コリント人への手紙第一12章1−11節 「御霊と教会」


アウトライン

1A 御霊が導くところ 1−3
   1B 知るべき事柄 1
   2B 主イエス 2−3
      1C もの言わぬ偶像 2
      2C 告白 3
2A いろいろの種類 4−7
   1B 三位一体の神 4−6
      1C 御霊の賜物 4
      2C 主への奉仕 5
      3C 神の働き 6
   2B みなの益 7
3A 同一の御霊 8−11
   1B おのおのへの賜物 8−10
      1C 言葉 8
      2C 信仰 9−10
      3C 異言 10
   2B みこころのままの分与 11

本文

 コリント人への第一の手紙12章を開いてください。今日は、12章全体ではなく前半部分だけを学びます。1節から11節までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「御霊と教会」です。教会における聖霊の働きについて学びます。

 私たちは、前回、礼拝における秩序の乱れについて、パウロがコリント人たちを諭しているところを読みました。女が預言や祈りをするときに、当時女性が普段から身に着けていなかったかぶり物をしませんでした。また、主の晩餐において彼らは我先に食事を済ませるので、酔っているものがいたり、お腹を空かせたままの人がいたりしました。そこでパウロは、自分の家で食欲を満たすべきであり、主ご自身を思いなさい、そして自分をよくわきまえなさい、と勧めました。そして12章に入ります。同じく礼拝における秩序の乱れについて取り扱われていますが、御霊の賜物の乱用について焦点が当てられています。そこで、教会において、御霊の賜物をどのように用いていくべきか、パウロは指針を示しています。

1A 御霊が導くところ 1−3
1B 知るべき事柄 1
 それでは1節をごらんください。さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。

 
御霊の賜物について、ぜひ知っていただきたい、という勧めです。口語訳では、「知らずにいてもらいたくない。」と訳されています。御霊の賜物について、霊的な事柄について多くの無知がある、知られていないことがある、とパウロは思っています。これは、今日の教会に当てはまるでしょう。教会は、御霊の働きがなくては、何も機能することができません。教会は、聖霊が弟子たちにお降りになることによって始まりました。聖霊が主権を握られて、使徒たちを誘導し、彼らを勢いよく引っ張られることによってみことばが前進しました。使徒たちの手紙を読むと、信仰生活と御霊による生活は、同義語として用いられています。信仰によって生きるためには、御霊によって導かれなければいけません。御霊に満たされることなしに、私たちはキリストの足跡に従うことは、ほんの少しもできないのです。教会とは、きわめて霊的な存在です。聖霊が主となっておられ、御霊が活躍される場であるのです。しかし、今日の教会に、それが抜けているところがあります。聖霊の働きは使徒たちがいなくなってから消えた。黙示録によって聖書の正典が完成したとき以来、私たちは自分たちで教会を組織し、運営しなければならない。使徒時代と現代は異なるのだから、聖霊について多くを語るのは危険である、と。ところが、その一方で、聖霊の働きとは、感情的に高揚すること、気持ちがよくなることであると考える人たちもいます。


 このように両極端になりやすいのですが、そのために、パウロは、「知らないでいてもらいたくありません。」と言っているのです。私たちは、極端になってしまう部分、よく理解できない部分について、蓋をしてしまいがちです。「この事については、いろいろな意見に分かれてしまうから、あまり触れないでおこう。」という反応に出てしまいがちです。そこであまり知らないままでいてしまうのです。それは、終わりの日、終末についても同じことが言えるでしょう。千年王国の前にイエスさまが戻って来られるのか、それとも後に来られるのか。そもそも、千年王国はあるのか。千年王国とは何か、など、分からなくなってしまいます。けれども、パウロは主が戻って来られることについて話すとき、第一テサロニケ4章ですが、「兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。(4:13」と言っています。この第一コリント12章1節と同じ言い回しです。ですから、私たちは知らなければいけないのです。じっくりと御霊の事柄について、聖書は何と言っているのかをじっくり見なければいけません。

2B 主イエス 2−3
 そこでパウロは、聖霊の働きをはっきりと述べています。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

 神の御霊の働きは、ここに書かれてあるとおり、イエスは主であると語らせることであります。ただ、イエスは主であると口で言うことではありません。イエスさまが本当に、自分の主であり、すべての主であることを、心から認めることです。イエスさまが第一であり、イエス以外に救われるべき名としては、天下に存在せず、イエスが、神が選ばれたメシヤであり、イエスさまの血によって私たちの罪は赦され、イエスによって万物は回復し、イエスはすべてのすべてである、という信仰です。イエス・キリストが実に主であると告白させるところに、御霊の働きがあります。ここが重要です。


 イエスさまは十字架につけられる夜に、弟子たちに聖霊の到来について予告されて、こう言われました。「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ16:14」御霊の働きは、イエスさまの栄光を現わすこと、イエスさまを証しすることです。したがって、聖霊さまが力強く働かれると、私たちはイエスさまがいかにすばらしい方かを知るようになります。イエスさまの愛に深く触れるようになり、この方こそ私が従うべきおかた、すべてをささげるべきお方となります。この方の栄光が分からないので、私たちクリスチャンは、「自分はみことばを行なわなければいけない。自分は何々しなければいけない。」と、自分の行ないが中心となって、悩んでしまう生活を送ってしまうのです。けれども、聖霊さまは、主の栄光を明らかにしてくださり、主が自分にとって現実のものとなってくるのです。ですから、私たちはご聖霊を熱心に求めて、ご聖霊に満たされなければいけないのです。

2A いろいろな種類 4−7
 パウロは、次から御霊の賜物について話し始めますが、したがって御霊の賜物は、あくまでも主イエスご自身の栄光を現わすための道具にしか過ぎません。イエスが主であることを告白させるために用いられるのであり、賜物だけが独り歩きするのは間違っています。教会は、賜物を用いて私たちが生かされていくところではありません。私たちではなく、主イエスが生きて働かれるところであります。しかしながら、御霊は私たちを用いて、イエスさまの栄光を現わそうと意図されています。ですから、それぞれに賜物が与えられ、それぞれに奉仕と働きが与えられます。

1B 三位一体の神 4−6
 そこで次に、パウロは、その賜物、奉仕、働きにはいろいろな種類があることを教えています。さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

 この個所で注目していただきたいのは、三位一体の神が紹介されていることです。御霊は同じ御霊です。主は同じ主です。そして神は同じ神です、とパウロは言っています。私たちが礼拝している神は、三つの人格を持っておられます。父、子、聖霊という人格を持っておられます。御父も神であり、御子も神であり、聖霊も神ですが、この三つの人格においてひとりの神がおられます。この三位一体の神を私たちはあがめているので、私たちの賜物や奉仕や働きも、それぞれ異なるのですが一つにされている、というところがとても大事です。多様性があるのだけれども一致があります。


1C 御霊の賜物 4
 4節の御霊の賜物ですが、パウロは、8節から9つの賜物を列挙しています。そして、28節以降にもいくつかの賜物が紹介されており、私たちが以前学んだローマ書12章にも、いくつか紹介されていました。いろいろな種類があり、どれか一つだけで教会は成り立ちません。

2C 主への奉仕 5
 そして5節の奉仕ですが、使徒職があり、預言者、牧師・教師がおり、また助ける者、治める者などがいます。奉仕にはいろいろありますが、同じ主にお仕えしています。

3C 神の働き 6
 そして6節の働きです。いろいろな働きというのは、同じ賜物であっても、その用い方がいろいろある、ということです。ですから、同じ教える賜物が与えられても、ある人の教え方と、他の人の教え方は異なります。自分たちと異なる方法を使っているから、間違っているということは決して言えなのです。むしろ、いろいろな働きを神がお与えになっています。

2B みなの益 7
 そして、これらの賜物が与えられている目的が次に書かれています。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。みなの益となるために与えられている、という目的があります。自分の益のためではなく、みなの益、教会の益になるために与えられています。賜物の中で異言の賜物がありますが、それだけは自分の徳を高めるものであるとパウロは後で説明していますが、異言であっても解き明かしがあれば、教会の徳を高めます。ですから、私たちは、何のために教会に来ているのか、ということをよくわきまえなければいけません。11章で学んだことが、12章においても言えるのです。自分を満たすためではなく、他の人々の徳を高めるために教会に来ます。もちろん、自分がイエスさまの足もとにすわって、主からミニストリーを受けるためにも教会に来ています。だれでも疲れている者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、と主は言われました。ですから、悩みを主にゆだねるため、疲れを取るため、今取り組んでいる問題を主に解決していただくために、礼拝に集うことは、すばらしいことです。けれども、自分がなにか教会でできることはないか、ギターがひけるから賛美の奉仕はできないか、などなど、自分の心理的な必要を満たすために奉仕をする、賜物を用いようとする人がいます。けれどもそれは間違いです。賜物は自己実現の道具ではありません。みなの益となるために、御霊の現われが与えられます。

3A 同一の御霊 8−11
 そこでパウロは、御霊の現われについて、具体的に列挙しています。

1B おのおのへの賜物 8−10
 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 
9つの賜物が列挙されていますが、ギリシヤ語の言葉によって、3つに大別することができます。一つは、知恵のことばと知識のことばです。もう一つは、信仰、いやし、奇蹟、預言、そして霊の見分けです。三つ目は、異言と異言の解き明かしです。ですから、知恵についての賜物、信仰についての賜物、異言についての賜物、と大別しても良いかもしれません。知恵がなければ知識は無意味であるし、信仰によっていやしが与えられ、奇蹟も、預言も、霊の見分けも与えられます。また、異言の解き明かしは、異言がなければもちろん用いられることはありません。


1C 知恵の言葉 8
 まず最初の知恵の言葉でありますが、これは、教会を二分させるような意見の対立があるときに、知恵のことばによって、人々に解決が与えられるようなとき、これを知恵の言葉といいます。この賜物が用いられた典型的な例は、エルサレム会議におけるヤコブの言葉です。アンテオケの教会に、「割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ、救われない。」と言った者たちが現われて、アンテオケの教会を動揺させました。パウロがその教えを非難すると、その教師たちは、「私たちはエルサレムから遣わされた。」と言うので、パウロは、「それではエルサレムで決着させよう。」と言いました。そこでエルサレムで会議が持たれました。

 大ぜいのリーダーは、パウロをとおして行われた神のみわざをほめたたえましたが、一部の者が、律法と割礼にこだわっていました。そこで、ペテロは、異邦人に律法のくびきを負わせるべきではない、と言い、また、ヤコブも、聖書を引用して異邦人の救いを支持しました。けれども、ユダヤ人信者によって、異邦人信者が律法をかえりみないことについて、つまずいて、傷ついていたところもあったのです。そこでヤコブは、こう言いました。「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。(
15:19-21」異邦人信者も、偶像礼拝について不品行について、血を避けることについて、それが重荷にはなりませんでした。またユダヤ人信者も、これらの基本的な事柄を異邦人が行なっていれば、寛容になれます。どちらも納得が行くような提案をヤコブが出したのですが、これがまさに、知恵のことばです。

 知恵のことばは、自分で蓄えていることはできません。だれかのところに行って、「あの人は知恵のことばがある。今、私たちの問題を解決してくれるだろう。」という風にはならないのです。必要なときに主が与えてくださいます。したがって、自分が知恵のことばを話しているのも、分からないことさえあります。

 そして、知識のことばですが、これは、超自然的に、ある状況についての知識が与えられる賜物です。旧約聖書では、エリシャがその賜物を持っていた預言者です。主イエスさまは神の子ですからすべてのことをご存知ですが、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのをご存知でありました。そしてペテロが、アナニヤとサッピラについての状況を、知識のことばによって知りました。彼らが聖霊に欺き、地所を売った代金をすべて出したと偽ることを知っていました。ですから、知識のことばが与えられるとき、誰からも教えられていないのに、ある人の状況がわかってしまうときがあります。それを口にして言うべきなのか、言わないべきなのかは知恵が必要です。言わないときには、自分一人でその人の問題のために祈ることができます。また、自分がまったく意識していなくて、ある人の状況を話してしまうことがあります。ある人の説教を聞いて、「あの人は、私のことを事細かに知っている。だれがそんなことを話したのか、ひどすぎる!」と思って文句を言うと、実はその説教をしている人は、ただ仮説としてたとえて言っているだけにしか過ぎないときがあります。御霊は、ごく自然に超自然的なことをなされることがしばしばあります。

2C 信仰 9−10
 そして9節は、信仰の賜物です。私たちには、救われるための信仰が必要です。また、神の約束を信じる信仰もあります。けれども、ここでの信仰の賜物は、救われる信仰でもなく、約束を信じる信仰でもないでしょう。いやされることを信じる信仰であると考えられます。なぜなら、新約聖書に一貫して、いやしを受けている人々に信仰がまず与えられていることを見ることができ、また、ここでも次に列挙されている賜物が、いやしだからです。

 ある特定の場所で、ある特定の時点で、神がなされることに対して、強い確信を抱くことがあります。それが信仰の賜物です。この人はいやされる、と強く感じることがあります。そのときに、「起き上がりなさい。」とか、「立ちなさい。」と言って、足がきかない人が瞬時にして立ち上がることがあります。けれども、それはあくまでも、与えられる信仰なのです。自分が一生懸命信じるから、その人がいやされるのではなく、自然に確信することができるようなものであります。自分で決められるようなものではなく、御霊が主権をもって、ご自分がなさりたいときに、私たちに信仰を与えて、それを行なわせようと促されるのです。

 そして、「癒しの賜物」があります。これを英語で見ると、”gifts of healings”つまり、複数の癒しの複数の賜物になっています。人がいやされたとき、いやされた本人がその賜物を受けたことになります。あの人は癒しの賜物を持っている、という会話をよく聞きますが、それは間違いであり、いやしを受けた人が、その賜物を受け取るのです。

 今日、癒しはないと言う人たちがいますが、私はそれがおかしいと思います。なぜなら、聖書は、旧約から一貫して、神がいやしを行なわれる方として紹介されているからです。旧約から新約にも、いやしは現われており、イエスさまだけではなく使徒たちが、人々をいやしていました。これほどまでにいやしが行なわれているのに、突然そのような時代が終わって、急に神さまが思いを変えられた、とは私には到底思えないのです。けれども、同時に、人がだれでもいやされる、と考えるのは間違いです。聖書には、敬虔な、神を畏れる聖徒たちが、病の中で死んでいるのをたくさん見かけることができます。あれほど、人々に手を当てていやしを行なったパウロでさえ、自分の霊的な子テモテには、薬用として少量のぶどう酒を飲むように薦めています。したがって、私たちは、いやされることを信じていくという姿勢をつねに持っているべきですが、すべての人がいやされるわけではないということも知らなければいけません。

 そして次に、「奇蹟を行なう賜物」です。これは、文字通り、超自然的なことを行なうところの賜物ですが、旧約ではもちろんのこと、新約でも使徒たちが、この賜物を用いているのを見る事ができます。足なえは立ち上がり、死人は生き返り、ハンカチにさわると悪霊が追い出されました。これらは奇蹟を行なう賜物です。この賜物は、現代において、なかなか見ることはできません。おそらく、その賜物が与えられた人は、みなの益のため、イエスの栄光のためではなく、自分の益と栄光のためになってしまうでしょう。けれども、奇蹟は今でもあります。人々が苦しみにあい、もうすべての助けが尽きてしまうような状況に置かれているときに、神は介入されることがしばしばあります。例えば、中国における迫害下の地下教会においては、親が逮捕され、だれもいなくなってしまった家に残された子どもたちが、なくなってしまうはずの米びつが最後までなくならなかった、という話を聞いたことがあります。ユダヤ人をかくまった「私の隠れ場」コリー・テン・ブームの体験談を読むと、強制収容所でお姉さんといっしょに悲惨な目にあっているところに起こった、いろいろな奇蹟を記しています。神は、ご自分の栄光を現わすために、このように奇蹟の賜物を与えられます。

 次に預言の賜物です。預言は、文字通り、神のことばを預かることであり、神のことばを語ることであります。必ずしも、先のことを予告することではありません。もちろん、将来のことを語ることもありますが、目的は、Tコリント14章3節にあるように、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与え」ます。ですから、人に恐怖を抱かせたり、不安がらせたり、混乱を招くようなことばは、神からのものとは言えません。預言については14章で詳しく取り扱われているので、ここではここまでにします。

 そして霊を見分ける賜物ですが、これは、本物か偽者かを見分ける賜物です。使徒ヨハネが、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(Tヨハネ4:1」と言いましたが、神からの霊であるかを見分けることであります。使徒ペテロが、魔術師シモンの心の状態を見分けたことは、この賜物のおかげであります。彼は、ピリピが行なっている奇蹟を見て、自分がそれができないことを苦々しく思いました。ペテロとヨハネが手を置いていると、サマリヤの人々は何か特別な体験をしたようですが、それを見てシモンは、「聖霊をさずけることができるように、この権威を私にもください。」とお金を持ってきて頼みました。ペテロは、彼に苦い胆汁があることを見ぬきました。

 この賜物が用いられるとき、ある人のそばにいて、何かとても変な気分になります。何が間違っているかよく分からないのですが、どこかが変だ。こういう感覚です。そして蓋を開けてみると、たしかに、その人は偽教師や偽兄弟であった、ということだったりします。教会が狼から守られるには、この賜物が必要です。

3C 異言 10
 そして異言の賜物に移ります。異言は、話している本人が理解することができない言葉を話すことです。自分の意志で、話し始めたり、話すのを止めたりすることはできますが、御霊が語らせてくださるとおりに、ある言語を話すことができます。そのことばは、神への賛美と祈りであり、私たちの知性では何の実も結ばれないのですが、霊において徳が高められます。

 私たちは、神のすばらしさについて賛美したいとき、また、自分の心のうめきを神に言い表したいとき、言葉としてはなかなか表現できないことがあります。それは、自分の霊における出来事なのです、私たちの知性の言葉には限界があるのです。そこで異言で祈りますと、自分の知性では分からないのですが、ローマ書8章に書かれてあるとおり、御霊が神のみこころのままに祈ってくださいます。したがって、私たちは、神のみこころにそって祈っていることができるという確信を持つ事ができるのです。異言で祈り、賛美することは、心の休まることです。徳が高められます。この賜物についても14章で詳しく記されているので、そのときに取り扱いと思います。

 そして、異言の解き明かしですが、これはもちろん、異言の意味するところを解釈してあげることです。解き明かしは、必ずしも言葉そのものを翻訳にならなくてもよく、あるときには長くなったり、ある時には短くなったりします。これも、異言を語っている人がいるときに、自分に何が語られているかが示されて、それを話すことによって用います。

 以上ですが、このように、知恵のことば、信仰、異言という主に三つの種類の賜物があることがわかりました。

2B みこころのままの分与 11
 私たちは、これらの賜物が与えられることを望むでしょうか。望みますよね、パウロ自身も、12章の最後で、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい、と勧めています。ですから、求めることは必要ですが、ただ次のことばを読んでいただきたいのです。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。 みこころのままに、御霊がすべてのことをなさります。御霊がなさることであり、私たちが自分たちで作り上げること、働きかけることはできないのです。

 このように、教会は御霊が豊かに働かれるところです。御霊がイエスさまを主としてご紹介し、ご紹介するために、それぞれに賜物を分け与えられます。その賜物を用いて主に奉仕をするときに、教会の徳は高められ、ますますキリストをもっとよく知りたいと願うようになります。みなさんは、聖霊の賜物を熱心に求めているでしょうか?


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