ヨハネの手紙第一2章18−29節 「キリストのうちにとどまる パート2」

アウトライン

1A 神の愛 1−17
2A 注ぎの油 18−29
   1B 反キリスト 18−23
      1C 多くの反キリスト 18−19
      2C 御子を否定する者 20−23
   2B 初めから聞いたこと 24−27
   3B キリストの現われ 28−29

本文

 ヨハネの手紙第一2章を開いてください。今日は、後半部分18節から学びます。テーマは前回に引き続き、「キリストのうちにとどまる」です。

 私たちは、前回の2章前半において、神の命令を守ることについて学びました。神を知っているのであれば、神の命令を守っているはずであり、神のみことばにとどまっていることによって、その人が神のうちにいることがわかる、と言うことでした。私たちは、神が言われることに反する、つまり罪を犯しているのに、「神を知っている」と言うことがありますが、それは偽りである、とヨハネは言っています。そしてまた、世を愛することは、神を愛することと相容れないものであり、世への愛は御父から出たものでないと言いました。私たちが光の中を歩んでいることが、神のうちを歩んでいることの証拠であります。

 そして今から学ぶ後半部分では、前半部分の歩み、または行ないというよりも、「教え」に焦点が当たられています。健全な教えの中にとどまることが、キリストのうちにとどまることであると書かれています。

2A 注ぎの油 18−29
1B 反キリスト 18−23
1C 多くの反キリスト 18−19
 小さい者たちよ。今は終わりの時です。

 前回の学びにもあったように、ヨハネは、「小さい者たちよ」という呼びかけをしています。親密な人間関係を表す言葉ですね。神と人との関係、また人と人との関係も、「家族」として考えられています。

 そして、「今は終わりの時です」とヨハネは断言しています。もし現代のクリスチャンがその時代にタイムワープして、ヨハネに話すことができるなら、「ヨハネ先生、ちょっとそれは間違っていましたよ。終わりの時だとヨハネ先生がおっしゃってから、もう1900年以上経っていますからね。」と言うのでしょうか?間違っているのは、使徒ヨハネではなく現代のクリスチャンのほうです。今、自分が生きている時代が終わりの時ではない、と考えている私たちのほうが、間違っています。

 クリスチャンとしてその時代を生きる、ということは、終わりの時を生きることであることを知らなければいけません。主が間もなく来られる時代に自分は生きており、自分が生きている間に主が戻ってこられる、いやもしかしたら今日、戻ってこられるかもしれないと思いながら生きるのが、クリスチャンなのです。そのことによって、私たちは希望をもつことができます。自分の救いが完成するという希望をもつことができます。そして、手前の17節に書かれているとおりに、この世とその中にあるものを愛することなく、それらの汚れから離れて、聖さの中に生きなければいけないという動機付けになります。クリスチャンというのは、終わりの時を生きる者であり、終わりの時がいつ来るのか、来年なのか百年後なのかなどと議論するような余地はありません。

 あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 聖書には、終わりの時のことを語っているとき、一人の人物を紹介しています。ここでヨハネが、「反キリスト」と呼んでいる人物です。ダニエル書において、終わりの時に十本の角を持っている、鉄のきばを持っている恐ろしい獣が現われることを預言しています。これは世界を支配する10の支配権、あるいは王たちです。その角の一本から小さな角が出てきます。その角は、初めの10本のうちに3本を倒して、そして、人間のような目が与えられ、大言壮語すると預言されています。終わりの時には、このように世界化、グローバリズムが起こり、そのような政治的流れの中で、一人の指導者が現われ、世界を牛耳るというシナリオがあります。ダニエルによる預言は、主ご自身がオリーブ山の上で、「荒らす憎むべき者が聖なる所に立つのを見たならば、山々に逃げなさい。」と弟子たちに話され、さらに使徒パウロが、「主の日には罪の人が現われ、神の宮に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(2テサロニケ2:4参照)」と言っています。そして黙示録13章にて、獣として、反キリストのことが詳しく描かれています。

 このように反キリストが来ることを信者たちは聞いていました。けれども、今すでに、「多くの反キリスト」が現われていると言っています。これは一体どういうことでしょうか?4章を見ると、こう書いてあります。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(1−3節)」イエス・キリストを告白しない霊が反キリストの霊であり、その霊によって語っているにせ預言者が、反キリストであるということになります。つまり、終わりの時には、近い将来、反キリストという一人の人物が出現するのですが、現在、その霊はすでに働いており、多くの者たちに働いているということです。使徒パウロも、「不法の秘密はすでに働いています。(2テサロニケ2:7)」と言っています。

 ところで、「反キリスト」という訳ですが、これは半分当たっていて、半分間違っています。「反」というのは「反対」という意味ですが、反キリストは本物のキリストに反対する存在です。けれども、ギリシヤ語では、「代わりに」という意味があります。つまり、本物ではないけれども、本物とのすり替え、偽物、ということです。「偽キリスト」「擬似キリスト」と呼んで良いかもしれません。したがって、反キリストが行なうことは、キリストが行なわれることと非常に似通ったことを行ないます。キリストは平和の使者であられますが、反キリストは、その天才的政治手腕によって、混乱する世界秩序を整え、表面的には平和をもたらします。キリストは死んでからよみがえられましたが、反キリストも殺されたかのようになり、その後生き返りを人々に見せます。また、さまざまな不思議としるしを行ないます。そうして人々は、この方が救世主であると思います。同じようなことを行なっても、その源が反キリストは悪魔であり、キリストは父なる神なのです。

 そしてヨハネは、多くの反キリストが現われていることによって、それで「今が終わりの時」であることが分かる、と言っています。終わりの時というのは、定められた時が来ると、突然反キリストが現われて、突然大患難に入る、ということではありません。反キリストの霊が強く働いており、いつでも、反キリスト本人が現われてもおかしくない状態であるのが、終わりの時です。テサロニケ人への手紙第二には、不法の秘密を引き止めるものがあり、そのために不法の人が現われていないと書かれています(2:6−7)。ですから、私たちは常に、反キリストの霊の圧力を受けており、私たち自身が、聖霊の宮として、パウロが話している「引き止める者」の働きをしているということになるのです。では、何をもって真理であり、何をもって反キリストの霊であるのか、その根本的な部分を知らなければいけません。それが22節以降に書かれています。その前に21節を読みます。

 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。

 反キリストたちは、いわゆるキリスト教会の中で、その教会の一部分となっていることをこの部分からわかります。ですから、私たちが、よく知られている異端組織だけを反キリストであると考えればそれは間違いです。いわゆる正統的なキリスト教会の中から、このような者たちが現われることを常に考えていないといけません。

 けれども、もちろん何らかの意見の違いで、教会を他に変える人たちが反キリストなのでは決してありません。そうではなく、「キリスト教会につまずいた。」と言って、教会そのものから離れていくような者たちのことを指しています。その人たちは、牧師を信じていたかもしれないし、また教会を信じていたかもしれませんが、イエス・キリストは信じていなかったのです。初めから仲間ではなかったのです。

 しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。

 分裂は肉の働きとして聖書には列挙されていますが、けれども、必要なときがあります。それは、キリスト教の本質的な教えについて、それを受け入れない者たちが教会の一部になってはいけないということです。これを一つにならなければいけないと思っていれば、パン種が粉全体に広がるように、全体が汚されて、キリスト教会がそのいのちを失います。教会に問題が起こったときに試されるのは、その自浄能力があるかどうかです。

2C 御子を否定する者 20−23
 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

 私たちが教師が教えていることが真理であるかどうか、それを知ることができるとヨハネは言っています。それは、「聖なる方からの注ぎの油」によってです。これは、内に住まわれる聖霊のことです。聖霊が真理をその人が知るようにさせておられます。ここで、「真理を知っているからである」という「知る」という言葉は、「直感的に知る」というギリシヤ語になっています。前回の学びで、「神を知る」の「知る」は、体験的に知るというギリシヤ語が使われていることを話しましたが、ここは別のギリシヤ語が使われており、直感的に知るとなっています。ですから、私たちは、たとえ、知識的に、また体験的に、ある教えが真理かどうか調べたことがなくても、聖なる油注ぎが私たちのうちに与えられているので、直感的にわかるのです。

 このことはとても大切です。日本人のクリスチャンの間で問題になっているのは、「霊的判断の丸投げ」とよく言われます。それは、聖書を自分で読んで、自分で判断して、またどの教会に通うかも自分で判断し、また教会の中で何をするのかも自分で判断するのが、クリスチャンが行なうべきことです。ところが、「牧師先生がこう言っているから」とか、「属している教団の考えがこうだから」ということによって、自分で判断を行なわず、牧師や組織に自分を従属させてしまうことを行ないます。実はこれが、ヨハネがここで警告している反キリストあるいは偽りの教えを、入り込ませてしまう余地をつくってしまうことなのです。そのために、教会がおかしくなっているのに、人々が奴隷のようになって動いているというカルト化も見るようになっています。しかし、私たちには聖なる方からの油注ぎがあります。たとえ、新しく信者になったばかりの人でも、直感的に「これはおかしい」と判断することができるのです。

 それでは、反キリストが反キリストと呼ばれる、その真理について読んでみたいと思います。偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

 キリスト教会の中では、このような偽りの教えがあるとか、異端はこれであるとか、いろいろなことが語られます。けれども、根本的には偽りと真理を分けるその分かれ目は、「イエス・キリストがだれなのか」というところです。イエスがすばらしい教師であったということは、多くの人が言います。イエスが偉大な預言者であったと、イスラム教徒は言います。けれども、キリスト教がキリスト教である所以は、イエスがキリストであり、神の独り子であるという真理があるからです。ちょうど、青空から青を取ったら、青空ではなくなるように、キリスト教から、イエスがキリストであり、神の御子であるというものを取ったら、キリスト教ではなくなります。

 ここに、「御父と御子を否認する者」と、御子が御父とともに書かれてあることに注目してください。この二人は決して切り離すことができない存在です。次の節をご覧ください。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。

 神は信じているけれども、イエスは信じられない、という人。イエスと神と引き離して考える人は、神を信じていません。なぜなら、イエスさまが、「父とわたしは、ひとつです。」と言われたように、御子を否認すれば、父なる神を否認するのであり、逆に御子を受け入れれば、父なる神をも受け入れたことになるのです。御子と御父は別の人格を持っておられますが、一体なのです。

2B 初めから聞いたこと 24−27
 あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

 1章において、私たちはこの手紙の全体のテーマが、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」であることを学びました。そこで、神が光の中におられるように、自分も光の中を歩むこと、神の命令を守ること、そして、世を愛さないことなどが語られました。そして、同じように、ここでは「初めから聞いたことを、自分のうちにとどまらせる」ことによって、御父と御子との交わりの中にいる、あるいはとどまることができる、とあります。

 初めから聞いたこととは、もちろん、イエスがキリストであり、神のひとり子であるということです。このことを「とどまらせる」ことが必要です。多くの人は、「そんなことは何回も聞いているから大丈夫だよ。伝道の時に、自分たちでも何回も話すではないか。」と言います。けれども、イエスがキリストであり、神の御子であることを呪文のようにしか考えていなければ、それは「とどまらせる」ことにはなりません。とどまる、というのは宿泊すると同じことです。住まわせる、と言っても良いです。単に、それを文字として、教理として知っているだけでなく、御父と御子との親しい交わりにおいて、確信していくことです。御父とイエス・キリストを知っていくこと、そのものが永遠のいのちであると、イエスさまはヨハネの福音書17章にて話されています。

 それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

 今は言ったように、御父と御子のうちにとどまっていること自体が、永遠のいのちです。この状態が、今だけでなく、死んだ後も永遠に続きます。永遠に神のものとされています。これが、初めから聞いていることにとどまることによって与えられている約束です。

 私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 先ほどの油注ぎのことについてですが、ヨハネはここで、だれからも教えてもらう必要はない、と言っています。これは、もちろん教師は必要ないということではありません。現に今ヨハネは、教師として手紙を書いて、信者たちに教えています。そうではなく、教師は神のみことばを教えるけれども、本質的にあなたを教えてくださるのは、あなたの内に住まわれている聖霊なのだよ、ということです。

 新約とは、新しい契約のことですが、新しい契約が約束されている預言がエレミヤ書31章にあります。そこには、モーセを通して与えられた古い契約ではない、新しい契約が与えられることが書かれています。古い契約は、石の板に律法が書かれていました。けれども、新しい契約は、心の板に律法が書かれる、とあります。そして、神が個人的な神となり、もはや、「主を知れ」と教え合うことはない、と言っています。教師に拠り頼まなければ、あたかも自分は真理を決して知ることはできないというものではなく、聖霊が与えられ、神との個人的な関係を持つために、真理を教えてくださいます。教師は神のみことばを語るのですが、キリストのうちにとどまるという部分においては、聖霊のみがその人を教えることができるのです。

 ですから、聖霊の導きに敏感になることが、いかに大切であるか、いや、聖霊の導きに拠り頼むことが、私たち新約に仕える奉仕者の存在意義なのです。ですから、牧師だけでなく、いや信徒一人一人が、神に対して祭司であり、すべての人が奉仕者として、自分が遣わされている場所において、聖霊が何を自分に内側で語っておられるのかを聞く責任があるのです。これこそ、神が一人一人に要求されている義務であり、教会で具体的にしなければいけない活動が義務なのではありません。クリスチャンの生活をとおしての証しは、唯一、聖霊に導かれることによってのみ可能であり、聖霊に導かれることによって人をキリストに導くことができます。

3B キリストの現われ 28−29
 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

 しばしば、クリスチャンは、自分が携挙にあずかることができるかどうか議論することがあります。自分は取り残されるのではないか、という不安を話す人もいます。そこには、神が与えられた麗しい、単純な福音を複雑にして、混乱させているものがあります。キリストが現われるとき、つまり携挙のときに必要なのは、ここに書かれてあるとおり、「キリストのうちにとどまっている」ことです。クリスチャンは、「キリストのうちにとどまっているもの」とも言い換えることができますが、キリストのうちにとどまっているなら、確信をもって携挙にあずかる希望を持って良いのです。

 ところでここに、「来臨のときに、御前で恥じ入ることのないため」と書かれていますが、これは、携挙された後に私たちは、キリストのさばきの御座の前に出ることになるからです。そこでは、コリント人への手紙第一3章に書かれているように、その人の働きの真価が試されます。ある人はわら、ある人は木、ある人は金、ある人は銀で建物をたてているけれども、火によって焼かれ、その残ったものによって報いを受けます。何も残らない人も、自分自身は火をくぐるようにして助かる、とあります。私たちが今ここで行なっていることが、御前で恥ずかしいことが、それとも信頼をもって、平安をもって神の御前に出ることができるようなものなのか、点検してみなければいけません。ペテロの手紙第二においても、ペテロは、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。(3:14)」と勧めています。

 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

 神が義であれば、神から生まれた者も義を行なう、という真理です。神が光であるから、神と交わりを持っている者は、光の中を歩むというのと同じです。ヨハネは、どこから生まれているのか、どこに属しているのかを明らかにし、そして、その属しているところにとどまることを教えています。私たちは、御父から出たものであり、神から生まれた者です。神から生まれたのであれば、キリストのうちにとどまります。キリストについて、いろいろな活動をするのではなく、ただキリストのうちにとどまること、またキリストが自分のうちにとどまっておられることを知ること、これがクリスチャン生活の第一前提であることを思い出しましょう。



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