コリント人への第一の手紙7章 「クリスチャンと結婚」


アウトライン

1A 夫婦の務め 1−9
2A 誓約 10−24
   1B 内容 「別れてはいけません」 10−16
   2B 原則 「召されたときの状態」 17−24
3A より大切なこと 25−40
   1B 妨げられない 25−35
   2B 自由な決断 36−38
   3B 主のみこころ 39−40

本文

 コリント人への手紙、第一7章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンと結婚」です。クリスチャンにとって結婚とは何か、また、どのような態度で結婚を考えなければいけないかについて書いてあります。

1A 夫婦の務め 1−9
 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。

 コリントにいるクリスチャンは、パウロと手紙を交換していました。コリントの町は、不道徳なところとして有名でしたので、コリントにいるクリスチャンは、つねに性についての正しい考え方を求めていました。パウロは、私たちが前回学んだ5章において、結婚外における性的交渉について取り扱いました。遊女と交わることがいかに間違っているかについて述べました。それは、コリントにいる人にとっては、遊女と交わることはあまりにも当たり前のことであり、クリスチャンになってからも、信仰と自分のからだに対して行なうことは別物であると考えてしまっていたからです。しかし、その一方で、いかなる性の営みも汚れていると考えた、禁欲的な考えの人たちがコリントの教会の中にあったようです。コリントの町があまりにも性的に汚れていたので、その反動としてそのように考えてしまったのでしょう。性欲は是か非かという極端な二つの意見に、コリントの教会は分かれていたようです。そこでパウロは、男が女に触れてよいのか、という禁欲的な考えの人への解答として、この7章を書いています。


 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。

 パウロは、男が女に触れるのは良いのか、という問いにとして、そのとおり、触れないほうが望ましいであろう、と答えています。つまり独身を勧めています。しかし、そのようなことを言うと、独身のままでいて、それで性交渉をすればよいだろう、という遊女との交わりに走るような人がいるかもしれません。そこでパウロは、「不品行を避けるために、妻を持ち、あるいは夫を持ちなさい。」と勧めています。聖書の中では、結婚は神によって祝福されたものとして考えられています。人が創造されたあとに、次に女が造られました。そのときに二人は一心同体となり、夫婦生活を始めました。神は、「生めよ。増えよ。地に満たせ。」とおっしゃられて、人間が結婚をして、子を宿し、家庭を築くことを喜びとされたのです。ですから、結婚は祝福されたものです。けれども、パウロは、性欲は是か非か、というコリントにある特有の問題に対処するために、不品行を避けるための結婚を勧めています。独身で性行為をするようなことがないように、あなたがたは結婚をしなさい、と言っているのです。


 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。

 
これは、夫婦の性的な交わりについて話しています。夫は妻に対して、また妻は夫に対して義務を負っています。夫婦にとって、性行為は汚れたものであるどころか、祝福されたもの、喜ばしいこと、そして、子を宿すために行なわなければいけないことなのです。クリスチャンにとって、子どもを宿すことは結婚をしたことの大きな目標となるでしょう。このごろ、結婚をしているのにも関わらず、家庭を築くことをほとんど考えていない若いカップルが多いと聞きます。子どもを持つことをかったるい、セックスをすることもかったるい、というような無気力な人たちが多いそうです。けれども、それはクリスチャンには当てはまりません。神が与えられた、「生めよ、ふえよ、地に満たせ。」という祝福の命令、また夫婦の営みを祝福される神のみこころをクリスチャンは行なわなければいけません。


 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。

 祈りに専念するとき、日常の営みが妨げになることがあります。食事を作ることはその一つです。食事を作らないことで、食事を作って、食べて、そして後片付けをすることにどれだけの時間がかかっていたのかを知ることができた、とある女の人が話してくれたことがあります。そのようなことがあって、聖書では、断食と祈りを勧めています。同じように、夫婦の営みを一時期控えて、祈りに専念することができます。けれども、これが長すぎると、自制力を欠いて、他の異性にひかれてしまう、という誘惑が出てきます。ですから、離れているのはあくまでも一時期にしなさい、とパウロは勧めています。


 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。

 
パウロは、人が結婚をすべきなのかどうかについての回答において、命令としてではなくアドバイスとして、個人的意見として話しています。聖書には、人は結婚すべきなのか、それとも独身でいるべきなのか、という線引きはされていないからです。ですから、パウロは、コリントにある事情を考えて、自分なりの意見を今、ここで話しているのです。

 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。


 パウロの意見は、独身生活のほうが望ましい、というものでした。彼はクリスチャンになってから、独身として生きています。その前は、結婚していたと考えられます。なぜなら、サンヘドリンの議員は、結婚していることが条件であったからです。今独身であるということは、妻に死に別れたのか、それとも妻が去っていったかのどちらかです。いずれにしても、パウロは独身生活にとって、小アジヤと南ヨーロッパの宣教を、短い期間で広範囲に行なうことができました。妻や子供がいなかったので、いろいろなところに動くことができ、生活の煩わしさがなく福音を語ることができたのです。けれども、パウロは、「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っている。」と言っています。性的な欲求を、必ずしもすべての人が抑制することはできません。できる人だけが独身になりなさい、と勧めています。これは主ご自身もおっしゃったことばです。「というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。(マタイ
19:12」とイエス様は言われました。

 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。

 
夫や妻に死に別れた人たちに対するパウロの意見を述べています。パウロのように独り身のままでいたほうがよい、と彼は言っています。けれども、これはすべての人ができるわけではないから、自制することができなければ結婚しなさい、と勧めています。


2A 誓約 10−24

 このようにパウロは独身が望ましいと思っていますが、次にすでに結婚している人たちについて話しています。

1B 内容 「別れてはいけません」 10−16
 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。

 パウロは、容認ではなく、このことについては命令です、と言っています。それは、主イエスご自身が明確に、結婚についての教えをされているからです。離婚はしてはいけない、という教えです。主は言われました。主は、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マタイ
19:6)」と言われました。このようにはっきりしているので、パウロは自分の意見ではなく、権威をもって命じています。結婚についてのテーマから少しずれてしまいますが、ここから、私たちクリスチャンの意見の出し方について学ぶことができます。私たちは、聖書の中ではっきりと述べられている事柄、何回も繰り返されている強調点、大切な教えなどは、権威を持って、「これは、絶対に間違っている。」と言うことができます。けれども、その他の事柄について、あまりはっきりしていない話題については、「私は、こういう意見です。」という控え目な言い方をすべきであります。パウロは、すでに結婚した信者は離婚してはならない、と強く命じています。

 ・・もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。・・また夫は妻を離別してはいけません。

 
ここでも繰り返しています。ですから、クリスチャンは結婚を生涯のものとして考えなければいけません。現代において、結婚がデートのマッチメーキングの延長として考えられていますね。うまくいかなければ、他の人に乗り移ればよい、という考えがテレビやその他のマスメディアによって流布しています。あるいは、唯一夫婦を結び付けているのは、息子や娘がいるからだとします。けれども、クリスチャンは、子どもがいるからというような消極的な理由で結婚しつづけるのではありません。自分たちを結びつけたのは、自分たちではな神ご自身であるという信仰によって結婚生活を歩むのです。ですから、一生涯ともに生活をする人として結婚します。それでは、離婚をしてしまったクリスチャン、再婚をしてしまったクリスチャンは、もはやクリスチャンとして生きることはできないのでしょうか。そうではありません、姦淫の罪を犯していた女に対して、イエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:
11」と言われました。したがって、悔い改めて神に立ち返るのであれば、ふたたび新たな歩みをすることができます。けれども、結婚している人が、「自分は離婚できるかもしれない。」と考えるのは言語道断であります。

 次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。

 パウロは、夫婦の片方が信者でないときについて、話しています。夫、あるいは妻が不信者であっても、相手が同意しているのであれば離婚してはいけません。

 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

 
パウロは、片方がクリスチャンでなければ、夫婦の交わりによってクリスチャンが汚されるではないかと考えなくても良いとしています。神は、そのクリスチャンのために、夫あるいは妻を聖いものとみなし、また子どももきよいものとみなしてくださいます。ですから、結婚生活はきちんと続けなければいけません。


 けれども、唯一例外として、離婚せざるを得ない状況をパウロは話します。しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。

 相手が、自分がクリスチャンであるという理由で、離婚を申し出るときには、離れて行かせなさい、と言っています。祈るのを見るのは、いやだ。聖書をこの家から取り除いてしまえ。決して教会に通ってはならない。そのような理由を妻、あるいは夫に突き付けて来たとします。そのときには、それでも教会に通います、聖書を読みます、祈ります、と言って、主を第一としなければなりません。このときに相手が離婚を申し出てくるのであれば、そのときは縛られることはない、とパウロは言っています。結婚生活の中で、信仰上の理由による分裂や争いを、神は望まれないからです。

 なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。


 相手に信仰上の理由から殴られたり、けられたりしても、それでも離婚しないという人がいます。それは、夫が自分を通してクリスチャンになってほしいと願うからです。けれども、自分をとおしてクリスチャンになるかどうかは、分からないのです。だから、彼を、または彼女を去らせるままにしなさいとパウロは勧めています。


2B 原則 「召されたときの状態」 17−24
 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。

 ここに、とても大切な原則が書かれています。パウロはなぜ先ほどから、結婚をまだしていない人に対しては、「そのままでいなさい。」と言い、また、結婚している人には「離婚してはいけません。」と言っているのでしょうか。また、無理やり離婚しようとしている不信者の夫や妻を引き止めることはない、と言っているのでしょうか。それは、「おのおの神がお召しになったときのままの状態で歩みなさい。」という原則があるからです。召されたというのは、救いに導かれたということです。クリスチャンになったということです。クリスチャンになると言うことは、内側の変化です。霊的に大きな変化を受けます。今までは自分自身が決断する道を歩んできたが、これからは神が用意されている道を歩む。自分が神に対して犯した罪が赦された。神の子どもとされた。永遠のいのちがある。神の国を相続する。さまざまな変化があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」とあるとおりです。ですからクリスチャンになったということで、置かれている外側の状況を殊更に変える必要はない、とパウロは言っています。もちろん罪に関する事柄に関わっているのであれば、即座に変えなければいけません。けれども、ニュートラルなもの、罪ではないもの、そのような状況を変える必要はないのだよ、とパウロは言っています。だから、結婚している者はそのまま結婚しており、独身の者はそのまま独身でいなさい、と教えているのです。


 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。

 割礼は、ユダヤ人男子が、生後8日目に性器の包皮を切り取る儀式です。これによって、その子が神とイスラエルとの契約の中にはいることを表していました。ユダヤ人がイエスをメシヤであると信じたとき、パウロはその割礼の跡をなくそうとしてはならない、と言っています。また、逆に割礼を受けてはならない、と言っています。ユダヤ人は、クリスチャンになるべく、律法のすべてを捨ててしまう必要はないし、また異邦人はユダヤ人の律法や慣習をことさらに行なう必要はない、と言っています。

 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。


 重要なのは、神の命令を守ることです。神の命令を守ることに専念して、その他のことはさほど気にかけないことが大事です。


 これは自分の仕事の状況にも言えます。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。

 ローマ社会では、その大部分が奴隷でした。ですから奴隷の多くがクリスチャンになりました。そこで奴隷のクリスチャンは、この状況を変えたい、自由なクリスチャンらしく自由になりたいと願います。けれども、パウロは、外側において自由になることも良いことだが、内側で起こっていることがとても大切だよ、と教えています。罪の奴隷であったのが、今は罪から自由になっています。同時に、自由人は、キリストの奴隷とされました。

 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。


 奴隷でいることは、主人の言うことを絶対的に服従しなければいけません。そのため、キリストにある良心に反してまで、主人の命令を守らなければいけないときが来るかもしれません。そこでパウロは、人間の奴隷となってはいけません、と言っています。神に買い取られた者として、神に対して従順であるためには、機会があれば奴隷の身分から離れることができればそうしたほうがよいのです。けれども、その状況を殊更に変える必要はありません。


 この「召されたときのままの状態で、神の御前にいる。」という原則は、クリスチャン生活にとってきわめて重要です。自分はこれから何をすべきか、神は自分に対してどのような計画を持っておられるか、ということを考えるとき、私たちはとかく、外側の状態や状況を変えなければいけないとあせってしまいます。例えば、会社で働いている人がクリスチャンになったとします。教会に通い始めると、牧師や伝道師がフルタイムで奉仕をしています。私も神に対して献身をしたいから、会社を辞めて神学校に行くのだ、とあせる人たちを、私は何人か見てきました。けれども、そのようなことは大事ではありません。大事なのは、神の命令を守ることです。今、自分が置かれている状況の中で、状態の中で、神は必ず自分に語りかけてくださいます。もしかしたら、隣で働いている同僚のために祈ってあげることかもしれません。通勤するときに行なっていたキセルを止めることかもしれません。けれども、今、自分が置かれているところで語りかける神の御声に聞き従うことに専念してください。そうすれば、神は次の一歩を示してくださり、もしかしたら、自分の身の回りの状況を変えてくださるかもしれません。

3A より大切なこと 25−40
 外側の状況を自分で殊更に変える必要はない、というのがパウロがコリントの人たちに言いたかったことです。それは神の命令を行なうことに専念するためです。次にさらに重要なことを話します。それは、外側のものは滅び去る、過ぎ去る、という事実です。

1B 妨げられない 25−35
 処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。

 ここの処女の意味ですが、これは女性だけではなく、男性も含まれます。性交渉を行なったことのない女性、男性の全般を指しています。このような人は結婚をすべきでしょうか。

 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。

 パウロは、そのままでいたほうがよい、結婚はしないほうがよいとすすめています。その理由が「現在の危急のとき」です。パウロがこの手紙を書いていることから、次第に、ローマ政府による教会への迫害が始まっていました。自分たちの財産、家族、仕事など、生活全般に危害が来るかもしれません。つまり、外側にある自分の状況は、たちまち消え去ってしまう、変えられてしまうかもしれません。そこでパウロは、結婚という生活を大きく変化させるようなことを、しないほうが無難であろうと言っているのです。

 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。

 結婚している人は、むろん離婚してはいけません。それは主の命令であるだけでなく、離婚することによって生活に大きな変化をもたらします。日常生活に深く関わらなければいけないようなものから、なるべく自分自身を離しておくように、というのがパウロの考えなのです。

 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。

 その身に苦難を招くとは、ローマによる迫害によって、その夫婦生活、家族生活が大変なことになる、という意味です。


 このような危機的な状況があったのですが、けれども、どの時代のクリスチャンにも当てはまる、とても大切な真理が次に書かれています。兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

 
パウロは、「次のことを言いたいのです。」と言いました。結婚していない者は独身のままで、結婚している者は離婚しないで、割礼を受けている者はその跡を消さないで、奴隷のものは無理に自由になろうとしないで、…これらの意見の背後にある真理は、「時が縮まっている」また「この世の有様は過ぎ去る」ということです。イエス様は言われました。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(マルコ
13:31」クリスチャンの信仰は、今、自分に与えられているものは、今すぐにでも過ぎ去ってしまうかもしれない。だから、目に見えないもの、神の財産に目を留めなければいけない、というものです。イエスさまは、貪欲になって富を蓄えている金持ちのたとえをお話になりました。その金持ちの畑は豊作でした。そこで彼は心の中で、「作物をたくわえるために、もっと大きな倉を建てよう。これから先何年分も、楽して暮らすことができるぞ!」と言いました。けれども、神は彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:1620参照)私たちは明日、自分はどうなるのか分かりません。目の前にあるものは、すぐに取り去れるかもしれません。またたとえ話の金持ちのように、明日、死んでしまうかもしれません。それでも、自分は満足して、安心していることができるか。そのような永遠のもの、目に見えない大切なものを手にしているか、ということが問われていることです。キリストにある永遠のいのちを、手にしているでしょうか。死ぬときに、自分のからだは火葬場で焼かれてしまいます。からだが焼かれても、まだ持っているものはあるでしょうか。イエスさまは、「わたしを信じなさい。わたしを信じる者は、死んでも生きます。」と言われました。このいのちを自分のものにすることが第一です。

 したがって、クリスチャンにとって結婚とは、二義的なものです。これがすべてではない。目に見えない永遠があり、主ご自身との交わりがあるのです。そのために、もし結婚が妨げになることがあるなら、結婚しないほうがよい、というのがパウロの考えです。そこでこう言っています。

 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

 
独身の人は奉仕のために専念できますが、結婚するとどのように妻、あるいは夫を喜ばせることができるか、と言うことを考えてしまいます。今ここに来ている方々も、結婚していたり、また子どもがいたり、また独身でいたりしますね。私は結婚していますが、子どもができません。結婚の目的として子どもを宿すという神のみこころがありますから、子どもがほしいと願いますし、祈っています。しかし、今の状態に満足しています。なぜなら、主への奉仕に専念できるからです。もし子どもがいたら妻は仕事に行くことができない。私はメッセージの準備をする時間はない。この地域で、神のみことばを宣べ伝える時間はなくなります。もちろんそれでも子どもが与えられれば、すばらしいです。けれども、子どもが欲しい、欲しくないということで自分を煩わせる必要はありません。


 ですから、自分のものが今、なくなってしまうかもしれない、という真理を信じて生きるときに、私たちは大切なことを見失わないで生きることができるのです。

 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。

 本当に結婚したいのに、…と思っている人がいるかもしれないが、そういう意味で書いているのではないのだよ、とパウロは言っています。


2B 自由な決断 36−38
 そこで次にパウロは、結婚に関する決断は自由であることを強調します。もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。

 まだ結婚していない娘を持つ親についてのアドバイスです。結婚させてもよい、とパウロが言っています。

 しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。
結婚しないのも、りっぱなことである、と言っています。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。

 どちらが良いか悪いか、ということではなく、どちらも良いのです。このように、パウロは、決断において、きわめて自由であることを強調しています。これもまた、結婚とは二義的なものである、というところから来た意見です。結婚をどうするかと思い煩うのではなく、自由に決めることにより主に奉仕することができるようにしたい、とパウロは願いました。結婚に限らず、私たちにはいろいろな決断が与えられています。どこの大学に入学するか、どこの会社に就職するか、だれと結婚するのかなどなど、いろいろな決断がありますが、もしその選択に迷って、心を悩ますのであれば、自由に、これがよかろう、と思うところで決めることが大事です。大学も会社も結婚もすべて、二義的なことだからです。


3B 主のみこころ 39−40
 そして最後に、パウロは、「主にある」決断を読者に促しています。妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。

 ただ、主にあってのみ、と言っています。結婚という、生活を大きく変化させるものに関わるとき、それは主にあってのみ、という主の導きによる決断が必要です。大きな決断をするときに、主が導かれていれば、自ずと道が開かれていきます。私たちも、この家を購入する決断をするときに、主の導きを仰ぐ必要がありました。より自由に、より効果的に福音を語るには、この近所で家を買わなければいけない、と思ったのです。家を買うには、いろいろな手続きをしなければいけません。このように、この世の事柄に深く関わらなければいけないときは、とくに主の導きを仰いでください。


 私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。

 パウロは最後に、「これらは私の意見であるが、御霊をいただいている者の意見として聞いてほしい。」と言っています。御霊をいただいている者、これはパウロに限らずクリスチャンであれば私たち一人一人がそうです。御霊をいただいている者は、パウロのように、確固たる原則を持っている人であり、同時にその原則に基づいて自由に行動する人です。7章で出てきた原則とは、霊的な事柄、神と自分との心の中で起こっている出来事が大切であり、外側の事柄をことさらに変える必要はないこと。そして、外側で起こっていることは過ぎ去ってしまうこと。これをよくわきまえていることです。よくわきまえれば、次に、具体的な事柄について、硬直しないで自由に発想し、判断することができます。堅い信仰と、自由な行動、この二つを私たちも求めていきたいと思います。



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