コリント人への第一の手紙6章 「クリスチャンの倫理」


アウトライン

1A 訴訟 1−11
   1B 聖徒によるさばき 1−6
      1C 聖徒のさばき 1−3
      2C 賢い仲裁者 4−6
   2B 義と認められた者 7−11
      1C 不正の甘受 7−8
      2C 神の国の基準 9−11
2A 肉体への行ない 12−20
   1B 主のためのからだ 12−14
      1C すべて許されたこと 12
      2C よみがえりのためのからだ 13−14
   2B キリストと一体のからだ 15−20
      1C 霊による交わり 15−18
      2C 聖霊の宮 19−20

本文

 コリント人への第一の手紙6章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンの倫理」です。「倫理」というと、難しい言葉に聞こえてしまいますが、簡単に言えば、「良いことと悪いことの基準」と呼べは良いでしょうか。殺人は悪いことであり、慈善は良いことですが、善悪の判断をするときの基準を「倫理」と呼びます。この章においては、コリントの教会で起こっていた二つの問題について取り扱われています。一つは、人のものをだまし取る、不正が教会の中であったようです。そこで、ある兄弟が不正を働いた兄弟を、裁判所で訴えています。もう一つは、売春婦と肉体関係を持つ不品行を行なっている者が、教会の中で起こっていたようです。これらの問題を通して、私たちクリスチャンが持っている、善悪のものさしについて考えていきたいと思います。

1A 不正に対して 1−11
1B 霊的なさばき 1−6
 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。

 教会の中にいる者が、他の教会のメンバーに、不正を働いたということで、裁判所で訴えています。パウロは、教会に不正があること自体問題があると考えていますが、その前に、教会内の問題を世俗の裁判所に訴え出ることがおかしいと指摘しています。「正しくない人たち」とありますが、これは自分たちがより優れた人間で、世俗の裁判所の人たちが劣っている、ということではありません。信仰によって、正しいと認められた、義人と数えられたのがクリスチャンであるのに対して、裁判官はまだ、自分の罪について神に赦しをいただいていません。そういった意味での「正しくない人たち」です。


 ところで、私たちは先週、教会の中で近親相姦の罪を犯している人を、教会から追い出さなければいけないとパウロが言ったところを読みました。5章の最後のところで、「あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。」と言いました。コリントの教会の人々は、パウロがどうのこうの言って、枝葉末節のとこで教会の指導者を批判し、評価していました。けれども、聖書に書かれてあるとても重要な事柄、対処しなければいけない問題については、無頓着だったのです。これが、肉的クリスチャンの特徴の一つであります。本質的ではない事柄について、すぐに人をさばくのですが、本質的な事柄についてはさばくことができません。どのように対処すればよいかを判断する能力がないのです。

 そこで、パウロは、教会で起こった不正について、自分たちの中で対処していないことを嘆いています。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

 
聖徒、つまりクリスチャンは、神の国において、キリストとともに治めることが聖書には書かれています。黙示録
20章6節において、使徒ヨハネは、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」と言っています。私たちは、神の国における行政を、キリストから任されるようになるのです。ですから、クリスチャンは、教会で起こった、日常生活のごく小さな事件について、教会の中でさばかなければいけないし、またさばくことができるのです。

 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

 
私たちがさばく御使いとは、神に反逆して、堕落した悪魔や悪霊どものことでしょう。したがって、私たちは、目に見えるこの世界をさばくだけではなく、目に見えない霊的な世界においても、さばくことになります。それなら、人のものをだまし取るという目に見える事柄は、当然、自分たちでさばかなければいけないと、パウロは言っています。


 それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。

 裁判官のことが、「教会では無視されている人たち」と呼ばれています。彼は不信者だからです。この手紙の2章においては、彼は、キリストの十字架が愚かなもののように聞こえる人であり、生まれながらの人間です。パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
(Tコリント2:14」教会で起こっていることは、霊的な事柄であります。この世の原理とは、まったく異なる原理で物事が動いています。したがって、教会で起こっていることを判断する人は、御霊によって新たに生まれた人でなければいけません。そうでなければ、教会の中で起こっていることが理解できないのです。したがって、不正のような社会的問題についても、裁判所に訴え出るのではなく、教会の中で解決すべきです。

 私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。

 
コリントの教会の人々は、自分たちには知恵があるとのことで誇っていました。けれども、争いを仲裁することができるような賢い者がいない、と言って、パウロは彼らに恥じをかかせているのです。

 それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。


 兄弟が兄弟を告訴するということは、内輪もめであり、それを人に見せることは恥ずかしいことです。


2B 福音による生活 7−11
 そこでパウロは次に、クリスチャンが仲間を訴えることそのものについて、その問題性を指摘しています。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

 クリスチャンが訴訟において、たとえ勝ったとしても、訴え合うそのことがクリスチャンにとって敗北であります。なぜなら、聖書には、神さまが、復讐してはならない、敵を愛しなさい、という命令を、なんどもなんども与えておられるからです。有名な山上の垂訓において、イエスさまは、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ
5:39」悪いことをされても、逆にその人に善を行ないなさい、という命令です。また、「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。(マタイ5:24」とも言われました。仲直りや和解を、神を礼拝する前にまず行いなさい、という命令です。

 私たちクリスチャンは、現実の問題として不正のような事件に巻き込まれることがあります。そのときに、パウロが話したように、クリスチャンが仲裁に当たり、問題を解決するように動くことは大切です。けれども、もっと大切なことがあります。それは、私たちは単に、法律的なこと、おきてや律法を守っていればそれで良い、という存在ではなく、神の福音の中に生きる者なのです。神がキリストにあって私たちを赦してくださった。ならば、私たちも互いに愛し合って、そして赦し合わなければいけない、という福音です。人が被害を受けて、害を与えた人を恨み、憎んでも、だれもその人を咎めることはしません。怒るのにもっともな理由、憎むのにもっともな理由があるからです。けれども、クリスチャンは、当然仕返しをして良いような嫌がらせを受けても、私たちの主イエス・キリストのために、それを耐え忍ぶことができるし、また耐え忍ばなければいけません。

 ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。

 
パウロは、不正を受けた人から、不正を行なった人へ矛先を向けています。仕返しをすることは悪いことですが、不正を行なうことはもっと悪いです。そこでパウロは、このようなことを行ないつづける者は、救われることはない、神の国に入ることはできないことを明確にしています。

 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。


 パウロは、「だまされてはいけません。」と言っています。そうです、多くの人が、救いについての教えについて、だまされています。一度、信仰告白をして、それで罪の中にとどまり続けている人を見て、「あの人は一度、信仰告白をしたのだから、彼は天国に行ける。救われている。」と勘違いしてしまいます。けれども、パウロは「だまされてはいけません。」と言っています。不品行な者、つまり結婚をしていないのに性的関係を持っている人、ポルノ雑誌を読んで、なんら罪悪感を抱いていない人、下品な話しを平気で行っている人、このような人は、いくら自分がクリスチャンであると言っても、神の国に入ることはできません。偶像を礼拝する者もそうです。クリスチャンであると言いながら、神仏に手を合わせて祈りお供え物をささげて、まことの神に対して何ら罪意識を感じないのであれば、その人も神の国に入ることはできません。同じように不倫関係にいる人、ホモセクシャル、盗む者、むさぼるもの、酒に酔いしれる人、中傷する人、人のものを奪う取る人などは、決して救われません。


 けれども、次に、すばらしい福音メッセージがあります。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。

 
パウロは、「以前はそのような者でした。」と言っています。昔はそのような者であったが、今は、新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しいのです。過去がどんなに汚れていた生活であったも、傷を受け、悲惨な状態にいたとしても、過去にどんなに暗いものを持っていても、だれでもキリストにある者はみな新しく造られます。まったく新たな歩みが用意されていること、これが福音です。

 しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。


 パウロは、私たちが新しくされたことを、「洗われ、聖なる者とされ、義と認められた。」と言っています。すべてが受動態であることに注目してください。自分が自分を洗い、聖なる者となり、正しい者になるのではありません。自分はただ、ありのままの姿を主イエス・キリストの前に持ってくればよいのです。「私は、このような罪人です。汚れた者です。」そうすれば、自分ではなくて神が御霊によって、私たちを洗い、聖なる者とし、また義と認めて下さいます。


 「洗う」「聖なる者となる」「義と認められる」には、それぞれ意味があります。「洗う」とは、私たちが罪によって汚れていたところから、聖霊によって洗わます。御霊によって新たに生まれることができます。そして、聖なる者とされるとは、自分が神だけのものとなる、ということです。今までは、この世の中の一部であり、機械のねじのように、むなしい、無意味な生活を送っていました。けれども、神は、あなたを選んで、ご自分のものとされようとこの世から選び取ってくださったのです。これが聖なる者とされる、ということです。それから、義と認められるとは、神の前に立って、何ら咎められるところはない無罪の者と認められる、キリストのように正しい者とみなされる、ということであります。自分が汚れているという悩みを持っているでしょうか。自分がむなしいという悩みはありますか。自分が罪と咎がある、という悩みはどうしょうか。神は、キリストによって、私たちをそのような穴の中から救い出してくださったのです。私たちにはできなくなていることを、神がみなキリストにあってしてくださいました。私たちは、ただキリストを信じて、心の中に受け入れるだけで良いのです。

2A 不品行に対して 12−20
 このように、私たちは福音の中に生きるものです。そこでまったく新しい尺度で、この世にあって生きることができます。次に、売春婦と関係を持っていた人がコリントの教会にいたことに対して、パウロは取り扱います。その中で、単にそれが悪い、いけないことだ、と責めるのではなく、クリスチャンの新しい尺度、倫理基準について紹介しています。

1B 真の自由 12−14
 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

 
パウロは、「すべてのことが私には許されたことです。」と言っています。「許されたこと」とは、「法にかなったことです。」と言いかえることができます。パウロにとって、いや、クリスチャンにとって、「これこれを行なったら咎められる。」「これこれをしたら、いけない。」というおきてはまったくない、と言うことであります。クリスチャンではない人にとっては、キリスト教のイメージとして、「お酒を飲んじゃいけないんでしょ。たばこもだめなの。」というおきてのことが気になるようにです。どうして気になるかというと、自分の今までの生き方は、「人に迷惑をかけたり、警察に捕まるようなことをしなければ、ほどほどに自分の好きなことをしてよい。」と考えだからです。自分なりに捉えている、社会的ルールがあって、それにある程度則って生きれば、それで良いではないか、と思っているのです。そこで、クリスチャンがお酒を飲まない、たばこを吸わない、日曜日はゴルフではなく教会に行く、所得の十分の一を献金する、となると、「なんと窮屈な生活なのであろうか。」と感じてしまうのです。


 しかし、このような、「ある程度のことを行なっていれば、それで良い。」というような倫理基準で、クリスチャンは生きていません。自分が社会から受け入れられるために努力する必要はなくなりました。なぜなら、神が自分を買い取って、私を受け入れてくださったからです。罪意識を感じる必要もありません。なぜなら、神が私の罪を赦してくださり、私を決して罪に定めることをなされないからです。したがって、神や人に受け入れられるために努力するとか、神や人に好意を持ってもらうために努力する必要がなくなったのです。神に完全に受け入れられ、聖なる者とされ、義と認められているのです。

 ですから、私たちは、まったく新しい尺度で生きることができます。パウロは第一に、「すべてが益になるわけではありません。」と言いました。これは、「目標に達するために、益になるわけではない。」と言いかえることができます。律法の行ないではなく、信仰によって生きる人は、オリンピックの競走選手にたとえられています。パウロは、「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。(Tコリント9:24」と言いました。自分が100メートル走で走る選手だとします。そこで自分は、あらゆる筋力トレーニングや肉体の健康管理を行ないます。自分が履くシューズも、なるべく速く走ることができるような、ハイテクのものを選ぶでしょう。これらのことは、とくに競技規定の中で行ないなさい、と命じられているわけではありません。別に、ゴム製の長靴を履いて、100メートル走に参加してもよいのです。けれども、それは、自分にとって益にならない、ゴールにまで走るのに妨げになると思うから、履かないのです。クリスチャンでない人は、自分が咎められなければなんでも行なって良い、と考えますが、クリスチャンは、咎められなくても、目標に達するために自分を制していくのです。

 私たちは、血を流すほどに自分を愛してくださったイエスさまをもっと知りたい、もっと愛したい、という目標を持っています。そして、イエスさまから、「よい忠実なしもべだ。」とほめられたいという目標を持っています。そのために、自分を制して、あらゆることをします。だれからも強いられることもなく、いやいやながらでもなく、自ら進んで、自分を主におささげするのです。

 そして、第二にパウロは、「私はどんなことにも支配されません。」と言いました。クリスチャンは、すべてのことが許されている、ほんとうに自由な存在です。これこれをしてはいけない、あれこれをしてはいけない、というおきてによって生きていない者であります。けれども、もし、あることを行なって、そのものに支配されることがあれば、自分の持っている自由を保つために、そのことを避ける、という選択を取ります。自分が完全に自由でいるために、自分を再び虜にするような存在から、自分を遠ざけるのです。たとえば、多くのクリスチャンがお酒を飲みません。別に、お酒を飲んでもよいし、酔いしれなければよいのです。けれども飲みません。それは、お酒を飲むことによって、聖霊が自分に与えて下った、喜び、冷静な分析力、善悪の判断、それらのものが取られて行ってしまうからです。聖霊に満たされ続けるために、その喜びを自分のものにしておくために、多くのクリスチャンがお酒を飲まないのです。クリスチャンになると、自分に当然あるべき権利を、キリストにあって生きていくために、引き下げるほどの自由を持っています。

 したがって、クリスチャンは、「自分がこれを行なうと罰せられるか、罰せられないか。」という基準で生きているのではなく、「これを行なったら、目標に向かって走ることができるか、また、自由なままでいられるか。」という基準で生きるようになるのです。

 そこで不品行についてパウロは話すのですが、これを単に、「いけないことだ!」と咎めるのではなく、なぜ自分たちにとって不利益なことになるかを説明します。食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。

 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある、というのは当時のことわざであったようです。人間は食うために生きている、という考えです。けれども、神は食物も腹も、みな滅ぼしてしまわれます。けれども、同じように、私たちのからだは何かのために存在しています。パウロは、「主のために」存在している、と言います。

 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。


 主がよみがえられたように、主を信じる私たちも復活します。したがって、私たちの肉体は、主との関係において、とても大切なものになります。よく、「心の状態がよければ、外側で何を行なってもよいだろう。」という考えがありますね。心の中で偶像を拝むわけではないのだから、神仏の前に手を合わせてもよかろう、と考える人がいますが、私は、それは間違っています。肉体において行なっていることは、神との霊的な関係に影響します。私たちのからだは主のものであり、からだにおいて行なうことは、主との関係に影響を与えるのです。


2B 主との交わり 15−20
 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。

 ここで大切な真理を、パウロは話しています。私たちのからだは、キリストのからだの一部であるということです。私たちはキリストから離れている存在ではなく、また近くなった存在ではなく、まさに一つとされた存在なのです。キリストに結びつけられる花嫁であり、切っても切り離すことのできない深い結びつきの中にいます。

 キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

 
キリストと遊女が一つになることなど、絶対に許されません、とパウロは言っています。

 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。

 
聖書において、性交渉は、その二人がそのまま一つになると考えられました。つまり、結婚をすることになると考えられています。単に肉体が一つになるのではなく、精神的に、人格的に、また生活全般において、人生観においても一つになっていくほど影響力を持っているのです。ですから、結婚という社会的責任の枠組みの外で行なう性行為は、その人のあらゆる生活の場面において、大きな歪みをもたらします。肉体的な交わりは、精神的にも霊的にも影響を与えるのです。

 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

 
私たちはイエスさまを一つとなり、交わりを持っていますが、それはもちろん肉体的な交わりではなく、霊における交わりです。


 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

 
怒りちらしたり、物を盗んだりすることなど、あらゆる罪は自分以外のものに害を与えます。けれども、不品行を行なう場合は、自分のからだに害を与えます。性病がそれです。自分のからだに対して罪を犯したので、自分のからだに害が及んでいます。


 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 先ほど、私たちの肉体は主のものである、とパウロは言いましたが、どのように主のものであるかと言いますと、聖霊が自分のうちに住んでおられるということにおいて、主のものになっています。これは、すごいことですね。聖なる御霊、神である御霊が、私たちのこのからだに宿っておられます。もちろん、聖霊さまは、神ですからすべてのところにおられますが、とくに私たちとの関係において、うちに宿られる深い関係を持っておられるのです。

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。


 あなたのからだは、あなたのものではなく、神のものである。なぜなら、代価を払って買い取られたのだから、この教えは大事ですね。私たちは、自分のしたいことは何でもしてよかろうと、と思いがちです。けれども、自分のからだはもはや自分自身のものではなくなったのです。神が、キリストの血という代価を支払って、私たちを買い取られました。ですから、パウロはこう言っています。

 ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 
私たちは自分の好きなことを行なうのではなく、神の栄光になること、神を喜ばせるようなことを行ないます。


 ですから、不品行について、「人の迷惑にならないのだから、構わないだろう。」というような考えはクリスチャンになると通用しません。自分はもはや、自分自身のものではなく神のものである。聖霊が私のうちに住んでおられる。また、キリストのからだの一部なのだから、主との交わりを妨げるようなものには、一切関わらない。このような意識を持って、自分のからだに対する管理を行なうのです。コリントにいる人たちは、この世の常識やこの世の習慣によって生きていました。法的に、慣習的に許される範囲で動いていました。けれども、クリスチャンの判断基準は違います。どのようにしたら益になるのか、福音の中に生きたい、人を赦したい、どうしたら自由なままでいられるのか、そのようなことを考えながら生きるのです。こんなにすばらしい祝福された生き方はありません。まったく異なる倫理によって生きています。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME