アウトライン
1A 教訓 1−13
1B 内容 − 荒野での死 1−5
2B 原因 − むさぼり 6−11
3B 方法 − 注意 12−13
2A 悪霊との交わり 14−22
1B 問題点 − 食事の分け前 14−18
2B 結果 − 主のねたみ 19−22
3A 他人の良心 23−33
1B 内容 − 不信者との接触 23−30
1C 原則 − 「すべてが益と限らない」 23−24
2C 理由 − 偶像礼拝の知識 25−30
2B 目的 − 神の栄光 31−33
本文
コリント人への第一の手紙10章を開いてください。今日のメッセージ題は、「偶像礼拝を避けなさい。」です。14節には、「私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」とパウロが言っています。
パウロは前の章で、自分のからだを打ちたたいて従わせる、という話をしました。オリンピックの選手が冠を受けるために自制して、鍛錬するように、福音を宣べ伝える者も、肉の欲に陥らないように気をつけます。パウロはこの章においても、同じことを話します。8章で取り上げた偶像礼拝についての問題は肉の欲の一つであり、これを避けなければいけないと教えます。
1A 教訓 1−13
そこでパウロは、教訓としてイスラエルの歴史があることをコリントの人たちに示します。
1B 内容 − 荒野での死 1−5
そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
パウロは、イスラエル人がエジプトから脱出したときのことを話しています。雲の下というのは、イスラエルがエジプトから出て行くときに、雲の柱が彼らを導きました。そして、彼らはモーセに率いられて、分かれた紅海の中を歩いて行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。
御霊の食べ物とは、天から下ったマナのことであり、朝ごとに白い霜のような細かいものが降りていました。それを食べてイスラエルは荒野の旅を生き長らえたのです。
というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
岩から水を飲んだとありますが、これは神がモーセに対して、「岩を杖で打ちなさい。」と命じられたので、モーセが打つと、水が岩から出てきました。
にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
ここがパウロがコリント人に訴えたいところです。イスラエルは、雲の柱、紅海が分かれること、マナ、岩からの水など、イスラエル人はさまざまなすばらしい神のみわざの中にいました。このようなすばらしいみわざの中にいたのにも関わらず、最後は滅ぼされてしまったという事実です。イスラエル人の20歳以上の者たちは40年間荒野をさまよって、荒野の中で死に絶えてしまいました。ところで、パウロは、イスラエルの歴史を、クリスチャンに生活になぞらえて語っていることに気づいてください。雲と海とでモーセにつくバプテスマ、御霊の食べ物と飲み物、そして岩なるキリストです。イスラエル民族が誕生するところの歴史は、まさに私たちクリスチャンがどのように救われたのかを示す予表であります。エジプトにての奴隷状態は、私たちが罪の奴隷であったことを表しています。そして、そこから脱出するということは、罪から解放されたことを表します。海を渡るのは、古い人に死に、新しい人によって歩むという水のバプテスマを表しています。そして、マナや岩からの水は、霊的な食物、御霊の働きを表しています。実にコリントにいる人たちは、御霊の賜物に欠けたところがありませんでした。そしてモーセが岩を打ったとき、それはキリストが打たれた、十字架につけられたことを意味します。打たれたキリストによって、クリスチャンはいのちの水、聖霊をいただくことができたのです。
このような、キリストにあるすばらしい体験を持っていながら、御霊の賜物を持っていながら、コリントの人たちは偶像礼拝などの肉の行ないに支配されていました。そこでパウロは、警告しているのです。あなたがたもイスラエルの人たちのように、すばらしい体験をしながらも肉の行ないによって滅んでしまいますよ、という警告です。
2B 原因 − むさぼり 6−11
具体的に、イスラエルがどのようなことを行なって滅ぼされたのかをパウロは説明します。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
彼らが犯した過ちはいくつかりました。一つ目はむさぼりです。彼らがシナイ山から出発して、約束の地に向かっているときに、彼らは激しい欲望にかられて、「ああ、肉が食べたい。エジプトでは、魚も食べた。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。このマナにはあきあきした。」と言いました。私は、彼らの気持ちがわからないでもありません。毎日、同じ食べ物ばかり食べていては、飽きてしまうのではないか、と思うからです。けれども、彼らはその代わりに、パウロが言っているように御霊の食べ物を食べていました。神の御霊の働き、神のいのちを経験していました。だから彼らは、物質的には乏しかったけれども、霊的には豊かにされていたのです。けれども、肉の欲望にかられて、むさぼりの罪を犯してしまいました。
あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
パウロが挙げている次の過ちは、偶像崇拝です。モーセがシナイ山にいて、神の律法を受けているときに、すでに40日が経っていました。イスラエル人はシナイ山のふもとで待っていましたが、モーセが一向に戻ってこないので不安になりました。自分たちはこの荒野で何をしているのか。何のためにこんなところにいるのか、と不安になったに違いありません。そこでアロンに金の子牛を造るように要求したのです。彼らは金の子牛の回りで、宴会騒ぎを行ない、その偶像を拝みました。
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
次に、パウロが取り上げているイスラエル人の行ないは、姦淫です。バラクとバラムのことを思い出してください。モアブ人の王バラクは、イスラエル人がヨルダン川の東にある王たちを倒していくのを見て、恐れおののきました。バラクは、まじない師であるバラムを雇って、彼らをのろってほしいと頼みました。けれども、主がバラムに、イスラエルをのろうのを禁じられました。バラムは祝福の預言しか語ることができませんでした。そこでバラムは、一つの案を考え出しました。「主はイスラエルを祝福することを定めておられる。彼らをのろうことはできまい。けれども、一つ方法がある。モアブ人の娘たちを、イスラエルの宿営に送り込みなさい。イスラエル人の男たちと戯れるようにさせ、そしてモアブの神を拝ませるようにしなさい。」こうしてバラクはモアブ人の娘たちをイスラエルの宿営に送り込み、そのため、なんと一日に2万3千人のイスラエル人が姦淫の罪によって死んでしまったのです。
パウロは続けて、イスラエルが行ったことを取り上げます。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
彼らは主を試みました。荒野の旅をして40年目になったときのことです。大人のイスラエル人たちはほとんど死に絶えていました。若い世代のイスラエル人たちだったのですが、彼らは主を試みたのです。自分の親たちが主に対して文句を言ったように、自分たちも文句を言ってみようではないか。そうすれば、何かまた不思議なことをされるに違いない、と思ったかもしれません。けれども、そのようにして試みたので、主は彼らに蛇を送られました。そして多くの者が蛇によって死にました。
そして最後に、パウロは、彼らがつぶやいたことを指摘しています。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
これはは、コラがモーセとアロンに反抗して、彼の立っている地が割れて、生きたままよみに下った後に起こりました。イスラエルの民は、「モーセとアロンが、主の民を殺した。」とつぶやきました。すると、イスラエルの宿営で、人々が次々と倒れて死んでいきました。つぶやきによって、滅ぼされてしまったのです。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
ここでパウロは、イスラエルの民に起こったことを、コリントにいる人たち、また私たちクリスチャンすべてに当てはめています。これらは昔に起こったことだけれども、私たちも抱えている問題ですよ、とパウロは言っています。イスラエルは、荒野の中にいたように、私たちも、長距離ランナーとして時に試練を受けます。自制して、自分のからだを打ちたたいて従わせ、鍛錬に鍛錬を重ねながら走っていると、疲れてきます。嫌になってきます。さじを投げて、やめたいと思ってしまいます。イスラエル人がむさぼったように、私たちも、この世の楽しみの中にどっぷりつかりたいと思ってしまいます。目に見えない神ではなく、目に見えるもの、かたちあるものによりすがりたいと思ってしまいます。主を試みたいとも思ってしまうし、つぶやきたくもなります。けれども、パウロは、それでも走り抜きなさい。忍耐を持って、ゴール地点まで行きなさい、と励ましているのです。イスラエル人のように、途中でやめてしまうようなことがないように、と戒めています。
そして、パウロは、「世の終わり」と言っていますが、私たちクリスチャンには、精算の時が定められています。イスラエル人は、荒野においてさばかれましたが、私たちクリスチャンは、主が再び来られたとき、私たちが天に引き上げられたときにさばかれます。ですから、パウロは、罪に陥らないようにと戒めているのです。
3B 方法 − 注意 12−13
そこでパウロは、私たちが誘惑に陥らないための方法を教えてくれています。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
パウロは、「気をつけなさい」と勧めています。肉の行ないに陥らないように気をつけます。自分の心を見張っておくのです。また、自分の行動を見張ります。ここで大切なのは、「立っていると思う者は」とパウロが言っていることです。「立っている者は気をつけなさい。」ではなく、「立っていると思う者」と言っています。つまり、本当は倒れそうなのに、自分は立っていると思っているのです。ここが大事です。私たちが、自分は大丈夫であると思っているとき、そのときが一番危ないのです。けれども、自分も同じ過ちを犯してしまうかもしれない、自分も弱い存在だ、ということがわかれば分かるほど、私たちは主の力と知恵に拠り頼みます。ですから、立っていると思っているときにこそ、私たちは気をつけなければならないのです。
次に、試練や誘惑についての正しい見方を教えています。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
パウロはここで三つのことを教えています。一つは、自分が受ける試練や誘惑は、自分だけのものではない、だれでも受けているものだ、ということです。私たちは試練を受けると、とかくこれは自分だけに起こっている災難だ、だれも分かってくれない、と思ってしまいます。けれども、神は、「正しく見なさい。他にもたくさん、あなたのようなところを通っている人はたくさんいるのだよ。」と教えてくださいます。二つ目に、神は、耐えることのできない試練を与えることはない、ということです。私たちは、これは耐えられない、と思ってしまいます。けれども、それは間違いです。神は、私たちが耐えられない試練を与えられません。そして、三つ目に、耐えることができるように脱出の道を備えていてくださいます。この正しい見方、また試練にどのように耐えるかの方法を、私たちも知れば、私たちが罪を犯して倒れてしまうことはありません。
2A 悪霊との交わり 14−22
そしてパウロは、次の訓戒を述べます。
1B 問題点 − 食事の分け前 14−18
ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
パウロは、コリントにいる人々にイスラエルの例を出したのは、コリントの人たちが偶像礼拝に陥っていたからです。8章での学びを思い出してください。彼らは、偶像の宮の食堂で、食事をしていました。偶像とは木や石にしかすぎない生きていないものだ。だから、そこで何をしようと私たちは大丈夫だ、と考えて、彼らは食事をしていたのです。パウロは、8章において、そのような行為を見た弱い兄弟が、同じことをして罪を犯して、滅ぼしてしまうことになるではないか、と言って、その行為が間違っていることを指摘しました。けれども、彼らが偶像の宮で食事をしていること自体に、大きな問題を抱えていたのです。確かに偶像は生きていません。けれども、それとの関わりは、非常に危険であること、深刻な問題であることを指摘します。
私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
パウロは、これから慎重に言葉を選びます。込み入ったことを話すので、慎重に聞き入るように促しています。
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
パウロは今、聖餐式のことについて話しています。コリントにある教会は、聖餐式をユダヤ人が守っていた過越の祭りの食事の形をほぼ保って行なっていたようです。祝福の杯とありますが、これは過越の食事のときに飲む、第三杯目のぶどう酒であります。そのときにイエスさまが、「これは、新しい契約のしるしである、わたしの血です。」とおっしゃったのです。そして、パンも裂かれます。このぶどう酒を飲み、パンの分け前にあずかるとき、私たちは自分がキリストのからだの一部になっていることを示していたのです。キリストとの霊的な交わりを、聖餐式において執り行ないます。
パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
私たちがキリストと一つになるだけではなく、私たちが互いに一つになります。パンが一つなので、同じパンを口の中にいれ、腹の中にはいるときに、同じパンが中に入っているのだから、私たちは互いに一つなのだ、ということができるのです。
これは聖餐式に限らず、イスラエルが行なっていることにも同じことが言えます。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
イスラエル人は、穀物のささげものをしました。祭司たちは、その一部を祭壇の上で焼き、残りを自分たちの分け前として食べます。それは最も聖なるものである、と言われています。なぜなら、主がその一部をお食べになり、また私たちも同じものを食べているから、主と自分とが一つになっていることを示しているからです。このような、霊的な交わり、親密な深い交わりを、食事というものによって行なうことができる、というものです。
2B 結果 − 主のねたみ 19−22
そこで、パウロは自分が何を言いたいのか、結論をはっきりと述べます。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
パウロは、異邦人たちが偶像にささげている物は、実は悪霊にささげられている、と言っています。ですから、偶像の宮で食事をしていることは、悪霊との交わりをしていることになるのです。
あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
偶像の宮で食事をしている人が、聖餐にもあずかるのであれば、それは悪霊と主を、自分を介して一つにしてしまうことになるのです。これは絶対にあってはなりません。そこでパウロはこのように言います。
それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
主はねたみを起こされます。夫が不倫をしていることを知った妻は、ものすごい嫉妬にかられますが、同じようにご自分以外のものと交わっている私たちをみたら、主は、とてつもないねたみにかられるのです。そのときに、主ご自身が怒りを欲せられ、私たちがさばかれてしまいます。
このように、偶像礼拝は深刻な問題であることをパウロは指摘しました。これは、自由を謳歌しているクリスチャンに見ることができる過ちであります。私たちも、偶像が満ちあふれている日本という国に住んでいます。そのとき、私たちは、偶像の宮で食事をするような、偶像との関わりがある宗教儀式や行為を、きちんと見極めなければいけません。仏式の葬式では、どこの部分で偶像との関わりを持つのか、またはどこの部分はとくに関わりがないのか。盆には中元があるけれども、それは偶像との関わりはない。けれども盆踊りは、まさに先祖の霊を呼び寄せる偶像との関わりの深い行事であるから、避けなければいけない。このように、何が偶像との交わりであって、そうでないかの線を引いておかなければいけません。でなければ、パウロがここで言うように、悪霊との交わりを持ってしまうことになるからです。それならば、主との交わりである聖餐にあずかることはできなくなってしまいます。自分は心の中でその偶像を拝んではいない、と思っていても、実際は悪霊と交わっているのだよ、ということを、私たちは肝に命じておかなければいけません。
3A 他人の良心 23−33
このように、イスラエルの教訓、悪霊との交わりという観点から、パウロは偶像礼拝を避けるべきとの訓戒を出しています。次に、そして最後に、パウロは「他の人の良心」という観点から、偶像を避けるように促しています。
1B 内容 − 不信者との接触 23−30
1C 原則 − 「すべてが益と限らない」 23−24
すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
パウロは以前にも、同じことを話していました。すべてのことは許されているが、すべてのことが有益にとはならない。なぜなら、他の人の益になるかはわからないからだ、と言っています。パウロはこのことを、8章では、良心の弱い兄弟たちに焦点を当てて話しています。けれども、ここでは、不信者との関係に焦点を当てて話しています。仲間のクリスチャンだけではなく、未信者の人たちにもつまずきを与えてはいけません。
2C 理由 − 偶像礼拝の知識 25−30
市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
パウロは、具体的な例として、市場で売られている肉について話しています。市場で売られている肉は、その一部を偶像にささげてから売られていることがあります。けれども、いちいち、この肉は偶像にささげられたか、と詮索する必要はない。どれでも食べなさい、とパウロは勧めています。その理由として、その肉は主が与えてくださったもの、主が備えてくださったものだからです。例えば、私たちの家に、両親がお米を送ってきてくれることがしばしばありました。けれどもそのお米は、「健康教」という新興宗教の信者たちが作っている米であり、確かに有機農法で健康的なのですが、それに祈りや宗教的な意味を付けているのです。私たちは、それを食べることができるでしょうか。パウロのここの言葉によると、食べてよいことになります。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
パウロはさらに、クリスチャンの自由を広げています。未信者の家に食事に招かれたときのことです。もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
異邦人は、何でも福が来てほしいと思うものは、それを自分たちの神々に念じる習慣がありますね。この前トラクトを配っていたときに、たいそう大きな、近代的な家の庭に、なんと祠がありました。その家に福が来てほしいと思っているからでしょう。ですから、不信者の人たちは、お客さんに食事を出すとき、その食事に福が来てほしいと願って、まず偶像にささげているかもしれません。けれども、パウロは、「置かれる物はどれでも食べなさい。」と言っています。これも、地とそれに満ちているものは、主のものだから、という真理から来ています。
けれども、パウロは、自分の良心ではなく他人の良心であるばあいには、「待った!」をかけています。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。
偶像にささげてから肉を食卓に出すかもしれませんが、その未信者の人が何も言わなかったら食べます。けれども、それをあえて自分に教えるときがあります。「これは、何とか大明神に供えてから、持ってきたのよ。このお肉には、いっぱい福があるからね。」などと教えたらどうするのでしょうか。その肉を食べるのをお断りしなければなりません。この人は、その肉に対して意味付けをしています。その神々の霊気が吹き込まれているという意味付けをしています。それから、その意味付けを、クリスチャンである自分に教えようとしています。
このとき、もし私たちが食べたら、どうなるのでしょうか。まず、先ほどの偶像の宮で食事をすることのように、宗教が家の中に持ち込まれています。先ほどまで中立であったはずの肉は、この時点で悪霊との交わりの媒体になってしまうのです。ですから、それを食べることはできません。それだけではなく、もし私たちがこれを食べたとしたら、お肉を出した家の人は、「クリスチャンの神は、私たちの神の肉を受け入れるのだ。」という意識を持ってしまうのです。パウロが問題にしているわけは、ここにあります。ここでは、不信者の人の益になるように、まことの神とはだれであるかを明確に証ししなければならないのです。自分はクリスチャンであり、天地を創造された神以外を信じる者であることをその人に話さなければならないのです。それがその人の益になるのであり、その人が救いに導かれるきっかけとなるのです。
私たちは、このところにおいて大きな間違いを犯しています。仏式の葬式において、ある儀式を行なわないのは、来ている人たちのつまずきになる、と言います。けれども、反対が真理なのです。偶像との交わりをするところを誘われるときに、自分がそれができない理由を、慎み深く弁明することが、相手にとって親切なのです。そこで証しをすることができ、その人が神の真理を聞くことができる機会を提供することができるのです。私が叔父の家に訪問すると、そこには私のおじいさんの仏壇があります。そこで私の叔父の奥さんは、私に、おじいちゃんに線香立てな、と親切に勧めてくれます。私は、彼女が善意でそう言ってくれていることをよく知っています。けれども、丁重にお断りして、自分はクリスチャンであることを話します。それで彼女はつまずくことはありません。むしろ、「ああ、クリスチャンとは、そのような考え方をするのだ。」と考えるのではないでしょうか。また、そのように考えるのを期待してようのではないでしょうか。私たちは、このようにして相手に対して、静かながら伝道をすることができるのです。
私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。
自由も感謝もすばらしいものです。けれども、他の人たちのさばきやそしりの対象になるのであれば、私たちはそれは避けなければいけません。偶像礼拝は、よく、そうしたそしりの対象になるのです。ですから、悪霊との交わりをしない、ということだけではなく、他の人たちからそしりを受けないという意味からも、偶像との関わりから離れなければいけません。
2B 目的 − 神の栄光 31−33
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
他人の益を求めるのは、神の栄光につながります。神の栄光とは、その聖さと愛が特徴です。私たちが、生活のどのような場面においても、まことの主なる神を証しすることができます。それは何も、ことばによって伝えるだけではなく、食べるにも飲むにも、何をするにも、神の愛と聖さを反映することができるのです。例えば、女性の服装はどうでしょうか?暑いから薄手の服を、というのは理解できます。けれども、それは、神の栄光を表しているでしょうか。例えば若い男性がともに礼拝に集っているとして、その人に対して親切な、愛のある行為でしょうか。天国において、今来ているような肌の露出した服を着ることはできるのでしょうか。今は、具体例を出しましたが、どのような場面であっても、私たちは、「このことは神の栄光を現わしているか。」と推し量ることができるのです。
ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。
パウロは8章においては、兄弟の益を求めなさいと進めましたが、ここ10章においては、不信者の益も求めなさい、と命じています。不信者の益とは、救いにあずかることです。
こうして、偶像礼拝を避けるべき理由について見てきました。私たちは、この日本、偶像に満ちた国の中に生きています。それゆえ、今日の話題は、すぐに毎日の生活に当てはめることができます。偶像なんて、木や石だ、という簡単な問題ではないことがお分かりになったと願います。そこには、悪霊との関わりがあることを肝に命じておかなければいけません。悪霊と関わって主と交わることができるでしょうか。また、偶像に関わることによって、他人からそしりを受ける機会になってしまいます。偶像との妥協は、結局、異教徒の信頼を失う、とよく言われます。日本人が本当の意味で、天地創造のまことの神を知ることができるのでしょうか。私たちが、偶像を避け、それによって神の栄光を現わすことによって、彼らは知ることができるのです。そのために、私たちはこの国に置かれています。
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