アウトライン
1A 牧会 1−5
1B 模範となる長老 1−4
2B へりくだる若者 5
2A 不動の者 6−11
1B ゆだねる心 6−7
2B 悪魔への抵抗 8−11
3A 真の恵み 12−14
本文
ペテロの手紙第一5章を開いてください。ここでのテーマは、「栄光の冠」です。私たちはペテロの手紙にて、「苦しみ」について学んでいますが、罪のためではなく、義のため、またはキリスト者であるからという理由で苦しみを受けるのであれば、それは喜ばしいことだ、ということでした。そして、5章に入ります。
1A 牧会 1−5
1B 模範となる長老 1−4
そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
長老たちへの勧めです。「長老」という言葉は、旧約聖書、また新約聖書においても数多く使われている言葉です。モーセがイスラエル人たちをエジプトから連れ出し、荒野の旅を導きました。二百万、三百万といわれる人数が旅をしているのですから、その中でいろいろな問題が発生します。傷害事件や、貸し借りの間の問題、その他もろもろの問題があったことでしょう。その仲裁と調停を、モーセ一人で行なっていました。しかし、モーセのしゅうとであるイテロが、「あなた一人だけでこのようなことをしていたら、あなたも、また民も疲れ果ててしまいます。あなたは民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。(出18:18、21参照)」と言いました。それでモーセは、言われたとおりに民のかしらを選びましたが、彼らが長老でありました。神を恐れて、不正を憎み、そして人と人の間をさばくことのできる判断力のある人です。ですから新約聖書においては、教会において、教える能力があり、誠実で、神を恐れる人が指導者となり、彼が「長老」と呼ばれます。
そしてペテロは、「同じく長老のひとり」と言っています。ペテロは自分を、他の人より上にいるとは考えませんでした。他の長老たちと同じものであり、その一人であると考えています。自分のことを、ことさらに引き上げることをしなかったのです。そして、「同じく長老」と言うことによって、これから語る勧めは、他の人だけでなく自分自身にも当てはまることを示唆しています。同じように、使徒ヨハネも、黙示録において七つの教会に書き送るとき、自分のことを「あなたがたの兄弟であり、あなたがととともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者(1:9)」であると言いました。
それから、「キリストの苦難の証人」と言っています。ペテロは、イエスさまがリンチを受けられていたのを見ていました。また、十字架の上で苦しまれたのを、遠くから眺めていたことでしょう。キリストの苦しみを見ていたのです。そしてまた、今自分自身がキリストの苦しみにあずかる者となっており、それゆえ「キリストの苦難の証人」と言っています。
さらに、「やがて現われる栄光にあずかる者」と言っていますが、ペテロがイエスさまの苦しみだけでなく、栄光も目撃しました。高い山でイエスさまが変貌して、光り輝いているのを見ましたが、その完全な輝きを、主が戻って来られるときに見ることになると、ここで言っています。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。
牧する、とか牧者という言葉も、旧約聖書に登場します。ダビデが主に愛されていた、その理由は、「正しいこころで彼ら(イスラエル)を牧し、英知の手で彼らを導いた。(詩篇78:72)」からであると、王であるダビデは、イスラエルの上に立っていただけではなく、彼らを愛し、養い、世話をしていました。エゼキエル書には、その反対に、イスラエルを牧していない者たちに対する神のさばきのことばが書かれています。「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。(34:2−5)」指導して、管理する者たちが、その人たちの世話をするのではなく、かえって自分の利益を求め、人々を虐げることへの、責めの言葉です。
この旧約聖書で、イスラエルの指導者たちに使われた言葉が新約聖書にも使われており、例えばイエスさまは、ご自分のことを良い牧者であると言い、良い牧者は自分のいのちを捨てる、と言われました(ヨハネ10:11)。そしてイエスさまは、ペテロに対して、「羊を飼いなさい。」と言われたことがあります。主がよみがえられてから、ペテロたちがガリラヤ湖で漁をしていました。岸にイエスさまがおられて、彼らに声をかけられました。イエスさまであることに気づいた弟子たちは、岸辺に行き、イエスさまといっしょに釣った魚で朝食を取りました。そのときイエスさまがペテロに、「あなたは、わたしを愛しますか。」と言われました。ペテロが「愛しています」と答えると、「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。ペテロが漁師であるのに、羊を飼うのは畑違いですが、けれどもこれから、自分の能力で歩むのではなく、砕かれた心で主の力に日々頼って、与えられた人々を、みことばで養っていく働きに従事するのです。ペテロは、「神の羊の群れを飼いなさい。」と言ったとき、自分がイエスさまから命じられたその使命を他の教会指導者たちにも伝えています。
強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、
牧会に限らずすべての奉仕に関わることですが、強制されて行なうものは、主を喜ばせません。義務感から行なっていたり、また、大きな重圧感を抱いていたり、そのようなものであったら、奉仕を行なわないほうがましです。主は、喜んでささげる人を愛してくださいます。
卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
先ほど、エゼキエルの預言の中に、羊を養わないで自分たちの利益だけを求め、その結果、羊を虐げ、散らしていることへの咎めの言葉がありましたが、牧者または長老である人は、卑しい利得を求める誘惑があります。例えば、お金持ちの人が教会にやって来たり、有名人が教会に来たりするときは、「この人が教会員になってくれれば」などと卑しい考えを持たないとも限りません。また、会社の仕事のように朝の9時から5時まで働いて、後は自分の時間のように考える人もいることでしょう。けれども、牧会は、「心をこめて」行なうものです。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
イエスさまが、十字架につけられる前夜、弟子たちにご自分の愛を残りなく示すために、あることを行なわれました。弟子たちが食事の席に着いていたとき、イエスさまは立ち上がり、手ぬぐいを取ってそれを腰にまとわれました。そして、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗いはじめられました。当時、足を洗うのは、家のしもべが行なう仕事でありますから、イエスさまは弟子たちにお仕えする姿を取られたのです。弟子たちは驚き、ペテロが驚きましたが、イエスさまは彼らにこう言われました。「主である師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネ13:14)」イエスさまはまた、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マタイ20:26)」と言われました。
かえって「群れの模範」となります。私は、体験的にこのことを、カルバリーチャペル・コスタメサの教会で学びました。私はこれまで、教会の人たちは、牧師が言いつけることを行なって、牧師の支配の中で生きていくものだと思っていましたが、ある時、教会の屋根にある窓を拭カナケレバいけないときがありました。僕が通っていた校長先生でもある牧者カールがそこにいたのですが、学生である僕らに窓拭きを言いつけるのではなく、かえって、自分で屋根に上がり始めたのです。僕は驚きました。急いで彼についていって、僕も自分からお手伝いさせていただいた感じになりました。これは人つてで聞いた話ですが、教会の女子トイレが詰まって、汚水が溢れ出していたときに、牧者がモップを持って、トイレを掃除しに行ったという話もあります。彼らは、椅子にすわって、召使たちに「これをしなさい」と命じるのではなく、自分から奉仕を行ない、そこから私たちも、どうやって奉仕をすればよいのかを学び取ることができます。模範による指導、と言ったら良いでしょうか。
そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
牧者であっても、羊の一人です。牧者には大牧者であられるイエスさまがおられます。イエスさまが戻って来られるときに、栄光の冠を受けます。聖書には、その他に、いのちの冠、義の冠などが出てきますが、キリストのさばきの御座において、褒美を受けます。
2B へりくだる若者 5
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
若い人たちが長老に従うように、という勧めです。今見てきたように、長老は人を支配するのではなく、模範を示していく人であり、へりくだった人です。その時に、力がないように見えるその人に対して、批判をしたり、たてついてみたりする誘惑があるでしょう。そのようなことを控えて、長老の言うことに従うことを学ばなければいけません。こうして、教会の秩序の中に、謙遜の御霊が広がっていなければいけません。主は、高ぶる者を退けられ、へりくだるものに恵みを与えられます。
2A 不動の者 6−11
1B ゆだねる心 6−7
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
「へりくだる」というのは、神の主権の中に自分をゆだねることでもあります。いろいろ、自分に不利なことが起こったときに、「なぜ私をこのような目に合わせるのですか。」と神に訴えるような愚かなことをしたり、また、神が立てておられないのに、ある重要な位置に自分を置きたいという野心も出てきます。しかし、神の力強い御手の下にへりくだります。
そして、ちょうど良いときに、主が高く上げられるとありますが、詩篇75篇にも次のように書かれています。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。(6−7節)」私たちは自分で、自分のことを売る必要はありません。いかにすぐれたミニストリーをしているのかを、宣伝する必要はありません。主が必要なときに、高く上げてくださいます。私たちが小さなことに忠実であるとき、主が大きなものを任せてくださいます。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
思い煩いをゆだねることは、パウロもピリピ人への手紙の中で話しました。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(4:6)」またイエスさまも、「何を食べるか、何を着るかについて、心配しないようにしなさい。」と言われました。ここのペテロの言葉で面白いのは、「神が心配してくださる」ことです。私は、「このような悩みは神に聞いていただくのは申し訳ないし、自分で頑張って考え悩まなければいけない。」などという愚かしいことを考えてしまうことがあります。けれども、神が心配してくださいます。
2B 悪魔への抵抗 8−11
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
ペテロの手紙には、「身を慎みなさい」「心を整えなさい」という勧めが、いくつか書かれていました。私たちの頭を、いつも明晰にしておかなければいけません。もちろん肉体的な休息を得ることは大切ですが、霊的にはつねに、見張りをしているような、注意怠りない思いを保っていなければいけません。ある人は、霊的に受動的であることは非常に危険であり、悪魔の欺きにもろさらされてしまう、と言っておられましたが、まったくその通りです。日ごろの生活の中で何が良いことで、主のみこころなのかを絶えず見分けている作業を行なっている必要があります。
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
誘惑はだれにもおそってきます。「世にあるあなたがたの兄弟である人々は、同じ苦しみ」すなわち、悪魔による苦しみ「を通って来たのです。」とペテロは言っています。自分がある分野で苦しんでおり、ものすごい誘惑を受けていたとします。その時はとかく、「ああ、なんて私は弱いのだろう。他のクリスチャンは大丈夫そうなのに。」と思います。けれども、他の人たちも、あなたが感じていない誘惑を感じているかもしれません。それぞれ異なる分野で誘惑をだれでも受けているのです。ですから、だれでも戦いの中におり、だれもが信仰をもって悪魔に抵抗しなければいけません。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。
ここは、ペテロの手紙の集約のような言葉になっています。まず、私たちは、「あらゆる恵みに満ちた神」に出会いました。キリストの血潮を注がれるように選ばれて、新たに生まれ、天における資産を受け継ぐ者とされました。これは、大いなる恵みです。そして、「永遠の栄光」の中に招き入れられています。苦しみがあっても、目の前には、栄光の主と、輝きに満ちている天が間近にあります。
そして、「しばらくの苦しみ」とあります。苦しみではなく、しばらくの苦しみです。この地上で生きている時は少ないことをペテロは強調しています。そして、苦しみを通して、「完全にされ、堅く立ち、強くなり、不動の者」となります。これが苦しみの目的です。木は、ひどい嵐が襲ってきても引き抜かれることがないのは、根を深く張っているからです。けれども、その木は、ふだんから、頻繁に風に吹かれていることによって、さらに深く根をはります。いつも風によって吹かれているのに、根を深く張り、実際に嵐が襲ってきたときに、耐えることができるのです。私たちも、信仰の試練がいつもあり、いろいろな苦しみがあり、そうして大きな苦難が与えられても、それでも動じない者になることができます。
3A 真の恵み 12−14
私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。
シルワノというのは、使徒行伝におけるシラスのことです。パウロの第二宣教旅行において、彼と同伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙を書くときに、その筆記をシラスに行なわせたようです。そして、おそらくシラスに手紙をたくして、小アジヤの教会に送ったのだと思われます。
この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。
すばらしいですね、神の真の恵みにしっかりと立ちます。私たちがいかに、神の恵みをしっかりと知らなければいけないかを思わされます。神の恵みを知る者が、誘惑があっても、苦しみがあっても、なお立っていることができるのです。
バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。
ここの「婦人」は教会とも訳すことができる個所です。そして「バビロン」ですが、これは二つの解釈がありまして、実際のバビロン、すなわち現在のイラクの地域であるということと、もう一つは、ローマということです。私はどちらか分かりません。
また私の子マルコもよろしくと言っています。
「マルコ」は、あの福音書を書いたマルコですが、ペテロは彼を「私の子」と呼んでいます。歳でも親子のような差があったでしょうし、また、マルコはいつもペテロといっしょにいたと考えられます。マルコによる福音書は、ペテロが何度も語ったことを書いたと言われています。マルコは、その福音書の中で、イエスさまが捕らえられるとき、裸のまま逃げた少年として登場します。
愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。
愛の口づけとは、もちろん恋愛の口づけではありません。現在でも中東では、あいさつとしてほおに口づけします。親愛のしるしです。
キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。
あなたがたに、平安がありますように、ではなく、「キリストにある」あなたがたに、平安がありますように、となっています。キリストのうちにあって、初めて平安があります。そしてその平安は、キリストのうちにいるすべての者に共有されています。
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