コリント人への第一の手紙1章 「十字架のことば」

アウトライン

1A あいさつの中に 1−9
2A 一致への願いの中に 10−17
3A 神の知恵として 18−31
   1B 救いの力 18−25
   2B 主のみを誇らせる 26−31

本文

 コリント人への第一の手紙をお開きください。今日から、コリント人への第一の手紙を学びます。ここでのテーマは、「十字架のことば」です。パウロは1章18節において、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と言っています。

 前回まで私たちは、ローマ人への手紙を学びました。そのエンディングは、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ16:27」でありました。神を知恵に富む方としてパウロはほめたたえています。この神の知恵は、キリストが十字架につけられたところに現われていました。神がキリストをなだめの供え物とされることによって、信じる者は義と認められることができます。また、私たちはキリストとともに十字架につけられたことによって、もはや罪に支配されず、神に従うことができるようになりました。肉の弱さのために律法を守り行なうことができなかったのですが、神は、御子を肉の姿でこの世に遣わし、その肉において律法が要求する処罰を受けるようにされたのです。また、キリストが死なれたことによって、救いがイスラエル人だけではなく異邦人にも及びました。このように、パウロは、ローマ人への手紙において、何度も何度も、キリストが十字架につけられたところに立ち戻って、私たちが罪からどのように救われているのかを説明しています。キリストの十字架には、神の知恵が凝縮されているのです。

 パウロは、コリント人への第一の手紙において、この神の知恵であるキリストの十字架について語ります。コリントにある教会には仲間割れという問題がありましたが、その問題に対処するために、キリストの十字架を引き合いに出しています。それを通して、彼らがいかに愚かなことをしているか、誤ったことを行なっているかを知らせたかったのです。

 ところで、パウロは、ローマ人への手紙をコリントにある家の教会から執筆しましていました。というのは、コリントにある教会は、パウロが始めたものだからです。パウロの宣教は、アンテオケの教会から遣わされて、小アジヤの地域から始まりました。二回目の宣教旅行のさい、御霊によってそれ以上のアジヤ伝道を禁じられ、さらにマケドニヤ人が助けを求める幻を見ました。そこからパウロは、当初考えていなかったヨーロッパへの宣教へと導かれました。パウロの一行は、迫害と困難によって西へ西へと追いやられて行きましたが、とうとうギリシヤにあるコリントの町に来ました。そこで、プリスキラとアクラとともに天幕作りをしながら、主のことばを語りつづけました。すると、大ぜいの人が主を信じました。パウロは1年半そこにとどまって、それからエルサレムに行って、アンテオケに帰りました。またアジヤの地域に出かけましたが、今度はエペソの町に二年ぐらいとどまりました。

 パウロがそこにいるとき、パウロによって建てられた、コリントにある教会から、何人かの者が来て、そこで仲間割れや争いの問題が起こっていることをパウロに伝えました。そこでパウロは、彼らの誤りについて正すために、この手紙を書いたのです。ですから、ローマにいる聖徒たちの多くをパウロは見ていなかったのですが、パウロはコリントにいる人々のことをよく知っていました。そのため、ローマ人への手紙は純粋に、福音の教えが書かれていましたが、コリント人への手紙は、個人的であり、具体的な問題について取り扱っています。私たちは、ローマ人への手紙をとおして、福音についてその内容を知ることができましたが、だからといって、教会における具体的な事柄に対して適切に対応しているわけではありません。コリントにあった問題をとおして、私たち教会が、福音の光に照らして、どのような部分が誤っているのかを神に示していただきたいと願います。


1A あいさつの中に 1−9
 それでは本文に入りたいと思います。

1B はじめに 1−3
 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。

 パウロは、手紙の差出人を明らかにしています。パウロ自身とソステネという人が差出人です。パウロは、自分のことを「神のみこころによって使徒とされた」と言っています。自分で志願して使徒になったのではなく、神のみこころによって使徒となりました。私たちも同じように、神のみこころが自分のうちに実現することを願わなければいけません。自分が行ないたいことがいっぱいあったとしても、神が行なわれたいことが何かを求めなければいけません。新しい一日は、神のみこころが自分の身に起こりますように、という祈りで始めなければいけません。そして、パウロはソステネという人を自分の兄弟であると言っています。このソステネという名前は、使徒行伝
18章に出てきますが、ソステネは会堂管理者でパウロをローマの地方総督に訴えています。彼はパウロの敵だったのです。もしこのソステネと、兄弟ソステネが同一人物であるならば、私たちは、神がなさるわざをほめたたえざるを得ません。かつて敵であった者を、神は、自分の親愛なる友にまですることができます。神の福音は、人をこのように180度変えてしまうのです。

 パウロは、この手紙の受取人を「コリントの教会」と呼ばずに、「神の教会」と呼んでいます。次のようにも呼んでいます。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

 コリントにいる人たちだけが主の御名を呼び求めているのではなく、至るところで、いろいろな人が呼び求めています。また、主イエス・キリストは、コリントにいる人たちだけの主ではなく、すべての人々の主であると言っています。パウロがこのように話しているのは、コリントにある教会に分派の問題があったからです。特別なグループを作って、一部の人々の仲間を作り、閉鎖的で排他的な関係を作り出していたからです。けれども、パウロは、主の御名を呼び求めるすべての人のものであることを教えています。教会は、御霊がすべての人に注がれたことによって始まりました。老人にも青年にも注がれました。男にも女にも注がれました。また、イスラエル人だけではなく異邦人にも注がれました。神の御前には、すべての人が罪に定められています。けれども、キリストをとおして、神の恵みはすべての人に及んでいます。ですから、私たちも、自分の仲間だけではなく、あらゆる人々を包容する福音を信じなければいけません。私たちの教会は、弱い人も強い人も、どのような人種でも、富んでいる人も貧しい人も、どのような人であっても、主にあって受け入れなければいけません。


 そしてパウロは、コリントにいる人々を、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と呼んでいます。これは、コリントの町が、不品行と汚れに満ちあふれていたことを知ると、とても意義深い言葉であることがわかります。コリントは、貿易中継都市だったため、水夫たちが夜遊びをする町となってしまいました。当時、「コリント人」という言葉は、「飲んだくれ」と同義語でありました。神殿があって、そこには女祭司がいましたが、彼女たちは町に行って、売春をすることにより、自分たちの神に奉仕していたのです。このような汚れた町の中で、キリスト・イエスにあって聖徒として召され、聖なる者とされた人々がいたのです。神は、どのようなひどい状況の中でも、人をご自分に立ち上がらせる力をお持ちです。「聖なるものとされる」とは、神に用いられるために、別けられるという意味があります。私たちはもはや自分のものではなく、神のものです。神のために、自分の時間と能力を用います。

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 パウロの、典型的なあいさつです。恵みはギリシヤ人のあいさつで「カリス」です。平安はヘブル人のあいさつで「シャローム」です。この二つのあいさつを組み合わせて、あいさつしました。ところで、このあいさつが、「恵みと平安」という順番になっているが、「平安と恵み」となっていないことに注目してください。神の恵みがあって、それから神の平安があるのです。私たちは、自分の努力や行ないによって神に好意を得ることを求めると、神の平安を手に入れることはできません。いつも、失敗したときに自分は神に怒られているという感覚を持ちます。自分の行ないではなく、神の一方的なあわれみによって自分が立っていることを知るときに、私たちは平安でいられるのです。ですから、パウロは「恵みと平安」と言いました。


2B 神への感謝 4−9
 ところで、1節から3節において、「イエス・キリスト」という言葉が4回も出てきていることに注目してください。次から、パウロは、コリントにいる人たちについて神に感謝しています。その中でも、同じように、キリストの御名が言及されていることに注目してください。

 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

 パウロは、神の恵みがコリント人に与えられていることを、感謝しました。けれども、神の恵みは、キリスト・イエスによって与えられています。恵みとは、私たちが受けるに値しないものを受けることを意味します。私たちは神のさばきを受けて当然なのに、神の祝福を受けるようにされました。それは、キリスト・イエスが私たちの罪のために死んでくださり、神が私たちをキリストにあって正しいと認めてくださったからです。ですから、キリストによって神の恵みが与えられます。

 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

 
すべてのことが、キリストにあって豊かな者とされています。私たちを豊かにする知識や知恵は、すべてキリストのうちに隠されています。

 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
御霊によって、キリストがどのような方であることを示されました。その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。

 
キリストよって、賜物が欠けることがありません。御霊の賜物については、
12章において詳しく出てきます。そして、コリント人は、熱心に主イエス・キリストを待ち望んでいました。神は、いかなる時代においても、クリスチャンが主イエス・キリストが再び来られることを待ち望むように願われています。キリストの再臨は、千年後に戻られるかもしれない、という類いのものではなく、今すぐにでも来られるかもしれないという切実さをもったものです。

 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

 主イエス・キリストを待ち望むだけではなく、今、私たちは主イエス・キリストとの交わりに入れられました。交わりとは、単にお話しするとか以上のものです。もっともっと深くて親密な交わりであり、一体となるような交わりです。私たちは、人間同士でも交わりをすることは難しいです。お互いは不完全な存在なので、相手に自分のすべてを分かち合うことは危険だと思って、なかなか分かち合うことはできません。ましてや、神は聖い方ですから、私たちと交わることなど決してなさらないはずです。しかし、神は主イエス・キリストにあって、私たちと交わってくださっています。一体となるような、深い交わりを私たちに提供してくださいました。


2A 一致への願いの中に 10−17
 このように、すべてが主イエス・キリストにあって成り立っているのです。キリストが中心なのです。私たち人間が行なっていることが大事なのではなく、キリストが行なわれたことが大事であります。

1B 仲間割れの現状 10−13
 そこでパウロは、コリントにあった問題について語り始めます。さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

 パウロは、主イエス・キリストの御名によって、彼らが一致することを願っています。私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。私たちの目は、キリストに向けられているのですから、同じキリストを見つめている人たちとの間には、同じ思いと同じ判断が与えられるのです。これがクリスチャンの一致です。クリスチャンの一致とは、ロボットのように、すべてのことにおいて同じように考え、同じように行動しなければならないのではありません。そうではなく、イエス・キリストという生けるお方と交わるところにおいて一つとなっているのです。ですから、もちろん、イエス・キリストがだれであるかということについて意見が異なれば、その人とは交わることはできません。イエスさまが神の子キリストであること。イエスさまが、聖書に書かれてあるとおりに、私たちの罪のために死に、三日目によみがえられたこと。これらのことを信じているのであれば、私たちの間に麗しい御霊の一致が与えられるのです。


 けれども、コリントにある教会はそうではありませんでした。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。クロエの家で行なわれている教会の人たちがパウロのこのことを伝えました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。

 彼らは、キリストではなくて、教会の指導者を中心にして行動していました。各々がキリストに結びつけられた者であるのに、教会の指導者に追従しようと考えたのです。そのために、ある者はパウロにつき、ある者はアポロに、ある者はペテロに、そしてある者は、もっとも始末が悪いですがキリストにつくと言いました。現代においては、さまざまな教団や教派があります。そして、私は神がそれを許容してくださっていると信じています。いろいろなかたちの礼拝のしかたがあり、いろいろな方法で福音宣教をすることにおいて、似たような考えを持った人たちが集まって主にお仕えすることはすばらしいことです。けれども、もし、私たちが教団や教派の違い、神学的な意見の相違によって互いに交わらなかったり、他の考えの人たちを自分たちの交わりにするのであれば、それは間違っています。私はパウロにつく、と言っている人と変わらなくなるのです。


 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。パウロはこれから、バプテスマを例にして、その奉仕がキリストを中心としていることを教えます。

2B パウロの奉仕 14−17
 私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。

 
クリスポとガイオ、そしてステパナの家族は、コリントにおいて初めに主を信じた人たちであります。その後に主を信じた人がいれば、パウロはテモテやシラス、そしてすでに信者となった人にバプテスマを授けることを任せました。これは、バプテスマが重要ではない、ということではありません。むしろ、バプテスマを授けなさいと主イエスさまは命令されており、パウロ自身、私たちはキリストにつくバプテスマを受けた、と言っています。ここでパウロが言っていることは、バプテスマをパウロが授けていたならば、「私はパウロからバプテスマを受けた」という人が現われて、新たな分派を作ったであろうと考えたからです。それでバプテスマを授けなかったことを感謝しています。


 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

 
パウロはバプテスマを授けたのではなく、福音を語りました。その福音とはキリストご自身であり、また十字架につけられたキリストでありました。


3A 神の知恵として 18−31
 そこでパウロは、コリントにあった仲間割れの原因となった、この世の知恵について語り始めます。彼らがキリストから目を離し、人間的な知恵や知識により頼んだので、彼らの間に分派が起こってしまったのです。ですから、この世の知恵がいかにむなしいものか、いかに愚かなものであるかを示さなければなりませんでした。そこで次のように言います。

1B 救いの力 18−25
1C この世の知恵の愚かさ 18−21
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 十字架のことば、これは、むろんキリストご自身についてのことばであり、またキリストが十字架につけられて、よみがえったことについてのことばです。そのことばは、確かにこの世の知恵では愚かに聞こえるだろうが、けれども救いをもたらす神の力であると、パウロは言っています。この世の知恵によっては、何一つ人を罪から救い出すことはできません。けれども、十字架のことばを聞いて信じた人は、確かに罪から救われて、その人生と生活が変わります。この世の知恵のことばは、雄弁で、聞きざわりがよいですが、そこには力がないのです。しかし、愚かなように聞こえる福音は、力があるのです。

 アメリカにおいて、不可知論者たちが聖書に批評を与えて、その不合理性、非科学性などろ論じる会があるそうです。彼らは、一度、クリスチャンの学者を招こうとしました。「あなたは、聖書が真理であると、どのように証明できますか。」とクリスチャンの学者にチャレンジしました。すると、そのクリスチャンは、「よろしい。証拠を持ってきましょう。麻薬におぼれて、再起不能になった人たちが、キリストを信じて完全に直った人が何百人、何千人といます。離婚をして人生が滅茶苦茶になった人が、キリストを信じて、前の妻とよりを戻すことができた人たちも何千人もいます。自殺願望の人が、今は希望に輝いて生きています。そのような人々が、何百、何千人といます。」その不可知論者のグループは、そのことを聞いて、クリスチャン学者を招かなかったそうです。十字架のことばは救いをもたらす神の力なのです。


 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 パウロは、宣教のことばが愚かに聞こえることを認めています。しかし、そのような愚かであるはずの福音のことばによって、大ぜいの人々が救いにあずかっています。つまり、この世の知恵は、その愚かであるはずの宣教のことばよりももっと愚かで、むなしいことになるのです。神は、この世の知恵がいかにむなしいかを知らせようとして、あえて、キリストの十字架による救いをお定めになったのです。子どもでさえも、この真理を悟ることができます。けれども、大学教授であっても、自分の知性によって神の真理に至ることができないのです。


2C ユダヤ人とギリシヤ人が求めるもの 22−25
 そして、パウロは、ユダヤ人とギリシヤ人あるいは異邦人が求めることを引き合いに出して、彼らにとってキリストの十字架がどのように見えるのかを話します。

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。


 ユダヤ人は、しるしを追及しました。目に見えるものによって、目に見えない神が生きておられることを知ろうとしていました。モーセによって、紅海が分かれたこと。マナが天から降ったこと。また、ヨシュアにおいて、ヨルダン川がせき止められました。日がとどまりました。エリヤやエリシャをとおして、数々の奇蹟としるしが行なわれました。ですから、ユダヤ人は、これらのしるしによって、生ける神とメシヤを知ろうとしたのです。その一方、ギリシヤ人は知恵を求めます。この世界を動かしている根源について考えました。なぜ、今あることがそうなっているのかについて答えを求めました。しるしではなく、今あるものがなんであるのかについて知ろうとしたのです。けれども、ユダヤ人にしても、ギリシヤ人にしても、十字架につけられたキリストは、彼らが求めているものを満足させることはありません。


 ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

 
キリストの十字架は、神のしるしなどとは、到底思えない代物です。だからユダヤ人はつまずきました。彼らは、メシヤが来られて、すべてのものを建て直し、神の国を立ててくださると信じていました。イエスが現われて、奇蹟を行なわれていたので、ユダヤ人たちはこのイエスがローマ帝国を倒して、神の国を始められると期待したのです。ところが、ローマを倒すどころか、ローマ人によって死刑に処せられてしまったので、彼らはつまずいたのです。その一方ギリシヤ人にとっては、キリストの十字架は愚かでした。ギリシヤ人にとって、神はどこか遠くにいて、人間の世界から離れて存在していなければなりませんでした。隔絶した存在ならば、人間から隔絶していなければならないのです。けれども、神は人間の世界に深く関わりを持たれ、そしてなんと人の姿をとって現われました。全能者であるはずのキリストが十字架につけられるなど、彼らの論理では到底、受け入れられるものではなかったのです。


 けれども、パウロは、「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」と言っています。ギリシヤ人であっても、ユダヤ人であっても、救われた人々は、キリストこそが知恵であり、力であることを知るのです。キリストの十字架のみわざによって、神は、悪魔の支配を徹底的に打ち滅ぼしてしまわれました。また、キリストの十字架のみわざによって、神が人と交わりと持たれるという不可能なことを可能にしました。キリストが愚かなどころか、キリストこそ神の知恵であり、神の力なのです。

 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 キリスト
の十字架は、愚かに見えますが、この世のもっとも優れた知恵によっても知ることができないほど知恵に富んでいます。また、キリストの十字架は弱々しく見えますが、全世界を支配する力よりも力強いのです。ですから、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。


2B 主のみを誇らせる 26−31
 パウロは次に、この世の知恵だけではなく、この世の知者もむなしくされていることを述べます。

1C 神が選ばれた者 26−29
 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 
クリスチャンの中に、博士号を取得している人はそれほど多くはありません。政治家も少ないですね。会社の社長もそんなにいません。

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 救いに選ばれた私たちは、知恵ある人、力ある人ではなく、ふつうの市民です。いや、むしろ愚かな者、この世の弱い者が多く選ばれています。

 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 
神は、見下されている人や取るに足りない人たちをお救いになることによって、この世の知者がいかにむなしく、この世の権力者がいかに無力であるかをお示しになっています。だれも、自分の知恵や権力を誇ることができないようにされたのです。コリント人が分裂していた問題は、プライドです。キリスト以外に誇りとしていたものがあったので、一つになれていなかったのです。神は、そのようなプライドを打ち砕くために、愚かな者、弱い者、さげすまれている者、見下されている者を選ばれたのです。


2C キリストのうちにある者 30−31
 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 しかし、という言葉が大事です。他の人たちはいろいろな評価をするが、あなたがたはキリストのうちにあります、と言っています。「キリスト・イエスのうちにある」という言葉はとても大切です。私たちはキリストに近づいただけではなく、キリストにしっかりと結びつけられ、キリストのうちにいるようにまでされた者となりました。ですから、必要な知恵や力はキリストのうちに隠されているのです。キリストは、私たちにとってのすべてなのです。キリストが義となり、聖めとなり、贖いとになられました。私たちは、神から正しく認められる必要がありますが、もはや自分で正しくなろうとするのではなく、キリストが私たちの義となりました。また、聖めも、自分自身で聖い生き方をしようとするのではなく、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことによって、もたらされました。贖いも同じです。自分で、自分がしたことの代償を支払うのではなく、キリストが支払ってくださったのです。


 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

 キリストのうちにある者は、キリスト以外に誇ることができません。自分が愛する牧師でも、自分の教会でも、教団でもありません。ただ、キリストがなされたみわざのゆえに、それに感謝して、キリストを見上げつづけていくのです。この十字架のことばによって、私たちは豊かな者となり、神の恵みを受け、一つとなることができ、ただ、キリストを誇り、キリストをあがめることができるのです。みなさんは、主のみを誇っているでしょうか。自分がキリスト・イエスのうちにいることを、本当に理解しているでしょうか。自分のアイデンティティーを、教会に属していること、奉仕をしていること、つまりキリスト以外の何かに求めていないでしょうか。私たちは、教会との交わりではなく、主イエス・キリストとの交わりに入れられました。この方にあって、私たちは満ち満ちているのです。お祈りしましょう。



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