「私たちはよみがえります」

福島第一バプテスト教会といえば、ご存知の方も多いかと思います。福島原発のそばにある教会で、地震と津波に襲われただけでなく、放射能漏れによって中に入ることさえできなくなった教会です。その牧師、佐藤彰さんは地震のときちょうど千葉県の神学校の卒業式に参加されていたとのこと。

クラッシュ・ジャパンの情報からは、そこに通う教会の中から、今、作業員として原発で働いている人たちがいること、また教会に初めて来て、イエス様を信じ、それから今度は福音を伝えに仲間の作業員の所に原発に戻った人の証しを聞いていました。

そして下に、CGNTVのビデオにある牧師さんの証しを見ることができます。これが日本の教会の証しか!と感動する、まさに初代教会と同じ証し、迫害されて困難の中にある教会の証しと同じ、命にあふれたキリストの御霊の軌跡です。

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東日本大震災により被災され、地震・津波・放射能漏れの3重苦の中で一時閉鎖となった福島第一聖書バプテスト教会。 ― しかし教会は生きていた― 壮絶な痛みを通され、牧会の最後かと思い絶望された中で見出された真の教会の姿を、佐藤彰牧師が証して下さいました。 この受難日と復活祭、大きな痛みの中におられる被災地の諸教会および地域の人々を覚えてとりなして祈りつつ、イエス・キリストの死と復活を深く黙想する時になりますように。

自衛隊の避難所フラダンス!

下の、4月18-20日のトラビス率いる東松島救援旅行で、自衛隊の人たちがフラダンスを踊ったという記事があります。(もう三回目なので、自衛隊の人たちともだんだん溶け合っていたのですが、そこまで溶け合うとは・・・。)CC西東京の山東さんがYoutubeにアップしました!

前代未聞です、世界ニュースになるかも!そして、こんなに楽しい避難所生活、救援活動で良いんでしょうか?主に栄光をお返ししたします。

仙台から戻ってきました 4月18-20日③

水曜日 4月20日

早朝、再び御言葉の分かち合いから始まりました。リッチがテサロニケ第一2章から話してくれました。
「私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(6-8節)」

私は、「ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。」が好きでした。イエス様の良い知らせを与えたいです。そのために私たちは存在しています。もし私たちが救われるためだけに存在しているなら、とっくに天国にいることでしょう。けれども、分かち合う機会を求めることで、「私自身のいのちまでも与える」機会を見逃さないようにしたいと思います。

朝9時に避難所に到着しました。すぐに山東さん、私、婦人たちがバーベキューの支度を始めました。リッチと他の人たちは千葉さんの家の掃除に行きました。山東さんはすごいです、女性たちもすごいです。一人ひとりが、主に与えられた能力で同時に行動している姿はすばらしいものです。

今日のメニューは、和風ハンバーグ、大根とポン酢のタレ、ソーセージ、トストグリーン、そしてご飯です。前回購入したグリルを使って焼きました。前回は日本の炭とガソリンでしたが、今回はアメリカ式のブリケットを持ってきました。

面白かったのは、山東さんと私が料理しているとき、医療隊が診療にやってきましたが、私たちが避難民だと思っていたのです。無料の健康診断を受けられるのですが、誘惑はあったのですがやめました。

清掃隊も戻ってきて、お祈りをしてから昼食を取りました。同じ人たちがやってきました。もっと顔も分かってきました。神はすばらしいです。

昼食の後にまた千葉さんの家に行って最後の仕上げをしました。ルイス、リッチ、アレックス、ザック、山東さんです。またみなが汚くなりました。まるでダーティージョッブのようです(注:ディスカバリー・チャンネルの番組)。アレックスが、充満していた変てこな臭いで吐きそうになっても何も出てこない姿を見て、笑いをこらえるのができませんでした。

でもかなりきれいになりました。次に来た時にここで寝泊りできるんじゃないかと思われるほどきれいになりました。千葉さんはできる、と言いました。どうなるかは次回を待ちます。水道も電気もないですが、寝袋を敷くには適切な部屋と木製の床があります。終わった後すぐ、千葉さんのお姉さんとご両親が来ました。千葉さんは三人に片付いてから見せたかったようです。すばらしい人々です。イエス様を必要とする人々です。

(掃除前の千葉宅:先週、清正が撮影)

(掃除後の千葉宅:今週、トラビスが撮影)

でももう4時近くになりましたで、所沢に戻らないといけません。私たちは千葉さんとそのほかの人たちのために祈って良いかを聞きました。帰路は順調でした、この前ビルさんが持ってきた無線トランシーバーで遊びながら車内の時間を過ごしました。かなり疲れましたが、共に出来た時間を感謝しています。

私たちは続けて行き、そこでお仕えすることを願っています。二週間後には、清正もリッチも自分の教会の人たちと私たちの教会の人を連れて行きます。そこで数多くの戸が開かれることを願っています。

例えば、千葉さんがぜひ会ってほしいと言っていた若い女の子に会うことができました。火曜日の夕食前、山東さん、リッチ、そして私が会いました。伊藤ひとみさんと言いますが、シングル・マザーです。胸の痛い話でした。私は聞きたくありませんでした、なぜなら、彼女がその出来事を言葉に出すことによって記憶をよみがえらせてしまうのではないかと思ったからです。とどのつまり、彼女は話し始めました。両親は溺死しました。一歳の息子さんも溺死しました。彼女のたった独りの子供です。一・二週間後に、その子を見つけました。なぜそんなに時間がかかったのか?それより早く行ったら、身の危険があったからです。彼女にかけてあげられる言葉を失いました。ただ聞いていました。

東京や所沢に来て、東松島から少し離れて時間を過ごしてもいいよ、と招きました。いっしょに祈りました。彼女は祈られることに拒否はしませんでしたが、どうやって祈ればいいのか分からなかったので、たかこさんがただ目をつむって、聞いていればいいよ、と言いました。これらのことがたった一ヶ月の間で起こったのです。絶句です。主が彼女をどれだけ愛されているか知れません。彼女のために続けて祈りたいと思います。彼女に敵が混乱や怒り、苦味をもたらさないように祈ります。皆さんもお祈りください。

このような話はどこに行ってもあります。涙を流さずにいられないことがあります。感情がこみ上げて、なんとかこの世を救いたいという気持ちにさせられます。けれども、私たちは、造り主の中における道具でしかないことを知っています。神の導きと時を求めていきたいと思います。

何らかの形で、多くの方がここで奉仕したいと思っておられると思います。悪いことでは決してありません。これからも最新情報を伝えていきます。これは短期的なことではありません。もっと多くの機会が出てくるでしょう。事実、千葉さんは、どんなに早くても、老齢の方々が仮設住宅に8月か9月に入れるようになるかなあ、と言っていました。ですから、夏に何かすることがあると期待します。主は、人が閉じることが決して出来ない多くの戸を開いておられます。祈り続けます。聞き続けます。主は確かに真実な方です。

主の祝福があるように、アロハ
牧師 トラビス

仙台から戻ってきました 4月18-20日②

月曜日 (4月18日)

救援部隊は一度所沢に集まり、午後4時ごろ出発しました。避難所の責任者の千葉さんは、救援物資はもう必要ないし、また清正のグループがすでに、仙台のサマリタン・パースから手押し車やシャベルをそこに置いていっていたので、私たちは食事を出す材料と子供用具を車二台に入れて出発しました。

所沢から現地まで、混雑にはまることもなくスムーズに来ることができました。松島の大松荘に午後9時半頃到着しました。規模は小さい旅館ですが、満室状態でした。駐車場も満車です。救援車両のような気がします。医療チーム、建築会社など、援助団体がここやこの一帯のホテルに泊まっていることを知りました。お風呂に入って、就寝。明日は早朝出発です。

5時に、朝食の調達で外に出ました。夜に到着していたので、ここの景色が分かりませんでしたが、海岸に非常に近くて、日本三景の松島湾がすぐそこでした。その岩の小さな島と松の生えている姿は、すごく美しかったです。

コンビニでおにぎり等を買って、6時半のデボーションに戻ってきました。列王記第二4章から分かち合いました。エリシャがシュネムの女と時間を過ごしました、関係づくりのために。そして大変なことが起こりました。ゲハジが彼女に大丈夫かと聞いたら、すぐに大丈夫だと答えました。実際はそうでなかったのに。なぜでしょう?彼女はエリシャとの信頼関係があったからです。彼女はエリシャのほうに行きました。息子が死んでしまった、というあの話です。

エリシャは祈りました。そしてその子の上に載りました。口と口、目と目、手と手を合わせて。彼は等身大で接したのです。ここにも「関係」の法則が見えます。神が奇跡を行なわれました。新しい命です。これこそ私たちが願っていることです。ここにある緊急時であっても、所沢であっても、どこでも、人々のそばにいてあげる、ということです。私たちが彼らの生活の一部になる時に、主が事を行なわれます。もちろん、私の言葉や行動によって、人々が救われればと願います。けれども神のみがお救いになります。私たちはその御業の中に入り、栄光が神に帰すことを願っています。デボーションは賛美もとても良かったです。交わりも良かったです。良い一日の始まりを切ることができました。

7時半ごろに出発しました。沖縄チームは今回が初めてなので、石巻を見せに行きました。正直なところ、災害地を少し見ていると無感覚になってくる変な気持ちがします。すべてが同じように見えてくるのです。初めのショックや感情はまだ残っているのですが、少し離れてしまったような気がするのです。ニュースで何度も何度も見ていると経験するようなものです。もちろん祈ってあげる必要があります。

15分しか石巻にはとどまらず、東松島牛網の避難所に引き返してきました。9時頃に到着し、千葉さんが迎えてくれました。子供たちは私たちの名前まで覚えています。そして他の人々にも挨拶しました。

千葉さんは、昼食より夕食がいいだろうとのことで、私たちはおしゃべりで時間を過ごしました。10時ごろに20人の子供たちが集まってきて、先生がそこで教えるためにやってきました。雨が降ってきたので、そこで私たちも時間を過ごしていました。

10-15分後に雨がやみ、千葉さんは私たちのうち5人を招集して、軍手、シェベル、手押し車をもって、千葉さんの家の清掃をするため歩いていきました。彼は他の人の手助けで精一杯で、自分自身のお世話をする暇がなかったのです。家の中はめちゃくちゃでした。ごみ、家具、真っ黒な塩分の含む泥を取り出していきました。津波が押し寄せた痕が残っていましたが、2メートル弱まで浸かったようです。

時間はすぐに過ぎて昼食になりました。私たちはお店にいって何かを買うつもりだったのですが、千葉さんが、ここにあるものを食べなさいとのことでした。ご飯、味噌汁、こんぶ、そしてにんにくの漬物です。避難所の方々の食べ物を食べてしまうのにためらいましたが、でもとても感謝でした。私たちが清掃をしている時は、ジョアナとたかこさんと、たりやさん、そしてアレックスが、子供たちが勉強が終わった後にいっしょに遊んであげました。

お昼は子供たちと遊んでいました。沖縄の人たちが自分たちの用意していた工作を作りました。でももう夕食の準備の時間です。雨がまた降ってきたので、バーベキューではなく、自衛隊の人たちと千葉さんが、巨大な、ガス付き鍋を貸してくれました。すごいいいです!26キロの鶏肉をつっこみ料理を始めました。今夜のメニューは、「醤油チキン、ソーセージ、トストグリーン、そしてご飯です。デザートに、アイスクリームも後でお店に行って買って来ました。

山東さんは、台所のチームを指揮しました。彼はプロです。牧師になる前に10年料理人をしていました。その手さばきは強烈です。キャベツを機械にかけたように切っていきます。台所に私が立ち寄ってみると、鉄腕シェフがここにいるとみなが言いました。料理番組みたいになりました。

夕食を出せるようになりました。雨が降っていたので室内での食事です。自衛隊の人たちも来ました。みんなが食べている時に、私はギターとカホンを手に取って演奏しはじめました。何人かが、ハワイの音楽やフラを願ってきました。私は、自分がフラを踊ったら、また地震が起こるぞ!と冗談を言いました。それで、たりやさんにお願いしたのです。彼女は沖縄出身ですが、お母さんがハワイから来た人でフラの先生です。でも、たりやさんがフラが嫌いだったのは知りませんでした。ヒップホップのほうがお好きなようです。けれども、彼女はなんとかOKしてくれました。

たりやさんは、知っているのは「真珠のような貝」という歌だけだと言いました。よく踊ってくださいました。そして私は、ずっと昔はフラは男だけで踊られていたのだと説明して、リッチに助けを求めました。部屋全体が、「リッチ!リッチ!リッチ!」と掛け声をかけるので、彼は出てきました。そして女の人たちの一人も出てきました。そして自衛隊の6人が出てきて、いっしょに踊りました。まさに真珠のような貝です。なんという光景でしょうか。部屋は大爆笑に包まれました。

千葉さんは後で、これがこの旅のハイライトだったと教えてくれました。ものすごく大笑いされていました。私たちにとっては当たり前に行なっていることなのですが、このような喜びをもたらすように主がしてくださり、大変光栄です。動画はたくさん撮られたと思いますので、掲載したいと思います。自衛隊の人たちには、君たちユーチューブで有名になるよと冗談を言いました。

午後8時にホテルに戻り、次の日に備えました。

仙台から戻ってきました 4月18-20日①

題名を見て、びっくりされたかもしれません。私は先週、仙台から戻ってきて、今は休んでいるはずなのに、なぜ「仙台から戻ってきました」なの?と。今週、カルバリーチャペル所沢の牧師トラビスやカルバリー宜野湾のチーム等が、行ってきて、今朝、トラビスがその報告を教会のブログに記しました。

Just got back from Sendai again… 4/18-4/20

私は、頭の中で旅行するのが大好きなので(?)、以前、イスラエル旅行でやった見たいに、彼のブログのあらましを日本語に直したいと思います。5月4日辺りにまた東松島に行く予定ですので、継続した神様の働きを残したいと思います。

(意訳開始)
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昨夜、東北から戻ってきたばかりです。これで二回目のたびになりますが、今回はリッチとルイス(府中)、山東さん(西東京)、ジョアナ、ザック、たかこ、たりや、アレックスです(沖縄宜野湾)。

先週は、清正が他のグループと赴いていたので、さらにお手伝いをするために東松島牛網に向かいました。避難所の責任者である千葉さんから、行政から物資支援を受けるようになってきたとのことですが、清掃のほうが依然として必要です。

前回は仙台の清正の両親のところに宿泊しまし、その交わりをとても楽しみましたが、そこからだとひ一時間半かかるので、松島の小さなホテルを清正が安い料金で探してくれました。そこから牛網まで15分です。

山東さんとリッチと話して、旅の計画を立てました。どこにいっても必要はあり、ボランティアも大勢は援助をしているので、私たちは、前回、主が導いてくださったこのコミュニティーにしぼることに決めました。そしてそこで二日程、共に時間を過ごすことにしました。私は戦略を立てるタイプではないし、偶然というのも全然信じていません。

主は、理由があって私たちをここに導いてくださり、その一部になれたことを強く信じています。主に三つのことに集中しました。

1)バーベキュー
ここの人々はご飯と味噌汁だけの生活なので、食べ物の補給をもう一度考えました。二日間、一食ずつなので合計400人分の分量です。自衛隊の人たちもいたので、その人たちにも食べてもらおうと思いました。ギターとカホン(箱型の打楽器)も持って行きました。食べて、交わるのです。イエス様もこのことを行なわれたのですから、私たちにとっても良いアイデアだと思いました。

2)子供と遊ぶ
木曜日に学校が始まるとのことなので、火曜日と水曜日に子供たちと時間を過ごすことにしました。ジョアナと沖縄の人たちが相手をしました。風船や画用紙、色鉛筆、サッカーのボール等を持っていきました。イエス様も子供たちと一緒におられましたよね?

3)清掃
そこの人々は自分の家の後片付けや物の取り出し、清掃をしている人たちが避難所を行ったり来たりしているので、私たちがただそこにいただけではお邪魔になってしまうのではないかと思いました。そこにいる人々をもっと良く知るために、またその人たちの話をもっと聞くために、彼らが良いとおっしゃってくださるなら、また主が持続的な関係を結ばれるよう導かれるなら、いっしょに汗をかいて汚くなるのも良いだろうと思いました。

LCFのイースター礼拝

次回のロゴス・クリスチャン・フェローシップは、復活祭をお祝いする内容に変わります。ともに主を礼拝しましょう!

4月23日(土)
14:30 ローマ人への手紙の学び(足立区こども家庭支援センター)
18:00 祈り会(OCC 307号室)
19:00 イースター礼拝(OCC 811号室)

(貸室811号室は50名の席があります。お子さんをお持ちの方は、礼拝説教中に307号室で「お世話 兼 教会学校」をさせていただきます。ぜひおいでください。)

注)ローマ人への手紙の学びの開始時間を14時から14時半にしました。

御茶ノ水クリスチャンセンター(OCC)の場所

足立区こども家庭支援センター(JR・千代田線「綾瀬駅」東口から約5分)

4月24日(日)
11:00 食事会(持ち寄り) 足立区綾瀬の自宅にて

救援旅行の報告も兼ねています。未信者の人をお誘いしていますが、信者の方々ももちろん歓迎です。イースターと言っても一般の日本の人には分かりませんが、「被災地救援活動を経験した人たちがいるから、一緒にいかない?」と誘ってみてください。短くメッセージもします。内容は「被災地復興とキリストの復活」です。

詳しい場所は、info@logos-ministries.orgにお問い合わせください。

第二回目 相馬救援旅行 4月15日

これで最終日です。仙台の実家を出発しました。(二回にも渡って、お父さん、お母さん、家に泊めてくれてありがとう!)母に前もって、先週お手伝いした、彼女の友人の農家に問い合わせてもらったところ、また手伝って欲しいとのことだったので、東京に帰る途中、また立ち寄りました。

ナビは仙台宮城インターから入り、仙台南部道路、仙台東部道路、それから常磐道へと導いていました。常磐道はなんと、相馬市の近隣の町である山元町までつながっていました。かなり新しい道路です。先週はここを通らなかったので時間がかかりましたが、本当に助かりました。(利用券もここまでの申請をしていなかったのですが、料金所でOKでした!)

途中、名取川付近を通りましたが、あの有名な津波が押し寄せる映像の場所です。一ヵ月後の今も壊滅的でした。

そして途中のコンビニの駐車場で早めの昼食を取り、午前11時には農家に到着しました。一週間前の状況よりも、はるかに改善していました。けれども、今回はもっと大変な作業でした。ヘドロの山を外の畑に持っていって捨てる作業です。ヘドロがこんなにも重かったのかと驚きました。

山東さんが25分の作業、5分の休憩というサイクルでアラームを設定してくださり、どんどん作業は進めることができましたが、最後はへとへとになりました。時間が来てしまい、頼まれたことを完全に終わらせることができなかったのでちょっと残念です。

そして帰宅です。悠さんはそのまま成田のホテルに向かい、翌朝出発の飛行機でバンコクに戻りました。山東さんと悦子さんは、電車に乗り帰宅へ。そして魯牧師と朴さんも車で帰宅です。

私の両親も含めて、今回の旅は、私たち以外は互いに初めての人たちなのに、本当にそれぞれが神から大切な任務が与えられ、それぞれが御霊の働きを経験し、主をほめたたえた麗しい時でした。東北救援旅行には、未信者の人々への御霊の業のみならず、信者間の互いの一致と愛が育まれる神のご計画があるような気がしてなりません。本当に主をほめたたえます!

第二回目 気仙沼救援旅行 4月14日

気仙沼は、地元仙台の人たちにとっては身近な所ですが、私は一度も行ったことがありませんでした。全く新しい所です。けれども、姉の高校・短大の同級生がそこでボランティアで働いておられること、またLCFの悦子さんの知人の親戚の方がそこにおられるということで、そこに行くことに決めました。

最短は、三陸道また海岸沿いの国道45号線を北上することですが、情報によると今は非常にそこが混雑しているとのこと。岩手県の一関ICまで東北道まで北上し、それから国道で気仙沼に入る道を通りました。2-3時間かかります。

気仙沼は典型的な三陸の町です。「リアス式海岸」といって、高台に囲まれた湾岸があり、その湾は非常に入り組んでいます。そのため、津波の勢いも非常に激しかったのだと思われます。また、岸に海水が漏れて入ってくるほど地盤沈下を起こしていました。

被災者の方々から出てきたのは、チリ地震津波のことでした。その経験から津波そのものは予想できたものの、これほど高波になるとは想像すらしていなかったという感想です。それで大丈夫だろうと思って家に引き返したり、逃げるのを遅らせたりした人が波にさらわれた、とのことです。

まず悦子さんの知り合いの親戚のご夫妻のところに救援の品々をお渡ししました。単一電池が売り切れて困っていたとのこと。涙を流して喜んでおられました。最後に山東さんがお祈りしました。

そして、その方の情報に基づいて、南町そして魚町が、物資が必要であろうということでした。まず、南町に行ってみました。そこは少し海岸から離れていた商店街ですが、家は半壊もしくは全壊です。そこに家の整理をしている人々がかなりいました。一人のおばさんに声をかけたら、たいそう喜んでくださり、またすぐ傍の近所の方も来て、喜んでくださいました。そして山東さんが最後にお祈りでしめました。

そして、何軒か同じ通りの人々も同じような反応で、私たちの分担がだんだん決まってきました。私が、道案内と車から降りて声をかける係り。山東さんが祈り係。その他の人はワゴン車から必要なものを取り出す係です。山東さんがどれだけの未信者の人たちのために祈られたか知れません!とにかく、涙を流して喜んでくださいました。物だけでなく、祈ったことによって、心にも贈り物を渡せたのではないかと思います。

次に行った魚町も同じ反応です。水が出ないところもあるので、水を持っていく人、また給水車までの水のポリタンクもかなり渡せました。そして缶詰などの食料、ふりかけなども重宝がられました。

そして今回最も喜ばれたのが「キムチ」です。前日の東松島でバーベキューのために韓国の教会の方が二百人分作ってくださったのですが、かなり余ったので渡すことが出来ました。ご飯と味噌汁というような生きるための食べ物はあるのですが、避難生活も長期化しているので、このような嗜好品に飢えている感じです。

そして、岸辺のところで荷物整理をしていましたが、そこでも私たちを三階の建物から見下ろしていたおばあさん二人が支援物資を取りに降りてこられました。

そして鹿折(ししおり)地区に行きました。ここは「鹿折川」が流れている所で、いわゆるニュースで出てきた全壊地域、船が陸地に乗り込んで、また火事が起こった跡が残っています。

そして、姉の同級生の人からの情報で、寝たきりのおばあさんの家にお伺いしました。けれども、いませんでした。隣の家の人によると、ちょうどその日の朝、入院されたそうです。

そして気仙沼湾の方面に向かうと、鹿折地区と同様、全壊状態で道も寸断されています。これでは物資援助もできないので、「それでは南町に戻ってみよう」ということになりました。そうすると、やはり人がいます。それでそして最も大きな避難所の気仙沼小学校のふもとにある、小さな避難所にも行き、そこでキムチ等をお渡ししました。

さらに南町の商店街を巡り、数多くの人々に渡すことが出来ました。一つの陶器を売っているところは、重要文化財になっている蔵が残っており、ここら辺では津波に流されずただ一つ残っていたものだ、とおっしゃっていました。

そして最後に九条小学校に向かいました。内側にあるので、かえって見過ごされている避難所です。そこの長の人にお会いすると、なんと校長先生でした!21日から新学期が始まるとのこと。これは大変です。

そして私たちは、一関経由で仙台に戻りました。