大抵は、パレスチナ寄りの扇情的なもの、ユダヤ人陰謀まがいのもの、アメリカと一緒くたにして批判しているものです。そして比較的公平なものも見つけましたが、地域研究の学術的なものか、軍事マニアによるものであり一般受けしません。残りは本書のような翻訳本です(以前は、サイマル出版が欧米で良書と言われるものを出版していました)。

左の原書の表紙をご覧ください。これ、みなイスラエル人です。イスラエルに旅行に行ったら、どこにでもいそうな若者たちです。イスラエルは本当に複雑で、多様で、四国よりちょっと大きいぐらいの小さな土地で、世界を揺るがすような事件や紛争が起こっているにも関わらず日本と同じ先進国であり、原書の副題にあるように「普通でない地で普通に暮らそうとしている人々」を見ることができます。

信仰を持っている者として、聖書の舞台がそのまま超現代的な場面の中に焼き映されている姿も刺激的です。例えばこんな一文が・・・

聖書の十戒で使われている言葉と同じ言葉でビックマックを注文したり・・・

以前、知人の方が教えてくださいましたが、娘さんがイスラエル人と結婚しエルサレムに在住しているのですが、「もし離婚するとしたら、イスラエルがもう嫌で出て行く時でしょう。」と言ったそうですが、上の文の続きはこうなっています。

行列におとなしく並ぶなんて軟弱なことだと考えたり、『禁煙』と書かれているところで堂々とマルボロに火をつけたり。

日本人とは非常に対照的な国民性ですが、けれども数々の先端技術を生み出しているその勤勉さは似ているかも。そして、中東紛争の火薬庫にいながらにして、現代的な生活をしている様子として、続きがこうなっています。

イスラエルの若者たちは、MTVが大好きで、いそいそとショッピングモールへ出かけては、ジェニファー・ロペスの最新CDをゲットする。そしてガスマスクも買う。

ところで、イスラエル人への霊的救いのことも思わさせられました。例えば、以下の文。

インティファーダが激化した2002年8月、約2000の騎馬警官や兵士や爆弾処理専門家が監視する中、テルアビブで恒例の「ラブ・マーチ」が開催された。・・25万人をゆうに超える人たちが、週末の派手なお祭騒ぎを他の所望と集まったのだ。まるでリオのカーニバルみたいだった。裸同然のイスラエル人たちが浜辺で陽気に浮かれ騒ぎ、生演奏に乗って情熱的に体を揺らす。・・

「僕ら、正気でいたいだけなんですよ」とオーリが説明してくれた。「ほんの数キロ先のガザじゃ、イスラエル軍とパレスチナ人が殺し合いをしてるけど、そんなこと全部どこか遠くの大陸で起きていることみたいに、僕らは羽目を外す。僕は国民総アルツハイマー病って呼んでるけど、そんな状態なんです。朝のニュースのことなんか誰も思い出したがらない」。あまりに多くの友人が殺されたり傷つけられたりするのを見てきたせいで、イスラエル人はこんなモットーを掲げるようになった。「人生は不確実だ。だからデザートを真っ先に食べろ」。外国旅行もそうだが、「現在を楽しめ」という態度は、いいかげんに暮らしているからではない。ストレスからの避難なのだ。・・・

次のイザヤ書の御言葉を思い出しました。アッシリヤ軍に包囲されているエルサレム住民への、神の叱責の一部です。

その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、なんとお前たちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ、食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。(22章12‐13節)

罪の犯し方も、極めて聖書的という、笑えない状況を見ました。カルバリーチャペル・テルアビブの牧師さんが、「私たちはラスベガスとサンフランシスコに住んだことがあるが、テルアビブはもっと世俗的だ。」とおっしゃっていたのを思い出します。でも、だからこそイエス・キリストに対する偏見が少なく、まさに「罪人、取税人、遊女が悔い改めて主のところに来る」という福音書の世界が、今も起こっているそうです。

ところで、原書は2003年に書かれています。したがって自爆テロの「第二次インティファーダ」の最中であったため、本の内容もそのことがたくさん書かれています。でも今はもっと平穏です。旅行者の数もうなぎ上りです。(事実、大韓航空は2008年9月に仁川国際空港からのテルアビブ直行便を再開しました。)「イスラエル旅行は恐い」という日本人に対して、私は、「イスラエル人が日本旅行をしようと考える時に、『日本は地震があるから恐い』と考えるんだけれども、どう恐い?ここに住んでいて。」と聞き返します。特にツアーで行かれれば安全については何の問題もありません。

日本とイスラエルはまだまだ、遠い国だと思います。欧州の国に住んだことのある日本人の方と話すと、どの国からもテルアビブ行きの便があるようで、ヨーロッパとイスラエルの歴史的、また経済的つながりを感じます。アメリカにもユダヤ人は多いので、肌身でその存在を知ることができるのですが・・・。日本の人たちがどれだけイスラエルについて知らないことを知るには、逆にイスラエルの人たちが今の日本をどう見ているかを知ると理解できるかもしれません。おもしろいブログを見つけました。

エルサレム日記 イスラエル人から見た日本

以上です。

エビスBSのお知らせ 2月17日

みなさん、お元気ですか?
冬至から2ヵ月、一日一分位ずつでしょうか、ちょっとずつちょっとずつ日が伸びて、近ごろでは夕方5時でも明るいです!寒くても春に向かっているのが感じられて、ほっとします。

さて、前回はイザヤ書49章から51章までを学びました。「僕たるキリストの姿」・・・

以前、私は、何かもやもやした嫌な感情が湧いて来たりすると、すぐに人や状況のせいにして、自分を防御していました。でもこの頃思うのです、自分の問題として受け止める強さが育まれて来ていることを。自分の欠けを認めてゆくのは辛い作業、我に砕かれるとはほんとに惨め・・・でも砕かれないともっと惨め。。。だから苦しくても、胃に鉛を詰め込まれたみたいでも、周りのせいにして逃げることをやめて、自分の弱さをじっと見据えて認めることに挑戦してみました。

すると、あんなに怯えていたのに、囚われからスーッと解放される・・・あのすがすがしさはそこを通過してこその味わいだと実感しました。
イザヤ51:12-16のメッセージを聞いて、「無いものを有るかのように恐れる」臆病な私が、じっと堪える勇気を持てたのは、「罵られても罵り返さずに十字架の死に至るまで忍び通してくださった」イエスさまの支えがあったからだと痛感しました。まだまだ課題はいっぱいですが、ひとつひとつ主と共に通過してゆきたいと願っています。

次はいよいよ、52,53章です!

では、今週の学びのお知らせです。
〇2月17日(水)午後7時 ~
〇住区センター三田分室 第2会議室
〇聖書箇所 イザヤ書52章~

※ご持参の食事は、メッセージ前もしくは分かち合いのときにお摂り頂けます。

☆2月の学びの日程
2月17日・24日
 全て水曜日です。

みなさん守られますように。

「聖霊に導かれて進もう」

前々から紹介しようと思い、していなかった本がありました。

「聖霊に導かれて進もう」(井戸垣彰著 いのちのことば社)

以前ご紹介した「このくにで主に従う」と同じ著者、故・井戸垣彰牧師によるものです。

何が良いかと言いますと、日本の教会内で起こる諸問題、日本人のクリスチャンであれば誰もが経験する、人間関係に絡んだ問題を、クリスチャンの「肉」の問題として聖書的に対処していることです。肉ではなく、聖霊に導かれて進む、というクリスチャン生活の基本を、日本の教会という土壌で実践できます。本書の一部を引用します。

何年か前、ある教会のご奉仕にうかがったとき、集会の後で一人の方から個人的な相談を受けた。教会のある大切な奉仕を担当し、自分なりに精一杯やっているつもりであるが、先生がいちいち細かい点を言い過ぎる、これではやる気がしない、というような相談だった。

お話を聞いた後、私は次のように答えた。確かに先生の言い方は悪いだろう。ほめないで欠点だけ指摘されたら、やる気を失うに違いない。だが先生の側のことは別にして、先生に対して怒っている、そのあなた自身の怒りはどうなのか―。

その方は、虚をつかれたようにはっとして、『そうでした、わかりました。』と答えた。

この方と同じように、私たちはいろいろな問題に苦しむとき、相手方や、事情の悪さにだけ心の思いを向ける。そして、必死になってこらえ、相手をゆるそうとし、何とかもちこたえようとする。そして相手の悪に対して怒っている自分に対しては、光を当てようとしない。相手が悪いのだから怒るのは当然ではないか、と自分を肯定してしまう。(7-8頁)

いかがでしょうか、身に覚えがないでしょうか。(私はとても痛いです!)

残念ながら、本著は絶版で古本のみでしか入手できません。でも、似たような内容で良書があります。こちらもどうぞ。

「カルバリの道」(ロイ・ヘッション著 CLC出版)

多神教の排他性

前回の、小沢氏によるキリスト教批判に応えて書いた記事「自浄努力の重要性」への補筆です。良い記事を今日、見つけました。

一神教は排他的で多神教は寛容という虚構

欧米のキリスト教やイスラム教の宗教戦争(?)に反発してキリスト教を批判する民主党寄りの方(この記事を参照)も、日本人への愛国心涵養と称して、神社参拝(靖国、伊勢に限らず)を日本人全員すべきだと考え、参拝しないことを売国奴、似非クリスチャンと言って罵る保守系(?)の方々も、ぜひ全文、読んでいただきたいです。ここには最後の部分だけ引用します。

本人が絶対的な信仰を抱くことと、他者に寛容であることは別問題であり、両立可能な要素である。クリスマスを祝い、神社に初詣に行き、葬式は仏教で行うことが寛容ではない。信仰に無節操・無頓着であることを寛容と勘違いし、それを他人に強制することは不寛容の極みである。反対に強固な信仰を有している人がいたならば、その信仰を尊重することが寛容である。一神教と多神教で区別するところから不寛容の罠が始まっている。

(参照エッセイ: 「国家国旗問題」)

「クロッシング」映画情報

先日お知らせした映画「クロッシング」ですが、表紙のページしかなかった公式ウェブサイトが、アップデートされています。

http://www.crossing-movie.jp/

4月17日からだそうです。首都圏在住の方、ぜひ映画館に足を運んでみてください。「物語」「プロダクションノート」など、クリックしてみてください。

前回の関連投稿 「映画「クロッシング」日本公開