2016: オバマのアメリカ(2016: Obama’s America)

今、アメリカで全米歴代二位の興行成績を達成したという話題の映画です。マイケル・ムーアの「華氏911」には及ばないそうですが、政治ドキュメンタリー映画としては、第二位に食い込んでると言います。日本語の記事を探したら、次の記事が一番詳しかったです。

ワシントン・古森義久 「反オバマ映画」人気の理由

私は先日「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の記事を書き、信仰的立場から今の米国保守派を批判しました。オバマ大統領については少し言及するに留めました。以前、米国リベラル派の由来についての記事を書きましたが、オバマ自身については正直なところ沢山書けませんでした。保守派からは反キリストではないかという声が有る程でしたし、彼の出生についての陰謀論が出回っていたので、私は興味が失せていました。一方、リベラル派はあの熱狂振りが理解不能でした。日本人でさえCHANGEという言葉に振り動かされていたほです。

でも、彼自身の人物像は確かな情報が出ていなかったと思います。そこで副題が、”LOVE HIM, HATE HIM, YOU DON’T KNOW HIM”というもので、実に端的に言い表していると思いました。訳せば、「オバマを愛しているにしても、憎んでいるにしても、彼のことは知らないね。」ということでしょう。どちら側も、彼を突き動かしている思想や情熱を知りません。

私個人の印象としては、前から「暗さ」を感じていました。彼の会見映像を見るたびに思います。アメリカン・ドリームとはほど遠い、というか、何か異質なものを感じます。(妻は十年以上米国に滞在し、その多くをリベラル色の強い東海岸で過ごしたけれども、私だけでなく彼女も「彼は、私の知っているアメリカと違う!」と言っています。)歴代の民主党大統領とも何かが違います。とらえどころのない謎を秘めた人です。保守派の人がこれまで民主党大統領を批判したとて、批判できるのは何か、どこかで一致できる何かがありました。けれども、それがないので空振りをしている感じです。以上が私の印象です。

そこでこの映画ですが、これはインド系米国人の政治学者ディネシュ・デスーザ氏による著書The Roots of Obama’s Rage(オバマの怒りのルーツ)を基にしています。中身は大体、次の記事二つを読めば分かるみたいです。

Forbesの記事:“How Obama Thinks”(オバマの考え方)
Washington Postの記事:“Why Barack Obama is an anti-colonialist”(バラク・オバマがなぜ反植民地主義者なのか?)

最初の産経新聞の紹介記事にまとめがありますが、「デスーザ氏は「オバマ氏の真のイデオロギー的理念は、米国がアフリカなどの開発途上国から搾取した植民地主義の結果の是正であり、そのために米国の力や富を相対的に減らすことを意図している」という結論を下す。」とのことです。私はこれで「なるほど!」と思いました。

彼のルーツは、彼のケニア人の反植民主義者の父だそうです。大していっしょに過ごしたのではないけれども、父の情熱と思想がしっかりと受け継がれていることが、彼が34歳の時に書き記した、「マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝」に散らばっているそうです。デスーザ氏はあるスピーチの中で次のような内容を話していました。「アメリカ人は、多様性のある多文化のアメリカの夢をオバマに投影させているが、オバマ自身の歴史を見落としている。父が反植民地主義であり、その考えをアメリカの地に適用させようとしている。普通の民主党員は、『所得をアメリカの中で再配分しようとしている』。けれどもオバマ氏は、『アメリカを世界の中に再編成しようとしている』」

これで、すとんと来ました。これが民主党や穏健リベラル派との違いです。ただ、デスーザ氏の主張がどこまで正しいのかどうか私には推し量ることはできません。特にオバマ氏による大統領としての政策に、どこまでその思想と情熱が反映できているか、つまり「したくてもできない」ものも多いのではないか、と思うからです。けれども私が前々から感じていた深い懸念と合致していました。つまり「アメリカをもうアメリカででなくしてしまい、他の世界の国々と同類にしていこうとする強い力が働いている。」と、個人的には強く感じていたからです。

最後に、私は多くの日本の人、クリスチャンを含む日本の人に言いたい。アメリカの独自性をイラク戦争後「一国主義」と言ってあれだけ批判していましたが、「本当にアメリカ無き後の世界を私たちが望んでいるのか?」ということです。アメリカが強大な国で無くなりようがないから、という甘えがあって批判していたのではないでしょうか?ちょうど、自衛隊違憲、日米安保否定の路線を立てて置きながら、一度、与党になったら一気に転回したかつての社会党のように。でも、現実にそうしていこうと思っている大統領がお望みどおり就いている、ということです。そして、あと4年続けるかもしれない、ということです。

今、現実にアメリカがアメリカでなくなっていく時代に入っていこうとしています。ジョエル・ローゼンバーグ氏が言うように、Implode(内部破裂)してしまう時期が近づいています。

最後の最後に・・・、本映画の原作者ディネシュ・デスーザ氏は福音派のクリスチャンで、キリスト教系のキングズ大学の学長でもあるそうです。キリスト教弁証学者としても有名ですが、どこかで聞いたことのある人だな?とは思っていました。また、彼はアジア系の米国移民なので、なぜ彼が保守的になったのか少し共感できます。アメリカにしかない独自性を外部にいたからこそ知ることができるので、その建国思想に純粋に帰依しやすい面があります。有色系移民一世のほうが、従来の白人よりも保守的になりやすい面が実はあります。下の記事を書いていますね。これもまたアメリカの魅力を知った時を思い出し、共感できます。(私も「アメリカに感謝している訳」なんていう記事を以前書きました。)

祝するべき10の事 /なぜ私が、反・反米主義者なのか

【後記】

カルバリーチャペルのラジオ番組KWVEで、チャック・スミス牧師がディネシュ・デスーザさんにインタビューしました!番組の録音も聞くことができます。(写真 ・ 録音)彼自身、カルバリーチャペルに通っているそうです。

イスラムとカルビン主義「予定説」

前記事「米大使館襲撃事件とイスラム信仰」の補足になります。

ある小冊子に、カルビン主義の「予定説」は、清教徒に見られるように、今のイスラム教と似たようなことを行なってきたことを指摘している文章がありました。秘密警察を置いてみたり、異端者を公に燃やしたり、オランダ改革教会における南アフリカでの人種隔離政策、カルビン主義者同士の殺し合い、そして南部バプテストやメソジストによる奴隷制支持などがありました。なるほど!です。

イスラムでは、「インシャ・アッラー(=アッラーの意志のままに)」という言葉がそれに当ります。

プロテスタント教会史の汚点

神が一方的に憐れみをもってある人を救いに呼ばれたということを、「予定説」では、「ある人を天国に、またある人を地獄で永遠に苦しませるために意図的に創造した」と教えています(=「無条件的選択」)。これは聖書的に間違っているだけでなく(1テモテ2:4、エゼキエル33:11等)、福音伝道の必要性と大宣教命令に矛盾します。これをいくら論理的な説明を試みたところで、神の予定ならず「運命」あるいは「宿命」の神という、聖書とは異なる決定論的な神を予定説は浮き彫りにしていきます。

したがって、霊的救いだけでなく社会的にも敷衍して、例えば黒人が奴隷であることが神から決定されているものとみなし、それを変えることに躊躇したのが当時の人々でした。そして、極端になるとそれを変えることが神の決定を妨げることになるから排除しなければならないと考えます。予定説を唱えている人は否定しますが、「神の意志」というものを哲学的な決定論の中で捉えているために、こうした過ちが起こっているのです。(今はさすがに奴隷制支持者はいませんが、大衆伝道集会に一部の過激カルビン主義者らが、イエス様を受け入れる決断をするため説教壇の所まで行こうとするところを、「選択はできない(No Choice!)」と書いてあるTシャツを来て、それを阻もうとしています。)

予定は、神との、愛の中での自由な営みの中にある

神は計画を持っています。予め初めから全てのことを知っておられて、予めすべてを計画しておられます。しかし、神は同時に、人のすべての営みに介入しておられます。人の細かい一つ一つの心の動きさえ、それを知り、痛みがあるならば共に痛み、喜ぶならば共に喜んでくださり、制限のある人間と一つになっていてくださいます。

その被造物との関わりが究極の形で現れたのが「十字架」です。神が一見、弱者に思われるようなところまで、一つになってくださったのです。

真理とは決定論の中の真理ではありません。「真実」と訳したほうが良いでしょうか、人の自由な営みがあって、なおのこと不変で不動の存在があり、それが真理なのです。

神はひとりなのですが、三つのの位格(父・子・聖霊)があるからこそ、このことができるのです。「全ての主権者」であると同時に「人の弱さ」に一体化することが可能になるのです。イスラム教は、御子を否定することによって、人の弱さに同情できない神を造り上げました。けれどもカルビン主義の予定説は、キリストが全人類のために血を流し、あらゆる人の所まで溢れ流れたという恵み深さを、「選定された者だけ」という決定論の中に押し込めました。

したがって、私が聞くのが好きではない祈りが、「どうか、あの人を、あなたの御心であれば、お救いください。」であります。そして、まだ生きている時に、救われたのかそうでないのかを、その人の歩みを見て決めていこうすることです。そうではありません!こう祈るべきです。「あの人のために、あなたはキリストを十字架の上で死に渡されました。ですから、救ってください、お願いします!(涙)」であります。そしてその人が死ぬまで、最後の最後まで、しつこく祈り続けることです。その執拗さの中に、主はご自身の予め決められていた御心を現してくださるのです。

自由意志を用いた愛の交わりの中に「真理」が存在するのであり、そして、その真理はすなわちキリストご自身なのです。

参照文献:カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば チャック・スミス著

米大使館襲撃事件とイスラム信仰

よりによって911の日に・・・「またしでかしたな!」と思いました。

領事館襲撃で駐リビア米大使らが死亡 「預言者侮辱」にイスラム教徒が抗議

改めて、イスラムについて考えなければいけません。以前、紹介した池内恵著「中東 危機の震源を読む」にリンクしている書評から引用します。

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イスラーム原理主義者によるテロ事件の報道などを見ると、私たちはどうしても「西洋(キリスト教)対イスラーム」という図式を頭に浮かべてしまう。しかしイスラームが対面している相手は、実は西洋でもキリスト教でもなく、「近代社会」だ。これが最も顕在化するのが、改宗をめぐる問題である。

池内恵によれば、イスラーム諸国が西洋諸国と向き合うとき争わざるをえないのは、キリスト教的価値とイスラーム的価値の優劣なのではなく、「信教の自由」ということ自体の意味なのだという。

イスラーム教では、イスラーム教から他宗教への改宗は絶対的な罪であり、認められない。「背教」の最たるものとされ、死罪にあたる。……改宗が「許されない」という次元の話ではなく、普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」という共通認識が根本にある。(2007年8月、217項)

近代社会では、キリスト教以外の宗教を信仰すること、また双方への改宗も当然の権利とみなされる。ところが、イスラーム教ではそうではない。

近代に確立されてきた基本的人権において、「信仰の自由」は最重要項目である。各個人がある宗教を信仰する自由を保障するとともに、その宗教から離れる自由も、宗教も信じない自由も同時にある。むしろ宗教的な制約からの解放こそが思想・信条の自由の推進の原動力であった。イスラーム教の規範においては、宗教に関する限り、人間の自由には制限が大きい。また全ての宗教は平等ではなく、イスラーム教徒が「離教」することは、神に対する最大限の罪となる。(同上、219項)

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普遍真理であるイスラーム教から離脱することなど「ありえない」」の部分がとても大切です。

私たちキリスト者の考える真理は「キリスト」ご自身です。キリストなる人格ある存在に接することが永遠の命であり、真理は自由意志の行き交う交わりの中に存在します。

しかしイスラム教では、物が地面に落ちる重力の法則と同様に真理を考えます。つまり、「物が宙に浮くことがありえない」と同じように、「イスラームからの離脱もありえない」と考えるのです。他の生命のない被造物と同じように人もアッラーに服するのであり、ゆえにイスラーム(=服従)なのです。人格的交わりも、自由意志も一切ありません。

もし服さない者(また物)があれば、普通なら思考を生かして「なぜ服さないのだろう?」と考えるでしょう。しかし、そのような思考経路はありません。もし服さないのであれば、抹殺あるのみです。このような経路で、ユーチューブのムハンマドを描く映画に反応しています。

さらに言わせていただくなら、アッラー自体に、聖書の神の人格がありません。彼には愛の交わりがありません。孤独なのです、たった独りなのです。自己は自分の意思を動かす中枢でしかありません。しかし、聖書の神は唯一でありながら、かつ交わりがあります。父がおられ、子がおられ、また霊がおられます。父が子を愛し、子は父に対してその愛において服従します。対して、イスラームの信仰告白の支柱に「アッラーには子がいない」というのがあります。こうやってアッラーは自ら愛の人格を剥奪し、運命と宿命の渦に成り果てました。ゆえに人に対しても、有無を言わせない服従しか要求できないのです。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(1ヨハネ2:22-23)」(参照記事:ダニエル書8章のエッセイ

今回の事件について未だに、一部の人がいう「文明の対話を怠ってきたからだ」という分析に固執するのでしょうか?そもそも、対話などできるのでしょうか?また、「アメリカの中東政策のつけだ」ということなのでしょうか?いつになったら、アメリカとイスラエルのせいにする思考回路から脱却できるのでしょうか?同じようにアメリカの政策に手なずけられたと言われる他の独裁国(韓国やフィリピンなど)は、とっくの昔に民主化し、政治的に成熟しています。

「イスラム」に問題は内在しているのです。米国政府の失策ではなく、これは霊の戦いなのです。だからキリスト者がもっと祈るのです。中東キリスト者への祈りと、福音と御霊の力による解放を願うことこそ、平和をつくる人になれます。

【追記】
知人の方から、この記事を読んで「独裁制からの自由を求める市民のために、その民主化のために祈り支えることが必要」、また「キリスト者に原理主義者がいるように、イスラムにもいる。コーランを焼くような牧師は、最も愚劣な存在だと思う。そして、やはり対話は必要。」との貴重なコメントをいただきました。次が私が書いた返答です。

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「聖書預言の力と目的を再発見する」 その5

(「その4」からの続き)

同じように驚くべき事は、主なる神は聖書を ― 旧約と新約のどちらをも ― 通して、メシヤの再臨の「終わりの日」における要となる国々において起こる、要となる出来事の一部を私たちに宣言してくださっています。私たちが「終わりの日」に生きていることを指し示す「徴」を前もって警告しておられます。ですから私たちへの問いかけは、この方の御言葉に注意を寄せていますか、その命令に従いますか?ということです。

第三に、終わりの時の聖書預言に、多くの国々が具体的に言及されていますが、アメリカはその一つではない、ということです。イスラエルは終わりの日において、神のご計画とご目的の震央部分になっています。聖書預言で言及されている他の国はロシア、イラン、シリア、レバノン、トルコ、リビア、スーダン、復興ローマ帝国など、その他数カ国です。けれどもアメリカ合衆国は、直接的に、具体的に聖書に言及されていません。私の最近の著作”Implosion“(内破)の中で、このことをさらに詳しく取り扱っています。けれども重要な点は、アメリカが人類の歴史の中で、この地上で最も豊かで最も強力な国であっても、聖書は、終わりの日において私たちに対する特別な役割を説明していません。したがって、何かが私たちの力を無くし、キリストの到来に至る出来事で鍵となる役割を果たすのを無力化させるのではないかと思えます。

もしかしたら、この国の財政が崩壊すること、一連の天災、あるいは戦争やテロ攻撃、あるいはその他のいろいろなシナリオが含まれているかもしれません。どのようにアメリカが無力化されるのか正確には分からない一方、私たちの国では、神が私たちの国から好意と慈しみの御手を引かれるかもしれない、あるいは、私たちを公然と裁き罰するに至る、非常に不穏な動向を既にいくつも見ています。その中の一つとして、1973年以降私たちは5300万人の中絶を犯してきた事実があります。1960年以降、暴力犯罪が460パーセントの割合で爆発的増加を見ました。恐ろしい殺人の波が今日の私たちの国に、小さな町にさえ押し寄せています。数千万というアメリカ人が、あらゆる類の性的罪の中に生きています。ポルノ、性的不品行、姦淫、同性愛など、数知れません。聖書が個人や国が関わってはいけないと警告している罪であります。さらに、持ってもいないお金を費やすのに毒されてしまいました。連邦赤字が、16兆ドル(=1330兆円)に達しました。ワシントンは現在、歳入として受け取っているものより、毎秒、42210ドル(=330万円)を費やしているのです。

このような動向はあまりにもひどく、決して維持できないものです。もし方向を変えなければ、― もし、悔い改めてキリストに罪を赦していただき、第三大覚醒を与えてくださらなければ、― 私たちの国は経済的に、道徳的に内部破裂するだろうと思います。この状況は、私たちがひざまずき、祈りと断食と悔い改めへ促していなければなりません。実際に、促しているでしょうか?

第四に、アメリカが内部破裂に直面している理由の一つが、教会がマタイ28章18‐20節にしたがって、弟子を作っていない大掛かりな失敗にある、ということです。アメリカには、34万の教会の会衆があります。これらがみな、暗闇の中の霊的な「灯台」でなければいけないはずで、人々がキリストにある安全と避け所を見つけるように手助けしていなければいけません。しかし、私たちの会衆の多くが、その光がかすんでおり、あるいは完全に消し去られています。アメリカの教会が、行くべき道を導いていないのです。あまりにも多くの牧師や指導者が眠っています。私たちは絶対に目を覚まし、健全で、聖い、キリストとの歩みに戻らなければいけません。教会の最大の失敗の一つは健全な弟子を作ってこなかったことにあり、健全な弟子が再生し、霊的に他の健全な弟子を作ることができていないことです。アメリカでは、(霊的に)年齢を経た、賢い、イエスに従う者たちが、若い信者たちの生活に時間とエネルギーを注ぎ込むことを、系統的にしてこなかったのであり、世代から次の世代へ、キリストに似た性質、価値観、訓練を注意深く伝授してきませんでした。アメリカのキリスト教は、マタイ28章18-20節にある、イエス・キリストの大宣教命令に従ってこなかったので、弱体化し、失敗し、霊的復興が最も必要な状態になっています。一部の人たちは従っているのですが、大多数は、すべての国民(自分の国民から始めて)を弟子にしておらず、それらの弟子たちにバプテスマを授け、キリストが教えられた「すべての」ことを従うようにそれらの弟子たちに教えることをせず、世の終わりまで、いつも共におられるというキリストの約束を思い出させて来ませんでした。
【意訳以上】

以上が、ホノルルでの説教ノートの意訳です。

まず、<第三の点>への一言。アメリカ国内だけでなく、日本でもあまりにも多くの人が、これからの世界の行く末を見るときに、この国に注目しています。そして、イスラエルを始めとする中東と周辺諸国が終わりの日の聖書の舞台ですから、本来なら同じぐらいの、いやそれ以上の時間を費やさないといけないのですが、それをやっていません。今日は米国同時多発テロが起こった日であり11月には大統領選が行なわれるのでまたまた注目されていくでしょうが、米国は誰が政治を執り行っても内部破裂は免れない状態であると、私も感じています。

幸いにも、米国はそのような不安と混乱期において、教会の中で大覚醒が起こり、社会全体を変えてしまうほど強力な、御霊の力強い働きがその歴史にありました。ジョエル氏が言っている「第三大覚醒」というのは、二つの大覚醒に続く新たな霊的復興がなければ、今やアメリカに希望は見いだせない、という意味です。同じ先進国であり、世界有数の経済大国である日本も、似た道を歩んでいると感じています。あまりにも大きな課題と問題が山積しており、いつか潰れてしまうではないか、と思います。

そこで<第四の点>の話題に移りますが、日本もアメリカと同じような混沌期に入っていますが、その中で教会はどのような指針を、光として照らすことができるのでしょうか?私はジョエル氏の意見に全く賛成で、一にも二にも「弟子づくり」だと思います。

日本の教会も基本的に、アメリカのキリスト教会の流れの中にあります。それで、教会成長というものを数の大きさによって測る嫌いがあります。韓国も同じなので、韓国から来るキリスト教の影響もあって、人々が教会にどれだけ多く集まるかが、焦点になります。もちろん、救われる人々が加えられる事は神の御心ですからそれ自体はすばらしいことです。しかし、キリストの命令はそうではありませんでした。「弟子とする」ことが命令でした。キリストが教えられたことを教えるのですから、イエス様が弟子たちとどのように過ごされたのか、それを模範にしないといけません。

第一に、弟子づくりは時間がかかります。イエス様が、わからずやの弟子たちにどれだけの時間を費やされたかを思い出してください。けれども日本の教会は、特に大きな所では一度、信仰告白をし、洗礼を受けていると、そのままにされる羊がたくさんいます。教会にいながらにして、迷える羊となっていることがしばしば起こっています。

第二に、生活を共にしています。今日の日本社会は、「個人」ならず「孤人」化しているという指摘があります。けれども、弟子づくりには、イエス様が弟子たちと生活を共にしたように、生活の中でキリストのうちにある自分を他者に伝えることができるのです。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(箴言27:17)」とあるように、人格と人格の衝突があって初めて、キリストの命令を実践することができます。

第三に、御言葉には体系的に取り組まなければいけません。ある時はこの箇所、またある時はあの箇所、弟子づくりならばこの教材、あのプログラム・・・というように、周辺的な事柄が中心となっています。けれども、イエスは弟子たちに聖書全体からご自分について教えられました。パウロは、エペソの長老たちに、神のご計画の全体を教えました。

そして最後に、実は聖書預言に注目する意義について、かつてデービッド・ホーキングが、チャック・スミス牧師にインタビューしたことがあります。基本的にジョエル氏と同じ事を話しています。

聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その4

(「その3」の続き)

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、ホノルルでの説教を二回行ないましたが、次から二回目に入ります。次のブログ記事が原文です。一回目の説教に基づき、さらに四つの要点を話します。

SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 2

【意訳】
第一に、聖書には、その言葉が、全能で、全てを見る、全てを知る宇宙の神の言葉そのものであることを臆することなく表現されています。数例を挙げましょう。

主は、ヘブル人の預言者イザヤを通してこう言われました。「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。(42:9)

主は、預言者イザヤを通してこうも言われました。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。(44:6-7)

主は、預言者イザヤによってこうも言われました。「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(46:9-10)

使徒ペテロが書きました。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21)

主イエス・キリストが言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示22:13)

聖書の神は、他の何ものによっても比べられません。この方はすべてを見ておられます。すべてをご存知です。すべてを覚えておられます。初めであり、終わりであるかたです。アルファであり、オメガです。この方は推測したり、将来に何が起こるかを”予測”したりなさいません。何が起こるか知っておられるのです。驚くべきことに、神は前もって重要な出来事を選んで私たちに知らせることで、私たちが、自分の神がいかにすぐれているかを悟らせようとしています。

第二に、成就した預言は、私たちが神の御言葉が真実であることを知る、最も重要で強力な方法です。例えば、旧約聖書の中に数多くの預言が成就したことを見ます。例えば、神はへブル人預言者エレミヤに、バビロンで七十年間の捕囚の後、イスラエルに帰還することを教えられましたが、それが正確に起こりました。また主は、預言者イザヤに、バビロン捕囚からユダヤ民族を解放する器になるペルシヤ人王の名を、正確に告げられました。その名は「クロス」であり、事実、その名のペルシヤ王がユダヤ人を故郷に戻らせることを助けたのです。さらに、旧約聖書では、メシヤがどのような存在なのか、何を行うのかについての数多くの手がかりを与えられました。そのいくつかを紹介します。

預言者ミカが、メシヤはベツレヘム・エフラテで生まれることを教えました(ミカ5:2)。

ヘブル人預言者イザヤが、メシヤが処女で生まれることを伝えました(イザヤ7:14)。

預言者イザヤが、メシヤは人の男の子、息子として生まれるが、「力ある神」と呼ばれることを教えました(イザヤ9:6)。

預言者イザヤは、メシヤがイスラエルのガリラヤ地方で生き、宣教活動を行うことを告げました(イザヤ9:1‐2)。

預言者ゼカリヤは、メシヤがろばに乗ってエルサレムに入城することを伝えました(ゼカリヤ9:9)。

預言者イザヤは、メシヤが癒しを行なうことを伝えました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

ダビデ王は、メシヤが悪者たちの一団に取り囲まれ、彼らがメシヤを打ち、虐げ、この方の着物を分け合い、くじ引きにし、その手と足を刺し通し、「死のちりの上に」置くこと、つまり殺すことを預言しました(詩篇22)。

預言者ダニエルは、メシヤが、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」けれどもそれを、紀元70年にエルサレムが破壊され、神殿も破壊される前に「断たれ」る(殺される)ことによって行なわれることを明白に言いました(ダニエル9:24‐26)。

預言者イザヤは、メシヤを苦難の僕として描きました。むち打たれ、虐待を受け、あざけられ、突き通され、最後には、人類の罪のための罪過のいけにえとして殺されます(イザヤ52章13節)から53章。

預言者イザヤは、メシヤが死者の中からよみがえることも明確にしました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:5,9,10)

預言者ヨナと預言者ホセアをとして、神はメシヤを墓から三日目によみがえらせることを教えられました(ヨナは、三日間魚の腹にいて、地に戻ってきました。ホセア6章2節には、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とあります。

驚くべきことに、主イエス・キリストは、これらの預言をすべて成就されました。事実、ルカ24章25‐27節には、こう書いてあります。「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

【きよきよの一言】
聖書預言は、実に、神が定められた伝道ツールです。初めから終わりのことを告げることによって、ご自身を明らかにしておられます。神を信じないこの世の中において、しばしば創造論による伝道があります。それもすばらしい方法です。実際に、被造物において神の力と永遠のご性質が明らかであるとローマ1章に書いてあります。また、ヨブに対して神は、ご自分の被造物を取り上げながら、ご自身の義と主権を明らかにされました。けれども、それと同じように神は、預言の言葉によってご自身を明らかにしておられることを、御言葉の中で語っておられるのです。

先日、モリエルの学び会に行ってきましたが、モリエルさんは以前、オーストラリア人の伝道師が行なった預言セミナーをまとめて小冊子にして、それを伝道に使ったそうです。確か高校生か、若い女の子に預言の一つ一つの箇所を見せていったそうです。彼女の感想の一声は、「これは、チェルノブイリ事故以後に書かれたものでなければ、絶対におかしい。」とのことでした!そして、二・三千年前に書かれた書物であることを告げると、びっくりたまげたそうです。

そしてイエス様ご自身が、旧約預言の成就そのものであることは言うまでもありません。もっともっと、日本の教会で旧約聖書の通読が強調されなければいけないと思います。そうすることによって、いかに新約の記述が重要な出来事であったのか、その重みを知ることができます。

(「その5」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その3

(「その2」の続き)

第三に、多くの牧師が預言を教えない理由は、いわゆる「預言気違い」や扇情主義を売りにする者たちと一緒にされたくないという恐れがあるからです。確かに、預言を教えようとする者の中に気違いが存在します。聖書の誤った解釈をしています。間違った結論を下しています。煽り立てます。したがって、自分の評価を落とし、評判を落としています。牧師がこれらの偽教師らを避けるべきであり、こうした方法で神の御言葉を安物にしてしまうようなことを避けるべきであるというのは正しいです。けれども、聖書預言を誤って教える者が一部にいるからと言って、健全な教師がこの話題を避けるのは理屈にかないません。福音書や書簡を誤って教えている者たちもいます。けれども、良い牧者なら、聖書のこれらの書物を正しく教えることを避けたりしません。どのような根拠で、人々を誤りに導いている偽者がいるからという理由で、聖書のすべての巻 ― イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、黙示録等 ― を教えるのを避ける権利を私たちは持っているのでしょうか。使徒パウロはテモテに教えました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、・・・(2テモテ4:2-3)

第四に、多くの牧師が預言を教えないのは、私たちの生きている時代、またキリストの到来がなおいっそうのこと近づいていることに理解が欠けているためであります。同時に、数多くの誠実な牧師の方々がイエス様を愛して、御言葉を愛しているのですが、なぜか私たちが今いる、驚くべき歴史の瞬間に引き付けられていないのです。そして、教会のために主イエス・キリストが戻られることに、人々の心を用意させる、切実な必要に気づいていないのです。これまで以上に、私たちはイッサカルの子らのような牧者たちが必要です。「時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている・・・(1歴代12:32)」これまで以上に、主イエス・キリストの教えに従う牧者たちが必要です。主は、天気予報に取り付かれるのではなく、「今のこの時代」を悟り、自分の世話すべき人々を、キリストとさらに近しく歩み、この方の到来の日がこれまで以上に近づいている今、この方に従順になるよう備えさせるのです。

【きよきよの一言】
<第三の理由>事実、私のところに来て、異端やカルト団体と一緒くたにして挑みかかってきた宣教師に会ったことがあります。そして、米国内の政治状況の中に話を引きずりこもうとしたり、私のことを極端な神学の範疇に入れた牧師もいます。両者に共通していたのは、“不安”です。終末について自分の神学的立場に聖書的確信を得ていないことの裏返しのような気がしました。

しばしば、私を聖書預言の専門家であるかごとく話す人もいますが、それもまた不安から出ているのではないかと思います。ロゴス・ミニストリーで聖書の学びを行なっている人はお気づきですが、聖書の創世記から黙示録まで、そのまま通読の学びをしているだけであり、そこに数多くの預言書があり、そこも抜かさないで教えているだけなのです。ですから私が預言の専門家ではなく、むしろ多くの教師が預言書を避けているという裏返しに他なりません。

興味深いことをある人から聞きました。ある聖書の学び会にその人は参加しましたが、ゼカリヤ書を学び始めたということでした。初めは、「この書と黙示録は関係がない。過去にほとんどが成就した。預言の書として読んではいけない。」ということでした。けれども一節ずつ学んでいったので、学びの後半部分では「終末とキリストの再臨の預言だ。」とさっさと立場を変えて、そう結論づけたのです!そうなんです、初めはキリストの再臨と神の国について何かしらの偏見があるのですが、誠実に、丹念に聖書を読み進めるなら、そういう結論になっていきます。

<第四の理由>これまで、聖書預言に関心の薄い人に欠けている部分が指摘されていましたが、決して間違ってほしくないのは、同じように信じていない方々の中に、主を愛し、御言葉を愛しているすぐれた教師がたくさんいるという事実です。自分たちと同じように信じていないからと言って、何も学ぶところがない、あるいは偽りの教師であるかのようにみなしていくのは、全く同じものさしを自分自身に向けなければいけません。救いは、イエス・キリストを神の子キリストであると信じた人であれば、それで十分なのです。例えば、ユダヤ人にイスラエルの地を与えるという約束を信じていなければ、地獄に行くのではないのです!恵みによる、信仰による救いに、それ以上の条件を付け加えてはいけません!

むしろ私は、同じように信じていない、けれども主を心から愛している方々との交わりをもっと深めさせていただきたいと願っています。御霊に満たされた人々、主を愛する人々との付き合いはこの上もなく楽しいです。終わりの日に生きるキリスト者の特徴は、寛容と柔和であります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:5)

(「その4」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その2

(「その1」の続き)

残念なことに、ここ米国また世界の多くの牧師や教会奉仕者は、聖書預言を教えていません。私の見るところでは、これには四つの大きな理由があります。

第一に、多くの牧師が預言を教えないのは、神の御言葉の力を信じることに欠けているからです。悲しむべきことに、今日の牧師の多くが、聖書を、霊感の受けた、無謬で無誤の、権威ある神の御言葉であると信じていません。主イエスは一度サドカイ人を、聖書を誤って解釈しているので諫言しこう言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(マタイ22:29)」あまりにも多くの今日の牧師や司祭が、このような感じです。聖書全てを注意深く学んでいないのです。「神のご計画の全体(使徒20:27)」を理解しようとしていないのです。預言が神から来ていると本当に信じているわけではないので、これらの預言を教えないし、神がなぜ預言を授けたかを理解するように人々を助けるわけでもありません。しかしながら、聖書の諸預言は私たちを興奮させます。なぜなら、全てを知り、全てを見、万能であられる、全宇宙の神の思いをいわば傍受した情報だからです。

預言は、神のお心にあるものを教えてくれます。ある行動を止めるように警告しています。また、聖くなること、主にもっと近しく歩むことを励まします。将来の出来事について、嵐のような警告もあります。劇的な出来事が来ることも伝えており、これらの瞬間が来た時に私たちが用意し、忠実な者として見いだされるよう備えていなければいけないことを教えてくれます。預言は、私たちが大胆さと勇気をもってキリストに仕えるよう呼びかけています。それによって、近くない将来にこの方の前に顔と顔を合わせて立つ時に、恥ずかしくないようにするためです。聖書は、神が私たちに預言を与えているのが、キリストに従う者たちを建て上げ、励ますためであると言っています。使徒パウロはこう書きました。「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。・・預言する者は教会の徳を高めます。(1コリント14:3-4)」すべての信者は、徳を高められ、勧め(励まし)を受け、また慰められる必要があるのではないでしょうか?

第二に、多くの牧師が、聖書預言についての知識が不足している、また健全な訓練を受けていないために、預言を教えていません。聖書が神の御言葉そのものであると信じている人々は、もちろんたくさんいます。けれども、様々な理由から、自分自身で注意深く聖書を学ぶ時間を取ったことなく、あるいは、神学校や聖書学校で詳しく、深く教えられたことがありませんでした。したがって、これらの預言にある真理を解き明かすように手助けするには、自分は準備ができていない、不適格であると感じてしまっているわけです。

預言の中には、もちろん複雑で混乱させるものも一部にあります。預言に言及されている名前(例えば、エゼキエル書38‐39章にある、「ゴグ」「マゴグ」「ゴメル」など)は、見慣れないものであり不明瞭です。それらの意味しているところを見極めるためには、歴史を探索するような労力が必要です。それで、牧師にはそうした研究をして自分の会衆にはっきりと正確に教えようとする興味もないし時間もないと決めてしまい、預言を教えること自体を放り投げてしまうのです。それはよく理解できます、それで私は、牧師が預言を学び教えることができるよう、最善を尽くして資料を作ろうとしてきました。また、自分に助けになった優れた資料を取り上げてきました。今こそ、預言の力と目的を再発見する時だからです。聖書ははっきりと、神が終わりの時の預言を学び教える者を祝福すると、教えています。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示1:3)」アーメン。

【きよきよの一言】
<第一の理由>聖書を神の言葉としてまともに信じていないというのが、そもそもの間違いです。そして教団や教派の信条告白には聖書の霊感を唱えていても、実際上は信じていないことが極めて多いです。そしてジョエル氏が挙げている問題は、「聖書全体を学んでいない、教えていない」という問題です。ロゴス・ミニストリーまたLCF教会では、創世記から順番にそのまま読んでいって、説教を聞き礼拝を守っています。そうすれば、神が全体のご計画の中で、キリストの十字架とよみがえり、そして再臨を頂点にする救済をお心に止めておられることは明白になってきます。昨日の礼拝でも、1サムエル記1-3章を学びましたが、ハンナがサムエルの誕生で歌った賛歌が、まさにキリスト預言でした。内村鑑三が、再臨信仰に目覚めた理由も同じでした。新約聖書の最初の言葉、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)」も再臨の希望なくして読むことはできません。霊性や敬虔に生きることにとても敏感だった内村氏は、これこそ信仰の支柱にしなければいけないことを悟ったのです。

そして、聖書預言について教えている人の間でもそうでない人の間でも陥っている過ちは、興味本位や好奇心だけで留まっている、という問題です。霊性だけを求めているような人には、ゆえに聖書預言が有益であると思えないし、学んでいる人は知的満足で留まっています。けれども、ジョエルが言っているように、預言をまともに心に留めたら、自分が今の自分ではいけないのだ、という切迫感を抱きます。罪の悔い改めも迫られます。そしてキリストへの愛が増し、他の人にもキリストの愛を伝えたいと願います。興味をもって学んでいる人たちは、自分に果たしてキリストの形が聖書預言を学んだときから造り出されてきたかを吟味すると良いでしょう。

<第二の理由>おそらく、大部分の福音派(注:日本では聖霊派という分類もありますが、聖書を神の言葉だと信じている人々全てを含みます)教会の牧師の方々が抱えている課題だと思います。ある方が教えてくださいましたが、「神学校の授業では組織神学は、どうしても終末論が最後に来るので、さらっと流されてしまう。そして、「諸説があるので自分でどれが正しいかを判断し、決めるのがよい。」という言葉で終わってしまう。結局考える時間もなく卒業、現場での教会活動の中に入る。」とのことです。

幸い、私はじっくり学び考える時間が与えられていました。カルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーでは、組織神学の授業で、終末論についてはかなりの時間が割かれていました。私も教科書になっていた黙示録の注解書をじっくりと読み、自分も興味をもって調べていきました。渡米する前に、聖書の初めから、啓示されているキリストと御国の幻と、その預言的発展について、その初歩的知識をある人から教えてもらう機会があり、その時に、あまりにも恐ろしくて、畏怖の念に打たれて眠れなくなったことがあります。再臨のキリストが目の前に信仰の中で見えたのです。その後、いったいどのような預言的発展になっているのかが、知りたくて知りたくて仕方がありませんでした。その結果、帰国後、「聖書預言の旅」という拙書も書かせていただくことができました。

(「その3」に続く)

「聖書預言の力と目的を再発見する」 その1

8月下旬に、カルバリーチャペル・ホノルルの運営するラジオ局が、ジョエル・ローゼンバーグ氏を、終末を話題にした伝道集会に招いた時の講演内容です。これは、ハワイのカルバリーチャペル牧師会議と同じ時期に行われたので、日本から、所沢、府中、西東京、那覇のそれぞれのカルバリーチャペルの牧師や宣教師も参加することができ、帰国した彼らから良い反応を聞くことができました。

ジョエル・ローゼンバーグ氏は、私の心の中では大きな影響を与えてくれた人です。とかくマニアックになりがちな聖書預言を、彼は伝道と宣教、また慈善活動において還元していく賜物を持っています。彼は「四つの法則」で有名な福音宣教団体キャンパス・クルセードに従事するかたわら生活のために政治の中で働いていましたが、ある時に政治の世界から身を引き、けれども「聖書預言が今の時代に起こったらどうなるのか」という前提で小説を書き始めました。その処女作の初版を寄稿したとき、自宅の上を911のハイジャック機が飛んでいました。自分の書いた小説と全く同じストーリーが、つまり飛行機をハイジャックして神風特攻隊のごとくアメリカの中枢部を打つ、というストーリーが展開した、ということであります。小説を書いたり、講演をしたり、そして何よりも中東地域への霊的、物質的働きかけをしている、すばらしい主のしもべです。彼がホノルルで行なった講演は、日本の信者も知らなければいけない、日本の状況、日本の教会の状況にそのまま当てはまる、基本的、普遍的内容であります。

ブログ記事”SERMON: REDISCOVERING THE POWER AND PURPOSE OF BIBLE PROPHECY — Part 1“から、少しずつ訳していきます。

【意訳】
ルカの福音書12:51-56に主イエスは、これらの言葉を語っています。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

一世紀、ローマ占領下のイスラエルの地では、大きな不安の中で人々は生きていました。自らの将来が不安でした。戦争、旱魃、飢饉、天災を恐れていました。彼らは必死に救世主を求めていました。けれども、イエスは彼らを責められたのです。なぜでしょう?イエスが叱られたのは、ヘブル人の聖書の預言が全てあるのに、その預言が来臨のメシヤが誰かを実に詳しく伝えているのに、神の御言葉の中でこれらの預言を注意深く学び、調べていなかったからです。彼らは預言を観察し、現在の出来事と比べることをしていなかったのです。彼らは「点と点を線で結んで」いなかったのです(注:異なる事実を結びつけて結論を引き出す.▼いくつもある点を線で結ぶと最後は絵ができあがるパズルから)。彼らは、聖書預言の力と目的を悟っていませんでした。イエスご自身が実にメシヤであられることを、彼らの只中に立っておられること、そして彼らを罪と悲しみから救おうとしておられたこと、救うことができるし、喜んで救いたいと願われていた事実を見落としていたのです。

今日、私たちも大きな不安の時代に生きています。自らの将来と世界の将来に不安を覚えています。イスラエルとイランの間に中東で大きな戦争が勃発する脅威が増大しています。ヨーロッパ諸国が経済破綻に陥っています。米国経済は大変な状況に陥り、財政的に道徳的に内的爆発する脅威が、非常に現実味を帯びています。暴力と殺人の波が、小さな町でさえもアメリカでは爆発しています。あらゆる形の天災に直面しています。酷い飢饉、歴史上稀に見る火事、深刻なハリケーンが再びメキシコ湾沿岸部で起きそうです。

驚くべきことは、これらの米国また世界の趨勢は、聖書預言の「終わりの日」が実に合致していることです。終わりの時の聖書預言が、私たちの周りでその通りになっているのを見ており、イエス・キリストの再臨が着実に近づいていることを教えています。しかしながら、実に少数の人しか神の御言葉を学んでいません。点と点を結んでいません。聖書預言の力と目的を理解していません。したがって、イエス・キリストがご自身に彼らを呼んでおられる事実を見失っているのです。イエス様は、彼らを罪と悲しみから救いたいと願っておられます。永遠の命を、豊かな命を無代価で与えたいと願っておられます。イエス様は、人の形として間もなく戻って来られるのです。

個人的に私は聖書預言に大変興味があり、その興味はほとんど自分の生涯の間、続いてきました。私は預言についてのノン・フィクションの本を書き、世界中で講演してきましたが、それは預言は興味をそそり、誰でも聞きたい人にはこれらの真理を分かち合いたいと強く願っているからです。同時に私は、「もし?」という前提の小説を書いています。つまり、もし、ある預言が私たちの時代に起こったらどうなるのか?ということです。どのようになるのか、どんな感じになるのか。いつ、どのようにこれらの出来事が実際のものとなるかは確実には分かりませんが、小説によって「戦争ゲーム(注:「机上演習」あるいは、戦争を模したゲーム)ができるわけです。人々に、これらの預言が何であるか、その意味や自分の生活にどう関わるのかを考えてもらうことができます。

(「その2」に続く)

伝道の時に知らなければいけない日本人の死生観

私は以前「福音の立体的骨格を伝えるには?」という記事を書き、日本における伝道の課題と、従来の「四つの法則」に代表される言葉による伝道以上の働きが必要であることを訴えました。根気よく人々に付き合っていくことが、日本の人たちへの伝道では必要なのですが、最近、次のエッセイ集に出会って、目から鱗が落ちた気分になっています。

神とか霊とか占いとか

伝道また弟子作りをしている時に、多くの人がいろいろな課題にぶち当たります。思い出すのは、津波被災地で、ある姉妹が、罪と死について、そしてキリストの身代わりの死について話したところ、多くの死者が回りにいるにも関わらず、被災者の方から「死ぬということについては、あまり考え出すと気がおかしくなる。」という返答が帰ってきました。また、つい先日も、近しい人に伝道したところ、「理屈では分かるが、あまり今は考えたくない。」という反応が返ってきたとある姉妹が話していました。

私も神道の熱心な信者に、神の義と、罪による死、キリストの贖い、そして永遠の命までを話しましたが、「そんな深刻なことを日頃から考えていたら、大変ではないのか。もっと楽しく生きよう。」ということをおっしゃっていました。ちなみに彼女は津波や原発の被災者を助けるボランティアの方であり、やはり「死」という現実に直面せねばならぬのに、この問題を避けます。

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恵比寿バイブル・スタディのお知らせ(9月5日)

皆様へ

こんにちは。連絡が遅れてすみません、恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:9月5日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第二9章以降
(その後の予定は9月19日です。)

何章まで進むかまだ迷っていますが、11章にはあのバテ・シェバとの姦淫、夫ウリヤ殺害を犯すダビデの姿を読みます。これまで、主の前にへりくだって歩んできたダビデがなぜ?と思われるかもしれません。その部分を探ってみたいと思います。

それでは、明日お会いできるのを楽しみにしています。