ヨハネの手紙第一2章 「キリストのうちにとどまる」

アウトライン

1A 神の愛 1−17
   1B 弁護者イエス・キリスト 1−2
   2B 神の命令 3−11
      1C 神を知る 3−6
      2C 兄弟を愛する 7−11
   3B 子どもたちよ 12−14
   4B 世への愛 15−17
2A 注ぎの油 18−29
   1B 反キリスト 18−23
      1C 多くの反キリスト 18−19
      2C 御子を否定する者 20−23
   2B 初めから聞いたこと 24−27
   3B キリストの現われ 28−29

本文

 ヨハネの手紙第一2章を学びます。ここでのテーマは「キリストのうちにとどまる」です。2章の最後のところに、「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。(28節)」とあります。

1A 神の愛 1−17
1B 弁護者イエス・キリスト 1−2
 私の子どもたち。

 ここは、「テクニア(teknia)」というギリシヤ語で、「かわいい、かわいい子どもたち」というような意味です。文字通り老齢になっているヨハネが、今、クリスチャンたちに愛情をいっぱい込めて話しています。

 私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。

 先週の学びにおいて、ヨハネが、この手紙を書き送っている目的を手紙の中で三回書いていることを話しましたが、これは二回目です。「罪を犯さないようにするために」この手紙を書いています。先週、1章においてヨハネは、私たちを、御父と御子との交わりの中に招き入れていました。その交わりにおいて妨げとなるものは、「罪」です。神と交わりがあると言っても、もし暗やみの中を歩んでいるなら、それは偽りである。神が光であるように、光の中を歩んでいるなら、神と交わりを持っており、御子イエスの血が私たちをきよめる、と書かれていました。そこで罪を犯さないようにしなければならないわけです。

 もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

 1章の最後のところで、罪がないと言ってみたり、罪は犯していないと言うのであれば、それは偽りであると書いてありました。私たちは神との交わりを楽しむために、罪を避けなければいけませんが、けれども罪をまったく犯さないように完全であることはできません。そこで神は、私たちが罪を犯したときに、ご自分の前で弁護してくださる方を置いていてくださっています。その方が、義なるイエス・キリストです。

 今、自分が法廷にいることを想像してください。自分は被告人です。罪を犯したために告訴を受けています。検察官は、「兄弟たちの告発者」と呼ばれる悪魔です。そして弁護人がイエス・キリストです。裁判官は父なる神です。検察官は、自分に関するあらゆる罪を告発します。裁判官は、弁護人に発言の機会を与えます。弁護者は、こう言います。「検察官が言っていることは、すべてその通りです。被告人はすべてその罪を犯しました。」え〜!罪を犯していないことを証明してあげるのが弁護人の務めのはずではないか、と思うかもしれません。けれども、自分を完全に無罪にする方法をこの弁護人は知っています。弁護人は続けて語ります。「ところで、この人に対する刑罰ですが、お父さん・・・」そうです、この弁護人は裁判官の息子でした。「・・・わたしがすべて、すでに身代わりに受けました。もうすでに裁かれたことですので、彼はもう罪を自分の身に負う必要はありません。」そこで裁判官は、「判決を言い渡す。被告人は無罪である。」これが、イエスさまが私たちのためにしてくださっていることです。ローマ8章には、父なる神の右に着かれているイエスが、私たちのために執り成しをしてくださっているとあります。私たちが罪を犯したときに、イエスさまが弁護者となっておられます。

 この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。

 なだめの供え物」とは、神の怒りを満足させるための供え物ということです。旧約時代においては、幕屋の中にある、至聖所の「贖いの蓋」がそれに該当します。贖罪日のときに大祭司が、贖いの蓋のところに血を振り掛けますが、それによって神の怒りがなだめられます。今は、イエスさまが、私たちと、また全世界の人たちのためのなだめの供え物となっておられます。

2B 神の命令 3−11
1C 神を知る 3−6
 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

 ここで使われている「知っている」というギリシヤ語「ギノウスコー」は、「体験的に知る」という意味です。神を体験的に知っているのは、私たちが神の命令を守っているところによってわかる、ということです。私たちが神の愛を知り、神が私たちを愛してくださっていることを知っているならば、私たちは愛をもって、自発的に神が言われていることに聞き従います。神を体験的に知っていればそれだけ、この方が言われることを聞き、この方が行なわれているように行ないます。

 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

 言いながら」という言い回しが、1章に続けて再び出てきました。クリスチャンがよく陥りやすい言葉と行ないの乖離現象です。「私は神さまに出会いました」と言いながら、神さまが言われていることを守っていないなら、それは神を知ってはいないのです。私たちは、感情的な体験や感覚的な体験をするときに、とかく「神に触れた」というような表現を使いますが、神との本質的な出会いは、単純に神が言われていることに「はい」と言って、単純にそれに従うことです。従順になって神の言うことを聞くところに、神との体験があるのです。

 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

 神の愛が完全に働いているところには、みことばを守っているという特徴があります。

 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 ヨハネの福音書の中に、イエスさまが、「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。(5:30)」など、自分ではなく、父が言われることを話し、父が行なわれることを行なっていると言われている個所がいくつもあります。ですから、同じように、自分も何事も自分から行なうのではなく、キリストが言われているように言い、キリストが行なわれているように行なう。神の命令を守ることで、神との交わりをしていきます。

2C 兄弟を愛する 7−11
 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

 ヨハネは神の命令について書いていますが、ここで「互いに愛し合いなさい」という命令について語り始めています。イエスさまは、十字架につけられる前夜、弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」互いに愛し合いなさい、という命令は、決して新しいものではありません。律法学者が、イエスさまに「戒めの中でもっとも大切なものは何ですか?」と聞いたときに、イエスさまは、申命記とレビ記の聖書個所を引用して、「神を愛しなさい」そして「隣人を自分自身のように愛しなさい。」と言われました。隣人を愛することについては、初めからある古い命令です。

 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

 イエスさまは、新しい命令として「互いに愛し合いなさい」と言われましたが、その理由は、「わたしがあなたがたを愛したように」という基準があるからです。イエスさまが弟子たちをこよなく愛されました。友として、ご自分のいのちを彼らのために捨てました。同じように、あなたがたも互いに愛しなさい、と命じておられます。私たちはこの愛を知っています。自分のような者のために、キリストがいのちを捨ててくださった。ですから、この愛は自分にとって真理です。

 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 ヨハネは再び、クリスチャンが陥りやすい過ちについて話しています。自分はクリスチャンであり、真理を持っており、光の中にいると言っています。けれども心の中では、他のクリスチャンにされた仕打ちをまだ恨んでおり、その人がいなくなればどれだけ幸せかと、憎しみを抱いています。そうすれば、光の中にいると言うことは偽りであり、まだ暗やみの中にいます。

 私たちは、習慣化している教会活動の中で忙殺されることがしばしばありますが、けれども、キリストの愛の深さを思い巡らすために、度々立ち止まる必要があるようです。教会において行なっていることが、キリストの愛の深い部分から出てくるものによって裏打ちされていなければいけません。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」がその命令です。もし兄弟を憎んでいるようなことがあれば、深くキリストの愛を思い巡らせて、あの裏切り者のユダにさえ親切にされたキリストの愛を知るべきでしょう。そして、神に自分の心を取り扱っていただき、憎しみを愛に変えていただくように祈るべきでしょう。

3B 子どもたちよ 12−14
 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 ヨハネは、親愛の情をもって、クリスチャンたちを、「子どもたちよ」「父たちよ」そして「若い者たちよ」と呼びかけています。これは肉体の年齢による呼び名というよりも、先ほどもすべてのクリスチャンに「私の子どもたち」と呼びかけていたように、霊的なものだと考えられます。

 「子どもたちよ」と呼びかけているところには、罪が赦されたことが書かれています。私たちがクリスチャンになるときに、まず初めに持っていなければいけない確信は、罪が赦されているということです。「キリスト・イエスにある者はだれでも、決して罪に定められることはありません。(ローマ8:1参照)」とパウロは言いましたが、人がイエスの御名を信じて、神の子どもとなる特権が与えられるときは、罪が赦されたという確信が必要です。

 次に、「父たちよ」でありますが、霊的に成熟している人々のことを指していると思われます。彼らは、いのちのことば、すなわちキリストを知っています。体験的に、キリストがどのような方か、その深い部分を知っています。「初めからおられる方」とありますが、キリストを単に道徳の教師としてではなく、永遠の昔からおられる方、神が肉体を取られた方として、神のふところにおられた独り子の神として知っているということです。私たちがここまで深く、キリストを知っているかどうか、自分を吟味してみるのも良いかもしれません。

 そして「若い者たちよ」でありますが、彼らは霊的に成長している人々と言えます。「悪い者に打ち勝ったから」とありますが、今までは罪の奴隷、悪魔の奴隷であった者が、その圧制から解放されて、キリストの支配下の中にいることを確信しています。罪から自由にされて、勝利あるクリスチャン生活を送ります。罪を犯さないようになっていくクリスチャンの姿です。

 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 ヨハネは繰り返して、小さな者たち、父たち、若い者たちに対する言葉を語っています。先ほどと少し違うのは、若い者に対する言葉の中に、「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり」とあるところです。詩篇119篇には、このような言葉があります。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(9節)」実はこの詩篇の言葉は、クリスチャンになって間もないころに、あるクリスチャン生活のためのテキストの暗唱聖句でした。数多くの思い煩いと、肉の思いの強かった僕は(今も多くありますが)、どうやったらこのような思いから自分を自由にすることができるのかと思いました。神のことばを守ると言っても、そんな力は自分にはない、とも思いました。けれども、霊においてキリストとの交わりが強くなると、神のことばが、いわゆる規則や掟ではなく、人格的に語りかけてくる、自分を動かすいのちと力であることを知るようになってきました。今でもたくさん肉の弱さがありますが、その肉に打ち勝つには、神のみことばが自分のうちにとどまっていることによって可能です。

4B 世への愛 15−17
 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 ここでヨハネが語っている「」は、神が創造された自然界のことではもちろんありません。また、全世界の人々の総称として使われている「世」でもありません。ヨハネ3章16節では、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とありますが、ここで神が愛されているのは全世界の人々のことです。

 「」とは、神の権威に敵対する制度のことです。悪魔が支配者となっているところの世界です。これらのものに愛着を感じながら、また実際に愛しながら、かつ御父を愛することはできません。世は神に敵対しており、神は世をいつか滅ぼされるのですから、どちらも愛することは不可能なことです。

 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 肉の欲」は、自分の肉体にある欲望です。人間には生理的欲求があり、それは神が造られたものであり悪いものではありません。けれども、その欲求を自分で制するのではなく、逆に支配されてしまうのであれば、それは肉の欲であり、聖書では「情欲」と呼ばれます。そして「目の欲」ですが、私たちは自分の目に入るものから、欲情が生まれます。ちょうど、陥落したエリコの町にあった、シヌアルの美しい外套と、金の延べ棒と銀貨に目が留まり、それが欲しくなって取っていった、アカンのようです。そして、「暮し向きの自慢」とは、自分が人から認められて、人に注目されるようになる欲望のことです。蛇から誘惑を受けたエバのことを思い出してください。エバは、この三つのものによって、実を取って食べてしまいました。こう書いてあります。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く」これが肉の欲です、「目に慕わしく」これが目の欲です、「賢くするという」これが暮らし向きの自慢です、「その木はいかにも好ましかった。(創世3:6)」目の欲、肉の欲、そして暮らし向きの自慢に気をつけなければいけません。

 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

 ヨハネの手紙第一の前に学んだペテロの手紙第二において、ペテロはこう言いました。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(3:10−11)」私たちがこの世にあるものを求めていたら、それは、わた飴のように、食べてもすぐなくなる、一時的な、瞬時瞬時の楽しみしかありません。永続する楽しみや喜びはそこにはありません。世は、何かを約束するのですが、それを獲得できたその後に、「もっと何かがほしい」と私たちを願わせます。そして、主が来られるときに、自分はこの世に属する者としてともに滅ぼされるのです。

 このような天の万象がくずれさるときにさえ、決して滅ぼされることなく、生き長らえる者は、神のみこころを行なう者です。イエスさまは、「わたしのことばは、決して過ぎ去ることはありません。」と言われましたが、キリストのみことばをうちにとどめて、その命令を守っている人が、生きることができます。

 時間の関係上、本当は先に進みたいのですが、ここで終わりにしたいと思います。キリストのうちにとどまる、あるいは神のうちにとどまるには、神の愛を知ることが先決です。神の愛を知り、神を知っている人は、神の命令を守ります。そして兄弟を愛することにおいても、キリストの愛の深さを思って、その命令を守ります。そして、罪が赦されていること、悪魔に打ち勝ったことを確信して、世にあるものを愛さないで、神のみを愛するようにします。これがキリストのうちにとどまることの一環です。そして次回は、キリストについての真理が、聖霊の油注ぎによって私たちのうちに証しされていることについて学びます。



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