アウトライン
1A しるし 1−4
2A 問題性 5−17
1B しもべなるパウロたち 5−9
2B 各人の働き 10−14
3B 神殿なるからだ 15−16
3A 解決 18−23
1B 愚かな者 18−20
2B キリストの者 21−23
本文
コリント人への手紙第一3章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「肉的クリスチャン」です。パウロは、コリントにいるクリスチャンが御霊ではなく肉に属する者であると言って、彼らの過ちを正しています。
2章において、私たちは、この世界に二種類の人がいることを学びました。一つは、生まれながらの人です。御霊によって新生していない人です。このような人は、神さまのことについて理解することはできないことを、学びました。聖書にはっきりと記されていることであっても、また、論理的にも理にかなったことであっても、彼らはそれを受け入れることができません。霊的に、神との交信ができない人のことを指します。そして、もう一種類の人は、御霊の人です。御霊によって新たに生まれて、御霊に支配されている人のことであります。その人は、神についての事柄について理解することができ、日々の生活において、どのようにキリストに拠り頼んでいけばよいのかを知っている人たちであります。
1A しるし 1−4
そして3章に入ります。ここでは、この二種類の人の他に、もう一種類の人がいることをパウロは指摘します。さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
肉に属する人がいます。彼らは、キリストにある幼子とあるように、クリスチャンであります。イエス・キリストを自分の救い主として信じています。しかし、御霊に支配されるのではなく、肉に反応しています。自分自身をすべて主におささげしていない人です。ですから、救われているのですが、その救いの中で憩うことをしていません。
パウロは、そのような人たちを、「幼子」と呼んでいます。私たちはイエスさまを信じたときに、新たに生まれました。そして、私たちはキリストにあって成長し、成熟へと向かいます。私たちがイエスさまを信じたばかりのとき、私たちはどのように祈ればよいかよく分かりません。また、聖書もよく分かりません。克服しなければいけない古い習慣をまだ持っています。けれども、彼らの祈りはとても新鮮であり、聖書の受け止め方もとても素直で純粋です。彼らは新しく生まれたばかりの幼子であり、そのような彼らを見ることは他の人たちにとって喜びです。しかし、イエスさまを信じてから20年たっても、同じような状態であったらどうでしょうか。自分に対する、神のみこころが何であるかがまだ分かりません。聖書もあまり分からず、聖書を読みません。まだ肉の問題を抱えて、それを克服できずに苦しんでいます。20年が過ぎているのに、自分の生活からどのような実が結ばれているかを、見ることができません。このような状態は悲しむべきことであり、実にコリントにいる人々は、まだキリストにある幼子だったのです。
私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
肉的なクリスチャンは、キリストについての奥義、神のうちに隠された知恵やご計画を聞き取ることができないという問題があります。他のクリスチャンたちの証しを聞くことは好きなのかもしれません。また、「幸せな結婚生活のために」とか、「自分を愛するために」とかいう、ハウツーの本を好んで読んでいるかもしれません。けれども、キリストとはどのような方なのか、キリストがどのような働きを行なわれているのか、キリストの愛についての深さ、高さ、長さについて、無関心であります。聖書の学びによって、自分の生活にそれが、どのように当てはまるのかがよく分からない人たちのことです。
けれども、私たちが成長するためには、神のみことばを味わなければいけません。私たちは、人々の証しを聞いて、霊的に成長することはできません。それによって励まされ、慰められることはできるかもしれませんが、霊的には成長できないのです。なぜなら、神はある人に対して行なわれる働きは、必ずしも自分自身に対しても同じことを行なわれるとは限らないからです。私たちが、神のみこころを個人的に知るには、ただ神のみことばを学ぶことによってであり、神のみことばを信仰によって受け入れることによってのみです。
あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
肉的なクリスチャンのもう一つの問題は、ねたみや争いがあることです。霊的な飢え渇きがあるのですが、その心の満たしを、主の前に静まって、主との深い交わりの中で得るのではなく、周りのクリスチャンに不平不満をぶつけたり、批判をすることによって満たそうとします。自分の言いたいことを相手にぶつけて、みなが自分に同意してもらうまで主張しつづけます。それは、主との交わりがまだ浅くて、心情的なもの、感情的なものになっているからです。もっと深く、知性、感情、意思のすべてを含む全人格的なものにまで、私たちは主との交わりを深めなければいけません。そして、肉的クリスチャンは、分派心が強いことが特徴になっています。
ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
「あの先生はこんなにすばらしいのに、なんだこの人は、だめだなあ。」と、ある奉仕者にくみして、他の奉仕者を批判します。キリストのご人格ではなく、伝道師や牧師の人柄、その伝道や宣教の仕方、そうした枝葉末節なことに関心を置いて、分派を作っています。
このように、肉に属するクリスチャンは、霊的に幼子であり、神の奥義について無理解、無関心であり、そして、ねたみや争いあり、分派心がある人のことです。そこでパウロは、彼らの過ちを、いろいろな説明によって正そうとします。
2A 問題性 5−17
1B しもべなるパウロたち 5−9
アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
肉的なクリスチャンは、人にくみしています。そして、その人を中心にして考えて、その人を柱にしています。けれども、パウロとアポロは、中心的な存在ではなく、主のしもべ、奉仕者である、とパウロは言っています。大事なのは、私たちとあなたたちとの関係ではないよ。あなたがキリストにあって成長することが大事なのだよ。あなたたちが、キリストにあって成長させるために、お手伝いしたにしかすぎないのだよ、とパウロは言っているのです。ですから、大事なのは、あなた自身が神に対して、どのような責務を果たしているかなのです。神と自分との一対一の関係が、キリスト教のすべてであります。ですから、しもべであるパウロ自身も、「主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。」と言って、主に対する自分たちの任務について話しているのです。それぞれが主から任されて、それを忠実に行なうことが求められています。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
パウロの働きによってコリントに教会が建てられました。パウロがそこを去ったあとに、アポロが来て、彼らに続けて、神のみことばを語りました。そこでパウロは、「私が飢えて、アポロが水を注ぎました。」と言っているのです。そして大事なのは、「成長させたのは神です。」と言うところです。あくまでも、中心的関心は神なのです。神ご自身と、私との個人の関係であります。そこでパウロは繰り返します。
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
パウロやアポロから目を離しなさい。そうではなく、彼らをとおして知ることができた神ご自身に目を注ぎなさい。この神を知ることが、あなたがたが生きている目的なのですよ、とパウロは言っています。
植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
パウロとアポロは、コリント人が考えているような、競争する相手でもないし、対立する相手でもありませんでした。彼らは一つなのであり、互いに補完するような働きを行なっていたのです。けれども、パウロは、それぞれが自分の働きに応じて報いを受けると言っています。ここで、私たちはクリスチャンとして生きていくうえで、必ず知らなければいけないことがあります。それは、私たちは自分自身の行為に対してのみ、神に対して責任を負っているということです。何か問題が起こったときに、その原因を、自分の周りある事柄に求めようとすると、その原因が何なのかがぼやけてしまいます。例えば、自分の夫が酒飲みで暴力をふるうという問題がある婦人がいるとします。そのときに、彼女が自分の夫が何とか変わる方法を必死で求めようとするのであれば、それは間違いです。もちろん、そのような解決を求めることは大事ですが、クリスチャンとして生きいこうとするのであれば、このような状況に対して、このような夫に対して、自分がキリストにあってどのように応答するかがたいせつなのです。絶えず、主にあって問題を受け止め、自分が主に対してどのようなことを行なっているのかを問い続けることがたいせつです。そうすることによって、主との交わりはさらに深まり、主のご臨在をさらに意識することができ、主にあって成長することができ、このことに対する報いを、将来、天において受けることになります。ですから、パウロは、「それぞれ」と言いました。各人が、自分自身の働きに従って報いを受けます。
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
パウロは、教会のことを神の畑、また神の建物という比喩で表現しています。私たちのクリスチャン生活、また教会生活は成長して、実を結ぶ存在です。あるいは、土台が据えられて、建て上げられる存在です。途中で問題が生じるでしょう。けれども、問題は問題が生じることではありません。問題が起こったときに、私たちがどのように克服して、そしてさらなる成長へ飛躍できるかが、大切であります。私たちはつねに、成長します。ある人は、私たちクリスチャンは、道路工事の「工事中」の看板を掲げているのだ、と言いました。まだ完成していないのです。ですから、子どもが大人になるために、思春期という、いろいろな問題を出て来る時期を通るように、私たちが成長するときに出てくる痛みを、喜んで受け入れて、そして前進していく、これが健全なクリスチャン生活であり、教会生活です。
2B 各人の働き 10−14
パウロは、教会を神の建物にたとえて、続けて話します。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
パウロが、コリントにおいては土台を据えました。そして後から来て、他の教師たちが教えました。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
教会の土台はイエス・キリストです。教会のすべてのことは、イエス・キリストから出発します。
そしてパウロは、再び、各人の働きに対する報いについて語ります。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
私たちが、天において報いを受けるときの過程について、プロセスについてここに述べられています。これは、キリストが私たちのために来られる日、携挙のあとに起こります。キリストの御座と呼ばれるものです。そこで、主は火によって、私たちが地上で行なったことを試されます。もし、私たちの働きが木や草やわらであれば、それらは焼き尽くされます。金銀、宝石であれば、その働きは永遠の報いとして残ります。木や草やわらで建てた人々も、その働きは報いとして残りませんが、けれども救いを失うことはありません。火の中をくぐるようにして救われます。
その報いの基準ですが、それは、4章に入ると詳しく述べられています。けれども、ここでも紹介しますと、心の動機と忠実さです。私たちが強いられてではなく、キリストの愛に駆り立てられて奉仕を行なったか。また、人に見られるようにして、認められたいから行なったのか。そのような動機によってさばかれます。そして忠実さです。神から任されている事柄を怠りなく行なっているか。神に与えられた機会を、十分に用いているかが問われます。
このようなキリストのさばきがあることを、日々、心に留めている人が、神を畏れかしこんでいる人です。このような健全な恐れがあれば、自ずと、人を責めることはなくなります。問題が起こっても、それによって混乱することはありません。自分の思いの中で上手に問題を整理することができます。今、自分が行なっていることは、神を喜ばせているかどうか、常に自問自答しているからです。
3B 神殿なるからだ 16−17
そして、パウロは、私たちのからだを「神殿」と呼んでいます。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
私たちのからだには、聖霊が宿っておられます。この神殿をこわすとは、おそらく5章に出てくる性的な罪のことでしょう。自分の肉体を汚すことは、聖霊が宿る神殿をこわすことである、とおそらくパウロは言っているのであろうと思われます。
3A 解決 18−23
このように、コリントの人たちが肉的であることについて、パウロやアポロの役割、また、私たちそれぞれが神に対して責任を担っていることを説明しました。そして、パウロは、コリント人たちを促します。
1B 愚かな者 18−20
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。
コリントにいる信者が、世俗の世界で通用するような知恵を求めたこと。雄弁な話を好んだこと、それらに対して、パウロは悔い改めを求めています。愚かになりなさい、と言っています。キリストの十字架は、生まれながらの人にとっては愚かしいことです。けれども、これら愚かなことに私たちは誇りを持つべきです。キリストにあって愚かな者になるように、私たちは前進すべきです。キリストが罪のために死なれた、三日目によみがえられたということ、再び戻って来られること、これらのことを臆せず語ることを恥と思わないことです。むしろ、主にあって、この愚かさを喜ばなければいけません。知者になるためには、愚かになりなさい、とパウロは言いました。
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」
パウロは、旧約聖書の二つの個所から、この世の知恵の愚かさについて述べています。パウロの書簡、またペテロの書簡もそうですが、至るところに旧約からの引用があります。クリスチャンが読むべき聖書は、新約だけで十分であると考えるのは間違いです。もし旧約聖書を知らなければ、新約聖書を理解することは不可能でしょう。パウロは、旧約聖書に精通していました。
2B キリストの者 21−23
そして、パウロはもう一回、彼らに悔い改めを呼びかけます。ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。
だれだれ先生はすばらしい、あの人はだめだ、というような批評はみな、人間を誇っているところから出てきていました。けれども、パウロは誇ってはいけない、と促しています。そして、次に、とても大切なことが書かれています。
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。
このことばを知った人は、さぞかし自由になれるでしょう。自分の周りで起こっているすべてのことは、すべてキリストにあって自分のために益になります。自分はだれか他の人間につくものではなく、すべての人から学ぶことができます。すべて自分の身に起こることは、ただキリストを知るための材料にしか他ならず、全宇宙を持って、私たちはキリストと個人的な関係を持つことができるのです。そして、キリストは神のものです、とありますが、キリストによって、神の恵み、神の賜物、神の祝福、すべてのものを私たちが受け取ることができるからです。
私たちは、キリストにあって、ますます豊かな者になることができます。すべてものから、私たちは学ぶことができるのです。それは単なる知識ではなく、キリストご自身をさらに深く知るための知識なのです。そこには、ペテロやパウロ、アポロの姿はいません。彼らを通して、ますます神の恵みを知ることにはなるだけです。そして、私たちは、すべてキリストに対して責任を負っています。周りの人がどうこうではなく、自分自身がその状況に対してどのように反応しているかが中心課題となります。神を恐れ、すべてのことをとおしてキリストを知る、このような単純な生活がクリスチャン生活です。けれども、それは祝福に満ちており、深く、広いものであります。もはや肉に属するのではなく、むしろ、祈りをとおしての主との交わりと、みことばの学びによって、御霊の人になりましょう。
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