アウトライン
1A 教会全体の徳 1−19
1B 人に対する賜物 1−5
2B 他人に理解できない言葉 6−19
1C 意味のない音 6−12
2C 神への賛美と祈り 13−19
2A 集会における秩序 20−40
1B 信者のためのしるし 20−25
2B 互いの徳 26−40
1C 順番に用いるべき賜物 26−33
2C 女性の発言 34−40
本文
コリント人への第一の手紙14章を開いてください。ここでのテーマは、「預言の賜物」です。
私たちは12章から御霊の賜物についての、パウロの教えと指導を読んできました。同一の御霊がいろいろな賜物を分け与えてくださり、私たちはキリストのからだでそれぞれは各器官です。そしてパウロは、御霊の賜物よりもさらにすぐれた道として、愛を語りました。愛がなければ、これらの賜物はみな無意味であり、賜物はすたれるが愛はいつまでも残る、と論じました。そして14章に入ります。
1A 教会全体の徳 1−19
1B 人に対する賜物 1−5
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
パウロは、愛を追い求めなさいと言ってから、預言をすることをも熱心に求めなさい、と言っています。この14章は、私たちがなぜ預言することを熱心に求めるべきなのかを説明している個所です。とくに異言の賜物と比べて、なぜ預言するほうがすぐれているのかを説明しています。異言と預言を比べながら、預言の賜物について説明しています。
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
異言は神に対して話すのに対し、預言は人に対して語られます。異言は、話している本人でさえ理解できない国語で話しています。もちろん、その国語を話す人がたまたまそこに居合わせたら理解できるでしょうが、ふつうは理解できません。けれども、異言の解き明かしをすることによって、その異言の内容を聞いてみると、それは、神に対して語っているようになっています。「主よ。あなたはすばらしい方です。あなたの栄光は全土にあまねく輝いています。」など、神に対して語っています。けれども、預言は人に対して語られます。「子よ。元気を出しなさい。恐れるな。あなたは今、試練の中にいるが、わたしがあなたとともにいる。」など、神が人に対して語っている言葉となっています。そして、その預言の内容ですが、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える。」とあります。これはとても大切です。キリスト教会の中で「預言」という言葉を使って、神のさばきを宣告したり、神が恐ろしいことを行なわれるようなことを話す人たちがいます。けれどもその預言は偽物です。神は、人を恐れに陥れるような言葉をお与えにならず、勧めや慰めを与えるためのメッセージを送られます。
異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
異言を語る人は、神に対して語っているので、神との交わりを深めることができます。したがって、その人のうちにキリストが建て上げられるようになり、それで自分の徳が高められるのです。けれども、預言は教会の徳を高めます。教会全体として、私たち信者たちの間にキリストが建て上げられます。12章から続いている御霊の賜物についての教えで、パウロは個々人の働きよりも教会全体の働きに注目しています。私たちはキリストのからだであり、おのおのは器官なのです。また、パウロが説明した愛も人を愛することであり、自分自身だけの世界ではありませんでした。ですから、私たちは、個人生活の中にキリストを見上げるだけではなく、教会生活の中でキリストを見上げなければいけないし、また見上げることができるのです。私たちが集まっているときに、その時にしか知ることのできないキリストの現実があります。したがって、教会全体に対して語られる預言の賜物は、教会の中にキリストを建て上げるのです。
私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
異言の賜物は自分だけの徳を高めるのに対して、預言の賜物は教会の徳を高めます。それゆえ預言の賜物のほうがまさっており、パウロは、異言よりも預言することのほうを望んでいます。異言がもし解き明かされるのであれば、集っている他の人々も理解することができ、徳が高められます。けれども、そうでなければ預言の賜物のほうがまさっているのです。
2B 他人に理解できない言葉 6−19
そしてパウロは、異言の賜物の性質について説明し始めます。なぜ、この賜物が自分だけしか徳を高めないのか、その理由を話しています。
1C 意味のない音 6−12
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。
異言を語ったとしても、それを理解できないのであれば、何の益があるのでしょう、と言うことです。啓示や知識の言葉、また預言や教えは、私たちの知性で理解できるものです。けれども、異言は違います。
笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。
フルートがあっても、もしフルートを演奏できる人がいなければ、素人の私が吹いたら、聞きざわりの悪い音になってしまいますね。音と音とのつながりがあって、初めて音楽として聞こえるのです。
また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。
ラッパの音によって戦いに出る話は、旧約聖書の中に出てきますね。ある一定の音を出して、それをしるしとして戦闘を開始します。けれども、はっきりした音を出さないのであれば、戦闘の準備をする人はいません。
それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
私たちが理解できる言葉で話されなければ、それは人々に意思伝達をする手段ではなくなってしまいます。たんに空気に向かって話しているだけにすぎないではないか、とパウロは言っています。
世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。
言語というのは、ある一定の音に対して意味付けをすることによって成り立ちます。ある一定の音について、双方の間に同意があるときに、意味を持ちます。したがって、異言がどんなに神に対してすばらしいことを語っていたとしても、聞いている私たちには、その音の意味するところに同意がないのですから、単なる無意味な音になってしまうのです。ここが異言を教会の中で語ることの問題なのです。自分だけが満たされるけれども、他の人に祝福を与えないという問題が起こります。
あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
教会の徳を高めるために、という言葉がキーワードです。御霊の賜物を求めるとき、私たちは、みなの益になることを求めて求める必要があります。今日、御霊の賜物、またよくカリスマと呼ばれますが、カリスマについて二つの誤った考えがあります。それは、一つは求めなくてよい、というものです。私たちにはキリストがおられて、キリストの救いだけが大切なのだから、その他のことは必要ではないか、キリストだけで十分ではないか、という意見です。けれども、それは御霊の働きについて無知だからであります。御霊の働きは、キリストが自分たちにとって、より鮮やかに、はっきりと見えてくるために奉仕をしているのです。キリストが自分自身とよって、また私たちの間にあってより現実となってくるためには、異言や預言、信仰やいやし、知識と知恵などのカリスマがぜひ必要なのです。けれども、御霊の賜物について、もう一つ間違った考えはそれを、あたかも自分自身を満たすための道具のように考えることです。教会の徳ではなく、自分の徳のために求めるのであれば、そこには混乱が起こります。コリントにある教会が、まさにその状態だったのです。御霊の賜物は、教会の徳を高めるために、豊かに与えられるよう、熱心に求めなければいけません。
2C 神への賛美と祈り 13−19
そしてパウロは、異言の賜物が教会においても益になるためにする方法を提示しています。
こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
異言を教会の中で語るのであれば、解き明かしの賜物によって解き明かされるように求めなさい、と言っています。ここで自分が語る異言が、どのような意味を持つか解き明かしをすることではありません。自分が個人的に祈っているとき、それを解き明かす必要はありません。そうではなく、教会の中で異言を話すときに解き明かしの人がいて、その人が自分の異言を解き明かすことができるように求めなさい、ということです。逆に、他の人が語る異言を、自分が解き明かすことができるように祈りなさい、と言っています。
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
異言で祈り、賛美するときは自分でも理解できないので、それによって自分の知性において徳が高められることはありません。けれども、霊においては徳が高められます。私たちの祈りは、ときに言いようもないうめきになるときがあります。不妊のハンナが、激しく泣いて、心の中で祈っていたとき、その唇が動いていましたが、心のうめきは言いようもないうめきになることがあります。そのときに異言で祈ることはとても有益です。また、賛美もそうですね。言葉に言い尽くせない喜びを私たちは、言葉によって十分には賛美できません。そこで異言で賛美するときに、自分の霊は十分に神に対して賛美できるのです。けれども、これを教会の人々の前で行なうのであれば、意味のない音にしか過ぎないのです。
ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
パウロはここで、異言で語ることと、預言で語ることのどちらをも勧めています。霊において祈るけれども、それだけではなく知性において、つまり自分が理解できる言語によっても祈りましょう。霊においても賛美するけれども、自分が理解できる言語によっても神を賛美しましょうと勧めています。個人生活では異言を、教会生活では預言を求めましょう、と言っているのです。
そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。
私がいつもくやしいと思うことは、英語のメッセージを聞いているとき、説教者がジョークを言っている部分がなかなか聞き取れないことです。会衆のみんなが大笑いしているとき、自分だけがほおが下に垂れたままにしておくのは、なんとも居心地の悪いことです。だからといって作り笑いをするのも、嘘めいていていやだし。理解できないと、こんなにも反応が変わってしまいます。ですから、他の人が理解できるというのは、本当に大切なのです。自分が感謝していて結構だけれども、他の人がそれに対してアーメンと言えないではないか、とパウロは言っています。
私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。
パウロは、異言を語ることをやめさせようとは決してしていません。異言は自分にとってすばらしい賜物であることを認めています。パウロ自身、たくさんの言語で異言を語っていたようです。けれども、教会にいるときには預言を語ります。異言で一万語話したとて、なんら意味をなさないのであれば、たった5つの言葉を話したほうが、人々の徳を高めることができます。
2A 集会における秩序 20−40
このように、預言の賜物を熱心に求めなさい、とパウロが言っているわけは、教会の徳が高められるからです。そこでパウロは、具体的に集会において、どのように預言が用いられていくべきかを説明しています。
1B 信者のためのしるし 20−25
兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。
パウロはここで、とても大切なことを話しています。パウロは、コリントにいる人々が子どものような信仰を持っていることを暗にほめています。彼らが、神のみことばを純粋に、乳飲み子のように聞いていたことを思い出しているかもしれません。けれども、物事の考え方においてまで、そのようであってはいけない、とパウロは言っています。クリスチャンとして、喜びにあふれていればよいではないか。感謝があれば、愛があれば、と私たちは思ってしまいます。そのような純粋さと感動が私たちを特徴づけていることは、すばらしいです。けれども、実際の具体的な教会における出来事について、もっと大人にならなければいけません。成熟しなければいけません。パウロは、「悪事においては幼子でありなさい。」と言いました。私たちは、伝道のために、伝道する相手が行なっていることを知る必要はありません。占いをしている人に伝道するとき、占いのことを知る必要はありません。悪事においては幼子のままでよいのです。けれども、物事の考え方において、冷静に、客観的に分析するような判断が求められるのです。
律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」
パウロは律法と言っていますが、これは、モーセ五書からの引用ではなく、イザヤ書28章からの引用です。これは、北イスラエル王国に対する神のことばでした。アッシリヤが攻め入って、彼らの国を倒します。そのとき、自分たちには理解できない外国語を彼らは語ります。それは、彼らが神に背を向けて、偶像を拝んでいたことに対するさばきのしるしとなります。けれども、彼らはなお、神からのメッセージを受け入れることはしない、と言っている個所です。それをパウロは、異言の賜物について適用されています。次をご覧ください。
それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
外国語で語られたとき、それを聞いてもイスラエルの民が神からのことばを聞き入れなかったように、今、教会に来ている人がそれを聞いても、悔い改めに主を信じるようにはなりません、とパウロは論じています。
そこで次に、このことをもう少し具体的に話しています。ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。
教会に初めて来た人、また未信者の人たちが来たときに、彼らが異言を聞くことによって信仰を持つことは決してありません。私たちのことを気違いだと思うでしょう、と言っています。けれども、もし預言をしたらどうなるでしょうか。次をごらんください。
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
預言が語られるとき、しばしば知識の言葉や知恵の言葉が語られます。だれかが、その未信者の特定の状況について話します。だれも、その言葉がその未信者に語られているとは思っていないかもしれません。けれども、本人は、自分の心の秘密が、この集会全体にあらわにされた、と思います。そこで、これは神から来たものであることを認めて、自分の罪を言い表し、悔い改めにイエスさまを信じるようになることがあるのです。つまり、預言は、人々が信仰に導かれるための賜物として用いられるのです。預言の賜物によって、多くの人が信仰や悔い改めに導かれることがあることを、私は聞いたことがあります。ある人は、集会があった後日に、牧師のところに来て、泣いて悔い改めの祈りをしたということを聞きました。牧師と手を握りながら祈ったのですが、彼が自分の手をものすごく固く握りしめていた、とその牧師は話してくれました。これが、すばらしい預言の働きであり、神の愛、イエス・キリストにある救いを人々にもたらしてくれるのです。
2B 互いの徳 26−40
このように、預言の賜物が用いられるとき、礼拝には秩序があり、未信者の人でも参加して、また信仰に導かれるような雰囲気があります。異言で一斉に話しては、決して起こらないことです。そこでパウロはさらに、この秩序について、具体的な指針を与えます。
1C 順番に用いるべき賜物 26−33
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
集会の中で、御霊の賜物を用いていくときに、私たちは人々の徳が高められることを念頭に置いて用いていきます。
もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
教会において異言を語るときは、解き明かす人がいなければいけません。もしいなければ、教会の中で異言で語ってはいけません。異言は、個人の祈りの生活において用いるのであって、解き明かす人がいなければ、黙っていなければいけません。しかも、たとえ解き明かす人がいるときも、二人か三人だけが語るべきであり、順番に語らなければいけません。聞いている人たちが、そのことば一つ一つを理解できるようにするためです。一斉に語ったら、何を言っているか分からなくなります。
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
預言において大切なのは吟味です。この預言がはたして神からのものであるかどうかを、吟味しなければいけません。預言は決して、すでに書かれている神のことばと対立することはありません。私たちはすでに、神のことばが与えられており、それを最高権威として生きて従っています。けれども、預言の賜物が用いられると、書かれたことばよりも、その預言のほうに人々の関心が寄せられることがしばしばあります。けれども、それは慎まなければいけません。また、預言は先ほど話しましたように、恐れや不安を与えるようなものではありません。慰め、励まし、徳を高めるようなことばであるはずです。こういったことを吟味しなければいけません。
もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。
自分に啓示が当たられて語っているとき、他の人が語り始めたら自分は黙っていなさい、とパウロは言っています。これもみなが、そのことばを理解して、徳が高められるようにするためです。
あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。
この、「かわるがわる」が大切ですね。私たちの礼拝では、祈りの時間を設けていますが、そこではいっせいに祈るようなことはしていません。なぜなら、その祈りをとおして、このような御霊の賜物が用いられてほしいという願いがあるからです。互いの祈りを聞いて、それぞれの徳が高められることを願っています。だから、かわるがわるしています。
預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。
ここがとても大事です。御霊の賜物を用いるとき、自分が制御できなくなるというような話しを、私はよく聞きます。それで、異言を教会の中で語るのを正当化させているのです。それは明らかに間違いです。聖書も、また私自身の経験からも、異言は自分がいつ話すか、またやめるかを自由に制御できます。話しているときは、御霊が語らせておられるままのことを話しますが、それをいつ行なうかについては私たちの意志で決められるのです。したがって、御霊の賜物を用いるとき、それぞれか聞くことができるようなかたちにすることは必要なのです。
それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
ここも大事ですね。御霊の賜物を用いるとき、とかく混乱が起こります。ある人がこうだと言い、また別の人はああだと言って、お互いに相反することを神から来たものであると言い張ったりします。しかし、そこには神はおられません。神は混乱を引き起こされるような方ではありません。平和と秩序の神であります。
2C 女性の発言 34−40
平和と秩序について話しているので、パウロは今度は、その秩序を乱す女性の発言について取り扱っています。聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。
これは、一般的な普遍の原則ではないことをまず話さなければいけません。なぜなら、同じコリント人への手紙で、11章ですが、女が祈りや預言をするときにかぶり物を着けていなかったら、恥ずかしいことではないか、とパウロは言っているからです。女の人が祈りや預言をしてもよいのです。また、テモテへの手紙には、婦人が若い婦人を教えなさい、とパウロが勧めています。ローマ人への手紙16章には、使徒の賜物を持っている人として女の人の名前があがっているし、アクラとプリスキラの夫婦は、奥さんがプリスキラですが、彼女が教会のなかで語っていたことは間違いありません。
ここでパウロはあくまでも、教会において話すことによって、他の人の話しが聞こえなくなるという混乱について取り扱っています。人が理解できる預言のことばであっても、もし一斉に語ったのであれば、何を言っているのか分からなくなってしまいます。同じように、コリントにある教会において、他の人が話しているのに、妻たちが夫に声をかけていたりした習慣があったようです。初代教会は、当時のユダヤ人の会堂を似せて、礼拝のときに、男と女を分けて座らせていたそうです。男が右側に座っているなら、女が左側に座っていました。そこで、牧師がみことばを教えているときに、その言っていることが分からないことがあったら、「あなた、今言ったことの意味は何なの?」と、向こう側にいる夫に声をかけていたそうです。これでは、牧師の言っていることがわかりません。パウロは、そのような発言を慎みなさい、と命じているのです。
そこでパウロは、御霊の賜物について、自分の言いたい事を締めくくり始めます。神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。
これも大事ですね。神のことばは、もちろん自分だけから出るのでもなく、自分だけにだけ伝わったのでもありません。けれども、自分が示された、と言う人、自分が他の人々に分かち合う、と言って聞かない人がいます。もちろん自分が神さまとの個人的な交わりを持つことはとても大切なのですが、しかし、パウロが12章から語りたかったのことは、教会においてキリストと交わることの重要性なのです。自分だけの神ではなく、すべての人の神であること。他の人との関わりにおいて、キリストと交わること、これが大事なのです。他の人との分かち合いによって共通認識を持ち、同じ土台に上に立ち、同じ判断をすることは、とても大切なのです。
現代は、孤立の時代と言われています。哲学において実存主義というのがありますが、自分自身にとって真理だと感じるものが真理である、という考えです。他人が、これが真理だと言って、自分に干渉してはいけない、という考えです。それに基づいて芸術も変わってきました。よく分からない線や記号があって、これがすばらしい絵画であると評価されているものがあります。人によって捉え方が違うのですが、それぞれが、それが正しい捉え方であればよいとしているのです。自分自身の世界があるので、それぞれが孤立しており、全体として混乱しているのです。
このことが、私たちの信仰にさえ影響を与えることがあります。神さまとの個人的な関係が大切であると強調することによって、他の人々との関係をないがしろにすることがあります。自分がイエスさまを礼拝しているのだから、なぜ他の人たちとともに礼拝する必要があるのか、要は自分がイエスを信じていればよいのではないか、という意見があります。けれども、それはこの現代の哲学やこの世の考えによって歪められた福音です。福音は、すべての信者とともに分かち合うべきものであり、共通の認識、共通の判断の上に保って行かなければいけないものなのです。私たちはキリストのからだであります。ですから、足が手に向かって、私が手ではないからからだに属さない、ということは決して言えないのです。
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません。
実際に御霊の賜物を用いていると思っている人は、パウロが今まで書いたことを主の命令として認めなければいけません。さもなければ、その人が賜物を用いることは許されない、とまでパウロは言葉を強くしています。それだけ秩序は大切なのです。
それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。
パウロは14章のはじめに、「預言することを熱心に求めなさい」と言って、ここでしめくくりに、「預言することを熱心に求めなさい。」と言っています。御霊の賜物は大いに用いられるべきですが、それは教会の益のために用いられるべきであり、また礼拝の秩序がなければいけないとのことでした。みなさんも、御霊の賜物を熱心に求めてください。そして、教会の益になるように御霊の賜物を求めてください。イエスさまが、私たちの間でもっとリアルにならなければいけません。私たちの能力ではなく、主の御霊が私たちを導いていただかなければいけません。そして、私たちはキリストによって互いにつながれていることを認めなければいけません。個人が集まってきているのではなく、私たちはすでにキリストにあって一つとされているのです。