アウトライン
1A 生ける石 1−10
1B みことばの乳 1−3
2B 聖なる祭司 4−10
2A りっぱなふるまい 11−25
1B 肉の欲の回避 11−12
2B 服従 13−25
1C 王 13−17
2C 主人 18−20
3C キリスト 21−25
本文
ペテロの手紙第一2章を開いてください。ここでのテーマは、「選ばれた種族」です。クリスチャンに与えられた大きな特権とまた責任について話しています。
1A 生ける石 1−10
1B みことばの乳 1−3
前回私たちは、1章の最後のところで、私たちが新たに生まれたのは、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる。(23節)」ことを学びました。そこで2章は、生ける神のみことばを私たちが純粋に摂取していかなければいけないことをペテロは述べています。
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
ペテロが列挙している悪いものは、みな、心の動機のことです。悪意、ごまかし、偽善やねたみなどは、他の人々が認めることができるときもありますが、表と裏、建前と本音を使って人々に接することです。
しかしペテロは、前に1章でも、兄弟を偽りのない兄弟愛で、心から熱く愛し合いなさいと言ったように、純粋さを求めています。純粋に、乳飲み子が乳を飲むように、生きた神のみことばを摂取していきなさい、慕い求めなさいと言っています。それによって、霊的に成長して、また終わりの時の救い、すなわち天に引き上げられて、主とともに会うことができます。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のいつくしみ深さを知っている人は、主の前で、大人ぶることはできません。主がとても良い方なので、自分は幼子のように、主の前で泣き、喜び、賛美し、感謝をささげることができます。
2B 聖なる祭司 4−10
そこでペテロは、「主のもとに来なさい」と勧めています。主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
いつくしみ深い主のもとに来て、主との親しい交わりを持つのですが、その主がどのような方であるかをペテロは紹介しています。主イエス・キリストは、「人には捨てられたが」、「神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」です。
この手紙は、「苦しみ」と主な話題として、迫害を受けているクリスチャンを力づけるために主に書かれていることを思い出してください。クリスチャンが苦しみの中でその支えとなるのは、主ご自身です。主のもとに来ることです。そして主ご自身が、「人に捨てられた方」であることを思い出します。人には捨てられた方なのですが、けれども、神の目からは選ばれた、特別な存在です。「生ける石」とありますが、旧約聖書の中には、数多く、主が「石」であると形容されて、メシヤが石とか、岩にたとえられています。主が神に選ばれた方で、尊いように、主にあって選ばれたクリスチャンたちも、人々に悪口を言われたり、さげすまされたり、ひどい扱いを受けても、神の目からは尊い存在である、ということです。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
主が土台となっている石であるならば、私たちは、その家を構成する石です。主はペテロという名をペテロに与えられましたが、その名は「小石」です。そしてイエスさまは、「わたしは、このペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」と言われました。ペテロはこのことをイエスさまから言われる前に、「あなたは生ける神の御子キリストです」という告白をしていました。イエスが神の御子キリストです、という告白が土台となって、教会が建てられています。
そして、地上の幕屋または神殿には、聖所で主を礼拝し、仕えている祭司たちがいますが、ペテロは、新たに生まれたクリスチャンたちが、「聖なる祭司」であると言っています。地上の神の宮にて、祭司たちは、動物のいけにえや穀物のささげものをささげました。クリスチャンは、「イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」と命じられています。ヘブル書には、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(13:15)」と書かれています。ですから、私たちが神への賛美を歌でうたうこと、また祈りの中で神に賛美して、感謝することは、霊のいけにえを、聖なる祭司としてささげていることに他なりません。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
これはイザヤ書28章16節からの引用です。メシヤ預言ですが、エルサレムまたイスラエルに、選ばれた方を、尊い礎石を置かれる、と神は約束されました。メシヤが石、とくに礎石にたとえられるのは、安定しているもの、拠り頼むことができるもの、地震があっても崩れないで立っていることのできるものだからです。この方に信頼すれば、決して失望させられることがありません。
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。
主が、主を信頼している者には尊いけれども、信頼していなければ、捨てられた者であり、またつまずきの石です。尊いというのは、あくまでも信頼している人々の中で内輪向けのメッセージなのです。ですから、私たちがこれほどまでに愛し、ささげ、仕えている方が、なぜ他の人々は尊ばないのだろうかといらつくことが、クリスチャンになったばかりのときに私はありましたが、それは、もともと、神がそのようにさせておられるのです。
ペテロが引用した初めの聖書個所である、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」というのは、福音書でもイエスさまご自身が用いられた預言です。詩篇118篇22節からの引用です。イエスさまは、神の家を建て上げるはずのユダヤ人指導者たちが、その親石であり礎石であるはずのメシヤを拒み、捨ててしまった、という皮肉的なことが起こることを予告してお話になられました(マタイ21:33−46)。
そしてペテロ自身も、この預言を引用しています。イエスさまが昇天されて聖霊が上から臨まれた後、ヨハネとともにサンヘドリンの真ん中に立たされて、「あなたがたは、だれの名によってこんなことをしたのか。」と聞かれたとき、「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」と言い、「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのは、この方のことです。」と言いました(使徒4:10)。
そしてまた、主は、「つまずきの石、妨げの岩」ともなられました。これはイザヤ8章14節からの引用ですが、同じようなことを話しているイザヤ書28章16節を引用して、パウロは、ユダヤ人がイエス・キリストにつまずいたことを話しています。イスラエルが義の律法を追い求めながら、その律法に到達することができなくなったけれども、それは、信仰によって追い求めないで、行ないによるかのように追い求めたからだ、それでつまずいたのだ、と言っています。
私は、あるダンスサークルに通っていますが、そこに参加する人から、決まって質問攻め、というかキリスト教批判を受けます。私が語りだしていないのにも関わらずです。けれども、質問や批判を受けると、自分も福音の希望について語ることができるので、とてもうれしいことです。ある方がいつも私に食ってかかって議論されるときは、自分ではどうしても理解できないときのようです。私が、キリスト教がキリスト教である所以は、キリストが神の御子であり、神ご自身であるという告白だからである。キリストは人であり、また神なのです、と話しました。そして、「これは、理解しようとしたら、とうていできません。」と言ったら、「だからキリスト教はだめなのだ。もっと分かりやすく、理解しやすいように教えなければ、人に受け入れてもらえませんよ。」と言われました。キリストがつまずきであり、妨げになっています。
彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
イエス・キリストを十字架につけるようにしたユダヤ人は、神のみことばに従わなかったので、十字架につけたのですが、しかしそれは、神のご計画の中に入っていました。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
ものすごい特権です。選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民です。これらはみな、旧約聖書においてイスラエルの民に対して向けられていた言葉でした。例えば、イスラエルの民がシナイ山の前にいたときに、主は、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:6)」と言われました。この特権が、キリスト・イエスの血により、異邦人である私たちにも与えられています。ですから、私たちが苦しみの中にいても、自分たちが主にあって、特別な存在な存在であることを思うことができます。
それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
クリスチャンたちが、選ばれた種族になっているは、私たちが特権意識を持ったり、優越意識を持ったりするためでは決してありません。そうではなく、ここに書かれているとおり、主が行なってくださった、すばらしいみわざを他の人々に宣べ伝えるためです。「やみ」というのは、罪の中で死に、肉の思いによって生きていた状態のことです。「驚くべき光の中」とは、罪が赦され、義と認められ、神の子どもとなる特権が与えられ、神の家族となったことです。このようなすばらしいことをしてくださった方のみわざを、私たちは他の人々に分かち合います。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
私たちが選ばれ、王なる祭司、聖なる国民となっているのは、私たちに何かがあるからでは決してありません。イスラエルが選ばれたのが、イスラエルが強く大きな民だからではなく、むしろ少数であったのに、ただ主があわれみ、恋い慕われたから選ばれたのと同じように、私たちも、神のあわれみによって、このような位置に着かせていただいております。主のあわれみと恵みを忘れることなく、この大きな特権に驚きおののいて、苦しみの中でも深い慰めを得たいものです。
2A りっぱなふるまい 11−25
1B 肉の欲の回避 11−12
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
神の国の民である私たちは、この地上では旅人であり、寄留者です。ですから地に属するもの、肉に属するものからは、遠ざからなければいけません。私たちが、誘惑や肉の欲にひかれるときに思い出す必要があるのは、「これらのものは、すぐに過ぎ去るのだ」ということです。ペテロは、この手紙の中で何度も、今の私たちの生活が、「しばらくの間」「残された日々」と言って、本当にわずかであることを話しています。一時的であり、やがて離れるところです。そこにある欲望を満たすことはできません。
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。
「異邦人」というのは、ユダヤ人ではない人々のことですが、ここでは「神を知らない人々」と言い換えることができるでしょう。不信者の人々の前では、りっぱにふるまうことが私たちに命じられています。彼らがたとえ、自分がクリスチャンであったり、伝道をすることによって、自分ことを悪くいったとしても、その人たちは見ています。自分が実直で、正しさをきちんと持っているならば、その人たちは、いつか神をほめたたえるようになります。「クリスチャンの神は、生きているかもしれない。」とか、「彼らなら信用できる。」とか、「何かで困って祈ってもらうなら、占いや新興宗教ではなくクリスチャンのところに行こう。」とか、神をほめたたえるようなことを期待できます。
2B 服従 13−25
そこで具体的に、ペテロは、「服従」することを教えています。
1C 王 13−17
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
今、ペテロの手紙を読んでいる人々は、小アジヤ地方にすむ、迫害を受けているクリスチャンたちです。彼らに対して、「人の立てたすべての制度に従いなさい。」と勧めています。人間的な考えならば、その反対です。自分たちのことを迫害するような役人がいる政府など支持することはできない。法律でも何でも違反しても構わない、と考えるでしょう。けれども、クリスチャンはその反対の行動が求められています。
そのことを理解するためのキーワードは、「主のゆえに」という言葉です。16節にあるように、私たちは、主にあって自由人です。すべての人から自由にされており、ましてや神の国において、王である祭司です。他のだれにも従属していません。けれども、その自由を神の奴隷として生きていくために用います。そして「服従する」生活を送ります。それには一つの大きな目的があるからです。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
服従するのは善を行なうためであり、善を行なうことによって、クリスチャンたちをそしる、その口を閉ざすためです。クリスチャンを馬鹿にする人がいても、クリスチャンが法律を遵守して、また善いことを行なっていれば、その人は馬鹿にしていても、その悪口に根拠を失っていくでしょう。周りの人々は、「これは本物だ」と思っていくようになるでしょう。これが、神のみこころです。だから人の立てた制度に従います。
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
クリスチャンは、制度にしたがうだけでなく、あらゆる面で人を敬う姿勢を持っていなければいけません。
2C 主人 18−20
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
王に対してと同じように、自分が働いている上司に対しても尊敬の心を込めて、服従します。ここまでなら、不信者の人でも理解できそうですが、ペテロは、「横暴な主人に対しても従いなさい」と言っているところで、常軌を逸しています。しかし、それでもクリスチャンは従います。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
ここでのキーワードは、「神の前における良心」です。信仰的なこと、また良心的にすることはできないことが出てきたとします。主人に、「これはできません。」と伝えたら、主人が自分を打ちたたくとします。これは、みじめなことではなく、神によって喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
自分が仕事の上でへまをすることで、主人から罰せられるのなら、そこにはなんら誉れはありません。けれども、善いことを行なっているのに打ちたたかれるのなら、それはむなしいことでも、みじめなことでもなく、神に喜ばれることです。ここに、クリスチャンが信仰のゆえに起こる苦しみについて、持つべき態度が明らかにされています。それは、耐え忍び、悲しみをこらえ、そして神が喜んでおられることを思うことです。
3C キリスト 21−25
このような苦しみを通して、キリストを知ることができます。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
私たちはキリストを知り、またキリストに知られるという、キリストとの交わりの中に召し入れられています。したがって、キリストが歩まれた苦しみの道も、その足跡に従うように召されているのです。キリストが苦しまれたのは、私たちのためでしたが、今キリスト者となった私たちは、この方を通して今、自分が苦しみを耐え忍ぶ模範として仰ぐことができます。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
キリストは、まずうそをつくことはありませんでした。善い行ないをするときに、うそをつかないことは大前提です。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
主は復讐されませんでした。十字架上でののしられましたが、ののしりかえしませんでした。十字架に行く道すがら、また十字架上で苦しめられたときに、おどす文句を言われませんでした。代わりに、「わたしの霊を、あなたのおささげします。」と父なる神にゆだねて、息を引き取られました。このイエスさまを信じて、私たちは生きています。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
キリストの苦しみは私たちのためでしたが、私たちの罪のために十字架で死なれました。そして私たちが罪を赦され、罪から離れて義のために生きるようにするためです。多くの人が、「私は、罪赦された罪人。」と言って、十字架を盾に、自分がしていることを正当化しますが、それは十字架の意義の本末転倒です。罪から離れるために、主は苦しみを受けられました。そしてまた、私たちがいやされるためでもありました。キリストが受けられた打ち傷は、私たちの霊魂だけでなく、肉体をもいやします。
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
キリストの十字架によって、どのように生きてゆけばよいかわからない、さまよった状態のときに、自分のたましいを牧し、また監督する神のもとに帰ることができました。ペテロは今、イザヤ書53章のことを思いながら、その個所を自分の言葉に書き換えて話しています。
こうして、私たちが、この地上の人ではなく、神の民であり、選ばれた種族であることが分かりました。神のみことばを慕い求めて、主のもとに来ることによって、私たちは苦しみを受けても、神の前では高価で、尊い存在であることがわかります。そして選ばれた者たちであるからこそ、福音を伝えて、りっぱな行ないを異邦人の前で行ないます。苦しみを受けても、喜んで苦しみを受け、甘んじます。地上は、しばらくの間のことであり、私たちはここでは寄留者なのです。
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