2022年イスラエル・トルコ旅行記 11月14日 スミルナ&ペルガモン

1.トルコの国と歴史
2.スミルナのアゴラ遺跡
3.ペルガモンのアクロポリス


 羽田空港から現地に着くまで、計17時間ぐらいの旅でしたが、心は晴れやかでした。3年半ぶりに、トルコのエーゲ海沿いの空気を吸うことができました。しかも、良い天気に恵まれ、実に旅の終わりまでほとんど雨に降られることはありませんでした。サリーさんによると、これは非常に珍しいことで、大抵、11月は雨天なのだそうです。天気予報では、トルコを旅発つ11月18日に、ちょうど雨天になるということで、まるで、主が私たちが行くすべてのところを、紅海が分かれるごとく、晴天にしてくださったような気がしました。

 心が晴れやかなのは、良い天候だけではありません。前回、二回の旅で与えらえていた強い思いと願いが、かなえらえる瞬間でした。日本人の兄弟姉妹に、思う存分、七つの教会のあった町々の遺跡を満喫していただきたい。そこで、日本という地で信仰する励ましとなってほしい。ここにかつておられた、信仰の先輩たちとつながってほしい。そしてパウロやヨハネなど、使徒たちの宣教に触れてほしい、などなど。この情熱が自分の原動力となっていたので、それが始動する瞬間でした。

1.トルコの国と歴史
 (2018年の旅

イズミール空港からスミルナ遺跡まで(グーグル地図

 上のグーグル地図を見ていただければお分かりのように、アドナン・メンデレス空港から、スミルナのアゴラ遺跡までは、車で北上し、大体40分かかります。今のイズミール市内の中心部に、アゴラ遺跡があります。アジアの七つの教会はエペソから始まりますから、エペソから始めるのが無難だと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 スミルナが今のイズミール(トルコ語)であり、イズミールはトルコで第三の大きさを持つ都市で、西トルコ(かつてのアジア)を巡るには、ここが玄関口だからです。そして順番に巡ろうとすれば、まずスミルナから始めて、そしてペルガモン→ティアティラ・・と巡ったほうが効率がいいです。地図を見ての通り、黙示録が回覧されたのも、おそらくこの、時計回りの順番だったのでしょう。次に、エペソは何といっても、アジア最大の都市で、遺跡も世界遺産級のものであり、すべての訪問地のクライマックス的存在です。そして、使徒の働きや手紙にも出てくる、黙示録以外の要素も多分に含まれます。最後に一番良いものを取っておいたほうが、いいですね。

 そこで早速、スミルナの訪問を記録したいところですが、まず、大前提となる、トルコ(アナトリア半島)の歴史を、大まかなものを把握する必要があります。トルコも、次のイスラエルも、二つの文明に挟まれた地域にあります。

 イスラエルの場合は、南はエジプト、北はメソポタミアであり、サンドウィッチの二つのパンにはさまれているようなイメージで、そのために周辺の諸国から攻められたりして、全く異なる人々がその地を征服、支配していたという歴史があります。左の写真は、2010年にカイサリアを訪問した時に撮ったものですが、埠頭に寿司レストランがありますが、下から上へ、ローマ・ビザンチン時代→イスラム→十字軍となって、そして一番上に現代イスラエルの建物があるわけです。昔のものから今のものが、下から上に積み重なっているイメージです。

 トルコの場合は、東西の文明の交差点と呼ばれています。アナトリア半島と呼ばれますが、その意味は「日出る」という意味で、ローマから見ての東方であり、アジアです。そして西方はヨーロッパであります。イスタンブールに行けば、ボスポラス海峡を挟んで、ヨーロッパとアジアがあり、まさに東西文明の交差点であり、イスタンブール国際空港が世界最大級のハブになっていることも、いかに交差点になっているかを物語っています。

 初め、古代は、東方のオリエントの王国が台頭し、それから西方の勢力が台頭し、しばらく長い間、西方の勢力が留まっていたけれども、中世になって再び東方の勢力が強くなり、最終的に、東方のトルコ系の人々がここに留まった、という感じです。このように、東から西、西から東へと、とっかえひっかえ立ち替わっていく感じであります。10分間で、古代から現代のトルコ共和国までの解説をしている動画があります。


 初めに、紀元前20世紀にヒッタイト帝国が台頭しました。そうです、イスラエルのカナン人が住んでいた時にすでにいた、ヒッタイト人です。ここアナトリアに、ヒッタイト帝国があり、その延長でカナンの地にもいました。それから、はるか東から前6世紀にペルシア帝国が台頭し、この全域を支配しました。ペルシアも、聖書に出てくる国ですね。キュロス王とか、クセルクセス王とか。

 けれども、西方にはギリシア人がいます。彼らは古代から、エーゲ海沿いに小さな植民都市を作っていました。イオニア人です。ペルシア帝国は、さらに西方に遠征し、ギリシアの諸々の都市国家と戦いを挑みます。このことは、エステル記の1章と2章の間、クセルクセス王が遠征に来ました。そしてダニエル書8章には、雄羊と雄牛ががちんこしますが、それがペルシアとギリシアのアレクサンドロス王の戦いであり、一気にギリシアが東方世界や、南はエジプトまで勢力を広げます。ギリシア帝国、ヘレニズム(ギリシアの世界化)の始まりです。アナトリアは、ギリシアの「北の王」(ダニエル11章)である、セレウコス朝の中に入ります。

 それからギリシアより西方のローマが台頭します。そして、新約聖書時代に入るのです。ローマのアジア属州に編入されるので、それで「アジア」と聖書では呼ばれているのです。そこから、長い長い、ローマ帝国の支配が始まります。コンスタンティヌス帝が今のイスタンブール、当時はビザンティウムに遷都、そこをコンスタンティノープルと名付け、キリスト教化したローマ、ビザンチン帝国の始まりです。五世紀には東西分裂、ここは東ローマ帝国の領域になります。「ローマ」といっても、イタリアのローマから切り離されたため、ギリシア語が主要な言語となり、ギリシア色が強くなりました。これが一千年紀以上、1453年のオスマン軍による首都陥落まで、続いていたのです。


 今のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在していたイスラム王朝である、セルジューク朝がここに紀元後11世紀頃に進出してきます。民族的にはテュルク系です。中央アジアの人々です。東には、ウイグル人がそれであり、西はトルコ人です。そして、同じくイスラム教で、中央アジアから出たオスマン家が勢力を伸ばし、ビザンチン帝国の首都を陥落せしめ、1453年から1922年まで続いた、長期支配「オスマン帝国」を確立します。これが、今のトルコ人の国の先駆けです。

 近代に入って、帝国は衰退しており、西方の欧米列強が台頭し、第一次世界大戦で独側に付いて敗北し、解体されました。しかし、ここでムスタファ・ケマル・アタテュルクが独立戦争を展開し、1923年に共和制を宣言しました。今のトルコ共和国の誕生です。

 スミルナ遺跡を案内するサリーさんも話していますが、「我々トルコ人がここにいるのは、つい最近の話。いろいろな人たちがやって来たし、宗教もいろいろ」ということなのです。トルコというと、トルコ人でイスラム教の国というイメージが強いため、キリスト者たちには魅力的に見えないのですが、実はそれは表面だけの姿なのです。トルコについての書籍には、「イスラム教のトルコは、いわば、たまねぎの茶色い皮で、その下の何重層もの白い皮は、「ローマ」」とあります!そこで今の遺跡の大半は、ギリシア・ローマ時代のものが遺ったものです。その次に目立っているのが、ビザンチン時代のもので、教会堂が遺っています。
 
 これが大体の背景です。2018年の旅行記には、詳しく、具体的にトルコの歴史を辿っています。聖書とのつながりも説明しています。旅行参加者のみなさんには、準備勉強会で、ここの部分をしっかりと学びました。

1.トルコの国と歴史


ギリシア・ローマ遺跡に出てくる「二つの言葉」

 もう一つ、スミルナ訪問の前に、訪問の遺跡全般に出てくる、二つの重要な言葉があります。一つは「アゴラ」です。「広場」という意味ですが、ギリシア時代からの公共空間のことです。人々が集まることから、市場がそこに発達しましたが、商取引だけでなく、政治や文化的なことも、行われていた空間です。エペソに行くと、文化的なアゴラと、商業アゴラのどちらもがあります。そしてアゴラには隣接して、ビーマ(裁判官の座)もありました。ピリピでパウロとシラスが鞭うたれましたが、それは、ビーマの前であるだけでなく、目の前に大きなアゴラが広がっていました。

 そしてもう一つ、「アクロポリス」があります。「高い所にある城市」であります。丘や山の上に城や神殿を造ります。平時は、人々がここに神殿に参拝に来て、有事の際は、麓にいる人々が避難しにきます。宗教的、軍事的な中角を成していました。スミルナに行けば、すぐにこの二つの言葉が出てきます。私たちが向かっているのは「アゴラ」の遺跡でありますが、その遺跡から眺めると、背後にパゴス山というのが見えますが、そこがスミルナの「アクロポリス」でした。


2.スミルナのアゴラ遺跡