アウトライン
1A 復活の確かさ 1−34
2A 復活の姿 35−58
1B 蒔かれたからだ (死者の復活) 35−49
1C 種から出来るからだ 35−41
1D 異なるからだ 35−38
2D 異なる栄光 39−41
2C 御霊のからだ 42−49
1D 不朽の栄光 42−44
2D 最後のアダム 45−49
2B 変えられるからだ (生きている者の変貌) 50−58
1C 不死の装着 50−53
2C 死への勝利 54−57
3C 勧め 58
本文
コリント人への手紙第一15章を開いてください。前回は、15章の前半部分を学びました。今日は後半部分の35節から58節までを学びます。今回も、前回と同じように死者の復活がテーマですが、その中でも、復活のからだがどのようなものであるかについて学びます。そこで、「復活のすがた」がメッセージの題です。
パウロは、15章において、コリントの教会に入ってきていた偽りの教えについて、取り扱っています。死者の復活はないという教えがありました。そこで彼は、まず第一に、キリストがよみがえられたことの事実を述べました。福音のことばとは、キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られて、そして三日目によみがえられたという、歴史的事実であります。ですから、豊臣秀吉がこの世に生きていたのが確かであり、信じるに値すると同じように、キリストが死者の中からよみがえられたことも確かであり、信じるに値するのです。この世は、「すべてのものは朽ちる。なくなる。死んだら終わりだ。宗教は、そのようなむなしさや不安に安らぎを与えてくれるものだ。」と教えます。キリスト教は、一つの考えであり哲学であり、心に安らぎを与える宗教だと。そして、死んだら終わりであるという事実は変わらない、と割りきるのです。しかし、福音のことばはそうではありません。実際に、キリストがよみがえって、今も生きおられるのです。このことばを信じて、心に受け入れるときに、あのパウロのように、人生の180度の転換が起こります。
第二に、仮にキリストの復活がなかったすれば、宣教も信仰も実質のないもの、むなしいものになるとパウロは話しました。あまりにも多くの人が、自分が信じている事柄が偽物である、実質がないと分かっているのに、宗教活動に従事しています。自分の通っている教会がカルトであり異端であると分かっていても、その活動そのものがやりがいがあるので、そこにとどまり続けることがあります。けれども、もし私たちも間違った動機で祈ったり、聖書を読んだり、教会に来ているのであれば、まったく同じことを行なっているのです。私たちが生きているのは、キリストが生きているからです。キリストが生きているから、私たちは祈ります。キリストが生きているから、私たちは聖書を読みます。そして、他の信者たちとともに礼拝に集います。キリストのよみがえりが、私たちの信仰生活や宣教活動のすべての理由になっているのです。
そして第三に、パウロは、キリストの復活によって、私たちがすべて復活するようになり、また、万物もキリストの支配下に置かれることを学びました。キリストがよみがえったことは、ひとりの人が生き返ったという単純な出来事ではありません。そうではなく、キリストについている者たちの永遠の運命を変え、また万物を回復してしまうほどの影響力をもっていた出来事だったのです。
そして第四に、死者の復活を信じることによって、今のいのちを失う生活を歩むようになることをパウロは教えました。毎日が死の連続であると言いましたが、後のいのちのために、今のいのちを失うことができるのができるようになるのです。
2A 復活の姿 35−58
こうしてパウロは、死者の復活の確かさについて論じました。そして、次の話題に入ります。
1B 蒔かれたからだ (死者の復活) 35−49
1C 種から出来るからだ 35−41
1D 異なるからだ 35−38
ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
どのようにしてよみがえるのか、という質問です。前半部分は、「死者のよみがえりなど、本当にあるのか。」という質問への解答でした。今度は、どのようなからだで来るのか、という問いかけです。同じような質問を、サドカイ派がイエスさまにしたことを思い出せるでしょうか。こう聞きました。「七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。(マルコ12:20-23)」サドカイ派の頭の中では、復活というのはこの地上での生活の復活であるとなっていました。そうすると、彼らがイエスさまに質問したように、矛盾することが多くなるのです。コリントの教会にいる人たちは、同じような矛盾を感じて、「どのようにしてよみがえるのか。」と聞いているのだと思います。面白いたとえを、ある説教師から聞きました。今、自分の家が全焼しました。残されているのは、炭と灰だけです。そこで彼は、自分の奥さんにこう言います。「私はこの灰から、家を建てます。この灰から、以前建てた家よりも頑丈で、見栄えの良い家を建てます。」そうしたら、妻は、「どのようにして家を建てるの。どのような家のなるの。」と聞くでしょう、と言うのです。同じように、死んだからだが、どのようにしてよみがえるのか、と議論しています。
愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
パウロは、そのような質問をする人を、「愚かな人だ。」と言っています。それは、このようなことを言う人たちは、自分たちが知識があり知恵がある科学的な人間である、という自負を持っているからです。復活という考えを馬鹿にする軽蔑的な態度に対して、それを痛烈に批判するために、「愚かな人だ。」と呼んでいます。そして、パウロは、蒔かれた種とそこから出てくる茎や実のたとえを話します。これを使って、復活のからだについて説明します。地上の、ごくありふれた生命体においても観察することができる出来事であるのに、それもわからないのか、愚かな人だ、ということです。
あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
種は、それが土の中で発芽して、それで植物が育ちます。もし種がそのまま種として生きているのであれば、そのからだは出てくることはできます。発芽しなければいけません。これをパウロは、私たち人間の肉体とのからだと、よみがえるときのからだと比べているのです。肉体は種のようです。肉体が死ぬことによって、それで、新しいからだが与えられます。同じ肉体が復活するのではなく、異なるからだによってよみがえります。その肉体のからだと、新しいからだには関連性があります。ちょうど、種の中に、植物として生育するためのすべての情報が含まれているように、私たちのからだの中には、新たにいのちをもった霊を宿しています。この霊はそのまま存続するのですが、異なるかたちのからだを持つようになるのです。
2D 異なる栄光 39−41
そして、その姿かたちが、どのように異なるのかを、また別のたとえによってパウロは説明します。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
私たちが生きている地球と宇宙には、さまざまな姿をもった個体があります。動物によっても肉体は異なるし、また、地上にある物と宇宙にあるものは、これまた異なります。そして、同じ天にあるものでも、星によってそれぞれその姿は異なっています。ですから、復活のからだも、私たちが今持っている肉体のからだとは異なるのです。そして、パウロは「栄光」という言葉を使っています。栄光とは、もともと「重さ」という意味があります。天秤は重いもののほうに傾きますが、同じように、より注目が寄せられるものが「栄光」であります。星の中でも、六等星と一等星とでは、一等星のほうが私たちは目に付くし、それを見分けるのは容易でしょう。同じように、肉体のからだと復活のからだを比べるときも、その輝きが異なるとパウロは話しているのです。もちろん、復活のからだがはるかにすばらしく、栄光に輝いているのです。
2C 御霊のからだ 42−49
そこでパウロは、肉のからだを血肉のからだ、復活のからだを御霊のからだと宣べています。
1D 不朽の栄光 42−44
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
血肉のからだが死ぬことによって、御霊のからだが与えられます。両者の違いは、第一に朽ちるか朽ちないかです。血肉のからだは朽ちます。このことで思い出すのですが、私が小さな時にテレビや映画で出てきた「銀河鉄道999」です。地球にいる人々は、やがて朽ちるからだを捨てて、銀河鉄道に乗って、機械のからだを買うために旅をします。その機械を持てば、寿命を気にしないでいつまでも生きるようになるのです。復活のからだは、機械などという安っぽいものではありませんが、このような永遠に生きることができるからだを持つのです。第二に、血肉は卑しいからだですが、御霊のからだには栄光があります。今、世界中の人が見とれるような美貌を持っている人でさえ、復活のからだには到底かないません。また、オリンピックで金メダルを獲得した体操選手の、均整の取れた筋肉質のからだでさえ、御霊のからだには追いつきません。そして第三に、血肉のからだは弱いですが、御霊のからだは強いです。私たちはかぜを引きます。疲れますし、ストレスをためます。そして、罪の誘惑も受けます。けれども、御霊のからだは、疲れないし、病気になることはないし、誘惑も受けません。このように、まったく異なるからだを持ってよみがえります。そして、それは血肉のからだが死ぬことによって、与えられるのです。
2D 最後のアダム 45−49
そしてパウロは、さらに本質的な違いを説明します。それは、血肉のからだはアダムに似たものであり、御霊のからだはキリストに似たものである、という違いです。聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
この最後のアダムとはキリストのことです。最初の人アダムは、土のちりによって形造られ、その鼻に神の息が吹き込まれました。肉と魂をもったからだです。しかし、アダムは罪を犯したので、死ななければならないものになりました。これが血肉のからだです。私たちは、アダムと同じように罪をこのからだに宿し、そしてアダムと同じように死にます。ローマ書5章において、こう書いてあります。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)」したがって、人間は自分のことを父なるアダムに結びつけて考えることができるのです。自分はアダムが罪人であるように、自分も罪人である。そして、アダムが死んだように、自分も死ぬ運命にある、ということです。
しかし、最後のアダムであるキリストはどうでしょうか?キリストは、ただ一度も罪を犯されませんでした。神が求めておられた義を全うされ、実に、律法の要求する死刑をも全うされました。そして、キリストは死者の中からよみがえれました。それは朽ちるからだではなく、栄光ある朽ちないからだです。私たちがキリストが自分の罪のために死に、そしてキリストがよみがえってくださったと信じるならば、今度は最初のアダムではなく、キリストと自分を結びつけて考えることができるのです。キリストが律法の義を全されたように、神は、私たちをキリストにあって、義なる者として見てくださいます。そして、キリストが罪のゆえに死なれたように、私たちを罪に対して死んだ者であると見てくださいます。そして、キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちがキリストにあって生きた者とみなしてくださいます。そして、キリストがよみがえられたように、私たち自身も新しいからだを持つようになるのです。
パウロは続けて、アダムとキリストの対比を行なっています。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
アダムは、その名のごとく、土のちりから造られた者です。私たちが持つ血肉のからだは、土の主要な17要素と同じ要素を持っています。この地球という環境に住むのに、最適なからだを持っているのです。中学か高校のときに、私たちには、とてもつもない気圧がかかっていることを知りました。ちょうど深海底にいるように、私たちは大気の底にいるのです。その中でつぶされずに生きることができるように造られているのですから、主の創造はすばらしいです。けれども、この地上と天国は、まったく異なる環境であります。天における要素というものがあり、それは宇宙に存在する原子とか異なるものでしょうが、天にある要素があり、その要素によって造られたからだがあるのです。それを私たちが身に付けます。私たちは今、非常に不都合なからだの中に生きてます。霊は贖われているのですが、このからだはまだ贖われていません。霊は神のみこころを行ないたいと願っているのですが、からだは地上のことを行ないたいと願っているのです。したがって、私たちのうちに絶えず、肉と霊の戦いがあるのです。しかし、贖われた霊と調和する、天におけるからだを私たちは身につけるのです。
2B 変えられるからだ (生きている者の変貌) 50−58
そして、15章におけるクライマックスに入っていきます。
1C 不死の装着 50−53
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
ここが大きな原則です。血肉のからだは、神の国を相続することはできないのです。イエスさまも言われました。「人は新たに生まれなければ、決して神の国に入ることはできません。」どんなにもがいても、努力しても、修行を積んでも、何をしても、私たちが持っているのは、地上のものです。上から生まれることなしには、決して神の国に入ることはできません。イエスさまは、「あなたがたは天の父が完全なように、完全な者となりなさい。」と言われました。この地上の者には、天のドアは閉められたままなのです。だから、神の国にふさわしいからだが必要なのです。それが、御霊のからだです。
そこで、パウロはこう言います。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
これまでキリストにあって眠っている人は数多くいます。眠っているというのは、死んでいるということです。その状態が永遠に続くわけではない、ということで眠っているという表現を使っています。しかし、私たちはすべての者が同じように眠るまで、復活ができないということではありません。神は、イエスさまが再び来られる時を定めておられます。その時が来ると、死んだ者はみなよみがえり、新しいからだを持ちます。そして、キリストを信じている生き残っている人たちは、まだ死んでいないのですが、この血肉のからだが変えられて、新しいからだ、御霊のからだを身につけるようになります。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
終わりのラッパとは、イエスさまが天から空中に来られるときに吹き鳴らされるラッパです。私たちは一瞬のうちに、瞬きをしているうちに引き上げられます。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
私たちが神の国を相続するとき、私たちは神とともに永遠にいることになります。そのときに、神にふさわしいからだが必要になるのです。海外には、高級レストランでは、「ジーパンの方、サンダルの方はお断りします。」という標識が掲げられていることがあります。スーツやドレスを着なければ入ることができない会場があります。これと同じです。神のみもとに行くときに、それにふわさしいからだを持っていなければいけないのです。朽ちないからだ、死なないからだを身につけなければいけません。
2C 死への勝利 54−57
そしてパウロは他からかに、死への勝利を宣言します。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
なんとすばらしい預言でしょうか。死そのものが滅びます。パウロは、15章の前半部分において、死は最後の敵であると言っています。この死が、すべての人間を脅かし、恐怖におとしいれ、希望、信仰、愛を抱かせなくしているのです。しかし、死そのものが滅びます。死が不死によってのみこまれます。死がない世界が構築されます。ハレルヤ!です。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
この死は、罪によってもたらされました。そして、律法によって罪が生き、私たちをさらに罪深いものとしました。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
キリストが律法に対して死んでくださり、罪に対して死なれました。そして、死に勝利され、よみがえられました。このキリストにあって、私たちは罪に対しても、律法に対しても、死に対しても、圧倒的な勝利者となっています。
3C 勧め 58
そこで最後の勧めです。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
私たちは今、このようにして、地域における宣教活動、奉仕活動をしています。主のわざを行なっています。そのすべての原動力は、まさに、パウロが言った、「ですから」にかかっているのです。つまり、死者の復活の希望を持っているから、主のわざに励んでいるのです。
パウロはまず、「堅く立って、動かされることがようにしなさい。」と言っています。堅く立つとは、福音のことばの上に堅く立つことです。キリストが自分の罪のために死なれ、葬られ、三日目のよみがえられたことに堅く立つのことです。私たちが奉仕や宣教を始めた途端、私たちは、キリストの死を身にまとい、キリストのよみがえりを身にまとう生活をはじめます。キリストがさげすまれ、キリストが拒まれたように、自分も誤解され、偏見の目で見られ、無関心に囲まれ、あざけりを受けるようになります。また、自分のプライドもこなごなに砕かれるようになります。自分の弱さを知り、あのパウロのように、「弱さの中に、キリストの力が完全に働く。」と告白するようになります。へりくだりと従順を学ぶようになります。そして、キリストが十字架の上で、その死から救い出してくださるかたに祈られたように、自分も復活すること、キリストが再臨されることを切望するようになるのです。そして神の国を思うときに、私たちはますます、この世において自分を捨て、十字架を担うことがなっていきます。この繰り返しであります。キリストの死をこの身にまとい、キリストのよみがえりをこの身にまとうのです。
そしてパウロは、「自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っている。」と言っています。これも、死者の復活を知っているがゆえに理解できることです。私たちの宣教の働きには、この世における報いはありません。もしこの世における報いを宣教に求めるのであれば、この働きほどみじめなことはないでしょう。けれども、死者の復活がある、神の国があることを知るときに、すべての労苦に報いがあることを私たちは知るのです。まさに、目に見えないことのために、私たちは今、働いています。ほんとうに、私たちは聖霊による啓示が必要ですね。目に見えないもの、天における栄光、死者の復活を、はっきりと霊の目で見ていることが、私たちがここで労苦することの意義を見出してくれるからです。
死者の復活は、私たちの今の働きに直結している希望なのです。
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