長崎旅行記 2002/08/12

目次
 はじめに
 飛行機の中で
 出島
 26聖人記念館
 原爆資料館/浦上天主堂
 大浦天主堂
 オランダ坂


はじめに

 先日、8月7日から9日まで、長崎に旅行に行きました。妻のたえこが、原爆についての世界大会にて、通訳の仕事をするために広島と長崎へ出張に行ったのですが、私は長崎で彼女と落ち合い、彼女が仕事をしているときに、私は観光をしました。

 奥さんが一生懸命働いているのに、「観光」ですか?、と見られてしまうかもしれませんが、その目的は、日本宣教史において、唯一、実質的なリバイバルが起こっていたと言われている、戦国時代のキリシタンの歩みについて知る、ということでした。長崎は、戦国時代からキリシタンの信仰が連綿と継承されています。日本の中で、もっとも過酷な迫害と、また殉教を経験したのにも関わらず、いや、そのような迫害においても信仰告白を続けたために、その苦難がかえって、さらにキリスト者を増し加えることとなりました。

 迫害で主なものは、三つあります。一つは、豊臣秀吉による、見せしめのための十字架磔です。26聖人が、その有名な出来事における人物たちです。これを機に、信仰的に弱いキリシタンが強められ、信仰を持っていなかった人が信じ、秀吉の意図に反して、さらにキリシタンが増えていきました。もう一つは、江戸初期における、キリスト教禁令にともなう、組織的なキリシタン弾圧です。これで、完全に宣教師は日本に入れなくなり、実質上、キリシタンであることを公にすることができなくなりました。ところが、拷問を受けていたキリシタンが、「七代後に、聴罪司祭が黒船に乗ってきて、どこででも神を大声で賛美することができるときがやって来る。」という預言を行ないました。そしてなんと、七代後の約250年後に、ペリー提督が黒船に乗ってやってきて、信教の自由の戸が開かれていくことになります。その時に何万人もの隠れキリシタンが潜伏していました。そして、三つ目の迫害は、明治初期のものであり、拷問と詰問、そして、村ごと各地に流刑される、「旅」と呼ばれていた棄教計画です。ようやく福音の戸が開かれたと思いきや、戦国時代や、江戸初期よりも、よりいっそう激しい弾圧が起こったのです。しかし、その長崎の地域には、キリシタンが途絶えるどころか、その信仰は確実に継承されていきました。

 これら三つの迫害に加えて、キリシタンがもっとも多かった長崎市浦上地区のすぐ近くで、あの原爆が投下され、浦上天主堂にいた大ぜい信者が死にました。

 日本宣教の先駆的な地域であり、かつ、もっとも迫害がひどかった、しかも、被爆という悲惨をなめた地域に、今もなお、信者が数多くいる地域として、その歴史は続いているのです。その特徴は、一言でいえば、「愛と赦しにともなう、喜び」でしょうか。それと、「天国のビジョン」がはっきりとしていたことが挙げられます。

(続く)


大局を見るのに、もっとも良かったマンガ本

 長崎空港に向かう飛行機の中で、「マンガ 日本キリスト教史 上巻」を再びじっくりと読みました。これまで気づかなかったことをどんどん発見することができ、また全体の流れとつながりを、かなり把握することができました。

 日本宣教の始まりは、ポルトガルのイエズス会に属する、フランシスコ・ザビエルの日本上陸からでした。そこで数多くの人が信者となりました。織田信長は、同じくイエズス会のルイス・フロイスと会見し、積極的に宣教師たちの活動を許可しました。信長が死に、豊臣秀吉が日本を統治したのですが、彼もまた、キリスト教宣教には寛容でした。けれども途中から、何かが秀吉の怒りにふれて、彼は宣教師国外追放令を出しました。それから、宣教師たちは、身を隠しつつ、密かにミサを行なっていました。

 そうした中で、フィリピンから、スペインとの友好条約を結ぶために派遣された、ペトロ・バプチスタをはじめ、フランシスコ会の会士が秀吉のもとに来ました。秀吉は、大使としての彼らの駐在と活動を許しました。けれども、彼らは、それを宣教活動をも許可していると思い、貧しい人への慈善活動など、積極的に日本人に働きかけました。そのため、キリシタンはさらに増えていく一方でした。

 そうした中で、既存の仏教勢力は、非常にキリスト教の影響力を恐れていました。信長は、腐敗した仏教の既得権益を憎み徹底的に排除するため、キリスト教の宣教を積極的に許しましたが、隙を見て、いつかキリスト教を撲滅したいと願っている者たちが、その機会をねらっていました。ある時、フィリピンからメキシコに向かう船が、日本に漂着しました。その中に、フランシスコ会の会士が何人かいました。その事件を利用して、秀吉の仏教徒の側近が、彼に征服説を言い含めました。つまり、日本人をキリシタンにすることで、ポルトガルやスペインが日本を支配しようとしている、というものです。日本を秀吉は、彼らを十字架はりつけにせよとの命令を出しました。

 これによって、フランシスコ会の修道士6名をはじめとした、結果的に合計24名の者が京都から、見せしめのために長崎への旅をさせられ、途中で2名が加えられました。秀吉は長崎がもっともキリシタンが多いところであるので、キリシタンになるものは、このようになるぞ、という見せしめを行ないたかったのです。

 ところが、捕まえられた彼らは、喜びにあふれ、互いに励まし合い、その旅の道中で、神を賛美したり、説教を行なったりしました。多くのキリシタンが彼らのところに寄り添ってきて、「自分も捕まえてくだせえ」と大ぜい近づいてきました。

 そして現在の長崎駅のすぐそばにある、西坂の丘において、十字架はりつけが執行されました。十字架の上でも、彼らは神に賛美をささげ、説教をしました。また、残された家族に手紙を残していた者もいました。彼らは一様に、自分が殺されることよりも、残された人々のことを思い、彼らがキリシタンになることを切に願っていることを話しています。

 その処刑場は、まるで礼拝場のようになり、多くの者がともに神を賛美していました。

 このことを通して、人々がキリシタンになることをさらに願い、宣教はさらに進んでいきました。

 そうこうしているうちに、秀吉が死に、関ヶ原合戦により、徳川家康が日本統治に成功します。そして江戸幕府は、キリスト教の大禁教令を出して、キリスト教の影響力を排除するために、鎖国を行ない、さまざまな制度をもうけました。五人組制度、檀家、踏み絵などは、その例です。キリシタンは、激しい迫害、弾圧を受け、ついに、だれ一人としてキリシタンはいない、と言われるまでの徹底ぶりでした。

 しかし、前に書きましたように、キリシタンは潜伏しており、251年の間、信仰を代々継承させていったのです。

 江戸幕府から、明治政府に統治が移行してからも、支配者は、仏教ではなく神道による国家像を描いていたので、キリシタンを徹底的に排除しようとしました。しかし、諸外国の圧力で、その禁教令は少しずつ取り除かれていったのです。

 そうこうしているうちに、日本は戦時体制にはいり、再びプロテスタントの信者を含めて、キリスト教弾圧が行なわれたのです。

 こうやって、日本のキリスト教史を概観すると、いくつかの新しい発見がありました。

 一つは、カトリックがアジアに宣教に来たときに、日本に対しては、他の諸国とまた違った方法を取ったことです。東南アジア地域は、まず軍隊、次に政治とキリスト教、そして商人という順番があったそうです。けれども、日本人への布教方法はそうではなく、まず統治者の寵愛を受け、人々の尊敬を得ることがもっとも効果的な手段であると考えたそうです。事実、彼らは平和的に、まず大名などの信頼を得て(その中で多くの人がキリシタンになりました)、その領地内において、一般庶民に街角などで福音を宣べ伝えました。また、貧しい人たちへの慈善を行ない、それによっても信頼を勝ち得ています。

 したがって、しばしば指摘される「キリスト教化による、日本植民地化」は、ポルトガルやスペインの視野にはありませんでした。日本人は鉄砲もまねしてすぐに製造していましたから、自分たちが力ずくで日本に押し入ることは得策ではないと考えていたようです。

 世間では、また日本のキリスト教の中でも、キリスト教による欧米の日本支配という見方は、日本の支配者たちの脅威であっても、本人たちはそうは考えていなかったと言えます。

 そして、宣教師たちは純粋でした。一部にの世的な者たちによって秀吉の不信を買いましたが、彼らは概して、日本人の間で良い評判を得ています。ザビエルはポルトガルの貿易船に乗り、フランシスコ会のバプチスタは、友好条約の仲介を果たしましたが、彼らの目的は、あくまでも、日本人がキリストの救いにあずかることでいっぱいでした。聖書を読むと、使徒たちは、あらゆる機会を利用して福音を宣べ伝えましたが、時の権力者に反発するのでもなく、また媚びるのでもなく、ただキリストを知っていただくことに専念しました。当時の修道士たちもそれは同じだったのです。

 そしてキリシタンになった一般民衆は、当然ながら、反日でもなんでもなく、ただキリストを愛し、家族や友人の救いのために祈る者たちでした。

 次に、今の日本が出来上がったのは、江戸時代に入ってからであることも分かりました。戦国時代の統治者である織田信長と豊臣秀吉を見ると、今の支配者たちとはまた別の、自由な発想を見ることができます。彼らは、キリスト教に対しても、きわめて単純で素直な反応をしています。そして当時のキリシタンの姿を見ると、これもまた自由に信仰を持っていたことが伺えます。ところが、虎視眈々と機会を狙い、天下を勝ち取った徳川家康とその息子秀忠、また三代目家光は、組織的に反キリスト教政策を取り、反キリスト教の土台を据えた、国づくりをしたことがわかります。このメンタリティーが、その後の明治政権を発足させた支配者たちにも受け継がれており、平気で、浦上キリシタンらを迫害、弾圧したのです。

 アメリカによって、日本は力づくで敗戦に追い込まれましたが、戦国時代までにあった、あの自由な発想は回復していないように思われます。戦後民主主義は、マルクス主義に影響された無神論教育を与え、人々を宗教嫌いにさせました。その反動として、過去の国粋主義的な考えが一部に出てきていますが、いずれにしても、反キリスト教というところでつながっています。日本の姿は、迫害されたら、さらに教会が強くなっていくという霊的原則は見ることができず、むしろ、使徒行伝17章のアテネ、20章のエペソの高官の判断にあるような、「無関心」と「骨抜き」が支配しています。

 したがって、日本の歴史の中で、悪魔が巧妙に働いていたと考えられます。けれども、それでも日本人の歴史の中で、聖書の原則を顕著に観察することができるような、キリシタンの姿が存在していたことは、大きな励みです。

付記:
 このマンガの他に、大変参考になった文書が、ネット上にありました。先日ご紹介させていただいた、長崎にあるプロテスタント教会の牧師によるエッセイ集です。日本がキリスト教に寛容ではない歴史を持っていること、そして殉教が神からの恵みである祝福であることに焦点を合わせた視点は、多くのことを教えてくれました。

 そして、原爆も視野に入れた、浦上キリシタンの受難の歴史を長崎元市長、本島氏が書いています。
 「浦上キリシタンの受難 禁教令、四番崩れ、原爆

 その中で、身にしみたのが、永井氏の「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝」という言葉です。「さすがキリスト者!」と、感慨深くなりました。これこそ、日本人が原爆を捉えるべき、唯一の視点です。しかし、これを強硬に否定しているのが今日の知識人であり、日本のクリスチャンも、それに影響されています。このことについては、また追って書いていきたいと思います。

(続く)


ある兄弟のコメント

 この旅行記を、ある兄弟がメーリングリストでコメントしておられたので、その一部を転載いたします。

****************
 26聖人といわれるキリシタン達は秀吉から恐ろしい迫害を受け長崎で十字架磔刑に処せられまた。でも、そこにリバイバルが起こったというのです。まさに使徒行伝に書かれていることと同じ、迫害、殉教とともに福音が爆発的に広がり、魂の大収穫があった。この日本で起こったことなんですよね。

 かつてこの日本にも、死に至るまで主に従い通した信仰の勇者がいたんです。彼らの信仰の姿にキリストを愛するクリスチャンの本当の姿を見たような気がしました。キリスト教は愛の宗教だと言われることがあるようですが、以前からキリストの教えは、死の教えであるとも感じることがあります。

マタ16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
ロマ6:6わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
黙示2:10死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたに
いのちの冠を与えよう。

 ぼくたち、主にすべてを捧げます〜♪と心安く賛美してしまうこともありますが、かつて、命を差し出すほどのキリストに対する愛をもったクリスチャンが長崎にいた、その信仰は今も受け継がれ、その場所で天を仰ぐと、神の臨在に包まれるのだという。キリストを知りたい、もっともっと知りたい、と思わずにはいられません。
****************

 本当に、アーメンです。


てくてく歩きで回れる長崎

 長崎空港に到着し、妻が泊まっているホテルに向かいました。そのホテルは、中華街の真横にあり、私が到着してからすぐに、他の通訳の人たちといっしょに、中華街で長崎ちゃんぽんを食べに行きました。そして、夜には、次の日に見学する場所を調べて、勉強しました。

 気づいたのは、長崎市の中心地区にほとんどの名所が位置していること。そして、中心地区は路面電車と徒歩で、十分に回れる距離圏にあることでした。

 出島が近いから、明日は出島から見ようと思い、また翌日の朝、散歩とデボーションのために、静かなところを探していたら、歩いて1分のところに、さりげなく復元されつつある、出島を見つけました。次の日は、オランダ坂に行きましたが、そこも徒歩10分以内のところにありました。「てくてく歩き」で、かなり名所を網羅することができる、コンパクトで訪れやすい場所が、この長崎市です。

「長崎市中心部マップ」
http://www.at-nagasaki.jp/benri/map/chushin.html


出島

 現代の出島は、明治時代から昭和20年代にかけて、埋め立てられたため、あの「海に突き出た扇形」を見ることはできません。けれども、周囲の道路に、「ここまでが出島でした」という色づけがなされていたりして、どこに出島が位置していたのかを、すぐに把握することができ、出島の様子も容易に想像できるようになっています。

 まず、出島についての詳しいサイトがあるので、それを参照すると良いでしょう。

「街の出島好き」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2765/decima/index.htm

 目次の中で、「出島を歩く」をご覧ください。そこに、現在の出島の配置図があります。僕は、初めに左側から入り、「ミニ出島」を眺めました。そして次に、「出島資料館 旧出島神学校」に入りました。この資料館は、日本が開国してから最初に建てられた、プロテスタントの施設です。

 入り口付近には、出島を造るに至った、周囲の世界情勢や歴史的背景が説明されていました。これを通して、キリスト教が日本に入っていくその背景を眺めることができました。ヨーロッパがアジアを見つけ、それとともに貿易船が来て、その船の中に宣教師がいた、ということです。

 そして、出島が誕生した経緯が紹介されていました。秀吉がキリスト教の禁教令を出して以来、ポルトガルは積極的に貿易を行なっていました。それによって、日本との関係が切れないようにしていました。そして、ポルトガルから来た宣教師たちは、密かに布教を行なっていました。このことをよく思わない、江戸幕府は、出島をつくって、ポルトガル人すべてを出島に収容したのです。そしてついに、追放。代わりに、宣教師を連れて来ないオランダに、その出島を使ってもらい、以後、オランダとの貿易の場所となりました。

 その後の展示物の紹介は、オランダ人の出島における生活が主でしたので、さっと眺める程度にしました。

 この資料館の後に「出島シアター」にて、出島ができた経緯を確認しました。私を驚かせたのは、あの有名な「出島」が、キリスト教を禁じるためだけに造られたということです。江戸幕府は、その他にも、有名な踏み絵、五人組、檀家制度などを行ない、国の政策としてキリシタン撲滅を行なおうとしました。このように、新しく始まった江戸幕府が掲げた、最も大事な政策の一つがキリスト教の禁教であり、出島がその象徴的存在の一つであったこということです。「鎖国」は、まさに、「キリスト教からの鎖国」と言っても過言ではありません。

 なぜそこまでして、江戸幕府がキリスト教を恐れなければならなかったのでしょうか?「キリスト教によって、ポルトガルなど西洋諸国の属国になる恐れがある。」というのが、典型的な回答でしょう。けれども、彼らが目にしていたのは、清貧な修道僧たちであり、素朴な一般民衆のキリシタンであり、ポルトガルの征服に彼らが手を貸すなど考えられません。

 問題は、霊的なものなのです。キリシタンが持っていた信仰の自由と、その広がりを恐れたのでした。彼らの信仰の自由は、国の支配者の支配を超えたところにあります。その原則は、十字架磔にしても、さらに広がる性質のものです。これが彼らに脅威を与えたのです。これは、ちょうど、パウロが宣教旅行をしているときに、「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいるのです。(使徒17:6)」など、人々に「奴らは、世界征服をしようとしている」との妄想を抱かせたのです。これは、王の王であり、主の主であられるイエスの主権があるからなのでしょう。

 しかし、江戸幕府の徹底ぶりには、驚きました。家康は、信長と秀吉の姿を見ていて、どこをツボとして押えなければいけないかを、心得ていたのでしょう。秀吉は、キリシタンを十字架磔にしましたが、そんな単純な処刑では、キリシタンを減らすどころか、ますます増やすことになることも、知っていたことでしょう。家康は虎視眈々と、全国統治の方策を考えていたのです。

 しかし、教会暦をつくり、牢で78回の拷問を受けたバスチャンは、この鎖国政策も、七代が過ぎればなくなることを預言しました。

「時が来たら、聴罪司祭が、大きな黒船にやって来る。そしてどこででも賛美を歌って歩けるようになる。・・・」

 ペリー提督が来航し、日本は門戸を開くことになりました。これは、日本にとっては屈辱的出来事でありましたが、神はこれを信仰の自由をもたらす機会として、用いてくださったのです。

 長い間オランダとの交易のための長崎の出島は、開国後、外国人居住区として用いられはじめました。当初は、決められた居住区のみの外国人滞在が許されていたのです。そこに、日本初めての、プロテスタント神学校が建てられたのですから、キリスト教禁教のための出島であることを考えると、意義深いです。

 本島元長崎市長は、「まさに日本の敗戦は、キリシタンの解放であり、信仰の自由の真の意味の確立であった。「信仰の自由」は、「言論の自由」「表現の自由」の基礎である。」と言いました。キリストを信じる、という、一見ごく小さな個人の行為に見えるものは、実は、国全体を巻き込み、世界を巻き込み、世界に戦争をさせるほどの、偉大なものなのです。終わりの時は、イエスを信じることについて、世界がハルマゲドンの戦いを引き起こし、天地は天変地異を起こさせるのですから、ましてや、日本の歴史も、キリストへの信仰を受け入れるか、受け入れないかでその流れが大きく左右されてきたのです。


(続く)


島原の乱はキリシタンによるものではない

 ところで先日、キリスト教書店に訪れたとき、ハーザー誌の8月号と9月号に、「キリシタン殉教の道を辿る」という連載記事がありました。長崎のプロテスタント教会の牧師と同じように、非常に分かりやすく、さらに詳しい情報が載せられていました。

 その中で興味深かったのは、「島原の乱はキリシタンによるものではない」というコメントでした。今、雑誌が手元になく、立ち読みだけでしたので、内容をはっきり覚えていませんが、たしか、島原城の建築のために、重税で虐げられていた人々が反乱を起こしたのですが、領主は、徳川幕府に統治の無能を知らされるのを恐れて、「キリシタンの反乱」に仕立て上げた、というものです。つまり、キリシタンがスケープゴートにされたのです。

 このような指摘はまったく初めてなので、驚きました。歴史教科書には、「天草四郎率いる、キリシタンの反乱軍」のようなことが書かれていたのを思い出します。いずれにせよ、この乱を根拠にして江戸幕府が、出島から完全にポルトガル人を追い出し、「キリスト教の鎖国」を確立させたのです。


26聖人記念館

 出島を見終わった後は、26聖人記念碑と記念館に行きました。ここがもちろん、私の長崎旅行の、一番のお目当てです。

 私がクリスチャンになって、そして福音伝道にたずさわるようになって、一番もどかしいこと、うめいていることは、「宣教また、クリスチャン生活が、聖書が書かれているとおりになっていない。」ということでした。とくに、使徒たちの働きによって、福音が広がり、その広がりとともに反対者が現われ、ある時は聖徒たちが殉教します。しかし、その殉教によって、かえって主は、福音のことばをさらに広げる機会となさっています。

 日本において、人々に福音を語っても、得体のしれない宇宙人のように見られたり、ただ無視されたり、また、「すばらしいお話しでした」と言って納得するのですが、行動は裏腹のことをしたりします。反対をするなら、反対をしてほしい。福音に反応してほしい。そうすれば、福音をさらに論じることができる。そして、生きた証しをする接点となる。なのに、日本にいると、福音を語ること、クリスチャンであることの意義が分からなくなる、というもどかしさがあります。

 その反面、アメリカにいる人は、イエスさまについて話せば、「彼はいったい、誰なのだ。」とか、「俺は、すべての道が神に通じると信じているよ。」とか、話の接点を生み出すような反応が帰ってきます。また、彼らの証しが、はっきりと生き生きとしたものが多いです。私が通っていたスクール・オブ・ミニストリーでは、クラスの4分の3が元麻薬経験者ではなかったかと思います。罪の中に生き、暗やみの中に生き、滅びに定められていたところから、キリストのいのちにあずかったことが、はっきりと見出せるのです。同じように、韓国人も、裏表のない反応をします。嘘をついてもごまかせない、子供みたいな無邪気さがあります。

 このように、白黒がはっきりとせず、すべてが灰色にさせてしまうような、「霊的荒廃国、日本」というレッテルを貼りたくなるような気分になることがよくありました。(でも、これは、自分の落胆による、肉から来る評価であることも、知っています。)そして、なぜ、そのような接点を見出せない土壌になっているのか、自分なりに分析してきました。天皇制や家の制度に関わることであることも分かってきました。けれども、分析すればするほど、その大きな障壁に圧倒されて、神の御霊は日本に働き得ないのか、と嘆いてしまうこともありました。

 けれども、今、希望があります。それは、経済大国を誇っていた日本が、構造的な危機に陥っていることです。自分たちが当たり前に思っていた基盤が、がたがたと崩れるのを経験している日本人が、福音を、道理にかなったとおりに聞いて信じる、その切実さが、主によって生み出されつつあるのではないか、という期待と祈りです。また、米同時多発テロがありました。これは、世界で起こっている現実を、日本のお茶の間にまで持ち込んだ出来事であり、これによって、ますます、人間の罪について、聖書の確かさについて、そして十字架の贖罪と復活の希望について、考えてくれるのではないかと祈り願っています。そして実際に、自分の周りで、求道を始めたり、信仰を持ったりする人が、少しずつだけれども現われているのを見て、励まされています。

 日本に初めて宣教に来たフランシスコ・ザビエルは、マカオで会った日本人のヤジロウに、「日本人は、理性で自分たちを治めている人々です。」ということを聞いて、日本宣教に引きつけられました。そして日本を離れるときも、その感想を持って離れたとのことです。教養があり、知的であり、筋道立てて話せば理解してもらえるという認識によって、実際に、数多くの人がキリシタンになりました。今、日本が構造的危機にあり、また世界が終わりの時の様相になっているので、日本人は再び、素直に、まじめに真理について考える時が、主のみこころによって起こることを願ってやみません。

 前置きが長くなりました。26聖人については、以下のサイトが、よくまとまっており、参照できます。

「県指定史跡 日本26聖人殉教の地(西坂の丘)」
http://www.d6.dion.ne.jp/~cdcna/nagasaki/26seijin/26seijin.htm

 また、先にリンクした、長崎の教会の牧師によるエッセイをご参照ください。

 私は、この殉教物語の中に、流された血からあふれてくる、リバイバルの幻があるのを見ました。いくつかの点を列挙したいと思います。

1.捕えられた者たちには、洗礼を受けて間もない人たちもいた。これは、信仰年齢に関わらず、キリストへの愛と、天のビジョンが与えられている人ならば、だれでも、聖霊により、主に忠実であることができる、という原則です。

2.捕えられた者たちは、聖霊の喜びと、神への賛美と、救霊への情熱に満たされていました。京で見せしめのために牛車で運ばれているとき、少年キリシタンは、笑顔を含ませながら神に賛美をし、修道士は、はっきりと福音を語りました。西坂の丘で十字架磔になっているときも、ある者は深い祈りにはいり、また少年は、ボーイソプラノで美しい詩篇を歌い、パウロ三木は、雄弁な説教を行ないました。家族に残した手紙は、キリシタンになってほしいこと、悔い改めて、救いにあずかることなど、真実から出てきた伝道のことばとなっています。

3.迫害による、迫害者への恨み、苦み、怒りは、何もありませんでした。むしろ、主の御名のゆえに苦しみにあっているので、喜びにあふれていました。彼らをまったく恨まずに、かえって彼らを愛して、福音を伝え、改宗を願いました。

4.御霊による一致もあります。イエズス会とフランシスコ会の間にあった亀裂は、この殉教の中でなくなっており、互いにいたわり、謝り、祈りあう姿になっています。

5.西坂の丘で彼らの殉教を見た人々は、このことをきっかけにして、信仰が弱いものが強められ、信仰に入った者も現われました。これはまさに、使徒行伝と初代教会の中に出てくる、霊的原則です。(「聖書の学び 新約」のテサロニケ人への手紙第一のメッセージ原稿をご参照ください。)

 戦時中には、このようなかたちのリバイバルが起こるどころか、全教会こぞって、偽りのリバイバルと教会一致を求め、偶像礼拝の罪を犯しました。終末論的には「背教」の教会でした。美濃ミッションでは、最後まで忠実であったため、迫害の手は途中から引かれて、賛美や礼拝が比較的自由にできるようになったという勝利の記録がありますが、悲しきかな、美濃ミッションを批判していたのは、外からだけではなく、内からであったのです。

 そして今の教会にも、背教の要素は多分に含んでいます。けれども、素直に信仰を保ち、主を愛している人々が、個人レベルでたくさん現われるのではないかとも感じています。死に至るまで主に忠実な人、御名のゆえに血を流す人が現われるのではないかとも信じています。なぜなら、それは、聖霊の主権的な働きだからです。

 以上のような思いをもって、出島から記念館へと向かいました。路面電車で、出島から四つ目にある長崎駅を下りて、そのまま道沿いに歩き、NHK長崎のところを右折し、急な坂道を登ると、そこが西坂の丘です。そして、そこに、26聖人のブロンズ像がありました。

 僕は胸に迫ってきて、思わず、その記念碑にもたれかかって、祈らざるを得ませんでした。(ちょうど、エルサレムの西壁で、祈るようにです。)その祈りは、「主よ、この日本の地に、リバイバルを起こしてください。」です。そして、この記念碑の真ん中には、イエスさまの、「自分を捨て、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」のみことばがありましたが、「自分を否む者となりますように。日本のクリスチャンが、自分を否む者となりますように。そして、聖徒が種を蒔く汗と、聖徒が流す血から、リバイバルの泉が開かれますように。」というような祈りをささげました。僕はもともと、「リバイバル」という言葉を短絡的に使うのを、ひどく嫌っています。過去に「リバイバル」を連呼して、何も起こらなかった、あのむなしさからなのでしょうか、「リバイバル=お祭り騒ぎ」であることが多々あることに、気づいたからです。けれども、西坂の丘で起こったことは、疑いもなくリバイバルです。聖書の原則に則ったところの聖霊の働きです。

 自分が、キリシタンの地を巡る旅行者だけでなく、巡礼者になっているなあ、と思いました。隣で、同じようにして、もたれかかっている子供たちの姿に気づきました。僕の真似をしていたのです!

 ちょっと恥ずかしくなって、資料館の中に入りました。資料館は、以下のサイトに詳しく紹介されています。

「26聖人記念館ホームページ」
http://www8.ocn.ne.jp/~martyrs/
「日本26聖人記念館」
http://www.nbc-nagasaki.co.jp/main/nagasaki/art/26st/

 聖人たちの絵、キリシタンの遺品、手紙などが数多く展示されていました。キリシタン禁制の高札を見たときは、「まだのこっているんだ。」と不思議な思いにさせられました。高札は他の資料館でもたくさん見かけました。そして、聖人が流した血がついた布もありました。見ませんでしたが、骨も残っているそうです。その理由は、宣教師がスペインに送って、スペインのほうで保存されていたからだそうです。また、隠れキリシタンが使ったとされる祈りの巻物もあり、「これを使って、祈りをささげていたのだ。」と感慨深くさせました。

 資料館は以外に小さく、すぐに見終わってしまいましたが、受付の人に、「もっと詳しくしりたいのですが、ガイドのような人はいますか。」と尋ねました。受付の人は、「神父様をお呼びします。」とのことで、神父の方がやって来てくださいました。見たことのある顔でした。そう、上の二つのサイトに出てくる、記念館の館長の方です。その写真を初めに見たときは、「ずいぶん気難しい顔しているなあ」という印象を受けたのですが、会ってみると、分かりました、彼は日本人ではなく、帰化したスペイン人の人なのです。日本語に訛りはあるものの、流暢でした。とても優しそうなおじさんでした。

 十字架の位置や、この光景を見ていた4千人がどこにいたのか、そんな広いところは、どこだったのかなど、位置的なことを質問しました。すると、展示されていた古い地図を使って、実に詳しく、鮮やかに、リアルにその情景が思い浮かぶように説明してくださいました。

そして、どうしてもしっくり来ないことを質問しました。「なぜ、秀吉は、十字架刑の命令を出したのか。」です。彼の答えは、「それは、誰にも分からない。秀吉にしか分からない。その秀吉も分からなかったかもしれない。」でした。秀吉の晩年は、言っていることがころころ変わっていたそうです。自分の子秀頼のことばかりが気になっており、他はあまり気にかけていなかったこと。また、朝鮮や明国の征服など、無謀なことを考えていたこと。大名は秀吉を恐れて、びくびくしていた、などを教えてくださいました。

そして、後で気づきました。僕が話していたその神父さんは、何と、26聖人をはじめ、日本キリシタン殉教史を研究して、著書をたくさん出している結城了悟神父であったことです。マンガの本でも参照文献として彼の名前があったのですが、日本語名だったので、まさかこの人だとは思いませんでした。どうりで、あそこまでリアルに情景が思い浮かばせるほどの、説明をすることがおできになったのだ、と合点しました。

 その記念館で、二つの本を買いました。「『日本二十六聖人殉教記』ルイス・フロイス著、結城了悟訳 聖母文庫出版」と「結城了悟著、『キリシタン蕾(つぼみ)』2002年4月、日本二十六聖人記念館発行」です。

 ルイス・フロイスは、「日本史」という名著を書いた宣教師で、克明に26聖人の記録を残しました。他の書物も、彼の記録にほとんど依拠しているそうです。そして、「キリシタン蕾」は、子供たちの殉教の記録です。胸がつまるような話しばかりです。子供のその単純で純粋な信仰のゆえに、殉教の思いは熱く、すばらしい証しを残しています。

 記念館のすぐ横に、二つの角のようなものが突き出た、「日本26聖人記念聖堂」があります。そこはカトリック教会です。礼拝堂に入ると、一人のシスターが祈っていました。僕も、暑さで熱気がこもっているその礼拝堂で、黙祷と黙想のときを持ちました。

 ところで、この礼拝堂の他に、二つの天主堂でも祈りをささげましたが、カトリックの教会での祈りに抵抗はなかったのか、という質問をもたれている方もおられるかと思います。後日詳しく書きたいと思いますが、たしかに抵抗がありました。マリヤ像があるからです。けれども、プロテスタントの教会にはない「祈りの深さ」と、良い意味での信仰の土着化を感じました。カトリックの人たちが、喜んで巡礼して、教会にいって祈りをささげるその喜びが、何となくですがわかったような気がします。

 祈っていたら、お昼の時間になりました。長崎駅に戻り、ローソンでおむすびと飲み物を買って、その前で昼食を取りました。次の目的地は、「浦上天主堂」です。けれども、その付近に、原爆投下地点の公園と原爆資料館があります。まず、その二つを見ることにしました。

(続く)


ホープ長崎

 先日、私の友人が牧会している教会に、「ホープ長崎」という冊子を見ました。長崎旅行に行ってきたことを知っていた彼は、その冊子を私にくれました。

「ホープ長崎」
http://www.being-nagasaki.jp

 プロテスタントの教会が発行しています。そこに、長崎市中央部にある教会のリストがあり、また、キリスト教についての名所が詳しく紹介されていました。長崎のプロテスタント教会のことについて知りたかったのですが、掲載されていました。そして、寺や神社は避けて旅行したのですが、実はその敷地は元々キリシタンに関わるところであることを知り、訪問すれば良かった、と思っています。いつかまた長崎に行って、行きそびれたところを訪問できたらなあと思います。


爆心地公園と原爆資料館

 路面電車に乗り、北上して、「松山町」で下車しました。歩いて2分かからないところに、爆心地公園があります。そして、公園を過ぎたところが、原爆資料館です。

 たえこが長崎に来たのは、原爆投下の時を記念して毎年開かれる世界大会で、通訳の仕事をするためでした。そのため、僕が長崎に来たのも同じ時期になりました。けれども僕は、原爆についてはさほど興味がありませんでした。キリシタンの歴史のほうを知りたいと思っていました。けれども、浦上天主堂も松山駅の近くにあるので、せっかくだから立ち寄ってみようか、という気持ちで行きました。

 僕は原爆について、ある一種の思いがあります。僕が初めてキリスト教会に行ったときに、白人のアメリカ人宣教師の姿を見たときに、表面では笑顔でしたが、内面は、反米感情を持ってその人を見下げていました。アメリカに対する羨望が多分にあった僕ですが、「キリスト教はアメリカからの宗教であり、アメリカは日本を空襲と原爆で痛めつけた国だ。」という意識がよみがえってきました。アメリカ人宣教師は、まさにそのシンボル的な存在でした。けれども、彼らには、一般人には持っていない「何か」を感じました。それは、普通なら家族や親族にしか抱かない親愛的な感情や態度を、他人である私や他の人々に抱いていたことです。身内にしか抱かない親近感を国を越えて抱くことができる、この人たちが持っているものは何なのだろうと思いました。そして2年後にクリスチャンになりましたが、彼らが持っていたのは、人種や国籍を超えたところのキリストの愛であることが分かりました。

 なぜ僕がそのような反米感情を抱いていたかと言うと、アメリカが空襲や原爆投下を行なったことを、小学生の時に聞かされたからです。「はだしのゲン」を読み、そして映像で、あのキノコ雲や、ケロイドで皮膚がどろどろになっている被爆者の写真を見ました。これを普通、「平和教育」と言いますが、クリスチャンになった今になってその教育を振り返ると、「平和」というマントをかぶった、反米教育であったと言えます。けれども、このことに気づくまでは、自分は平和を求めていた者であり、アメリカや他の国がまだ平和について知らない人たちだ、という傲慢な思いに満たされていました。

 日本の政治界や思想界には、「平和」を唱える左派と「日本国の主権」を大切にする右派がいますが、いずれも、「アメリカに自分たちの国が押しつぶされた」という嗚咽と悲愴と、怨念がその深層に横たわっています。幼いころの自分を思い出すと、地球儀を手にした僕が、この小さな島国日本を見て、「なんでこんなに小さな領土なのだ。アメリカはこんなにも大きくて、しかもグァム島まで自分の領土にしてやがる。なんで日本は、朝鮮や中国の満州や、ソ連の樺太を手放したのだ。」とくやしくなっていたのを、鮮明に思い出します。たえこから、ずいぶん変な子供だったのだね、と言われましたが、でも、日本人が底で思っていることを代表しているようなものではなかったのかと思います。一方では武器を持たない平和主義を信奉しているのに、他方では「いつか、大国になりたい」という怨念と野望が交じり合った拡張主義が並存しています。そんな僕にとって、キリスト教で言われるところの「赦し」は都合が良い考えにしか思えませんでした。被爆して怒って恨んでいる人々のほうが、「被爆したことは、悲しいことでした。でも神がおります。」と言っている人たちよりも、よっぽど共感できました。

 けれども自分自身がクリスチャンとなった今、後者の見方が、日本人にとって唯一の救いであり、真の平和の希求であると感じています。「悲しい出来事だったけれども、でも神の許しがあって原爆は投下されたのです。これも神の恵みであり、感謝すべきことなのです。」という思いは、御霊からのものです。

 そうした中で、原爆投下日の時期に長崎に行きました。新聞第一面には、広島の原爆投下について多くの紙面が割かれていました。「原爆も武器もない、平和な世界を!」「米国は、暴力の連鎖を作り出している!」と叫ぶ声や平和祈念式典の市長の声明を読みました。けれども、僕の耳には、「いつか力を持って、機会があったらやり返してやるぞ!」という声にも聞こえます。

 ここまで言うと、当地の広島や長崎の人々には失礼に聞こえるかもしれません。けれども、被爆者自身で、同じような強い意見を持っている人がいます。長崎元市長である本島等氏です。以前確か、「広島よ、おごるなかれ」という小論文を彼が書いたという記事を読んだことがあります。当時、日本が置かれていた状況を見ることなく、ただ被爆したことを盾にして、世界で武力を行使している国々を非難するのは、傲慢であるというような内容だったかと思われます。また人づてで、「原爆は、神のさばきである」と本島元市長が発言したとも聞きました。それで、平和運動に関わっている人々から、非難を受けたという話も聞きました。本島長崎市長と言えば、彼が天皇戦責発言をして、右翼に刃物で刺されたというニュースを思い出します。右翼でもなく、また左翼でもない、確固とした原爆に対する視点を持っていることを知りました。

 その彼の信念は、カトリック教会が出版している冊子にある記事の中に現われていました。先にリンクさせていただいた、「浦上キリシタンの受難 禁教令、四番崩れ、原爆」です。キリシタンに対する迫害と弾圧、そして被爆が、連続して捉えられています。さらに、江戸初期の迫害者、明治初期の迫害者と、戦後の知識人が同列で書かれています。

「戦後、平和な信仰の自由の時代の到来かと思われたが、また迫害の時代ともいえることがおきた。今度は、作家や評論家が永井隆が「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝」というのはけしからんというのだ。豊臣秀吉も、徳川の将軍たちも、長崎奉行たちも、みんな自分の考えが一番正しいと思っていたのだ。作家や評論家も自分が一番正しい考えだと思っているのかも知れない。」

 「神の摂理であり、神の恵み」であるという、悲惨な出来事にも神の介在を信じる、信仰の自由は、現在の知識人や作家によって批判されます。これは、昔、キリシタンの信仰を否定した迫害者と何ら変わらない、「神の否定、信仰の否定」論者たちだということです。・・・

 こんな、いろいろな思いが強くある僕だったので、原爆投下の平和公園や原爆資料館も、観光地としては二の次、三の次でした。けれども、せっかく来たのだから、無碍に避ける必要はないと思っていました。原爆投下地点には、中心碑が立っています。そこでささげ物をして、祈っている人がいました。また、浦上天主堂の西壁の遺壁が移転されて、ここに立っています。そして階段を下りたところに、公園の下に眠る被爆当時の地層を見ることができます。茶碗など、当時の家屋に会った物品が生々しく残されています。

 そして資料館の中に入りました。その展示には、被爆がどのようにして行なわれたかの、科学的な説明がありました。すなわち、「爆風」と「熱風」と「放射能」の三つによって被害をこうむる、というものです。また、遺物には、数多く、浦上天主堂のものや、浦上キリシタンのものがたくさん展示されています。なにしろ、浦上天主堂は、爆心地から500メートルしか離れていなかったのです。12,000人の信徒のうち、8,500人が爆死したとのことです。

 僕の頭の中では、原爆とキリシタンの歴史を切り離したかったのですが、歴史はそれを許してくれませんでした。否応なしに、そのつながりを考えざるを得ませんでした。あれほど迫害を受けた浦上キリシタンが、「なぜ、原爆の被害をもろ受けなければいけなかったのか。」という思いが、頭をよぎりました。しかし、神は、その試練に耐えることのできるような力と信仰を、キリシタンに与えたことを知り、感動しました。次の日に、永井隆氏の汝己堂に行きましたが、彼は、ヤコブの言葉「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(ヤコブ2:13)」のごとく、愛によってこの悲惨な体験を克服しました。(汝己堂については、またあとで詳しく書きます。)

 被爆者の証言をボタンを押してそのインタビューを見ることができるようなコーナーがありました。三人の外国人の証言を見ました。一人は在日の被爆者、もう二人はオーストラリア人の捕虜です。長崎には、連合軍の捕虜収容所があったのですが、米軍はそれを知りながら、原爆を投下したそうです。けれども、その証言者の一人は、「原爆よりも、あの収容所で受けたひどい仕打ちのほうが、よっぽどひどかった。長崎の人々には気の毒だが、米軍が本土に上陸していたら(沖縄には上陸しましたが)、もっと多くの死者・負傷者が出ていたかもしれない。」と言っていました。もう一人のオーストラリア人の証言者は、「あんなおそろしい兵器はない。即座に廃絶すべきだ。」との意見でした。同じ捕虜、同じ被爆者であるにも関わらず、意見は各人によって大きく変わります。でも、変わっていいのだと思います。見方がいろいろあって、自由であることが大事です。


浦上天主堂

 原爆資料館を出て、右に曲がり、その前の通りをずっとまっすぐ歩くと、十字路の角、丘の上に、浦上天主堂があります。

 ここは、ちょうど先に行った、26聖人記念碑がある西坂の北にある丘の地域です。先の本島元市長のコラムにあったように、この地域はキリスト教伝来のときからのキリシタンの町であり、そして迫害の地、さらに隠れキリシタンの地域でもありました。キリスト教禁令から251年間という長い年月を経て、この地域の人たちが、出島よりも南にある、新しく建てられた大浦天主堂に密かに赴き、自分たちがキリシタンであることを、そこの神父に明かしたのです。

 彼らは、その後、「浦上四番崩れ」と呼ばれる激しい弾圧を受け、日本各地へ流されました。そこで「思想改造」とも呼んでよい仏教僧や神主による説得を受け、それでも信仰を捨てなければ、激しい拷問を受けました。(詳しいことは、主の十字架クリスチャンセンターの牧師が書かれた、先のリンクをお読みください。)欧米に、この実態が伝えられたようで、大隈重信らが不平等条約の修正のために渡米したときに、激しい非難を受けました。そこでキリスト教禁令の高札が取り外されましたが、キリシタンが戻ってきたときは、村は荒れ果てた地となっており、彼らは極貧の中で生きていかねばならなかったのです。

 けれども、20年という年月をかけて、大正3年に、赤レンガ造りの当天主堂が建造されました。

 浦上天主堂に着き、早速礼拝堂の中に入りました。それは、美しい会堂でした。一般観光客は、本当に後ろの部分しか入ることができず、ロープによって、それ以上中に入るのをさえぎられていました。けれども、次のような注意書きがあります。「カトリック信者で、祈りのためなら、入ってよい。」僕は思い切ってそこにいる人に聞いてみました。「プロテスタントの信者ですが、祈りに行って良いですか?」すぐに、「いいですよ」との返事でした。

 正面に近づくと、さらにその綺麗な礼拝堂の様子を見ることができました。前のほうの席に座り、祈りをささげました。やはり、斜横にあるマリヤ像や、大きな十字架上のキリスト像が気になります。けれども、このような静かなところで、黙祷と黙想がささげられるのは、本当に良いです。自分の霊が整えられます。どのような祈りをささげたかあまり覚えていません。けれども、説教の言葉や祈りの言葉さえ、喧騒になってしまうような傾向を自分に持っていたことに気づきました。主の前に静まり、みことばを思い巡らすことの必要性を理解しました。

 そして礼拝堂を出たあとに、26人記念館の時のように、資料館のようなものはないかと探しましたが、見当たりませんでした。唯一、売店らしきところがありましたが、そこは鍵がかけられています。その隣で幼稚園か何かでしょう、幼い子供たちがわいわいやっている姿が見えました。


平和祈念像

 浦上天主堂を出て、平和祈念像がある平和公園を通って、松山町駅に行こうと思いました。

 けれども、途中で、主の十字架クリスチャンセンター長崎の教会がすぐそばにあることに気づきました。せっかくだから、みこころなら牧師さんに会えるかもしれない、というささやかな期待をしていましたが、だめでした、鍵ががっちりかけられていて、誰もいませんでした。いつも戸が開けられていて、いつでも祈りに来ていいよ、という雰囲気が充満しているカトリックの教会に比べて、「どこででも、主の御名によって祈れば、主がそこにおられる。」という信仰のプロテスタントの教会は、ちょっとさみしいものがありますね。でも、祈るために特定の場所に行って、神に聞いていただくというカトリックの信仰も、ちょっと変だと思いますし・・・。いずれにしても、興味深い違いだなあと思いました。

 平和公園に入ったら、何台もの車がありました。太いコードが地面に張り巡らされています。そうです、明日は原爆投下の日であり、ここで平和祈念式典が、小泉首相も出席の中でとり行われます。マスコミの各社が、明日のテレビ放映のために準備していたのです。僕は、たえこの仕事先の、平和大会の関係者の方から、「参加してみては?」との誘いを受けていましたが、僕はぜひともミサに参加してみたいと思っていました。けれども、浦上天主堂での平和祈念ミサは、明日の午後7時からであり、長崎空港から帰るには遅すぎました。残念でしたが、次があるでしょう。

 平和公園を突っ切り、松山町駅でまた路面電車に乗車しました。次の目的地は、「大浦天主堂」です。

(続く)


日本のプロテスタントの先駆者

 しばらく、長崎旅行記の続きを書けないでいました。先々週の金曜日にコンピューターがクラッシュして、今も修理中だからです(ハードディスクの交換とのこと)。けれども、数名の方から、「旅行記読んでいます」とのレスポンスをいただき、書かなきゃいけないな、と思いました。

 これまで、キリシタンの歴史について眺めてきましたが、同じ長崎には、プロテスタントの歴史も見ることができます。それを垣間見ることができる地域は、浦上から南に下った地域で、「東山手」という地区です。ちょうど有名な「オランダ坂」があるところです。次の日に、その地域をじっくりと見たので、後で詳しく書きたいと思います。

 私がかねてからあった疑問は、キリシタン、すなわちカトリックの宣教師による福音宣教において、聖書の使徒行伝にも出てくるような、顕著な聖霊のみわざを見ることができたのに、明治以降、プロテスタントの宣教師が入って、彼らによる福音宣教には、そのような生きた証しを見ることができないのは、なぜかと言うことでした。

 前者が一般民衆であったのに対して、後者が知識人への働きかけであったことには気づいていましたが、もっと根本的なことを、以下のサイトが取り扱っています。おなじみ、鹿嶋春平太氏の批評です。
http://www.melma.com/mag/18/m00016018/a00000119.html

 宗教改革の元祖カルヴィン自身が、この世の事柄に関わっていて、真に霊的ではなかったという指摘は、僕は初めて気づかされた点でした。そして、カルヴィンの流れを汲む、長老派や改革派が日本のプロテスタント宣教の先駆者であり、ゆえに、その後のキリスト教会が、霊的また天的なことよりも、もっと世的なこと、すなわち規範的、道徳的なことを取り扱っているという批評は、すべての原因ではないにしろ、一原因であることは間違いないと思いました。

 洗礼を受けて間もない、信仰的にもまた年齢的にも幼いキリシタンが、顔に笑みを湛え、「パライソ(天国)」と言いながら殉教の血を流したのは、「天国」のビジョンがはっきりしていたからであり、この世のいのちのために、永遠のいのちを犠牲にしてはいけないという信念から来たものでした。そして、その殉死を見た人々の中に、「こんな美しい死に方ができるなら、おらもキリシタンになりてえ。」と言って、信仰を持つ人たちが多かったのですが、それも、「永遠のいのち」「天国」「神の国」という概念が、しっかりと植え付けられていたからに他なりません。バテレン(宣教師)と仏僧との議論も、死後の霊魂が不滅であるかどうかについてのものであり、やはり「霊界」がその興味の焦点となっていました。

 ヘブル書のテープを聞いておられる方から、次のようなフィードバックがありました。「イエス様の再臨を待ち望む希望は、この世での信仰生活を全うするのに、欠かせないのかも、と、うすうす思うようになりました。結局、この希望を抱いていないと、自我の努力で、歩みを進めようとする過ちに陥ってしまうように思います。」再臨も「天的」なものですが、これがないと、地上での信仰生活そのものができない、というのが聖書のメッセージです。聖霊によって、神から与えられている永遠の希望がどのようなものかを啓示していただくように、祈りたいものです(エペソ1:17−19)。


「大浦天主堂下」

 浦上天主堂に行った後に、再び路面電車に乗り、今度はずっと南に行きました。「築町」で乗り換えて、さらに南下すると、「大浦天主堂下」という駅があります。そこで降りると、すぐ登り坂があります。商業化された坂道で、お土産屋や食べ物屋が軒を連ねています。

 けれどもその途中で、「聖コルベ館(ページの下のほうに、あります)」というところがあり、せっかくだから入ってみました。コルベ神父と言えば、あのアウシュイッツ強制収容所にて、他の人の身代わりに申し出て、餓死刑を自ら受けた人として知っていましたが、彼が長崎で奉仕をしていたことは全然知りませんでした。

 他のサイトによる紹介によると、彼は、僕も先に、本島氏と曽野氏の記事をリンクした「聖母の騎士」という冊子の日本版を始めた人なようです。

 それにしても、正式名が「無原罪の聖母の騎士」ですから、ちょっと・・・・という感じはしました。あと、26聖人記念館にも言えたことですが、人を称賛しすぎるところがあります。人は完全に堕落しており、ただ恵みによって、信仰によって救われると信じるクリスチャンにとっては、まだ人には良いところがあるという、人間的要素が見えました。(だからいって、プロテスタントの教会に通っている人が、その人間的要素がないかといえば、もちろん多分にありますが。)


観光地化した大浦天主堂

 そしてお目当ての、「大浦天主堂」を見つけました。

 「国宝 大浦天主堂」
 http://www.bh.wakwak.com/~cdc/nagasaki/ouracatc/index.htm

 前もって調べたところによると、この天主堂は現在でも実際に使われてるのですが、数多く来る観光客のために、神父の人が司牧が出来にくくなり、30年近く前に、大浦教会を建てたそうです。ですから、大浦天主堂そのものは、観光地化しています。拝観料を取り、上って中に入ると、礼拝堂の中味を説明する声がテープでこだましています。そしてもちろん、他の観光客も、礼拝でも祈りでもなく、物珍しそうに眺めているだけです。

 彼らが探していたマリヤ像の位置も確認したので、どのようにして、隠れキリシタンが神父の前に現れて、どこに動いたかなど、何となく想像することができました。それだけ確認して、10数分ほどいただけで、下に降りてきました。

 僕の頭の中では、一つの旅が出来ていて、「26聖人」を見た後は、江戸初期から始まる隠れキリシタンの歴史、そして明治初期の浦上第四崩れをじっくり見て、できればまた祈りたいという気持ちがありました。そこで、天主堂の入口のところにブックストアーがあって、そこの店員さんがシスターさんのような感じだったので、詳しいことが分かるのではないかと思って、聞いてみました。

きよきよ:「隠れキリシタンの歴史を辿るための、もっと詳しいことを聞くことはできますか?または、そうした資料はここには揃えておられませんか?」(ちょうど26聖人記念館で聞いたようにです。)
シスター:「この天主堂にやって来た時点で、隠れが「隠れ」じゃなくなったのですよね。」
きよ:「(なるほど!)ああ、そうでした。では、浦上のキリシタンについては、どこで調べればいいですか?」
シ:「浦上天主堂に行かれるといいのではないでしょうか?」
きよ:「今、行ってきたばかりなんです。本屋も鍵が閉じられていて・・・。」
シ:「あと、26聖人の記念館におられる神父様が詳しいですよ。専門的に研究されていますから。」
きよ:「えっ、そこの神父様はそこの館長の方ですか。」
シ:「ええ、もう帰化されているので、日本語のお名前になっていますが。」
(なるほど!ここで、26聖人の本の著者として出てくる結城了悟氏と、あの館長がつながりました。)
きよ:「ああ、そうだったのですか!実はちょうど、その神父様から26聖人について、説明を受けたばかりなのですよ。浦上のキリシタンについても教えていただければよかった。」
シ:「あと、この天主堂の上に、資料館があります。そちらをご覧になられたらどうですか?」
きよ:「ありがとうございます。あと、祈れるところはないですかね。」
シ:「天主堂の中で祈れますよ。」
きよ:「いや、今行ってみたら、テープの声が流れていて、祈れるような雰囲気じゃないですね。隣りの教会では祈れますか。」
シ:「ああ、もちろん。こちらの天主堂はクリスマスとイースターだけに使っていて、あとはそっちの教会で信徒たちは礼拝しています。そちらにはご聖体もありますから。」
きよ:「(・・・・^^;)ありがとうございます!」

 目が大きく、笑顔を絶やさないシスターさんでした。

 そこで天主堂の敷地から出ると、再び入るときに拝観料が取られてしまいますから、まず資料館に行くために上って行きました。上に張った大浦天主堂のリンクに、その資料館の短い説明があります。

 この資料館は、見ごたえがありました。26聖人記念館と同じく、隠れキリシタンが使った祈祷書の巻き物があり、それを見たときは、また「これを使って、彼らは天にささげる祈りをしていたのだ。」と思うと、こみ上げてくるものがありました。すでに口の中では、異言か日本語かどちらか忘れましたが、もごもごして祈りをささげている自分がいました。

 マリヤ観音もあります。翌日行った、また別のキリスト教資料館では、もっとたくさんのマリヤ観音があり驚きましたが、これはマリヤが仏教化したというよりも、マリヤであることを分からないように観音のように見せかけている、と言ったほうが良いでしょう。他にも隠れキリシタンは、強制的に仏式の葬儀をした後に、あとでその祈りを打ち消す祈りがあったりと、いろいろ考えて信仰を保っていたようです。

 それから下に降りて、大浦教会に行きました。26聖人記念館隣接の教会と同じように、戸は開けられていて、だれでも祈ることができるようになっていました。

 祈りをささげてから、その礼拝堂の出たところにあるノートを開くと、全国津々浦々から巡礼にやって来たカトリック信者たちの、感想の言葉が書かれていました。「う〜ん、こうやって巡礼の来るのが、生きがいというか、楽しみになっているのだな。」と分かりました。


グラバー園

 大浦天主堂の隣には、「グラバー園」という観光名所があります。観光ブックを読んでもよく分からなかず、ここは何だろう?と思っていました。見つけたサイトには、次のような説明があります。

「長崎の観光施設の代表であるグラバー園は、市内の南山手の小高い丘の上にあり、国指定重要文化財のグラバー邸を中心に同じく国指定重要文化財のリンガー邸・オルト邸をはじめ、市内に散在していた有名な洋館を移築復元したものです。園内は長崎独特の坂の地形のため、動く歩道、エスカレーターを設け、壁泉・石畳による回遊道路をめぐらし、異国情緒あふれる観光名所として内外の人々に親しまれ、年間約130万人の観光客が訪れています。」

 自分で説明するのも何なので、「バーチャル観光」というサイトを見つけたので、興味のある方はバーチャル散策を楽しんでください。

 長崎の顔として、戦国時代からのキリシタンの歴史のほかに、明治からの西洋化の歴史があります。グラバーという人が、長崎市の発展に大きく寄与した産業人のようです。

 ここは大浦天主堂とともに、丘の上に位置するところなので、長崎市の南に位置する山手地区からの、長崎市の景観を楽しむことができます。26聖人記念館がある長崎駅の付近の地域が見え、また小高い丘となって、原爆資料館や浦上天主堂がある浦上地区があります。浦上地区のキリシタンは、浦上天主堂が出きる前は、ここの大浦天主堂まで礼拝に来たのですから、いくらコンパクトで小さい長崎市とは言え、けっこうな距離です。

 そして出口に近づくと「長崎伝統芸能館」があり、そこを通って終わりです。

 すぐ目の前には、「南山手十六番館」という資料館があり、そこにキリスト教の資料もあると、ガイドブックには書いてあったので、入ろうと思いました。けれども、残念、もう閉店時間になっていました。次の日、ここを訪れることになります。

 丘を降りて、大浦天主堂下で再び路面電車に乗り、築町で下車、ホテルに戻りました。この日は、妻と通訳の同僚の方と3人で、中華街で長崎チャンポンと、飲茶を楽しみました。

(続く)


テアテラとサルデス

 現在、あるバイブル・スタディで、黙示録の学びをしています。実はこの書の講解は初めてなので、とてもわくわくしながら準備しています。その黙示録の2章と3章には、七つの教会について書かれていますが、それは「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とイエスさまが語られたように、全教会に対するメッセージです。そして多くの人が、七つの教会を、初代教会からの全教会史の七区分という解釈をしています。私はそのような時代区分ができるとは、黙示録2−3章を読む限りできないと思っていますが、それでも、確かに時代区分すると面白い発見をします。

 エペソの教会は初代教会、スミルナはローマ支配下のクリスチャン迫害と殉教、ペルガモはキリスト教がローマ国教化されたことと、解釈します。そしてテアテラの教会は、中世の、ローマ・カトリックにおける暗黒時代とします。そしてサルデスが宗教改革、すなわちプロテスタントの教会です。

 テアテラの教会の特徴は、ものすごい愛と信仰、また奉仕と忍耐があり、エペソの教会が忘れていた、初めの行ないにもまさっていたにも関わらず、イゼベルによる不品行と偶像礼拝、またサタンの深いところを知ったということです。教会としてこんなに良いものを持っているのにも関わらず、最もひどい状況を見るような、一見矛盾したごった煮状態なのです。これが実にローマ・カトリックに類似している、と僕は思いました。今回の長崎旅行において、カトリック教会にふれることができましたが、日本のキリシタン史は、まさに愛と信仰、また奉仕と忍耐の顕著な現われです。にも関わらず、マリヤ信仰、秘跡(プロテスタントで言う「礼典」のこと)を通しての救い、イエス像などは、プロテスタントの伝統を継承する教会だけで信仰を育ててきた私にとって、ちょっと異様な雰囲気もかもしだしています。

 けれども、それではプロテスタントの教会はどうか、といいますと、サルデスの教会によく現われています。「あなたは、生きているとされるが、実は死んでいる。」です。長崎市の東山手地区で、日本プロテスタントの宣教史を少し見ることができたのですが、体裁は非常に整っており、風通しが良く、いてもほっとできます。が、・・・体裁だけなのです。人を変えるいのちがあったのか、と思わされるところもあります。事実、日本のプロテスタント史は、教育や教養の面で、非常に大きな貢献をしているのですが、きわだったリバイバルは存在せず、むしろ時流に沿っていった期間がありました。整っているわりにはいのちがないので、簡単に、押し流されてしまっているのです。まさに、「生きているとされているが、実が死んでいる。・・・あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」なのです。

 それでは、最後の日、三日目の旅行記を記したいと思います。


オランダ坂

 昨日、必見の場所を見終わったので、この日、何を見れば良いか、迷ってしまいました。とりあえず、まだ見ていない観光地を見て回ろうと思い、有名な「オランダ坂」を見ることにしました。

 オランダ坂に行くには、路面電車のどの駅で降りようかと思って地図を眺めましたが、その縮尺を見ると、〜kmではなく〜mとなっており、つまり歩ける距離圏にあることを知りました。ホテルから出て、中華街を通り抜け、南に歩いていきました。そして、聖公会の長崎聖三一教会 がある十字路を左に曲がり、一分もしないところに、オランダ坂の入り口があります。

 坂を上っていく時の時刻は、午前9時前でした。観光客はまばらでしたが、若い女の子たちが何人か坂を上っています。そして途中で、左側には校門があり、右側には、「東山手十二番館」がありました。そう、彼女たちは、「活水女学院」の学生たちです。

 何の前知識もなく行った私は、オランダ坂はいわゆるデートスポットのような、景観が良い場所として残っているものだと思っていましたが、この東山手、また南山手一帯が、日本が開国をした時に、出島の次に居住が許された、外国人居住区であることに知りました。次々と、居住者たちが通うためのプロテスタント教会が建てられ、また宣教師によって、プロテスタント系のミッション・スクールが設立されました。活水女学院は、その先駆的存在であるラッセル女史によって創立されたということです。私は、そこでカトリック宣教史モードから、プロテスタント宣教史モードに切り替えなければいけないと思いました。

 そして「オランダ坂」は、日曜日に礼拝に通う外国人の姿を見て、(坂になっているので、現地の人も、下から彼らの姿を見ることができたのでしょう)、「オランダさんが歩いている坂」として、名づけられたとのことです。(江戸時代、出島から来た西欧人はオランダ人でしたから、現地の人は西欧人ならばオランダ人と思っていました。)そして観光スポットの一つになっている、「東山手十二番館」という資料館は、元々長崎領事館が活水女学院のものとなり、それから長崎市に移されたところです。

 十二番館は9時会館なので、その前のベンチで10分ほど待っていたら、資料館の人が鍵を開けに来て、入ることが出来ました。この十二番館にて、長崎のプロテスタント宣教師によって、いろいろなミッションスクールが建てられたことを知りました。

「特に、東山手十二番館と呼ばれる木造洋館は、長崎におけるキリスト教主義学校の歴史を詳しく紹介しており、近代日本の夜明けにいかにキリスト教の外国人宣教師たちが日本人に教育を通して献身的に奉仕してきたかを学ぶことが出来る。長崎在住の宣教師たちの尽力により創設されたプロテスタント系の学校は・・・

フルベッキ→H.スタウトにより東山学院(後、明治学院へ)。 E.スタウトにより梅光女学院(下関)。 E.ラッセル女史により活水女学校(現活水学院)。J.M.ギール女史は活水で5年活躍し、その後福岡女学院となる学校を創設。C.S.ロングは鎮西学院。C.M.ウィリアムスは長崎での布教活動の後に、東京に移り立教学院を創設。」
(http://www.being-nagasaki.jp/kankou/b2.htmより引用)


プロテスタント宣教史

 そして、この宣教師たちの学校設立と私学教育の働きそのものが、「宣教」であったという節もあります。先に紹介した、長崎バプテスト教会によって運営されているホームページに行くと、プロテスタント教会史の概略を読むことができます。
http://www.being-nagasaki.jp/nagasaki-kyoukai/top.htm#rekishi

 カトリック宣教の先駆けであるフランシスコ・ザビエルが、路傍伝道から始まり、一般民衆に福音を語り聞かせたのに対して、プロテスタント宣教の先駆けは、教育によって始まり、知識人や上層階級、また、一部の国際的視野をもった親たちの子弟であることに気づきます。前者が、貿易のために布教を許可した領主のもと、比較的大胆に行なえたのに対して、後者は江戸時代の延長でまだキリスト教禁制が残っていた中で行なっていたというハンディはあったことでしょう。けれども、江戸初期になってもカトリックの宣教師たちが、自分も殉教覚悟で福音を伝えて、民衆の多くがキリシタンになり、大迫害を経験したのですから、やはりそうした言い訳は利かないでしょう。そこら辺が気になりました。

 比較的、温和な雰囲気の中で「キリスト教」は広まりました。特にフルベッキという改革派教会宣教師は、明治維新の中核となった日本人指導者に大きな影響を与え、かつ人徳でも良い評判があったと言われています。

 プロテスタント神学の中に、「文化宣教命令」というものがありますが、それは、アダムに対する神の命令である、「地を支配せよ」に由来して、生活のすべての領域においてキリストの主権を回復させるという考えです。これは宗教改革の先駆け的教派である改革派によって提唱された考えであり、改革派に限らず、プロテスタントの他教派の中にも入っています。


東山手洋風住宅群

 十二番館を出ました。歩いてゆくと、先ほどの石畳のオランダ坂と同じように、石畳や舗装道路の道が続きます。途中で、明治以降に設立された海星学院を横目で見ながら、再び下り坂になりました。(ちなみに海星学院は、カトリック系であり、また今年の全国高校野球選抜校だったようです。)その下り坂も石畳であり、後で知ったのですが、オランダ坂とは、このような石畳の坂道一体のことを指していたようであり、活水女学院のところだけではないそうです。

バーチャル観光「オランダ坂」
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/main/virtual/holland/index.html

 そしてその坂道を降りるところに、赤や原色の屋根を見つけることができますが、それが孔子廟であり、後で行きます。けれども、坂道の途中に、「東山手洋風住宅群」があります。これは当時立てられた様式の住まいをそのまま保存して、それを当時の山手町の資料館にしているところです。入ると、そこで働いている人に声をかけられて、この山手地区一帯の説明をしてくださいました。


孔子廟

 東山手は、このように異国情緒あふれる地域ですが、さらに華僑の影響も見ることができます。皆さんご存知の「長崎ちゃんぽん」は中国人が発明した麺ですが、長崎は中国との貿易も盛んだったようです。

 そこで孔子廟が明治のときに建てられたそうです。左右に72人の賢人像が並んでいて、また論語の文句が詰まっています。(中学高校の国語の時間を思い出しました。^^;)それから正面に、孔子像を祭る廟があり、そこに線香も立てられています。仏教だけでなく、儒教も同じようなことをしているんですね。

 ただ、実際にだれかが参拝している様子はほとんどなく、建物も非常に新しいものでした。そして、孔子廟の裏には、中国歴代博物館が併設されています。その中にも入りましたが、かなりの大きさで、中国の壮大な歴史を展示物とともに紹介しています。中国に興味のある人なら、かなり見ごたえがあるのではないかと思いました。


再び南山手地区へ

 前日も、大浦天主堂とグラバー園がある南山手地区に行ったのですが、見損なった南山手十六番館を見ようと思い、孔子廟から徒歩で南山手に行きました。路面電車の終点の石橋駅を横切り、右に行けば大浦天主堂下駅なのですが、そちらに行かず、左に曲がりました。・・・そうそう、このT字路のところで、原爆投下の時刻(たしか、午前11時2分だったでしょうか)になり、サイレンが鳴り響きました。一分間の黙祷をささげてください、との放送が流れました。通りを歩いているおばさん、お店の人が頭を垂れて祈っている姿を見て、「ああ、こうやって長崎の人たちには、原爆のことを思い出し、その記憶を体に沁みこませているのだ。」と思いました。当然ながら、日本のほかの地域で育っている人々に比べて、身近に感じ取っているのだなあと思いました。

 左に曲がった後に、しばらくして右の小道に入りました。ここから再び上り坂になります。坂に建てられている住宅の間を通り過ぎながら、地図を見ると、大浦天主堂の横に出てくるはずの道を歩きました。

 迷うことなく大浦天主堂前に到着して、そこを通り過ぎて、さらに昨日下った坂道を上り、南山手十六番館に到着しました。ここは1階がべっ甲などの売り場になっており、地下が資料館でした。入館料が400円とのことで、ちょっと高いなと思いましたが、内容はかなり貧しいです。というか、外国人居留地であったころの遺品が主要な展示物でした。けれども、隠れキリシタンのマリヤ像がたくさんあり、そしてここに来た収穫があったと思ったのは、キリシタンが使っていたとされる一つの小さな鞭でした。説明には、「これによって、性欲を打ちたたいていた。」とのことです。そうか、彼らも御霊に従うために、体を打ちたたいていたのだ、しかも文字通り、パウロの言葉に従っていたのだと思い、感慨深くなりました。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(1コリント9:27)


四海楼

 十六番館を出てから、南山手地区の住宅街を通りました。そこから大浦天主堂下のバス停のすぐそばにある、長崎ちゃんぽんのレストラン「四海楼」に入りました。長崎に来てから、お昼と夕食でいつも長崎ちゃんぽんを食べていました。でも、ぜんぜん飽きませんでした。ボリュームがあって、食べ応えがあります。そしてここは、何ていったって、日本で長崎ちゃんぽんが発信されたお店です。5階が長崎市を展望できるレストランになっていて、長崎の景観を見ながら、ちゃんぽんを食べました。

 2階には、長崎ちゃんぽん博物館なるものがあり、そこに入ると、ちゃんぽんを出し始めた人のことについて説明されていました。


香港上海銀行

 ちゃんぽんを食べたら、すぐそばにある、旧香港上海銀行長崎支店記念館に行きました。香港上海銀行は、たえこがアメリカにいた時に使っていた銀行だったことを思い出して行きました。中は資料館になっており、当時の銀行業務のほかに、当時の上海との航行についても紹介されていました。


一挙に浦上へ

 たえこに落ち合う時間がまだかなりたくさんあります。他にどこに行こうかと香港上海銀行の中で、椅子に座って悩んでいました。では、昨日見損なった如己堂に行こうと思い、大浦海岸通り駅から電車に乗って、前日降りた松山駅のもう一つ先の大橋町駅まで行きました。降りたら、徒歩でだいたい7分ぐらいでしょうか、如己堂があります。

 如己堂は、この旅行記にも何度となく言及した永井隆氏が住んでいた畳二畳の家です。
http://www.d6.dion.ne.jp/~kcona/nagasaki/nyokodou/nyokodou.htm

 これは、「汝を己の如く愛せ」というイエスさまの言葉から付けられたそうです。実際に彼が寝て、また執筆活動を続けた、この小さな部屋がまだ残っています。そこで数分ほど、縁軒に腰を下ろして中を見ました。その木のぬくもりは、僕が小さいころに住んでいた木造の家と同じで、なつかしい思いがしました。(ちょっと昔はありましたよね、今は本当に少ないですが。)

 そして永井隆記念館の中に入りましたが、そこで見たビデオで、彼の生い立ちと、業績を知ることができました。彼は成人になってから、信者になっています。島根県出身で、長崎医大に入り、それから軍医として中国へ、日本に帰国してから間もなく、浦上天主堂で洗礼を受けています。

 長崎で勉強していたときに、森山家の実家に下宿していたそうです。その時に初めて、信者たちの暮らしを見ることになりました。それは、朝から晩まで「祈り」の生活であり、食前感謝の祈りはもちろんのこと、農作業の前にも祈り、また天主堂の鐘が鳴るときにも、祈りをささげていたようで、永井氏は、このときに求道を始めたようです。マルクス理論など、平和と理想についていろいろ考えて議論していたが、ここにまさに、その理想が実現しているではないか、と思ったそうです。(このときの浦上は、「ミレーの名作『晩鐘』そのままの風景が、毎日、普通のこととして見られた。」と本島元長崎市長が言っています。)

 そして、森山家の娘、緑さんが永井氏が軍医として中国にいるときに、カトリックの公理要綱を送ったそうで、それによって、信仰へと導かれたようです。

 彼は放射線臨床医師でしたが、戦時中の物資不足のため、レントゲンをフィルムに焼き付けないで、直視する方法を取ったそうです。そのために放射線にさらされなければならないことを知っていましたが、案の定、白血病になってしまいました。

 そしてあの原爆です。長崎医大は爆心地のすぐそばにあり、もろその爆風を受けました。いのちは助かったようですが、他に生き残っている看護婦らとともに、三日にわたる応急処置作業に当たりました。そして自宅に戻りましたが、妻の緑さんは被爆死していました。

「3日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方、私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。

焼けたバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。」
(永井隆著「ロザリオの鎖」から原文の一部を省略記載)

 そして彼は、浦上天主堂の信者から、如己堂が与えられ、残りの余生6年間を、そこで過ごします。主に執筆作業を行なっていたそうです。

 一般的には、彼が「愛」という言葉によって、人々を感動させる言葉を残したという業績なのでしょうが、私が感動したのは、永井氏を信仰に至らせる、浦上キリシタンの生活の証しがあったことと、永井氏が、他の被爆者・平和主義者と異なり、そこに恨みや怒り、絶望の声が聞こえなかったことです。彼が「原爆は神のみ摂理、神の恵み、神に感謝。」という、平和の言葉を語ることができたことです。また、神のさばきとして受け止めることができるほど、神の前にへりくだり、悔い改めを行なうことができたことです。原爆について長年考えてきたことが、すでに被爆者でキリスト者の口から、はっきりとした言葉で語られていることを知り、「ここに日本の希望と救いがある」と思いました。


ホテルへ

 永井隆記念館を見終わり、徒歩で平和公園に行き、そこを通り過ぎました。平和記念式典のテントなどが、解体作業を始めていました。そして松山駅から乗車して、築町に行き、ホテルに行きました。すぐそばに、バスターミナルがあります。長崎空港直行バスに乗り、空港で夕食を取り、飛行機に乗り、これで旅は終わりです。


まとめ

 この旅行は、自分の頭の中で、一つの希望を与えてくれました。これまで日本では、何一つ、福音宣教の実を結ばせることがなかった土地であると思っていたのが、いや昔、リバイバルが起こった地なのだ、ということです。そして人々が一般に抱いている「日本人」と「日本」のイメージは、実は時の為政者によって作られたもので、それをみな、「日本人だ」と言っていることです。でもそれは皮を剥がすと「反キリスト教人」とも言える、作り出されたイメージでしかありません。

 日本人というのを、もっと肯定的、積極的に見ることができます。ヤジロウが言ったように、「理性で国を治めている人たち」とも言えます。不合理でなければ、それを受け入れる国でした。海外との貿易も、またキリスト教も受け入れました。既得権益をひどく憎んだ織田信長がおり、十字架磔により、さらにキリシタンをふやすために神に用いられた豊臣秀吉がおり、そして、永遠のいのちのために、この世のいのちを捨てることは道理にかなっていると確信した、一般のキリシタンたちがいました。考えが、いわゆる「日本人」よりも、もっと自由だったのです。いや、もともとそれが「日本人」だったかもしれません。

 一人でも多くの人がベレヤのような人になってくれることを願います。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11)


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