コリント人への第一の手紙9章 「キリスト者の自由」

アウトライン

1A 権利の放棄 1−18
   1B 働きの実 1−2
   2B 支えられる権利 3−14
   3B 権利を用いない自由 15−18
2A すべての人の奴隷 19−23
3A 賞の獲得 24−27

本文

 コリント人への第一の手紙9章を開いてください。ここでのテーマは、「キリスト者の自由」です。私たちは前回、偶像の宮に出入りして、そこで食事を取っている兄弟たちの話しを聞きました。偶像は木や石にしなすぎないのだから、食事をするのは自由でないか、という意見を持っていました。けれどもパウロは、あなたがたが偶像の宮で食事をすることによって、良心の弱い兄弟がつまずきます、と言いました。そこで、私は、いっさい肉を食べません、と言っています。コリントにいる人々が、キリスト者にある自由を乱用していたことを、パウロは指摘していたのです。

 そこで9章に入ります。9章においても、キリスト者であるから与えられている権利、また自由について取り扱われています。パウロは、6章において、「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。」と言いました。クリスチャンは、本当に自由に去れた者です。自由にされた者であるからこそ、普通の人にはできない、へくりだった仕事をこなすことができます。

1A 権利の放棄 1−18
 それでは、1節をご覧ください。
1B 働きの実 1−2
 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。

 パウロは、自分が使徒であることを主張しています。使徒であるためには、主ご自身の復活を目撃していなければなりませんでした。また、使徒は、その働きをとおして、不思議や奇蹟などの神のみわざが現われていなければなりませんでした。これらが、使徒であることの条件でありましたが、パウロはそのどちらの条件にも当てはまっていました。ダマスコに行く途中の道で、主イエスは、パウロに現われてくださいました。また、パウロをとおして、不思議や奇蹟がたくさん行なわれました。パウロは、確かに主から遣われた使徒であります。


 パウロは、「あなたがたが、私が使徒であることの証印ではありませんか。」と言っています。パウロがコリントにいたとき、パウロをとおして、神のみわざが著しく現われました。コリントにおいて、多くの人々が、主イエスを信じました。ですから、コリントにいる人々こそが、パウロが使徒であることを証明できる人たちです。パウロは3節から、使徒にともなう権利について話します。使徒職にともなう当然の権利について話します。けれども、その前に、使徒であることは、その働きの実によって確かめられる、としています。使徒とは、その地位ではなく、働きそのものであります。私たちも、教会における立場について、このような見方をしなければいけません。名称ではなく、実際の働きが大切なのです。例えば、牧師や伝道師、また宣教師などの名称が与えられても、働きがともなっていなければ、その人は働き手として認められません。反対に、神に与えられた賜物を用いて、忠実に働いている人がいるなら、その人は、その置かれている立場に関わらず、その働きにともなう支援、協力、援助を受け取ることができるし、教会の他のメンバーは、その人を支える義務を担っています。

2B 支えられる権利 3−14
 そこでパウロは、自分が福音を宣べ伝えていることを話し始めます。福音を宣べ伝え、みことばを教えている者は、その教えを受けている者たちから、生活のささえを受け取る権利があることをパウロは話します。

 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。

 
コリントにいる教会では、パウロの使徒職の正統性に嫌疑をかける人たちがいました。その人たちに対して、パウロは弁明します。

 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。

 私たちは十分に時間をさいて、福音を宣べ伝え、あなたがたに主のみことばを教えた。そこでさらに、私たちは自分たちの手で働かなければいけないのですか、というのがパウロの問いかけです。コリントの人たちは、十分に、御霊の食べ物をパウロから受け取っていたにも関わらず、パウロを物質的に支えることは考えもしませんでした。彼らは貧しかったわけではありません。ある程度の財産を持っている人たちでありましたが、与えることを惜しんでいたのです。この問題については、
16章で取り扱われます。そして、コリントの人たちは、霊的養いを自分たちに与えているパウロを批判さえしていたのです。

 パウロは続けて話します。私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。

 ケパとは、ペテロのことです。ペテロは、教会の柱とまで認められていた使徒の一人です。彼は宣教旅行に出かけるとき、自分の妻をともに連れて行きました。その旅費を、ペテロだけではなくペテロの奥さんの分もあてがわれていたようです。彼らの生活費は、もちろん教会の献金によってまかなわれていました。

 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。

 
パウロとバルナバは、生活費を自分たちでまかなっていました。彼らは、他の使徒たちと同じくらい、いやそれ以上に福音宣教の働きをしていました。けれども、自分たちで働いていました。

 そこで、パウロは、霊的なことで働いている者は、物質的な支えをうける当然の権利を持っていることを話します。いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。

 兵士の生活は、国でまかなわれます。また、兵役に必要な物資、例えば軍服や武器なども、自分たちのお金で調達するのではなく、もちろん国が支払ってくれます。また、ぶどう園でぶどうを栽培している人が、実ったぶどうを少し食べることは当然できるのです。ですから、福音宣教にたずさわっている人たちは、当然ながら生活のささえを受け取るべきなのです。牧会の働き、伝道の働き、また宣教師として宣教の働きをしている人たちが、います。その働きの恩恵にあずかっている人たちはとくに、その人たちを物質的に支えなければいけない、というのが聖書の教えであり、神のみこころです。

 私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。

 パウロは、今、兵役についている人とぶどう園の農夫のたとえを話しましたが、これは聖書によっても証明されることを話しています。

 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

 脱穀機に牛をつなげて、脱穀してもらいます。そのときに牛にくつこをかけると、彼は落ちた麦を食べることができなくなります。牛でさえ、その働きに対して報酬が得られているのです。神は牛にさえ、このように気にかけておられます。ましてや、人間であれば、ことされに気をかけておられるのです。

 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。


 パウロは、はっきりとコリントにいる人々から生活のささえを得ることは当然である、と訴えています。


 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。

 福音に少しの妨げも与えまい、というのがパウロがここで伝えたいポイントです。もし生活の支えをコリントの人たちに要求したのなら、彼らは、「お金欲しさに、パウロは私たちに教えているに違いない。」と思ってしまうかもしれない。そうしたら、伝えたい福音が彼らに伝わらない。だから、彼らから報酬を得ないで、自分たちで生活の糧を得ているのだ、と言っているのです。


 パウロは続けて、主の奉仕者が、物質的な支えを受けるのは当然の権利であることを、聖書から証明します。あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。

 神殿で奉仕している祭司は、イスラエル人がささげるいけにえの一部を食べることによって、生活していました。


 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。


 主ご自身が、生活のささえを受けるように定めておられます。マタイによる福音書
1010節において、「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」とイエスさまのみことばがあります。したがって、これは、神の命令であり、クリスチャンである人は、奉仕者たちに対して生活を支える義務を持っていることを知らなければいけません。パウロは、自分の生活のささえについて話していますから、このようなことを言うのはとまどったと思います。けれども、これは、常識的に、聖書から、また主イエスご自身によって、あまりにも明らかにされている権利であるので、自分のことではなく、神の視点から、このことを語ったのです。

 このように、働く者がその報酬を受ける、というのは神が定めた方法です。したがって、教会に集っている者は、一人一人、次のことを考えなければいけません。「教会の中で、だれがどれだけ働いているか。自分が、だれから霊的な食物を受け取っているか。」大抵は、教会の牧師や宣教師から、霊的養いを受けています。その人たちは、何時間もかけて祈り、みことばの学びをしています。それを食べているのですから、その人に物質的な支えをしなければならないことになります。あるグループでは、牧師がおらず、一人一人のメンバーがすべて働いている教派もあります。牧師がいないことは聖書的ではありませんが、けれども、そのような集まりであったとしても、その中で献身的に働いている人がいるなら、その人に生活の支えを与えるべきであります。あくまでも、「働きをしている者に、その報酬を与える。」というのが聖書の原則なのです。

3B 権利を用いない自由 15−18
 パウロは、このように、働く者が報酬を受けるのは当然の権利であることをはっきり述べた上で、なんとこの自分の権利を用いないことを喜びとしていることを述べます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。

 
パウロは、コリントにいる人々から、生活のささえを受けたいと思って、このようなことを言ったのではない、と言っています。むしろ、あなたがたから生活のささえを受けるのであれば、死んだほうがましである、とまで言っています。生活のささえを受けないことが、私の誇りになっている、と言っています。先ほど、先ほど、マタイ
1010節のみことば、「働く者は食べ物を与えられるのは当然だからです。」を引用しましたが、そのちょっと前に、8節に、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」というイエスさまのみことばがあります。

 福音、それは、神が一方的に、私たちに与えてくださったものです。私たちは罪人であり、死んで、死後に神のさばきを受けなければいけません。私たちが自分たちを救うのに、できることは何一つありません。けれども、神は、私たちが救われるために必要な代価をすべて、ご自分がお支払いになり、私たちに提供されました。私たちは、これをただのプレゼントとして受け取ることができます。使徒ヨハネは言いました。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示
22:17」五千円を払って受けなさい、ではなく、ただで受けなさい、と言っています。クリスチャンになるために、10万円の献金をしなくてもよいのです。10冊の本を読まなければいけない、という宿題もありません。ただ、「イエスさま、あなたが私の心に入ってきてください。」と祈ればよいのです。

 このように、福音は、神が私たちに、ただで永遠のいのちを受け取ることができるようにしてくださったという知らせです。この知らせをたずさえている者は、この知らせを言葉だけではなく、行ないによっても示すことができるのです。つまり、ただで福音を宣べ伝えること、霊的な養いを与えても、物質的な報酬を受け取らないことです。パウロは、このように、福音を言葉だけではなく行ないによって示すことができることを、喜びと感じていました。受けるのではなく、与えることが幸いである、ともイエスさまは言われましたが、与えることに誇りを抱いていたのです。

 私たちも、そのような方針で、このミニストリーを行なっています。私は無給であり、妻が代わりに働いています。また、礼拝の場所も私たちが提供しています。本来なら、来ている人たちが、私たちの生活のささえを支払うべきであり、将来的には、そうなっていくべきです。けれども、私たちもパウロのように、この権利を用いません。なぜなら、私たちがただで与えているときに、ここに来ている人々が、主の恵み、無償の恵みを、体験で知ってほしいと願っているからです。そして、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」というイエスさまの命令に、ここに来る人たちも学んでほしいのです。子どもを英会話教室に連れてきている未信者の方が、今まで、二、三回、献金をしてくださったことがあります。お金を入れた袋には、「○×先生の神さまへの、お供え物です。」と書いてありました。神はただひとりしかおられない、という真理を、その方はまだ知らないのですが、私たちの信じている神は、ただで与える神であることを体験的に知ったのです。パウロは、コリントにいる人々に、この恵み深い神を示したかったのでした。

 そしてパウロは、次に興味深いことを話しています。というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

 パウロは、自分が物質的な報酬を得なくても、福音を宣べ伝える別の理由をあげています。それは、だれから報酬を受けなくても、これはしなければいけない務めである、ということです。福音を語っても、その人々の心がかたくなで、報酬どころか迫害を受けていても、自分は語らなければいけません。なぜなら、福音を宣べ伝えなかったら、わざわいに会うからだ、と言っています。つまり、パウロは、福音を宣べ伝えるように神に召されたから、召命を受けているからだ、と言っているのです。これは、よく牧師になる人々が確信していなければいけない事柄であるとされます。自分が牧会をすることを選んだのではなく、神がそうさせておられるという確信です。けれども、クリスチャンすべてに、このことが言えるのではないでしょうか。何か教会で自分が気に食わないことが起こると、「私はクリスチャンをやめます。」とは言わないでしょう。なぜなら、自分がキリストを選んだのではなく、キリストが、あなたをクリスチャンにするように選ばれたからです。召したのは神なのです。このような確信を持っているときに、教会の中で、また仕事や学業の中で悪いことが起こっても、キリスト者としての歩みをやめたりはしません。


 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。

 パウロは、このように、自分には自由と権利があるが、それを十分に用いないところに誇りがある、喜びがあるとしています。これが、今日のメッセージ題の、「キリスト者の自由」です。実はこれ、プロテスタント教会の創始者ルターが書いた本の題名と同じ題であります。キリスト者は、だれにも縛られない自由が与えられました。その特権と自由が与えられたがゆえに、自由に自分の権利を用いないことができるのです。パウロが、兄弟につまずきを与えないために肉を一切食べない、というにも、同じ理由からです。大切なことのために、自分の自由を制限する自由が与えられています。


2A すべての人の奴隷 19−23
 そこでパウロは、自由について、また別の話題について話します。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

 今、説明しましたように、だれに対しても自由な人は、ある目的を達するために、すべての人に仕えることができるようになるのです。パウロにとって、その目的は、人々の救いでした。自分が福音を宣べ伝えて、その人がイエスさまを信じて、救われるためには、自分自身のあり方を捨てることができる、というものです。

 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

 
パウロがユダヤ人の間で福音を宣べ伝えていたとき、彼は律法やその他の規定を、きちんと守っていました。食物規定、手の洗い、祭りへの参加、そのほかさまざまな戒めを、彼は守っていました。彼は、律法を守ることによって救われるとは決して思っていませんでしたが、彼らが救いに導かれるためにそうしたのです。仮に、彼が、そのように動かなかったらどうなるでしょうか。福音が伝わる前に、これらのおきてをパウロが破っていることが気になって、パウロの言うことを聞く耳を持つことができなくなります。パウロは、聞いている人がイエス・キリストにつまずくのであれば、それは由としましたが、それ以外の不必要なつまずきを彼らの前に置きたくなったのです。


 律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

 
律法を持たない人々とは、異邦人のことです。異邦人の間では、パウロは、豚が出て来る食事なども取っていたかもしれません。彼は、異邦人と同じようにして生きていたのです。もし、彼がキリストにあって自由にされていなければ、このようなことは決してできません。あるときに食物規定を守り、またある時には守らないなどすることは決してできません。しかし、彼は自由だったのです。そして、パウロは、「キリストの律法を守るものですが」と付け加えています。異邦人の間では、不品行、偶像礼拝などふつうに行なわれていたのですが、それらも行なったということではありません。イエスさまは、「神を愛しなさい。」「隣人を自分自身のように愛しなさい。」という二つの戒めが律法全体を支えている、と教えられました。この愛の律法の下にクリスチャンはいるのです。


 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 
このように、人々が救われるために、福音のために、自分の生活習慣を変える柔軟性をパウロは持っていました。私たちも同じですね。例えば、私たちは、お中元など、人間関係を保つための習慣をしなくてもよい自由が与えられました。聖書には、義理人情という考えは一切ありません。すべては神の恵みであり、見かえりを期待しません。けれども、もし私たちが、未信者の方からお中元を受け取ってばかりでお返しをしなかったら、どうなるでしょうか?彼らは、私たちが人間関係を重んじない変な人たちと受け止めるでしょう。そして、これがクリスチャンのあり方か、と思うでしょう。不必要に壁を作ってしまうことになります。ですから、福音のためにお返しをします。


 5月に、近くの教会で開かれた牧師会に参加しました。そこの韓国人の牧師さんは、お菓子、コーヒー、すいかなど、いろいろなものを出してくれましたが、本当の韓国式であれば、もっともっと、たくさん出すそうなのです。たくさん出してもてなすことが、韓国の方式です。けれども、その牧師さんは、「たくさん出すと、日本人の牧師先生が、次回の牧師会から自分たちもたくさんもてなさなければいけないと思うから。」と言われていました。韓国の方は、自分がいっぱい出しても、後で見かえりは期待しないそうなのです。だから、自分が出したい分だけ出すことができるのだけれども、日本人の方は、お返ししなければならないという義務感が出て来るから、このように少ないのです、とおっしゃっていました。これも、「ユダヤ人のようにはユダヤ人のように」と言ったパウロの考えと同じことですね。自分の方法や方式を、兄弟たちのために、また福音のために退けるようにしています。

3A 賞の獲得 24−27
 そしてパウロは、もう一つ、キリストの自由について話しています。それは、競技者に与えられているのと同じ自由です。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

 
パウロは、信仰による歩みを、競走をするものとしてよくたとえます。彼が福音を宣べ伝えていたところは、ギリシヤの地域です。そこでは、みなさんもご存知のオリンピックが行なわれていました。パウロは、オリンピック選手のたとえを使って、私たちクリスチャンがどのように生きるべきなのかを教えています。競走をする選手は、だれも優勝するように強いられて、練習を積み重ねるのではありません。賞を獲得するという目的があるので、自ら進んで、自制して体を鍛えるのです。走りやすい服装をし、また走りやすい靴を選びます。別に、長靴を履いても、競技ルール違反にはならないのですが、賞を獲得したいので、長靴をはこうなどと思わないのです。

 クリスチャンも同じです。クリスチャンは、再び戻って来られるキリストに出会うことができる、という目標を持っています。キリストを知り、キリストに知られて、キリストから褒美の言葉と報酬を受け取ることを、目標としています。ですから、この目標の妨げになるものを、自分で排除して、なるべく妨げがないように気をつけるのです。ヘブル書にも、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(
12:1-2」と書いてあります。罪や重荷を捨てて、忍耐を持って競走を走り続けるのです。途中で、疲れて嫌に感じるときがあります。もう走るのを止めたい、と思うときがあります。けれども、しっかり目標を見据えれば、その苦しみも耐えることができるのです。みなさんは、自分が生きるべき目標が、パウロのようにはっきりしているでしょうか。それとも、自分は何をしているのか分からないでしょうか。

 パウロは続けて、他のたとえを用いています。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。レスリングをする人も、あらゆることで自制します。そして、彼はオリーブの木の枝とその葉っぱで作られた冠を、優勝したときに受け取ります。今は、金メダルになっていますが、昔は違いました。けれども、クリスチャンは、朽ちない冠を受け取るのだ、と言っています。聖書の多くの個所に、私たちが最後に冠を受け取ることが書かれています。いのちの冠や義の冠などです。それは永遠の残るものであり、私たちがこの世で受ける報酬とは異なります。この世で名声や財産を築いても、それはなくなります。しかし、クリスチャンは、永遠の残る、天にある財産をたくわえているのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。クリスチャンは、目標のない生き方をしていません。今、説明した目標に向かって、一心に走っているのです。

 そして最後にパウロは、大切なことを話しています。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

 自分のからだを打ち叩いている、と言っています。これは、自分のからだを御霊に従わせているということです。クリスチャンになると、自分の思いの中で戦いが起こります。御霊と肉の欲望との間にある戦いです。どちらが主導権を握るか、いつも主導権争いが繰り広げられます。ですから、パウロは、自分のからだを御霊の思いに従わせているのです。福音を宣べ伝えているのに、罪からの解放、肉からの解放を伝えているのに、自分自身が罪のとりこ、肉欲の奴隷となってしまわないようにしているのです。これが、クリスチャンが自由を保つ方法です。私たちは、自由は不断の努力で保つ者であります。自然の流れにしたがえば、自分は自由人ではなく奴隷になってしまいます。流れに逆らって、この自由を保っていなければならないのです。


 このように、キリスト者の自由について見てきましたが、私たちがこの世の中で語る「自由」とは、まったく別物であることがお分かりになったとおもいます。権利を用いない自由、人々に仕える自由、そして、肉に支配されない自由です。みなさんも、この自由を自分のものにしてください。


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