アウトライン
1A 比較において 1−3
2A 定義において 4−7
3A 永遠性において 8−13
1B 賜物との対比 8−9
2B 完全なものの現われ 10−12
3B 一番すぐれているもの 13
本文
コリント人への手紙第一13章を開いてください。ここは、「愛の章」と呼ばれ、結婚式に読まれる有名な個所ですが、今日のテーマは、「至上の愛」であります。愛がすべてのものにまさっている道である、ということです。
1A 比較において 1−3
この13章は、12章からの続きとなっている個所であり、12章では、御霊の賜物についての教えが書かれていました。パウロは、最後に、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」と言っています。さらにまさる道、これが愛であります。そこでパウロは13章の初めに、御霊の賜物と愛との比較をしています。
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
パウロはまず、異言と愛を比べています。異言は、神からの与えられるすばらしい賜物です。自分では理解できない言葉によって、神への賛美と祈りをささげることができます。私たちは神さまのことがすばらしくて、それで神をほめたたえるのですが、自分の言葉が、日本語にしろ英語にしろ限界があるのに気づきます。ことばに言い尽くすことのできない喜び(we rejoice with inexpressive joy)を持っているからです(Tペテロ1:8)。また、祈りも私たちはときに、あまりにも苦しくて、どのように祈ればよいか分からないときがあります。言いようもない深いうめきを持つのですが、そのときに異言によって御霊がその祈りを助けてくださいます(ローマ8:26)。したがって、神さまとの交わりをするのにはとても大切な賜物であり、有益な賜物でありますが、愛がなければ、そのすばらしい賜物が、やかましいどら、あるいは鐘や、うるさいシンバルと同じなのです。つまり、聞きざわりの悪い音、意味をなさない音にしか聞こえません。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
パウロは次に、預言の賜物と知識の賜物、そして信仰の賜物を取り扱い、それを愛と比べています。預言の賜物は、私たちが置かれている状況や状態に対して、神さまから語られる言葉であります。「恐れるな、わたしの子どもよ。起き上がりなさい。わたしはあなたを守り、決して見捨てない。」というような言葉です。預言は、慰めと、励ましと、また徳を高めてくれるすばらしい賜物です。また、知識の言葉は、同じように、ある人が置かれている状況や状態を、超自然的に神から教えられることです。「いまアメリカに住んでいる友人は、がんで死にそうになっている。」という知識が、与えられたりします。そのときに、その人のために祈ったり、また、アメリカにいるクリスチャンに、その人のところに言って、イエスさまを信じてもらうように個人伝道をするようお願いすることもできます。知識のことばも、とても大切な賜物です。また信仰の賜物は、だれかがいやされなければいけないとき、いやされるという確信が与えられて祈ることができます。信仰も知識も預言も、みなすばらしい御霊の賜物ですが、これと愛を比べたら、愛のほうがはるかにすぐれています。愛がないなら、何の値打ちもない、とパウロは言っています。
そしてパウロは、御霊の賜物だけではなく、クリスチャンが良い行ないとして行なっていることさえも、愛がないなら役に立たない、と論じています。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
パウロは、慈善と殉教について話しています。持ち物を貧しい人たちに分け与えることは、旧約においても新約においても聖書全体を通して、神さまが私たちへの命令として与えられている教えです。私たちはとかく、道徳的なこと、たとえば性的な罪を犯さない、嘘を言わないのような教えについては、とても敏感になっていますが、同じような頻度で神は、困っている人に助けなければ、それは罪であるとおっしゃられております。そして殉教についてですが、からだを焼かれるために自分を渡す、つまり殉教するということですが、事実、教会が始まったとき以来、数多くのクリスチャンが文字通り、その信仰のゆえに火で焼かれて死んだ人たちがたくさんいます。死んでいく人たちに対して、イエスさまは、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすればあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示2:10)」と言われました。クリスチャンとして当然すべき慈善、またクリスチャンとして栄誉ある殉教についても、もし愛がなければ何の役にも立たない、とパウロは言い切っています。
したがって、どんなに大切な神の命令であっても、またどんなに豊かな御霊の賜物であっても、愛ははるかに私たちにとって大切なものであります。これほどまでに大切にされている、愛とは一体何であるか。パウロは次に、この愛とは何であるか、その定義を教えてくれています。
2A 定義において 4−7
4節から7節までがその定義ですが、その個所を読む前に、パウロが使っている「愛」という単語についての意味を知らなければいけません。というのは、パウロがこれを書いている原語のギリシヤ語においては、「愛」を表すためのさまざまな言葉があるからです。日本語においても、また英語においても、「愛」という言葉の意味は実にあいまいです。日本語においては、実にバタ臭いことばでしょう。ロマンスか恋愛かを表す言葉ですから、男が使うといやらしささえ感じる言葉ですね。あるゴスペルシンガーの人が言っていましたが、まだ彼がクリスチャンではないときに、アメリカ人のクリスチャンに、「イエスさまはあなたを愛しています。」と言われたそうです。そのとき、彼は、「イエスって、男なのか女なのか。」と聞きました。男だと知ると、「ああ、気持ち悪い!」と言ったそうです。英語も英語で、「私はアイスクリームが大好き!(I love ice-cream.)」というのと、「私は妻を愛しています。(I love my wife.)」というのが、同じ”love”という言葉で使われています。
けれどもギリシヤ語には、主に3つの種類の「愛」を表す言葉があります。一つは「エロス」です。エロスという言葉から、日本語ではポルノ雑誌を「エロ本」と呼んでいます。これは肉体レベルの愛であり、自己中心の愛です。このレベルの愛で「僕は君を愛しているよ。」と言っているのは、「僕は僕を愛しているよ。」と言っているのと同じです。自分が大事だから、自分が大好きだから、相手のからだを利用したいのです。これがエロスの愛です。もう一つの愛は、「フィレオ」というものがあります。アメリカにある町で「フィラデルフィア」というのがありますが、それは「フィレオ」から来ています。フィレオは、精神レベルの愛です。これは友人の間にある信頼関係、親子の中にある愛などを含みます。友人の場合、自分と話が通じる、自分の関心とその人との関心が合致している、お互いに打ち込めるものがある、性格が合っている、などなど、条件があって相手を愛していきます。家族の中でもそれは同じです。親が子に抱く愛は、何物にもまさると言われますが、それは違います。確かに自分の子どもに対する母親や父親の愛は、驚くべきものがあります。ここまでよくも犠牲を払って、養い、助けてくれるのか、と思ってしまいます。しかし、もし、他人の子どもであれば同じことができるでしょうか。できません。つまり親の子に対する愛は、「自分から出た子どもである」という条件付きの愛なのです。
しかし、もう一つギリシヤ語には「愛」を表す言葉があります。「アガペ」の愛です。アガペという言葉は、ギリシヤ語の古典には出てこない言葉です。つまり新約聖書にのみ出てくる言葉であり、聖書で初めて使われ始めた言葉なのです。これは、精神レベルよりももっと深い霊的レベルの愛です。実は神のみにしか持ち合わせていない愛であり、私たち人間には存在しません。これは、無条件の愛であり、愛されるべき理由や条件が何もない人を愛する愛であります。いやむしろ、愛されない理由、憎むべき理由がたくさんあるのにも関わらず、愛していく愛です。このように、聖書にしか出てこない愛なので、定義をする必要があります。新聞などでも新しい造語が登場するときに説明を入れますが、聖書も同じようにアガペの愛について説明しています。
愛は寛容であり、愛は親切です。
愛の一つ目の定義は「寛容」であるということです。新共同訳では「愛は忍耐強い」とも訳されています。ひどい仕打ちを受けても、それを耐えて赦していく愛のことです。イエスの弟子のペテロは、自分がなかなか成長したと思いました。イエスとともにいて、人を赦すことにおいて自分で赦すことができるようになったと思いました。そこでこう聞きました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)」イエスさまは答えられました。「七度まで、とはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」7かける70は490回です。赦す回数を数えているうちに、何回赦したかも忘れてしまうでしょう。赦すとは、何回赦したかというような量ではなく、本当に赦しているかという質が問われるのです。
そしてパウロは、忍耐強さの後に、愛は親切です、と言っています。忍耐をしている人の結果は親切です。「あなたがこんなに私にひどいことをしたから、もうこれで十分だ。」と思ったら、そのときに相手に対して不親切になります。悪い仕打ちに対して忍耐しているなら、その実として相手に対して親切に接することができます。
そしてパウロは、また人をねたみません。と言いました。私たちが人をねたむとき、それはその人に対して敵対心があるときです。ある人が自分に何か良くないことをします。そして、自分はその人のことについてがまんができなくなっています。そして、その人が祝福されたり、何か良いことが起こったりすると、素直に喜んであげるのではなく、むしろ、批判的なこと、否定的なことを言ってしまいます。これがねたみです。けれども、その人を愛しているなら、私たちはいっしょに喜ぶことができます。
愛は自慢せず、高慢になりません。
私たちは、他の人が評価されて、自分が評価されないときに、人をねたむだけではなく、自慢するようになります。何とかして自分を出さなければいけない、と思うようになります。そこで、自分がこれこれ、このようなことをしたと言って自慢するようになるのです。けれども、愛は自慢しません。そして、愛は高慢になりません。私たちが高慢になっているとき、相手の意見を聞こうとはせず、自分のしていること、自分の言っていることを無理に押しつけようとします。自分は正しくて、相手が間違っていると完全に信じきっています。非常に批判的な態度になります。けれども愛は人をへりくだらさせ、自分を高めるのではなく、相手を高めます。相手の徳を高めます。
礼儀に反することをせず、
愛は礼儀に反することをせず、あるいは無礼なことをしません。時に、私たちは風変わりな言動を取ることによって、自分に注目を集めたくなるようなときがあります。突然泣き出したり、大声で怒り散らしたり、常識的なことを行なわなかったり、人を試すようなことをして、自分に気を引かせようとしますが、それは愛ではありません。愛は礼儀に反することをしません。きわめて常識的に、冷静に物事を進めようと努めます。
自分の利益を求めず、
これは、自分のやり方を主張することです。神さまのやり方でもなく、もちろん他人のやり方でもなく、自分自身を主張し、それを押し通そうとすることです。けれども、愛があればそのようなことはしません。
怒らず、
これは単純明解ですね。人に嫌なことをされたとき、私たちが怒りをその人にあらわにすることがありますが、それは愛ではありません。
人のした悪を思わず、
これは、「悪いことを考えない。」と言い換えてもいいでしょう。相手のすることなすことについて、疑心暗鬼にならないことを意味します。「あの人はこんなことをしているが、きっと悪い動機があるのだ。」と疑いかかることです。けれども、相手の心を探るようなことをせず、優しく接していくことが愛であります。不正を喜ばずに真理を喜びます。これは、だれか自分に悪いことをした人が不幸な目にあったとき、それを喜ばないということです。自分にいやなことをした人が、交通事故にあいます。そのとき、「これは神のさばきだ。ざまあみろ。」と思うのではなく、その人のことを考えて、祈り、助けようとする態度です。これが不正を喜ばずに真理を喜ぶことです。
そしてパウロは、4回「すべてを」という言葉を繰り返しています。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
すべてをがまんします。悪いことをされても忍耐します。そして、すべてを信じます。心の動機などを疑うことをせず、はっきり分かるときになるまで信じ続けます。また、すべてを期待あるいは望みます。その人が神に立ち返ること、あるいは最善の状態になることを期待して、そう願います。そしてまた、耐え忍びます、とパウロは言っています。
このアガペの定義を見ていくと、まさに、愛することができないときに愛する、と言っても良いかもしれません。良いことをしてくれる人を愛するのでもなく、何もしてくれないことを愛するのでもなく、むしろ悪いことを自分に対して行なう人に対して愛していくことがアガペの愛のようです。これは真っ向から私たちの性質に反対します。自分ならがまんせず、不親切な言葉を言い、怒り、高慢になり、疑心暗鬼になり、不正を喜ぶのですが、愛はそれらのすべての反対なのです。これは、人間の愛では実はないのです。私の名前を、「愛」というところに入れれば、すぐに分かります。けれども、「イエス・キリスト」を入れたらどうでしょうか。イエス・キリストは忍耐強く、親切である。イエスは、ねたまない。イエスは自慢せず、高慢にならない。すべてぴったりと当てはまります。つまり、ここは、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れなさい、というメッセージでもあるのです。
私たちは罪を犯し、そのために死に、神にさばかれなければいけません。しかしイエスは、ご自分のありかたを捨てることができないとはお考えにならず、人の姿を取り、十字架にいたるまで仕える者の姿を取られました。このキリストが、私たちの罪のために死なれました。このイエスは3日目に死者の中からよみがえり、そして今も生きておられます。私たちがイエス・キリストを自分の主として心の中にお迎えするとき、私たちではなくイエスさまが生きてくださいます。私たちが、イエスさまとイエスさまのことばを信じて生きるときに、イエスさまの愛が私たちを通して現われるようになるのです。ですから、クリスチャンにとって、この愛の定義は、自分がいかにイエスさまに座を明け渡しているか、イエスさまに生きて働いていただいているかの座標でもあるのです。
3A 永遠性において 8−13
1B 賜物との対比 8−9
パウロのアガペの愛の定義の最後は、愛は決して絶えることがありません。
です。私たちであれば、すぐにあきらめて、ギブアップしてしまいますが、愛はそうではないとパウロは言っています。そして、愛は決して絶えることはないということは、愛がいつまでも続くことを表しています。
預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
愛がいつまでも続くことに対して、預言の賜物、異言の賜物、知識の賜物はすたれる時があります。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
知識の賜物や預言は、神さまの事柄について一部分のことしか教えてくれません。知識の賜物が与えられるとき、ある人の状況について知らされるわけですが、すべてのことを知ることはできません。また預言も同じです。私たち対して、神さまのご性質、約束、神さまのみわざについて教えてくれますが、それもまた一部分にしかすぎません。
2B 完全なものの現われ 10−12
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
完全なものの現われ、とはイエス・キリストが現われてくださる、ということです。イエス・キリストが再臨してくださることを表しています。私たちは、このイエスさまを目では見てはいないけれども、愛しています。それで喜んでいます。けれども、イエスさまを自分の目ではっきりと見たわけではありません。けれども、イエスさまが現われてくださるとき、私たちははっきりと見ることができるようになるのです。
私たちがまだイエスさまを見ていないときに、その愛の関係を深めるために預言の賜物や知識の賜物、また異言などが与えられます。預言によって、私たちはイエスさまのことをもっとはっきりと知ることができます。また知識の賜物もそうですし、異言も同じです。御霊の働きによって、イエスさまのことが証しされ、イエスさまの栄光が現われますが、それはあくまでも一部分であります。しかし、私たちがイエスさまを見るときに、その姿を見ることができるわけですから、預言も知識も異言も必要でなくなるのです。完全なものが現われたので、不完全なものはすたれるのです。
パウロは、完全なものが現われて、不完全なものがすたれることについて、二つのたとえを話して射ます。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
一つ目のたとえは、子どもと大人の対比です。子どもは、自分に与えられた知識で物事を考え、論じます。子どもたちの会話はとてもかわいらしくて、すばらしいのですが、もちろん何もよく分かっていない幼稚な会話です。けれども、物事を知るようになった大人は、そのような会話をすることはしなくなります。これと御霊の賜物は同じなのです。御霊の賜物によって、私たちはイエス・キリストについて語り合いますが、それは、天においては幼稚なことであります。一部分のことについて論じているからです。けれども、天においては、大人の知識によって論じて話すことができます。イエスさまがそこにおられるのですから。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
二つ目のたとえは、鏡です。当時の鏡はガラスによって出来ていません。磨き上げられた金属でありました。したがって、鏡に見える自分はぼんやりと映っているだけであり、はっきりと見えません。しかし、イエスさまが来られるとき、私たちは顔と顔を合わせて見ることができるのです。この時が待ち遠しいです。
今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
完全に知られているのと同じように、ということばが大事です。私たちは完全に神について知ることはできていませんが、神には完全に知られています。完全に知られていることを知ることはとても大切です。多くの人は、「私は神についてよく分からないから信じない。神はこの目で見ることはできないではないか。」と言います。確かに、私たちが神を完全には知ることは出来ないですし、目で見ることはできません。けれども、神は私たちを完全に知っておられるのです。偶像を比べてみてください。偶像を私たちは目で見る事ができるし、完全に知ることができます。けれども、偶像は私たちのことを知りません。目はありますが、私たちを見ることはできません。耳はありますが、私たちの話を聞くことは出来ません。口はありますが、私たちに話すことはできません。神は確かに目で見えませんが、私たちをすべて見ておられます。神は、私たちの言うことをお聞きになることができます。また神は私たちに語ることができます。完全に知ることよりも、完全に知られているところに私たちは安心を見出すのです。神が私たちを見張り、見守り、声をかけられ、また私たちの話を聞いてくださる、そのような神を持っています。そして、イエスさまが来られるときには、神について同じような知識を持つことができるのです。
3B 一番すぐれているもの 13
そして、愛についての結論をパウロは話します。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。預言はすたれ、異言はやみ、知識もすたれますが、信仰と希望と愛はいつまでも続きます。まず信仰ですが、私たちが天においてすべてを知るようになるということは、信仰がいらなくなるということではありません。天においても、私たちは神を信頼して、神の言われることを聞き、それに従います。神に対する信頼は、いつまでもたっても変わりません。また互いに対する信頼もいつまでも続きます。天において、私たちが疑心暗鬼になることはありません。いつまでも相手を信じていきます。そして希望ですが、これも天においていつまでも続きます。神に対して期待する、神を喜ぶことは天においても続きます。
そしてもちろん愛も続きますが、愛が信仰と希望によりもさらにすぐれている、とパウロは言っています。なぜでしょうか?これは7節に書いてありました。すべてを信じて、すべてを期待します、とあるとおり、信仰と希望は愛の中に含まれているのです。人を愛しているので、私たちはその人を信じます。また人を愛しているので、私たちはその人に期待します。これがいつまでも続き、天においても続くのです。天におけるたとえとして、よく聞く話があります。天国と地獄の話ですが、地獄のほうから話しましょう。そこには、一つのテーブルがあり、人々が食事を取るために座っています。すべての人はみな、とても長い箸を持っています。食事が出されました。そこにいる人々は、我先にとテーブルに出された食べ物を取ろうとしますが、箸があまりにも長いので口の中に食べ物を入れることができません。そこで彼らは食べ物が目の前にあるのに、食事を取ることができないという悲劇に出会います。天国ではどうでしょうか。天においても、同じようにテーブルに人々が座っています。ひとりひとりが、長い箸を持っていました。そして、同じようにテーブルに食べ物が出てきました。そして天国の人々は、その箸を自分のために使うのではなく、なんとテーブルの向かいの人のために使ったのです。食べ物を取って、それを向かいの人の口に運んでいきました。それですべての人が食べ物を取ることができました。
愛によって生かされていく世界がいつまでも続き、それが天国なのです。その愛は私ではなく神が、また私ではなく他の人が優先されます。その天に行くときまで、私たちはこの愛によって歩んでいきます。もちろん、自分では不可能なことです。けれども、自分はキリストとともに十字架につけられた。そして、よみがえったキリストが私のうちに生きておられると信じることによって、私たちのうちに力強く働くキリストの力が、私たちを愛の人に変えてくれるのです。
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