ヨハネの手紙第一5章 「まことの神、永遠のいのち」

アウトライン

1A 神の御子イエス 1−5
   1B 神の命令と信仰 1−5
   2B 神によるあかし 6−13
2A 罪から離れた生活 6−21
   1B 神への願い求め 14−17
   2B 悪い者からの守り 18−21

本文

 ヨハネの手紙第一5章を開いてください。ここでのテーマは、「まことの神、永遠のいのち」です。5章の最後のほう、20節をご覧ください。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」とあります。5章は、いのちについて、永遠のいのちについて学びます。

1A 神の御子イエス 1−5
1B 神の命令と信仰 1−5
 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。

 ヨハネは、第一の手紙にて、神によって生まれたことについてたくさん書いています。ここでは、神によって生まれた人は、イエスがキリストであると信じているからだ、と言っています。普段、「イエス・キリスト」と呼んでいるので、この意義があまり分からないかもしれませんが、「イエスが約束のメシヤである」と言い換えたらどうでしょうか?旧約聖書において、長年のこと預言され、人々が待ち望んでいたメシヤは、あのイエスであるという主張です。

 イエスさまがニコデモと話しておられるときのことを思い出してください。「だれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」というイエスさまのことばに対して、ニコデモは、何のことだかさっぱり分かりませんでした。イスラエルのためにメシヤが来られて、この世界の神の国が立てられるという約束を信じていたニコデモですが、なぜその約束が、「新しく生まれなければ」与えられないのかと疑問に思ったと思います。

 そこでイエスさまは、「新しく生まれなければならないというのは、肉の誕生ではなく、霊の誕生のことである」ということを教えられました。それでも合点がいかないニコデモに対して、イエスさまは旧約聖書に出てくる「青銅の蛇」を引き合いに出して、どのようにして新しく生まれることができるのかをお話になりました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければいけません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14−15)」「人の子」というのは、旧約聖書においてメシヤを指しています。メシヤが、青銅の蛇のように上げられなければいけない。そしてメシヤを信じる者がみな、永遠のいのちを持つ、つまり新しく生まれることになる、と教えられました。私たちは、「イエスがキリストである」という信仰によって、神によって生まれました。

 生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

 前回の4章の学びは、「神を愛する者は兄弟を愛すべきです(4:21)」という言葉で終わっていました。この手紙は、「イエスは神の御子キリストである」という宣言と、「兄弟を愛しなさい」という勧めの二つによって成り立っていると言っても過言ではないのですが、兄弟を愛する理由の一つとして、「同じように神によって生まれた者」ということができます。私たちは神によって生まれたので、生んでくださった神を愛することができます。そして、同じように神によって生まれた人だから、その人も愛することができる、ということです。私たちは、クリスチャンとしてただ独りで生きられる者ではなく、愛し合うという関係と交わりの中で生きていくことができます。

 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。

 神を愛して、その命令を守ることによって、神の子どもたちを愛していることがわかります。もし仮に兄弟のことを思っていて、神の命令に反することを行なうのであれば、それは兄弟を愛しているのではありません。神を愛して、神の命令を守っている中で、その愛にとどまっていることによって、兄弟たちを愛することができるのです。

 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

 非常にはっきりと書かれていますね、神を愛するとは、神の命令を守ることです。私たちは神を愛すると言いながら、その命令を守ることを避けようとします。けれどもそれは神を愛していることにはなりません。愛するというのは意思の問題であり、責任の問題です。「妻を愛する」というとき、妻のため、また子供のために家族を養い仕事に行く、彼女のために時間を取り、必要なことを手伝ってあげてというように、生活全般に渡って、彼女とともに過ごすことが愛しているということであり、それは意思の問題です。意思が基となっている感情とも言い換えることができるかもしれません。

 そして、よく覚えていなければいけないのは、「その命令は重荷とはならない」ということです。命令、命令、というと、重荷に感じてしまうのが私たちの肉です。けれども、神によって生まれた者として、神を愛して、神の命令を守りたいと願う、その願いが与えられています。神の命令を守ることを重荷ではなく、主にある平安のうちに行なうことができます。命令を守ることのほうが、むしろ要らぬ心配、重荷、その他もろもろの人間的な行ないから解放されるでしょう。

 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

 私たちが神の命令を守ることが重荷にならないのは、ここに書かれているとおり、信仰によるからです。イエスさまは、群集から、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」と聞かれました。主は、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と答えられました。イエスを信じることそのものが、すでに世に打ち勝っていることであり、すでに私たちを勝利者の位置においています。そこで、神の命令が与えられても、それを守る力が与えられており、神を愛する愛からそれを行なうことができます。

 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 先ほどは、イエスがキリストであると信じる者が神によって生まれる、とありました。ここでは神の御子と信じる者、となっています。イエスが、カリスマ的指導者であり、今の困窮から自分たちを救い出すような存在であれば、それはイエスに対する真の信仰ではありません。そうではなく、イエスが、父なる神のふところにおられた独り子としての神であるという信仰が必要です。イエスがキリストであるということを受け入れるのは、信仰が必要ですが、イエスが神の御子であることを受け入れるのは、もっと信仰が必要でしょう。それは、イエスを神として、この世のそのほかのものはみな神としないことです。世界はイエスによって造られ、イエスがすべての主であることを認めることです。イエスによってのみ救いがあり、その他の可能性をすべて排除することです。しかし、イエスを神の御子であると信じるときに、私たちは神によって生まれ、そして世に打ち勝つ者となります。

2B 神によるあかし 6−13
 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。

 ここの箇所は難しいところです。「水と血」がいったい何を指しているのか、はっきり答えが出せないからです。けれども、今ヨハネが、「イエスが神の御子」であることを念頭に置いて話しているものと思われます。そしてまた、「イエスが人となって来られた」ことについて話していました。この「水と血」とは、イエスさまの肉体についてのことであると考えられます。

 ヨハネによる福音書19章を開いてください。イエスさまが十字架の上で死なれた時のことです。ユダヤ人指導者が、安息日になるから、イエスを含む十字架上にいる囚人をそのまま木にかけたままにしておかないでくれ、とピラトに願い出ました。そこで兵士たちが、囚人のすねを折りました。すねを折ることによって、その人の息を絶つことができるからです。十字架につけられているとき、その死因は呼吸困難です。肺が圧迫されます。そのため、足でふんばって、腕を引き上げて息を取るのですが、その時に手を通している釘によって、激痛が走ります。息をした後、腕を戻すのですが、この繰り返しによって徐々に体力を衰えさせ、呼吸ができないようにさせるのです。

 そこですねを折ることによって、足によって体を上昇させることができなくさせます。呼吸ができなくなるので、すぐに死んでしまいます。これを兵士がふたりの囚人に行ないました。その次にイエスさまのところに行きましたが、イエスさまはすでに死んでおられたのです。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)」と主が言われたように、兵士によっていのちを取られるのではなく、ご自分で息を引き取られました。そこで兵士は、あしの骨を折ることなく、わき腹を槍で突き刺しました。するとそこから、「ただちに血と水が出てきた」とあります(19:34)。ヨハネはこのことを言った後に、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35節)」と言っています。水が出てくる、ということですが、心臓が破裂すると、水のような液体がその周りに溜まるそうです。それもいっしょに出てきたと考えられます。ヨハネはこれを確かに見た、そこで「そのあかしは真実である」と言っています。

 そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。

 ヨハネは確かに自分自身でイエスが肉をもって来られたことを目撃したのですが、私たち一人一人にあかしするのは御霊であると、ヨハネはここで言っています。だれも御霊によらなければ、イエスが神の御子であるというあかしを受け入れることはできません。そして「御霊は真理だからです」とあります。ヨハネは自分が目撃したというあかしは真実であると言っていますが、同じように御霊も真実をあかしされているのであり、嘘をつかれるような方ではありません。

 あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

 ここでヨハネは、神の律法の中にある証言を意識しています。二人、三人の証言によって、一つのことが確認されるという律法がありますが、その証言を意識しています。イエスさまが、兄弟を責めるとき、二人、三人の者を連れてきなさい、と言われたときのことを思い出してください。またパウロは、ローマ人への手紙9章において、肉の同胞のためなら、神にのろわれてもよい、と言っていますが、その時、「私の良心も、聖霊によってあかししています。(1節)」と言っています。自分が真実を言っていることを、「良心」と「聖霊」という二つの証言を立てているのです。同じようにヨハネも今、「御霊」「水」「血」という三つの証言を立てており、この三つが、イエスが肉として来られた神の御子であるという同一のことを証言しているのです。

 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。

 御霊があかしをしておられるというのは、神があかしをしておられるということです。そこでヨハネは、人間の証言を私たちが受け入れるのだから、御霊のあかしはさらにまさる証言である、ということを言っています。人間の証言には過ちがあります。イエスさまを死刑に定めたユダヤ人議会における偽告発のようなものもありますし、また自分の主観によって、物事をありのままに見ることができないという点もあります。なるべく客観性を持たせても、決して正しい判断ができないことは、今日の裁判の判決を見てもよくわかることです。それでもやはり、人間の証言を受け入れます。しかし、イエスが神の御子であるというのは、神の御霊があかしされているのです。ですから、このあかしは確実な者なのです。

 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。

 御霊があかしをするというのは、私たちの心の中でのことです。私たちが、イエスを神の御子であると信じられるのは、御霊が私たちの霊にそれをあかししておられるからです。私たちは、この御霊の働きを全面的に受け入れなければいけません。イエスが神の御子であるというのは、人に教えられてそれで信じるものではなく、自分の心の中で、「そうだ、たしかにこの方は神の御子である」と確認できるものなのです。これは不思議な神の働きです。

 そして、イエスは神の御子と信じないことも、それは意図的であることがわかります。最後の審判において、人が神の前に立つときに、神から、「あなたは、わたしの子イエスを拒んだ。」と言われたときに、何の言い訳もできないのです。人に対してはごまかせるでしょう、イエスなんて、あまり教えられていなかったから分からなかった、とか。けれども、神の前ではごまかせないのです。御霊がすでに、そのことをその人にあかしされていたからです。

 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 永遠のいのち」つまり、神のいのちが与えられ、神とともに永遠の過ごすことです。そのいのちが「御子のうちにある」と言います。いのちというのは、単に生命が維持されていることではありません。いのちというのは、関係によって成り立っています。肉体の生命であっても、血液が脳に絶えず流れているのですが、血液と脳内の関わりがあるからこそ命があるのです。精神的な命、生活の命についても同じです。私たちが孤独になれば、たちどころに発狂します。人との関係と摩擦があるからこそ、命が続きます。そして、霊のいのちについては、神との関わりがあることによって保たれているのです。御子のうちにいることによって、そこにいのちがあるのです。

 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 この聖句は、私がかつて抱いていた永遠のいのちについて、過ちを正してくれるものでした。伝道されるとき、私たちはしばしば、「イエスさまを信じれば、天国への切符がもらえる。」という言葉を聞きます。永遠のいのちが、天国に行くための保証として語られるのです。けれども、この箇所を読むと、永遠のいのちとは、御子のうちにあり、イエスさまは、「わたしがいのちなのです。」と言われたとおりなのです。御子を持つものがいのちを持ち、持たない者はいのちを持っていないのです。主は永遠のいのちをこう定義されました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)」父なる神とイエス・キリストを知ることそのものが、永遠のいのちです。ですから関係なのです。

 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 ヨハネの第一の手紙全体をもう一度、振り返っていましょう。この手紙が書かれた目的が三つあると、手紙の初めての学びのときに言及しました。一つは、「喜びが全きものとなる」ことです。御父と御子との交わりにおいて、喜びに満ちます。もう一つは、「罪を犯さない」ことです。神から生まれた者は義を行ない、罪の中を歩むことができないとヨハネは言いました。そして手紙が書かれた三つ目の目的は、「永遠のいのちを持っていることを知る」ということです。

 ヨハネは、イエスがキリストであり、神の御子であること、このことを信じることがすでに勝利であることをこの章で強調しています。この信仰によって永遠のいのちが与えられるのですが、ヨハネは、すでにイエスの御名を信じている人には、そのことを確認させたいと願っているのです。私たちと、キリストにある神との結びつきは、切り離せるものではありません。私たちは神から生まれた者であり、神から出た者です。神から生まれた者が罪のうちを歩むことはできず、悪い者からも守られます。神の御手から引き抜くことは決してできない、という結びつきなのです。だから、ヨハネは、私たちが救われているのか、救われていないのかわからないようになってほしくない、と願っています。たしかに永遠のいのちが与えられていることを知ることによって、私たちが神に愛されていること、神の子どもであることをよく知ってほしいのです。

2A 罪から離れた生活 6−21
1B 神への願い求め 14−17
 そこで次の約束をヨハネは話します。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 イエスさまは、父と子との間の関係をこう話されています。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:11−13)」父親は子供が願うものを与えます。息子が願っているのに、それを聞かないで意地悪をするような父親はいません。ですから、私たちが願う者を、神は与えてくださいます。しかも「何事でも」という広い約束が与えられています。ヤコブは手紙の中で、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(4:2)」と言いました。私たちは、自分たちで何とかやりくりしようとして、神に願うことさえしないことがあります。けれども、何事も願いを聞いてくださる神に願う必要があります。

 しかしながら、ここで「神のみこころにかなう願いをするなら」という、願いの種類について書かれています。祈りというのは、私たちの願いを神にかねえてもらうものではありません。そうではなく、神が願っておられるもの、神が考えておられること、神の意思を自分のものとして、自分をとおして神がご自分の願っておられることを行なっていただくことです。まず、神のみこころを知り、神の命令の中に自分を置いていることがすべてです。その中で願うものは何事もかなえられるのです。

 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 信仰による祈りです。願ったときに、すでにかなえられていると知っている、とあります。かなえられるのかな、かなえられないのかな、という迷いを生じさせるものではなく、その通りになるのだという信仰が与えられます。

 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。

 神のみこころに沿った祈りとして、罪を犯している兄弟を回復させる祈りがあります。この手紙の中でヨハネは、罪を犯さないようにするために手紙を書き記していると言っていますが、罪を犯してしまった兄弟に対して祈り求めるなら、彼は回復し、罪を犯さないようになるとの約束があります。

 死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。

 死に至る罪とそうではない罪の違いは何でしょうか?イエスさまは、聖霊が来ると、その方は、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます(ヨハネ16:8)」と言われましたが、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(9節)」とあります。聖霊が認めさせる罪とは、イエスを信じない罪です。神への冒涜など、あらゆる罪は赦されるけれども、聖霊を汚す罪は赦されない、とも言われました。したがって、イエスを信じない罪、これこそが死に至る罪です。罪を犯しても、イエスさまのほうをふりむけば、罪から再び離れることができます。けれどもイエスさまから離れれば、その罪は救いようがありません。これが死に至る罪です。

2B 悪い者からの守り 18−21
 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

 罪の中に生きるのは、悪魔から出ているからで、悪魔の子供だからということが、3章に書かれていました。けれども、神から生まれた者は、悪魔から守られています。「触れることができない」とまであります。本当にすばらしい約束です。クリスチャンが悪霊にとりつかれることがあるという教えが、教会の中に入り込んでくることがありますが、それはここの聖句に真っ向から反対します。悪魔はクリスチャンに触れることさえできないのです。

 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。

 これはちょうど、海の中に入っているけれども、酸素ボンベをつけて水中にいるような状態です。この世の中に私たちはおり、全世界は悪魔の支配下にありますが、けれども私たちは神からの者であり守られています。

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。

 私たちが御子を知ることができたのは、その理解力を御子ご自身が与えてくださったからです。私たち自身によっては理解できるものではありませんでした。そしてその理解力によって今、私たちは御子イエス・キリストのうち、すなわちこの方との交わりの中に入れられています。この手紙の書き出しである、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中に入りました。

 この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

 この言葉ほど、イエスの神性をはっきりと言い表している箇所はないでしょう。この方こそ、まことの神であります。そして永遠のいのちです。この方がすべてであり、この方から離れては、何もないのです。イエス・キリストを離れた宗教論議、世界の平和、人生や哲学はみな、無に等しいです。すべてはこの方にあり、この方を中心にすべてが動いています。私たちはイエス・キリストを知ることこそが、そのすべてであり、永遠のいのちなのです。

 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

 手紙の終わり方としては、変な言い方でありますが、ヨハネは今「まことの神」と言ったので、それ以外のものが偶像であることを指摘しています。イエスのみをあがめるべきで、それ以外を神とすべきではない、ということです。

 こうして、ヨハネの手紙第一を学び終えました。テーマは、「いのちのことばについて」であり、御子についてのことでした。イエスがキリストであり、イエスが神の御子であるということ、このことこそが私たちのいのちであり、それを信じることこそが、世に打ち勝つ勝利です。反キリストの霊は働いています。イエスを告白しない霊が、この世にはびこっています。イエスを通さない平和、愛、正義が語られています。全世界は悪い者の支配下にあるからです。けれども安心です。私たちは神から出た者であり、悪い者から守られています。私たちは兄弟を愛して、神の命令を守るという使命が与えられています。


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