「聖書の日本語」

本日、図書館で借りてきて、飛ばし読みですが読み終わりました。この本題に惹かれたのが、「日本語訳の聖書」ならず、「聖書の日本語」と、日本語のほうに焦点を当てているのではないかと思った点です。

「聖書の日本語」 鈴木範久著 岩波書店

以前、「据わらないキリスト教用語」という記事を書きましたが、まさに「目から鱗が落ちる」点が二つありました。

一つは、私たちは「日本のキリスト教は西欧からの輸入」と思っていますが、聖書翻訳について言えば中国訳にかなり依拠しているということです。

日本のキリスト教受容は,西欧人によって伝えられたために,ともすると西欧の影響のみが表立っていた.ところが,今回改めて思い知らされたのだが,日本の聖書翻訳に占める中国語訳の大きな比重は,キリスト教受容にも影響を与えずにはおかなかったであろう.あえていうならば,日本のキリスト教の受容は,聖書語に関する限り,儒教や仏教の経典と同じく,中国経由なのである.(本文から)

もう一つは、日本語には、聖書に使われている言葉がかなり多く定着している、という点です。始めに挙げた「目から鱗」というのは、パウロが水のバプテスマを受けたときに、聖霊のバプテスマも受けて「目からうろこのような物が落ちて」という使徒の働き9章18節から来ています。「豚に真珠」もそうですし、日本語に十分定着しています。

ルター訳がドイツ語の基礎を作ったとは,よく言われることですが,日本語への翻訳の歴史の中でも,聖書はまた格別の意義をもつようです.聖書の言葉,言い換えればキリスト教の考え方が,どれほど深く近代日本の精神に喰い込んでいるか.数々の発見に満ちた,聖書翻訳物語です.(編集部から)

英語と日本語の翻訳の違い、また韓国語と日本語の翻訳の微妙な差異から、説教そのものの内容まで変わるという場面をしばしば見てきたので、聖書の「言葉」というものが気になっていました。

ちなみに、ウィキペディアで、聖書翻訳の変遷の歴史を読むことができます。→ 「日本語訳聖書

聖書本文の違い

そして、もう一つ聖書説教の準備で大きく立ちはだかるのは、「底本」です。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシヤ語ですが、現存している写本の校訂版のどれに依拠するかによって、当然翻訳が変わってきます。旧約のヘブル語は「マソラ本文」で統一されていますが、新改訳では、旧約聖書のギリシヤ語訳である「七十人訳」やシリヤ語訳を採用している場合、また直訳ではない言い回しが頻出するので、とまどうことがしばしばあります。けれども新改訳の良さは、頁下にある「引照」です。そこに直訳や、ヘブル語の訳など翻訳の背景になっている説明が数多く出てきます。それを皆さんも参考にされると良いかと思います。

そして、さらに厄介なのが新約聖書です。しっかり聖書を読んでおられる方は気づいているでしょうが、「節」が飛んでいる場合があります。例えば、ヨハネ5章4節を探してください・・・ありませんね!それで引照を見ると、異本には3節後半から4節には次を含む、という説明があります。これは章と節を振った時と、今の翻訳の底本が異なるためです。往々にして、現代の翻訳では省かれています。参考までに、チャック・スミス牧師の「マルコ16章」の講解(日本語訳)を読んでみてください。

私は、本書でギリシヤ語の底本として何が使われているかが参考になりました。明治元訳においては、「公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)」が使われていたけれども、英語のRevised Versionを参照した「大正改訳」では「ネストレ校訂文」を使ったそうです。これが、現代私たちが目にする「文語訳」になります。

そして、戦後直後「口語訳」、それから「共同訳」「新共同訳」と変遷しますが、本書では福音派の人たちが使う新改訳は取り扱われていませんでしたが、新改訳も文語訳で確立した基本的な聖書用語はほぼ全て踏襲していることも分かりました。また、新改訳もネストレ校訂文を底本にしていますから、現存している日本語訳聖書で、英語の欽定訳(King James Version)の依拠している公認本文を底本にしているのは、明治元訳以外に存在しないということになります。

ところで昨年、翻訳されたとされる「現改訳」は、ビザンチン・テキストを底本としているようで、とても期待しています。

聖書翻訳の比較

聖書を学ばれるときに、ある箇所の意味が分からなくなったら、まずはその前後を読んで、文脈を把握してください。それで多くの場合、その言葉の意味が分かってきます。それでも分からなければ、他の翻訳を参照することをおすすめします。ネット上にもたくさん存在します。

新改訳聖書

口語訳と新共同訳

大正改訳・明治元訳・口語訳

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(10月26日)

みなさんお元気ですか?

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせをします。

日時:10月26日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇120篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

その次は11月9日で、その次が30日です。

みなさんのご参加をお待ちしています!

主に感謝。

イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺未遂

米政府、イランによる駐米サウジ大使暗殺計画を阻止

ワシントン(CNN) 米国のホルダー司法長官は11日、イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺計画を阻止したと発表した。計画の指示はイラン政府内部から出ていたという。

米連邦捜査局(FBI)によると、米国籍を持つイラン人のマンスール・アルバブシアル容疑者(56)と、イラン革命防衛隊に所属するゴラム・シャクリ容疑者が、外国当局者の殺害と大量兵器使用を図り、テロ行為を計画した共謀罪で起訴された。アルバブシアル容疑者は9月に逮捕されているが、シャクリ容疑者は捕まっていない。
(中略)米当局者らによれば、容疑者らはサウジ大使だけでなく、ワシントンやアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイスラエル、サウジ両大使館を攻撃する計画も検討していたとみられる。なぜサウジ大使が標的とされたのかや、イラン政府内部で計画がどの程度知られていたかなどは明らかでない。

・・・とのことですが、CIAのスパイとして革命防衛隊にいた人によるA Time to Betrayを最近読んでいたので、十分ありえる話だなと納得しました。もし阻止できていなければ、今頃、大変な騒ぎになっていたことでしょう。

ここでの重要な点は、「サウジアラビア」が標的にされていることです。イランがアラブではないことは、歴史的、民族的に明らかであり、また宗教的(イランはシーア派、サウジはスンニ派)な違いと、中東の覇権争いが続いています。

よろしければ、この機会に「エゼキエル38章」の聖書講解を一読してみてください。今の情勢と、預言者エゼキエルが見た幻が酷似していることを説明しました。その時点で明らかでなかったのは、1)トルコの動き、と、2)サウジアラビアでした。けれども、トルコは2010年の「ガザ支援船拿捕事件」を契機にイスラエルとの外交関係を切る脅しをかけ、ロシア、イラン、周辺アラブ諸国との連携に躍起になっています。そしてサウジアラビアは、「シェバとデダン」であり、イスラエルを攻める動きに対して反対表明を出すけれども、何の行動も出せない状況を表していますが、今回の事件でイラン(聖書上ではペルシヤ)との対立が表面化しました。

ところで、エゼキエル38,39章の預言を基調にして世界情勢小説を連載で描いている、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、再び新著において、この出来事を言い当てるノストラダムス(?)になってしまいました。

ローゼンバーグ氏は、小説の原稿を出版社に出した後で、911を始めとする数々の中東情勢がその通りになりました(Epicenterの書評)。今回は、”Teheran Initiative“(テヘランの先制)という新書が出ましたが、イランのテロ攻撃が、米国内のアメリカ人、アラブ人、イスラエル人の指導層に対して行なわれ、この攻略によって米国の大統領府はイスラエルに対して、イラン国内の核施設に対して先制攻撃をしないように圧力をかけることから始まります。アメリカが武力攻撃も辞さない姿勢を見せていないこと、また先制攻撃を行なうな、という圧力は既にクリントン国務長官の口によって表面化しました。

ところで、「イラン」という国について、とても面白い本を先ほど読み終わりました。

「イランはこれからどうなるのか 『イスラム大国』の真実」 春日孝之著 新潮社

毎日新聞の記者としてテヘランに在住していた経験を生かして、日常生活で起こっている卑近な例を引き合いに出しながら、国内外で起こっていることを柔軟に説明してくれています。A Time To Betrayの著者レザ・カーリリ氏の反体制的な視点とは一見正反対の姿を描いていますが、どちらも真実なんだろうな、という感想を持ちました。イランの不透明さと不測な動きは、「悪の三枢軸」の中で一緒になっている北朝鮮とではなく、むしろ共産主義を国是にしながら市場経済を導入している現代中国に似ているかもしれません。

今回の暗殺未遂の事件も、既に、宗教指導層側がアフマディネジャド外しを行なっている動き(英語日本語)に呼応した形で起こしたのではないかと言われています。大統領の取巻きにはない革命防衛隊の一部が行ったものである、とか、ハメネイ氏側が米国との限定的武力衝突を狙って行ったものだとかいう情報があります。そうすると、アフマディネジャド自身が「こんな計画は知らない。」と反論しているのもうなずけます。上記の書物にも、イスラム法学者の動きと大統領制の二重構造を上手に説明しています。

ギルアド・シャリート兵士の解放

今、イスラエル間で大きな喜びとなっているのが、ギルアド・シャリート兵士の解放です。

イスラエルとハマスが捕虜交換

2006年6月、ガザとの境界線を警備中、地下道経由でパレスチナテロリストがイスラエルに侵入して軍拠点を襲撃したグループに拉致されました。イスラエル軍は直ちにガザ攻撃を開始しましたが、シャリート氏の解放は実現しませんでした。その後、水面下で交渉は続けられ、ついに実現した次第です。(参照:ウィキペディア

交渉の取引は、収監されているパレスチナ囚人1027人との引き換えです。その中には、残酷な形でイスラエル人を殺害した者たちもたくさん含まれており、遺族の中には「国は今、私たちの血の中で踊っている」という批判もあり、その多大な心痛もありながらの喜びです。

イスラエル軍と諜報機関モサドについて常々思っていたことは、「一人の命が重い」ということです。たった一人の兵士のために国の総力を挙げて取り返すという姿勢を一貫して見ることができます。今でこそ最新鋭の兵器を有しているイスラエルですが、国土が小さく、圧倒的な軍事力を有する周辺諸国に対抗するには、人そのものが貴重な財産です。これは、迫害を生き延びたユダヤ教的価値観にも反映されている考えです。

一般市民を盾にして闘うハマスとは対極をなしています。また、他のアラブ人や、また東洋人とも(かつては日本軍の軍事行動にもあった人命軽視も含めて)対比することのできる、命の尊厳の重視であります。

霊の救いにおいても、私たちは同じ心を持たねばならないでしょう。愛というのは計算しません。今回は1:1027というあまりにも不釣合いな取引ですが、イエス様は99人の羊を置いて、一匹の迷った羊のために捜しに出かける方でありました。

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15:4-7)

この情熱的な愛を、私たちが回りの人々に、同胞の日本人に、そして世界の人々に抱いているかどうか、問わなければいけないでしょう。

追記:ちなみに兵士の名前は、聖書にしばしば出てくる、ヨルダン川の東岸の地域「ギルアデ」と同じ綴りです。

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その3

その2の続き)

先ほど紹介した「津波てんでんこ」の実証例を克明に記録している、次の記事がありました。

検証・大震災:瞬時の判断、救った命 生徒全員避難で無事、釜石東中学校

ぜひ一読してください。そこにある地図と写真が非常に参考になりますが、まさに釜石の学校の生徒たちが、「てんでんこ(ちりぢり)」になって逃げている姿を見ることができます。

ここに出てくる生徒たち一人一人が、先に説明した危機行動、すなわち自分自身で判断し、自分のことは自分で責任を持ち必死になって逃げています。その他に、上の記事では常時の防災訓練もしていたことが、想定外の巨大津波に対処できたことも話しています。

「津波てんでんこ」は明治の津波によって得た教訓であり、先人の智慧です。生活が便利になり、安定している所に住んでいる私たちは、私たちのほうが“進歩”していると考えています。それはとんでもない間違いであり、現代人が生活の利便と技術への過信の中で、実際の脅威に対して鈍感になっていると考えなければいけません。

私たちは、聖書では文字通り、天災によって神が大声で語っておられる姿を見ることができます。ノアの時代の洪水から始まり、ソドムとゴモラ、エジプトにおける災い、ヨエルのいなごの災い、ウジヤ王の時の大地震などがあり、そして終わりの日における「火による裁き(2ペテロ3:7)」があります。これらの災いを通して、神は、先に説明した災害時における人間の行動を如実に言い表しておられます。

ソドムとゴモラの災いに注目してみましょう。天使二人がソドムの町に行き、ロトとその家族を救うべく、災いが下ることを警告しました。それでロトは既婚の娘の家に行きました。

「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19:14)」

婿たちはまさに、「正常性バイアス」にかかっていたのです。まさか、今の平穏な生活を崩すものは起こらないだろう、起こったとしても自分たちには災いは降りかからないだろう、という偏見です。そして何よりも、ロトが「主」の名を口にしたときに、彼らの唇には薄ら笑う動きがあったかもしれません。彼らは神そもものへの軽蔑を持っていたのです。

そして、ロトは未婚の娘二人と自分の妻を連れて、逃げ始めましたが、ロトの妻は「同調バイアス」にかかっていました。ソドムの町の人々との生活から離れることへの未練と不安があったのです。それで、その逃げる速度が遅くなり、そして彼女は町を振り返りました。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)」

幸いにもロトは、妻に対しては「愛他行動」を取らなかったので、妻は滅びましたが、自分と娘二人は救うことができたのです。

これを、「昔の聖書物語」として片付けることができるのでしょうか?聖書で起こった出来事を現代に当てはめる営みを毛嫌いする傾向が現代にはあります。キリスト教会の中にさえ、その雰囲気があります。けれども、聖書は何度も何度も、昔起こったことは私たちに対する戒めであることを教えています。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:11-12)」「正常性バイアス」に対する戒めです。

私たちの社会でも、ソドムとゴモラが滅ぼされた罪を行なっているのです。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ7)」「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(エゼキエル16:49)」

そして、聖書の話を昔話としてあしらうことは、まさに先人の智慧をあしらうのと同じであり、昔、預言者たちを通して与えられた神の知恵を拒むことです。

ちょうど、釜石の生徒が日常から防災訓練をしていたように、私たちは霊的な備えが必要です。イエス様は何度も、ご自分が戻ってこられることについて、「目をさましていなさい。用意していなさい。」と命じられました。それは、まず、罪と死から救われるだけでなく、この世の災いからも私たちを救ってくださる主イエス・キリストを心から受け入れ、自分の救い主とすることです(ガラテヤ1:4)。そして肉の行いを打ち捨てて、イエス・キリストにある正しい生き方をすることです(ローマ13:12-14)。

このように、私たちに与えられている天災は、神が拡声器を取り上げて、大声で、「これらのことで、わたしがいることを知りなさい!」と言い聞かせている貴重な機会であることを覚えましょう。

このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル13:21等)

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その2

その1の続き)

私たちは2005年から2010年まで、日本でもなくアメリカでもない他の国に住んでいましたが、三ヶ月後に震災に遭い、その後の日本がかつていたその国に少しにかよったことに気づきました。

一つは、1)の「正常性バイアス」に関連することですが、「予期せぬことが起こる」に慣れていました。最近、自宅の前で水道管工事がありましたが、ポストにその工事の予定を告知する用紙が投函されていました。これは私たちがいたところでは皆無です。抜き打ち工事であり、マンションの住民のことは一切考慮されず、その出入り口を塞いだりすることは当たり前で、すぐそばで突貫工事を真夜中に行なっていることもありました。

その他、卑近な例ですと、歩道だと思っている所に自動車が突然走ってきたり、二メートル先の所で建物の工事現場から燃えている火の鉄の塊が落ちてきたりと、常に「予期せぬ」ことでいっぱいでした。

けれども、そこですぐに感謝できたのは、「その分、余計に神に拠り頼みやすくなった。」ということです。今日の安全は、祈りと共に始まり、祈りつつ与えられていました。自分が生きていることを、こじつけではなく、真実に、素直に「神の守り」であることが実感できました。

その反面、日本は前もって「変化」を伝えるという計画性を持っています。東電の「計画停電」というのはその典型例です。しかし、それは生活基盤の安定した先進国だからこそできることであり、この発展も神の恵みで与えられているということを人々は無視しています。あたかも、家を煉瓦で作り、そこに瀝青(アスファルト)で塗り固めたバベルの住民のようです(創世記10章参照)。

しかし、津波は、自然の威力の前では人の築いた物が無力であることを教えました。それでも私たちは、今でも「自分にはこれらの災いが起こらない」という錯覚を持ちながら生きているのです。災害心理のみならず、霊的にも錯覚した状態で生きています。

次の2)「愛他行動」を考えてみます。この行動は一見美談に聞こえますが、実は悲劇です。真実は、「津波てんでんこ」なのです。意味は次のとおりです。

「てんでんこ」は「手に手に」に接尾辞「こ」が付いたこの地方の方言で、「てんでんばらばらに」という意味。「津波が来たら、肉親に構わず、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」がこの伝承の本来の意味である。津波は到達速度が速く、肉親等に構っていると逃げ遅れて共倒れになってしまうため、「一族を存続させるためにも、自分一人だけでもとにかく早く高台へと逃げよ」という意味があり、また「自分の命は自分で守れ」とも含意しているとされる。また、自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない、不文律にもなっている。(Wikipediaの説明)

日本の人々は、「みなが一緒に生きていく」という優れた国民性を持っています。我先に行動することは醜いとして見下げます。けれども、それには自然の脅威やその他の危機においては通用しないことを今回の津波は教えています。「自分の命は自分で守る」という責任を果たさなければ、家族や共同体さえも失われてしまうという人間生存の原理があるのです。

私たちが、他国の人たちにも福音宣教をしている中で、日本人に特有だと気づくのは、「福音を知らないで死んでしまった家族の人は地獄に行ったのですか?」という質問です。日本人には「これは人間なら全ての人が抱く質問ではないか」と思うでしょうが、彼らは疑問として抱くことはすれ、信仰上の悩みとまではなっていません。家族の間でも、「あなたはあなた、私は私」という自己が確立されています。

けれども、日本においては、初めてキリスト教を布教したカトリック宣教師ザビエルでさえ、受けた質問であり、日本人がいかに「永遠の命」という個々人の問題に対しても、他者と一緒に救われなかったらいたたまれない、という負い目を持って生きているかがよく分かります。

自分自身が救われる、ということついて、「自分が家族の中でどう思われるのか」「先祖の墓はどうすればよいのか」などの心配によって、信仰の決断を後回しにするときに、自分の命を失うばかりか、その家族の命をも死に至らせるということを知らなければいけないのです。「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。 (ローマ14:12)」

そして、家族を救うことはできるのは、初めに自分が救われてから、次に、ようやく神の憐れみによって与えられるものなのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」あくまでも「自分の救い」を考えなければ、自然界だけでなく、罪から来る罰においても、災いを免れることはできません。

そして3)の「同調バイアス」についても、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という考えが日本人の中に横たわっています。真実は、「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」なのです!他の人々と異なる行動を取るのを私たちはひどく嫌います。けれども、真理というのは、多くの場合、他の多くの人々と異なる道を選び取ることなのです。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」

さらに4)の「エキスパート・エラー」について言うならば、これは自分の判断を放棄しているところから来ています。これはまじめな人ほど陥りやすい過ちです。自分で判断することこそが、災害時においての行動基準であることは、防災の専門家の多くが指摘していますが、同じことが霊的識別にも言えます。私たちは、人の与えた規則や意向ではなく、神が与えられた御霊に導かれるという責任があるのです。

日本は極めて、規則正しい国です。法治国家であることはもちろんのこと、マニュアルや行動基準が極めて発達している社会であり、人々もそれにしたがって生きていこうとします。けれども、私たちがいたところでは、その正反対でした。規則というのは単なる“標語”です。実際、守ろうとすればこれほど理不尽なものはないと思われるものばかりなので、守る気にもなれないというのが現状です。

被災地がある程度、そのような状況になりました。マスコミの情報や、役所の規則だけを聞いていれば、「被災地では何の救援活動もしなくてよい」という結論に至ります。私たちの救援活動の第一回目は、石巻を目指していましたが、その途中、被災して掃除と修理をしていた「サンクス」に、「もしかして、この地域は救援物資が必要なのでは?」と何となく感じて、入って聞いてみた、というのが始まりです。二回目には、その直前に、近くの韓国人教会で私が説教奉仕をしていたときに、たまたま東松島の被災者の人と出会って、その方の被災した家の写真を撮ってきましょうか、というのが始まりでした。

そのずっと後、数ヵ月後に、東松島市の方にボランティア活動をしていることを告げました。本当は役所を通さなければいけなかったのですが、私が既に行っている活動と、現地の人たちと直で行なっている旨を話したところ、すんなり、その後の活動も許可等を与えてくださいました。

被災地は、その場その場で決めていかなければいけないこと、そして決まり事ではなく、人と人とのつながりで広げられるものが沢山あります。これは主との関係においても同じであり、律法ではなく御霊の導きにしたがうこと、そして、プロジェクトではなく、人々との神の愛のつながりが霊的奉仕であります。

以前の記事「21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる」の筆者は、次の言葉で文章を締めくくっています。「日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。」

今の日本の危機は、神が働かれる契機なのかもしれないのです!

その3に続く)

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その1

週末の礼拝の奉仕を終える月曜日は、なるべく休みの日のようにしようと心がけ始めましたが、今朝はお風呂かプールに行こうと思っていましたが、結局、録画していた番組を見ました。

NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」

以前の原発事故の番組と同様、心を強く揺さぶられました。何度もテレビやインターネットで見た、津波が押し寄せる映像について、私はいつも「現場にいた人々はどう行動していたのだろう?でももう死んでしまったから聞けないよな。」と思っていましたが、この番組はそれを可能にしました。九死に一生を得た人々に直接取材して、そして作り上げた「被災マップ」「行動マップ」を、地震発生から克明に描いています。

私たちは何度も東松島市への救援旅行に行っていますが、奥松島では、宮戸島の住民は引きこもりの人一名のみが死亡、けれども島の付け根にある野蒜地域は二百名以上と言われています。この前の救援旅行では、牛網の人に、宮戸島にある引越し物件の可能性の話をしたら、「あんな危ねえどご、やべぇんじゃねぇ」という反応でしたが、そこで死亡者がほぼ皆無だったことを話したら驚いていました。また私は東京で地震を経験して、すぐにNHKの番組を見て、普通は至極冷静なアナウンサーが、気が狂ったかのように巨大津波の警報を読んでいたという話をしたら、それも驚いていました。「知らねがった」とのことです。

より安全であるはずの人々がかえって死んでしまった、そして外部にいる人々はその危機を察知しているのに、現場にいる人が分かっていない、ということをこの番組では取り上げています。それは一言、「心の罠」で要約できます。

災害心理学において、その行動をまとめることができるそうで、1)「正常性バイアス」、2)「愛他行動」、3)「同調バイアス」があるそうです。

1)は、逃げることをせず普段どおり近所と世間話をする等、非常時に「まさか本当だとは思わなかった」「こんなことが起こるはずがない」と現実として捉えられない心理作用のことです。

2)は、避難することを固辞した人までも説得するのに貴重な時間を喰い、自分の命を落としてしまうような行動です。他の人を救おうとする意識が過剰になってしまい、自分だけ逃げることで自分の心に残る後悔を払いきれず、人助けをすることに集中して危険を感じることを後回しにしまうという心理だそうです。

3)は、緊急時、複数の人数でいると「皆でいる安心感」を感じたり、また、判断に迷ったとき、周りの人と同じ行動をするのが安全だと考えてしまう心理作用です。「隣が動かないから大丈夫だろう」と考え、逃げ遅れたりします。

(番組では取り上げられませんでしたが、4)「エキスパート・エラー」というのもあるそうです。(こちら)一般人が専門家の意見や指示を「プロの意見だから」と疑わずに信じてしまい、そのとき相応しい判断を間違える心理行動、とのことです。事実、この名取市閖上地区の記事を探したら、次の文がありました。「「なぜ公民館に避難しないんだ、戻れ」。阿部さんは顔見知りの女性に強く注意した。女性は「公民館の人から、ここは津波の避難所じゃないので中学校へ移動するよう言われた」と答え、その場を後にした。」)

そして、番組の最後は復興計画を説明し、二重の防潮堤のことを話している名取市職員に対して、住民が「そんなこと言ったって、津波が来たらまた家に戻ってしまいますよ。そして同じように死にますよ。」と叫んでいる住民の声がどしんと響きました。

ぜひ、この番組を視聴してみてください。今のところこちらで見ることができます。

私は単に、これを防災面のみの問題として見ることができませんでした。日本国のような安定した先進国での生活に横たわる問題、そして、聖書で警告されている「突如の滅び」という大きな主題について示唆が与えられたからです。

その2に続く)

今日のLCF祈り会

みなさん、お元気ですか?

本日のLCFの祈り会の時間変更のお知らせです。いつもは17:45に始めますが、本日のみ18:00に変更します。したがって、いつもは軽く夕食を始めに取っていましたが、18:00に入室後、すぐに祈り会を始めますのでよろしくお願いします。

詳しい情報は、下のカレンダーでご確認ください。(15日の日付のところをクリックします。)

LCF活動カレンダー

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(10月12日)

みなさんお元気ですか?

前回の学びは久しぶりにSさんがいらしてくださり、大変感謝でした。そして昨日、大きな出来事が起こりました。前回の学びで訪問してくださったAさんが、土曜日の聖書の学びにおいて信仰告白をしました!心が見る見る変わっていく姿を見ることができ、主をほめたたえました。

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせをします。

日時:10月12日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇119篇後半
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

次回は、10月26日を予定しています。また、11月は9日と30日を予約しました。

みなさんのご参加をお待ちしています!

主に感謝。