911と311

上の数字を見ていただければお分かりの通り、米同時多発テロの日と東日本大震災の日は同じです。日本では菅前首相がインタビューに応じ、ちょうど六か月になるということで当時の原発事故対応について話しましたが、ブッシュ前大統領も、ちょうど十年前に起きたことをふりかえってインタビューに答えています。

ビンラディン殺害に「喜びは感じず」 ブッシュ前大統領

原発事故は人災、説明も伝言ゲーム…菅前首相
(次の記事も参照「原発危機と日本」)

二人に共通しているしているのは、混乱の中で最終決断あるいは判断をしなければいけなかったという国の最高指導者としての苦悩です。

「戦争という霧の中を旅しているようだった」(ブッシュ前大統領)
「説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」(菅前首相)

そして911も311も、それぞれ世界を変え、また日本全体を変えてしまいました。

私はこのような惨劇について、キリスト者としての態度を再考しました。やはり、心は、「なぜそんなことをしでかしたのか?」という悔しい思いや怒りは出てきません。911であればブッシュ氏の政治倫理性を咎める人がいるでしょうし、様々な陰謀論や憶測が飛び交っています。菅氏であれば隠蔽や杜撰な危機管理と言って咎めるのでしょうが、私はお二人のインタビューを聞いて、そのような思いが出てきませんでした。

むしろ次のイエス様の言葉を考えます。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1-3)

主が、この苦しみと悲しみの中に入られて、そこから神の栄光につながることをしてくださる、という思いです。原因探しや粗探しではなく、事実、苦しんでいる人々のそばに行き、そこにいることによって神の愛を伝える、ということです。911が近づいているので、いろいろな教会指導者が意見を発表していますが、フランクリン・グラハム氏も父が911の直後に話した言葉を紹介しています。

十字架は、神が理解してくださっていることを教えています。というのも、この方は、イエス・キリストという人物の中で、ご自身の上に私たちの罪と苦しみを負ってくださったからです。十字架から神は「わたしはあなたを愛している。あなたの感じている心痛も、悲しみも、痛みも、知っているけれども、あなたを愛しているのだ。」と告げておられます。
( “Who can ever forget?” by Franklim Graham)

キリストの十字架こそが、神が私たちの痛みと苦しみを遠くから眺めているのではなく、むしろ一つになって苦しみ、痛み、悲しみ、泣いてくださっていることを証明するものです。

そして、ホライズン・クリスチャン・フェローシップ(カリフォルニア州サンディエゴ)の牧者、マイク・マッキントッシュ氏は、世界貿易センターが倒壊した直後に、心的・霊的ケアのチャプレンとして現場に赴いた時のことを思い出し、記事を書いていますが、まさに311を経験し、救援活動を行っているキリスト教団体の気持ちと重なります。

God’s Love Was at Ground Zero(神の愛が、グラウンド・ゼロにあった)

彼は、「遺体がくすぶり燃えている臭気よりも、そこには神の愛のかぐわしい香りがはるかにまさっていた。」と言っています。悲しみの中にいる人々に祈るとき、そこには神を信じている人もいない人も、だれもが祈りを必要としていた。そこには日本で言う「宗教アレルギー」は存在しなかったと言っています。そしてそこでは、改宗させようとか、説教を垂れようとするのではなく、ただ寄り添い、天の御国を代表する、必要に応じる奉仕者が大勢いたのであり、それが神の愛の芳しい香りになったのだ、とのことです。

そして、私がもう一つ思い出す惨劇に対するイエス様の御言葉は、上の記事にも触れられていますが、ルカによる福音書13章1-5節です。

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

津波で死んだ人々、ことさらに大きな罪を犯したからそうなったのでしょうか?いいえ、むしろ、生きている私たちに対する警告なのです。「なぜ、神は多くの人々を死なせるような酷いことを行なうのか?」という人には、はっきり、このように申し上げたい。「なぜ、神はあなたを含む数多くの人々を、今もこうやって生かしておられるのですか?」今、生きていて滅んでいないことが神の憐れみであるのに、そして自分はいつ滅び、死に、そして神の裁きを受けてもおかしくない存在なのに、それでもいま生きているという事実を感謝したことがあるでしょうか?

人は死に、死後に裁きを受けることが定められています。また生きていても、この地上にこれまでにない大患難を下されることを警告しておられます。けれども私たちが生きていて、そしてまだ大患難に遭っていないというのは、神があえて、それらの災いが起こらないようにし、私たちが悔い改めることができるように忍耐しておられるのです。それでも、心を脂のように鈍らせ、日本の安定と繁栄の生活の中で神などいないと言っている人々に、神は憐れみをもって、ご自分に注意を寄せてもらおうと、その災いのごくごく一部、その最小限度をお見せになったのです。

「けれども、津波で死んだ多くの人は、福音を聞く機会がなかったのでは?そのように早死にさせる神は何を考えているのか?」という人に対しては、「平和ボケするんじゃない!」と言いたい。津波でなくとも、何万人、何十万人の人々が毎年、病気、交通事故、事件、その他の要因で苦しみ、また死んで行っているのです。命というのは実にはかないのです。それをあたかも、健康と長寿が当たり前のように考えていること自体が傲慢です。人は必ず死にます。神のみが、その命の短さと長さを決めておられますが、全ての人が死ぬようにされています。それは最初に造られた人アダムが犯した罪のゆえです。この生きている間に、神はご自分の御子イエス・キリストを受け入れるように、全ての人々に招きを行なわれているのです。

そして、そのような苦しみと悲しみにいる人たちこそが、これまで「対人」関係で生きていたけれども、人の関係や社会との関係を超えたところにある「対神」関係を求めるようになります。

苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたはやがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(ルカ6:20-21)」そしてイエス様は、富んでいるあなたがたは哀れだ、食べ飽きているあなたがたは哀れだ、いま笑っているあなたがたは哀れだ、と仰っています。つまり、主イエスは徹底的に苦しみと涙の中に神の国が臨むようにされています。

ソウル・サーファー(Soul Surfer)

知る人ぞ知る、ハワイのプロサーファー「ベサニー・ハミルトン(Bethany Hamilton)」を描く映画です。DVDを観る機会にあずかりました。紹介サイトはたくさんありますが、一サイトから一部引用します。

感動の実話を豪華キャスティングで再現

 ハワイで暮らすベサミー・ハミルトンは、幼い時から両親と共に大好きなサーフィンをしながら育つ。13歳の時、巨大なサメに襲われ左腕を食いちぎられてしまう。片腕では大好きなサーフィンはできないとあきらめかけるが、退院から一ヶ月後、不屈の精神で再起を果たす。後に14歳で発表された彼女の伝記「soul surfer」は話題を呼び、「Heart of Soul Surfer」のタイトルでドキュメンタリー映画にもなった。
(http://www.yoseyama.jp/blog/2011/02/soul-surfer.html)

彼女の事を聞いたのは、私がカルバリーチャペル所沢で説教通訳の奉仕をしていた時だと思います。(牧者のトラビスさんは日系ハワイ人で、ハワイの生活の例えをよく出します。)そして次に彼女のことについて目にしたのは、立ち読みでしたが、彼女の伝記「ソウル・サーファー」です。

そして8月に行なわれた、アナハイムでのハーベスト・クルセードでも彼女が登場、当時の少女の姿からいっきにお姉さんになったという感じでした。

ベサニー・ハミルトンさんのブログより)

それで映画の内容ですが、信仰の軌跡を描くものはどうしても人間模様を描くドラマのようになってしまいがちです。「親分はイエス様」も、プロウィンドサーファー飯島夏樹さんの「Life 天国で君に遭えたら」もそうらしいですが、この映画はかなりしっかりしています。英語のウィキペディアによると既に出版された伝記には載っていない家族の苦悩も描いているそうで、さらに現実味が増しているとも言えるでしょう。

印象的な部分をかいつまんで話します。ビーチのそばにある教会に家族が参加する時に賛美していたのは、私たちLCFでもよく歌う、「ほむべきかな主の御名(Blessed Be Your Name)」でした。

主の御名をほめたたえます
   恵みとまことの満ちる御名
主の御名をほめたたえます
   試みの中を歩くとも

主の御名をほめたたえます
   変わりのない日々 過ぎるとも
主の御名をほめたたえます
   苦しみの中にあえぐとも

憐れみに触れるたび 主に立ち返り
暗闇に閉ざされても 私は歌う

主の御名をほめよ 主の御名を
主の御名をほめよ 主イエスの輝く御名

主は与え 主は取られる
主の御名は ほむべきかな

(音声はこちらで聞けます

そして、教会青年部のリーダーのサラさんが、メキシコへの短期宣教旅行の前に、さまざまな物を至近距離で撮った画像を見せ、間近で見るとそれが何であるか全然分からないことから、「私たちの人生も、その渦中にいると分からないことがあるけれども、神のご計画全体の中ではエレミヤ29章11節なのだ。」と教えます。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

そして、この片腕が奪われる事件が起こるのです。ベサニーは苦悩しました。彼女が、どうして片腕がないということが神の計画の中にあるのかサラに訊ねた時に彼女はこう答えました。

酷いことが時に起こってしまうのがなぜだが、私には分からない。けれども、このことから良いものが出てくることを私は信じなければならない。

そして、一度青年部でメキシコ宣教旅行に行くのを断っていたベサニーは、スマトラ島沖地震で津波の被害を受けたタイのプーケットへの救援旅行に参加します。そこで、津波の衝撃で海に誰も入ろうとしない現地の人たちを、ベサニーが一人の子供にビーチボードにのることを誘い、そこから他の現地の人たちも海にまた入ることができるのだという希望を見出しました。

彼女は、「サーフィンが全てではない。もっと大事なのは愛であり、それはどんな津波よりも、どんな恐怖よりも大きいのだ。」ということに気付くのです。

それから彼女は、あきらめていたサーフィンの競技に再び果敢に取り組みます。

何か、日本の津波の被災者に対する希望の証しにもなりそうなのですが、どこか彼女の話を伝道冊子にしてくれるキリスト教出版社はいないかな、と密かに願います。

彼女のような、神のご計画と主権への信仰から出てくる強靭な精神力の証しとして思い出すのは、横田早紀江さん、リサ・ビーマーさんの「レッツ・ロール」(彼女は911でハイジャックされた飛行機の中で果敢にテロリストに闘った夫を持つ)、地震と津波だけでなく原発事故という災いを被った福島第一バプテスト教会の証しです。
以前、上のお二人の証しの伝道冊子は持っていきましたが、福島第一バプテスト教会のも出来たみたいです。取り寄せて次の救援旅行に持っていきたいと思います。

映画ソウル・サーファーの予告編

イスラエル大使に退去要求 トルコ

このごろ、連日のようにイスラエル周辺情勢をここに書き込んでいますが、めまぐるしく動いています。先ほど目にしたニュースを紹介します。

[イスラエル大使に退去要求 トルコ]
 トルコのダウトオール外相は2日記者会見し、昨年5月のガザ支援船急襲事件で正式な謝罪を拒否したイスラエルの駐トルコ大使に国外退去を要求した上で、外交関係を見直し、軍事面の協力関係を凍結すると発表した。
 事件で冷却化した両国関係は急速に悪化、中東全体の安定をも損ないかねない情勢だ。イスラエルのネタニヤフ首相は主要閣僚による緊急閣議を招集した。
 支援船事件をめぐり、国連の潘基文事務総長が任命した調査委員会は1日までに、イスラエル軍の武力行使は「過剰だった」としながらも、支援船側から「組織的、暴力的な抵抗」があったとし、イスラエルの主張を大幅に取り入れた報告書をまとめた。トルコは報告書提出までに謝罪するようイスラエルに要求していた。(共同)
(http://sankei.jp.msn.com/world/news/110902/mds11090220060008-n1.htm)

イスラエルが国交正常化している周辺諸国は、「エジプト」と「ヨルダン」、そして「トルコ」です。トルコとは軍事協定を結んでいたので、イスラエルの安全保障にとってはその関係が死活的になっています。

ところが、以前、下の二つの記事でご紹介したように、トルコがイランやイスラム諸国に急接近し、そしてイスラエルに対してあからさまな怒りを表明しています。

ガザ支援船(?)拿捕事件 - トルコの怒り
ガザ支援船(?)拿捕事件 その2 - We con the World

トルコとの関係が断絶すれば、イスラエルは上の記事の地図にあるような、敵対する周辺諸国に取り囲まれるようになります。エゼキエル38章の、イスラエルを攻撃する預言絵図です。ロシア(ゴグ、マゴグ)、ペルシャ(イラン)と並び、トルコは、ゴメルとベテ・トガルマとして登場します。

ところで周辺のアラブやイスラム諸国にある、イスラエルに対するあの怒りと憎しみ、そしてそしりは尋常ではありません。みなさんも「怒り」や「憎しみ」に満たされることのないよう、自分の心を見張りましょう!その背後には悪魔がいます。終わりの日は、私たちの心に寛容さと平和と、愛、慎み深さが要求されます。

(9月6日後記)
なんとトルコは、イスラエルとの外交・軍事関係に強い制限を課したと同時に、エジプトとガザに接近しています。
Turkey to sighn strategic alliance with Egypt

再び、8月の思い出

8月1-3日における救援旅行には、ハワイのカルバリーチャペルから大勢の人が来ていましたが、オアフ島のホノルルとウィンドワードのカルバリーの人たちの他に、ハワイ島にあるカルバリーチャペルの牧師の奥さん(キャンディーさん)と娘さん(ハンナさん)もおられました。(右写真)

ハワイ祭りの時は美しいフラを披露してくださり、8月6日のLCFの礼拝にも参加してくださいましたが、その歌声のきれいなこと!会衆讃美が一気に美しい歌声に包まれました。

ハンナさんが編集して、今回の日本宣教旅行のビデオを作ってくださいました。とてもきれいです!月浜海岸のバプテスマ式の他に、少しだけLCFの礼拝後の写真も出てきます。(ちなみに父親も出場、バプテスマの直後に「ハレルヤ-!」と大声で叫んでいます。)

ぜひご鑑賞ください。(画面の右下、拡大するマークを押すと最大画面で見ることができます。)

Japan 2011 from Jack Duggan on Vimeo.

「エルサレムに宗教の国連を」

CC西東京の山東さんのツイッターで拾いました。

Vatican exited: Jewish Chief Rabbi proposed new “UN in Jerusalem”

ウィキリークスが在バチカン米国大使館からの通信を発表し、その中に、2004年9月に、「エルサレムに宗教の国連を設立してはどうか」との提案を、イスラエルのチーフ・ラビが行なったそうです。世界の宗教の代表者が、国際情勢についての共同発表を出来るようにしたい、とのこと。下の写真は、イスラエルのチーフラビ(アシュケナジとスファラディ)が教皇を表敬した時の様子だそうです。

ここには三つのポイントがあります。

1)カトリックが強く推し進める「宗教間対話」は、異なる宗教を一つに結びつける「世界宗教」へと通じること。
2)世界宗教の動きが、世界各国を政治的にも一つに結びつける「世界政府」の動きと連動していること。
3)そして、これがエルサレムのユダヤ教の指導者から提案されていること。

これが、黙示録17章にある「大淫婦」の幻、そして11章にあるエルサレムの霊的堕落状態と相重なるのです。

「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。(17:2-5)」

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(11:8)」

そして、これはカトリック、イスラム、ユダヤ教の中で広まっているだけでなく、キリスト教福音派の中にも入ってきていることは、以前、「キリラム教アメリカで広がる」の記事でお伝えしました。

水曜日の恵比寿バイブルスタディでのテーマは、「神の御業を尋ね求め、神に絶大な信頼を寄せること」というものでした。(詩篇111-115篇音声)未信者の人々、いやキリスト者の中にも、「なぜ宗教は戦争をするのか?争うのか?」という強い疑問があります。私たちはたとえ、それへの完全な解答を伝えられなくても、「それでも私たちは主を信じる」という決意が必要です。

私たちが人間的に平和を求めようとすると、たちまち起こることは、キリストの栄光に覆いがかかる、ということです。この方の優越性と至上性を知ることによって、初めて人の魂は救いと平和を得るのに、それを押し潰すことによって得ようとする平和は突如の破滅をもたらしてしまいます。

「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ5:3)」

周囲の人々にキリストの証しを立てようとしている方は、じっくりと耐えて、根気よく、キリストの真理をお伝えください。

キリスト者と「左翼・右翼」

キリスト者が社会問題に取り組む時に、頻繁に出てくる意見を、私なりに考察してみました。「左翼」と「右翼」という軸を使って、キリスト者の持つべき視点を見出してみようと思いました。文章が長くなったので、ブログ記事ではなくロゴス・ミニストリーのサイトの「きよきよの部屋」の中に書きました。

キリスト者と「左翼・右翼」

以下の図は興味深いです。ちょっと考えてみて、それから上のリンクにある引用記事を読んでみてください!

パレスチナ国家独立について

中東情勢について、今、忘れてはいけないのは、パレスチナ自治政府が9月20日に「パレスチナ独立国家」の承認を国連に求める問題です。すでに、「NHKの偏向報道」において触れましたが極めて非現実的な試みであります。

ハーベストタイムのメールマガジンの最新号でも、このことを指摘しています。

パレスチナの独立国家建設

私が以前指摘していたのとほぼ同じことを述べています。

(1)パレスチナ側は、独立国家になる準備がまだできていない。特に、テロの完全放棄が為されていない現状で、国際社会がその正当性を認めるなら、将来に禍根を残すことになる。
(2)ハマスとファタハの権力闘争が依然として続いており、平和的に国家運営を行える状態にはなっていない。
(3)国家運営に必要な経済基盤は、国際社会からの援助金である。また、経済活動の面でも、イスラエル経済に全面的に依存している。
(4)パレスチナ国家の独立に強硬に反対する声が、パレスチナ人自身の中にある。反対の理由は、パレスチナ国家の独立を宣言することは、イスラエル国家の存在を認めることになるからだという。

そして、イスラエルからのメールとして、承認されるか、されないかに関わらず、暴動や新たなインティファーダが起こる可能性が高いということです。

もう一つ紹介したいのは、「パレスチナ世論調査の結果は非平和的」という記事です。

たとえば、パレスチナ人に向けた『ニ国家解決案』については、34パーセントが賛成と答えながらも、それはワンステップであり、最終的にはパレスチナ国家だけが、残るというものだった。
 エルサレム市については、92パーセントがパレスチナの首都であるべきだと答え、1パーセントがイスラエルの首都、3パーセントが両国の首都、4パーセントが国際都市と答えている。
 イスラエルのエルサレムに関する歴史についても、72パーセントが嘘だとし、62パーセントが人質を支持し、53パーセントが学校で子供たちに、反イスラエルの歌を、教えることを支持している。
 イスラエルを打倒するためには、80パーセントがアラブとイスラム諸国から支援を受ける必要があるとし、73パーセントがユダヤ人を殺す必要があるとしている。
 そして、パレスチナ問題の解決には45パーセントが、ジハード(聖戦)が必要だとしている。パレスチナ人は65パーセントが交渉によって、問題を解決すべきだとし、20パーセントが戦いによって、解決するべきだとしている。

これは、イスラエル情勢を見てきている人々にとっては、ずっと前から分かっている結果ですが、イスラエルが強硬なのではなく、むしろパレスチナが強硬なのです。しかし、こうした内部の現実があったとしても、ネタニヤフ首相が、「ユダヤ人国家を認める、ということだけを言ってほしい。」と、二国案に対してアッバス首相に訴えて、譲歩しているのです。(後記:アッバス議長は明確に、『私はユダヤ人国家を承認しない。』と言いました。二国案ではなく、相変わらず一国案(ユダヤ人を追い出しすべてをパレスチナ国家にする)なのです!)

けれども、この対面式世論調査は興味深い側面を見せています。

 国連によるパレスチナ国家の承認については、64パーセントが賛成しており、そのうちの57パーセントが、ヨルダン川西岸地区住民、ガザ住民の間では、79パーセントが支持している。
 その結果として、国連への働き掛けが、パレスチナ国家を実現する、と考えている人たちが37パーセント、16パーセントが逆効果、44パーセントは何の変化も無いと考えている。
 マハムード・アッバース議長に対する要望では、83パーセントが雇用機会の創出、国連承認が4パーセント、2パーセントが和平交渉の継続、ということだ。

 国連への働き掛けに対して一番多いのは「何の変化もない」であり、盛り上げてはいるものの、現実はそう甘くないということも心得ているようです。そしてもっと切実な問題は、国連承認よりも「仕事をくれ!」ということであり、これが私にとって、民族的誇りにまさる現実的訴えであると考えています。

明日の飯が一番気になる

 ベイルート通信というサイトの記者の人も「イスラエル」と「パレスチナ」の対立をこう説明しています。

世にいう「イスラエルとパレスチナの対立」です。
 メディアに頻出するこのキャッチフレーズのおかげで、イスラエル人とパレスチナ人は不倶戴天の仇敵であるかのような印象を抱く人は少なくないでしょう。
 しかし、いわゆるイスラエル人=イスラエル国籍保有者のうち、およそ5人に1人は「イスラエル・アラブ」、つまりユダヤ人ではなく、パレスチナ・アラブ人なのです。
 さらにこの「イスラエル・アラブ人」の中には、ドルーズ教徒や一部のベドウィンのように、イスラエル建国以来、イスラエルの兵役にすすんで参加し、他の「イスラエル・アラブ」と対立する人々も居ます。

 また、ヨルダン川西岸地区にあるイスラエル入植地の問題があります。
この入植地のほとんどは、1967年の占領後に、物理的にイスラエルが領土的妥協出来ないように、つまり占領地領有の既成事実をつくるために、政策的に建設されたものです。
 従って、「入植地は和平の障害」という表現は正しいと言えるでしょう。
 ただ、同時に、イスラエルの封鎖政策によって収入源を断たれた西岸地区住民にとって、皮肉なことに入植地での労働が貴重な雇用機会になってしまっているのも事実なのです。

 「イスラエルとパレスチナの対立」という図式や表現にこだわると、見落としてしまう点がたくさん出てくることが理解していただけると思います。

「イスラエル残滅!」と叫んでいるハマス支持者が、次の日にはユダヤ人の入植地住宅建設の仕事に出かける、ということは、彼らの頭の中では矛盾なく行なわれている事でしょう。また、イスラエル国籍を持っているアラブ人で、パレスチナ国家設立後、国籍を変えようと思っている人はほぼ皆無だと聞いています。理由は、「仕事がないから」あるいは「生活水準が一気に落ちるから」です。

いずれにしても、国連承認前後のインティファーダは第二次の結果を見てのとおり、イスラエルのみならずパレスチナにとっても酷い禍根を残すでしょう。主の憐れみによって、そのような暴挙に出ないよう祈るのみです。

エイラット近郊テロ事件

遅まきながら、8月18日、イスラエルの南端の町エイラット近郊で起こったテロ事件から、今のイスラエル周辺状況についてお話ししたいと思います。

まず、何が起こったかについて

*イスラエル南部で複数のテロがあり7人が死亡、31人が負傷した。最初のテロでは乗客でいっぱいのバスに大量の銃弾が撃ち込まれた。国防軍が駆け付けテロリスト7人をその場で射殺。(「シオンとの架け橋」ニュースから)

テロリストは、ガザ地区にいる過激派が、シナイ半島、つまりエジプト領経由でイスラエルに侵入、そして、おそらくは目的はイスラエル兵を誘拐するためではないかというものでした。そして、イスラエルは首謀者への制裁のためにガザ地区を攻撃、それに対してハマスが応酬し、イスラエル領にロケット弾を撃ち込んだ、という経緯になっています。

拙ブログで、「エジプトの騒乱 - 危険な振り子」そして「エジプト軍最高評議会下のエジプト」でお話しした通りのことが起こっているので、確かに不穏な動きになってきたと思いました。

この事件で大事なのは、ハマスを代表するガザ地区とイスラエルの対立ではなく、エジプトとイスラエルの安全保障です。エジプト領を介して侵入できた、というぐらい、シナイ半島の国境地域はエジプト側の警備が手薄になっているということです。

その前にすでに数か月前から、シナイ半島にある、イスラエルに供給する天然ガスのパイプラインがテロリストによって爆破されたニュースが入ってきていました。(参照:「シナイ半島ガス・パイプライン爆破の不気味」)

そして今回のエイラット・テロ事件において、テロリストとの戦闘の中でイスラエル軍がエジプト軍人を射殺してしまったことで、エジプトで大規模なデモが発生しました。(後日、イスラエルは謝罪しています。)在エジプトのイスラエル大使館の国旗を引きずりおろし、エジプト国旗に替え、それをある知事が称賛するという愚直なことを行なっています。

その中で活躍しているのがムスリム同胞団です。彼らは穏健的な政治手法を取っていますが、信条としてはイスラム原理主義であり、エジプト国内のイスラム化を急がせています。(参照:「エジプト・ムスリム同胞団の暴挙」 「シナイ半島がイスラム国家になる危険」)

リビアのカダフィ失墜、そしてシリアの政権崩壊間近など、いわゆる“アラブの民主化”は進んでいますが、それはバラ色どころか、さらなる混迷をもたらすかもしれない可能性を多分に含んでいます。

ところで、教会のある姉妹が、「エイラットのテロ事件がイスラエル軍のガザ攻撃の発端なのに、後者だけが日本では報道されていますね。」と指摘してくださいました。そうです、相変わらず「話の途中」からしか報道せず、一般の日本人は「イスラエルによる攻撃」という印象だけが残されています。

今回の記事を書くのに参考になったアラブ情勢サイトをここにご紹介します。

中東TODAY
中東の窓 

あとついでに、イスラエル情勢ニュースは、おなじみの「シオンとの架け橋」、そしてイスラエル・ユダヤ全般の情報はミルトス社長のブログも参考になります。

21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる

いのちのことば社の冊子のウェブ版の、「時代を見る目」の項目の中に二回に渡って、実に大切な提言をされている方の記事がありましたので、ここに紹介させていただきます。まず、一つ目です。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 1 巨大津波が露わにしたこと
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

千年に一度の巨大津波が東日本太平洋岸を襲ってから3か月。被災地域の方々だけでなく、日本のすべての人が、この大災害がもたらした社会の地殻変動におののいている、と言っても言い過ぎでないだろう。

2004年12月26日に発生したインド洋大津波の半年後、復興移行支援のためにスマトラ島で過ごした。家々が立ち並んでいた場所が、今回の日本の震災場面と全く同じように、爆撃後のように無残な土台だけになっていた。そこで一つのことに気づかされた。巨大津波という危機は人々の表面を剥ぎ取り、奥底を露わにするものだと。

日本社会も、奥底が露わにされ始めている。高度経済成長時代を終え、必要が十分に満たされ、航空機なら「巡航高度」に達した80年代後半から日本人が大切にしてきたものは何だったのか、と。経済先進国と同様に、「お金で保障された、すぐに手に入る個人の快適さ、居心地よさ、安心の飽くなき追求」ではなかっただろうか。自分が暮らす地域と世界の隣人の必要に目をとめ、自分の生き方を省みることには目を閉ざして。

巨大津波は、私たちに快適さを保障していた原発の事故を引き起こし、科学・技術への過信は収束長期化をもたらした。私たち日本人にはこの出来事の意味を理解する世界観がないために、不安と無力感で覆われている。

永続する世界観を持つはずの日本のキリストの体が今、問われているのだ。「飽くなき追求」という偽りの生き方を正しいとし、見せかけの「巡航高度」を保ちながら「無縁社会」へと崩壊した日本社会で、キリストが教えてくださった「地の塩」として生きてきたのか、と。

日本経済が「失われた20年」と言われ、情報伝達速度と量が劇的に加速・増大して個人の嗜好が多様化し、すべてが「私」に仕えるような錯覚をもたらす「時代」に、巨大津波が露わにしたのは、私たち日本の教会こそ、時代の見極めと行動を怠ってきた、という厳粛な事実なのかもしれない。

「ことば」が人となり、当時のユダヤの社会に「塩」として生き、11人の頼りなさそうな弟子を残しながら永遠の「神の国」の土台を築いたキリスト。この21世紀の大震災後の日本で祈らずにいられない。「主よ、この目を開けていただきたいのです」と。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002728)
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そして、もう一つの記事も紹介させていただきます。

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21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里 「声なき者の友」の輪

混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。

が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。

私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。

日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。

(注: 読みやすいように改行を加えました)
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002741)
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非常にするどい指摘です。私も以前、「政府や東電を信頼するな? 」という記事で指摘したことですが、今回の震災で日本人は、究極的なまでに創造神以外の物に対する絶対信仰があったことが暴露されました。これこそが日本人の根本的な霊的問題であり、キリスト者はこれを最大の不幸とみなさなければならないのです。

私は海外生活をしている時は、日本社会では絶対にありえないすごいことが起こっていました。社会的には最低の生活です。実は先進国のアメリカでさえ、医療制度の酷さを妻の怪我や病気を通して体験しました。けれども、その両国にあったのは霊的な自由でした。神にそのまま拠り頼み、神にそのまま祈っていくことのできる自由と、単純な信仰がありました。けれども日本はそれをさせない強い力が働きます。

それでも、生活で苦しみや試練を通して神に近づくことができる人々に出会います。悲しむ人は幸いである、というイエス様の御言葉はその通りなのです!

生活をきれいにまとめて、きれいに整理して、きれいにクリスチャンらしく(?)批評して、そして自分は安全圏の中にいる・・・、で良いのでしょうか?人間というのは、もっともっと、どろどろしているはずです。詩篇のダビデ、創世記のヨセフ、そしてイエス様ご自身が、予想のつかない、そして損をする、計画とは反対のことが起きる、「不便」な生活を送られました。

神への絶大の信頼、これが少しでも日本で生まれ出てくることを願ってやみません。

「ナザレのイエスは神の子か?」

LCFの礼拝が開始して、早7か月になろうとしています。信仰を持たれた方々から続けて出てくる神についての質問、また伝道を試みる時に出てくる未信者からの質問をたくさん受けています。このロゴス・ミニストリーのホームページにも、「イエス様を知らない方へ」というページを設けていますが、キリスト教に関する真摯な質問についての邦訳された良書は次です。

「ナザレのイエスは神の子か?」 リー・ストロベル著 いのちのことば社出版

上のリンクに出版社からの、詳しい紹介と説明がありますのでご覧ください。自分の本棚の図書として置いておきたい一冊です。

私がスクール・オブ・ミニストリーで、”Apologetics”という題名の授業を受けました。日本語に訳すると、「弁証学」あるいは「護教論」になります。信仰を持っていない人の前において、自らの信仰の弁明をすることです。ペテロがこのことを次のように言っています。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)

使徒の働きにも、パウロ等が福音を伝えている時に「論じた」という言葉が数多く出てきますが、キリスト教史において、数々の著名な教会指導者は、各時代にあったキリスト教に対する反対論や異端に対して論駁する形で、キリスト教の支柱たる真理の説明を書き残しています。本書のリー・ストロベルのような人も、現代社会においてその遺産を受け継いでいると言えます。

私の学校の授業の先生は、ドン・ステュワートという人で、その分野で多くの奉仕をしている人です。英文ですが、私が受けた彼の講義とほぼ同じ内容のノートがネットで見つかりました。 → Apologetics Course (13年10月22日現在、リンク切れ こちらに新たなサイトがあります。)

本書「ナザレのイエスは神の子か?」では、著者が法廷ジャーナリストということで、現代風にさまざまな疑問をその専門家らにぶつけていますが、それらはほぼ、私が学んだ弁証学の基本を網羅しています。例えば、

「キリスト教も、仏教も、イスラム教も、みな結局は同じことを話しているのです。すべての道は神や天に至る。」という意見に対しては、

「互いに根本的に相反する教えをしているのであるから、同じであるはずがない。」
「イエス・キリストは、他の宗教の創始者とは別格の、独特な存在である。
– 宗教の創始者は『教え』を垂れたに対して、
イエスは自分自身が信仰の対象であるとされた。
– その主張を、証拠をもって見せられることによって権威を示された。
– イエス・キリストは、何百年も前から預言されている
数々の条件をその生涯で満たされた。
– 復活された。」

「・・・と言っても、それは聖書に載っていることだろう。聖書は後世に弟子たちが作り上げた神話ではないのか。」に対しては、

「新約聖書の写本と初期の翻訳を合わせると約二万四千ある。しかも、発見された本文は初めに書かれてから50年以内に書き写されている。似たような時代に、信憑性のある文献として認められている写本は、例えばカトュルス(ローマの詩人)は写本が六つ、そして原本が書かれてから1600年後の写本である。著名な「ホメーロス」も、写本は643で、期間は500年経っている。」

リー・ストロベル氏は、これを「福音書はスクープ記事のような新鮮なものだ。」と表現しています。

そして日本版に直してみますと、私はよくこう訊ねます。「では、豊臣秀吉が存在していたことは信じられますか?」当然、日本人なら誰も疑うことはありません。この人物についての第一資料は大量に残されており、その人生は非常に詳細に浮かび上がらせることができるわけですが、イエス・キリストについての記述も同じように膨大であり、しかも実在してからたいした時間を経ることなく記述されているのです。

そして、同著者は、第二弾として次の本も書いています。

「それでも神は実在するのか?」

これもぜひ手にしてみたい一書です。目次を拾い出してみますと・・・

悪や苦難がこの世に存在する以上、「愛の神」は存在し得ない
神の奇蹟は科学の法則に相反する。よって、奇蹟は真実たり得ない
生命の神秘は進化論が証明した。よって神は必要ない
罪のない子供を見殺しにする神は賛美に値しない
「イエスだけが救いの道」と説くキリスト教は傲慢極まりない
愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ
愛を説くはずのキリスト教史が抑圧と暴力に彩られているのはなぜか

いかがでしょうか?ある書評では、「こちらのほうが日本人には必要かもしれない。」とありましたが、同感です。イエス・キリストの前に、「神の存在」に対して疑問がわきます。この世の苦しみの現実と、神の愛や公正との間に矛盾があると感じます。

世界に起こる戦争、飢餓、そして地震や津波など、「なぜこのような悪を神は許しておられるのか?」という質問が多いです。特に身近にいる、愛する人が死んだ時にはその葛藤は熾烈になります。原発の被災者の人のブログにも、「人災と言われても、世界中に数多くある原発は安全に稼働していて、なぜ福島だけなのか?」という問いが書かれていました。

私自身も、そのようなお話を聞くとき、自分自身「なぜ?」という問いの重みを体の中で感じます。そしてやみくもに、軽々しく答えを提供したくないと思います。ただその中で分かってくるのは、「神は解答を提供されないが、その苦しみの渦中に共にいてくださり、そして究極の慰めと、永遠の希望を与えてくださる。」ということです。苦しみは、これまで「対人」で生きてきた人が、神に向き合うきっかけになるということは確かです。

ロゴス・ミニストリーの「イエス様を知らない方へ」のページにも、こうしたキリスト教に対する疑問に回答する欄を設けてみたいと思います。