テサロニケ人への手紙第一1章 「主イエス・キリストへの望み」


アウトライン

1A 伝えられた福音として 1−5
   1B あいさつ 1
   2B 感謝の祈り 2−5
      1C 信仰の働き 2−3
      2C 愛され、選ばれた者 4−5
2A 信者たちの模範として 6−10
   1B 伝えられる信仰 6−8
   2B 他の人々の評判 9−10

本文

 テサロニケ人への手紙第一1章をお開きください。ここでのテーマは、「主イエス・キリストへの望み」です。

 私たちは、コロサイ人への手紙を学びましたが、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙とともに、コロサイ人への手紙は、パウロがローマで鎖につながれているときに彼が書いたものでした。使徒行伝においては、パウロの宣教旅行の最後におけるものです。一方テサロニケ人への手紙は、パウロが書いた一番初めの手紙です。

 パウロがバルナバとともに、アンテオケにある教会から遣わされ、小アジヤ地方に宣教に行きました。そしてアンテオケに戻ってきました。それから、二回目の宣教旅行に行きましたが、そのとき、バルナバのいとこであるマルコを共に連れていくべきかどうかで、パウロとバルナバの間で意見が別れ、ついに別の道を選ぶことになりました。パウロはシラスを同行させ、バルナバはマルコを同行させました。そして、その後、小アジヤでテモテという信者に会い、彼も宣教旅行の一行に加えました。そして、パウロたちは、小アジヤで宣教を続けたかったのですが、御霊がそれを禁じ、さらに幻を見て、マケドニヤ地方にいる人が、「私たちを助けてください。」と懇願する姿を見ました。そこで彼らは、初めてのヨーロッパ宣教旅行への向かいます。初めに到着した町は、ピリピです。そして次に来た町がテサロニケです。

 パウロは、テサロニケの町には、二週間から四週間ぐらいしかいなかっただろうと思われます。なぜなら、彼はユダヤ人の会堂に入って彼らと論じた回数が、三回であると書かれているからです。(使徒行伝17章です。)そして、そのパウロの福音宣教によって、一部のユダヤ人と大ぜいのギリシヤ人がイエスを信じました。そこでねたみにかられたユダヤ人が、町にいるならず者をかきあつめて、暴動を起して町を騒がせました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいりこんでいます。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」と、町の役人に訴えました。

 そのため、パウロやシラスやテモテは、夜の間に、テサロニケの町を離れなければいけませんでした。そしてベレヤという町で福音を宣べ伝えていましたが、なんとテサロニケからユダヤ人がやって来て、群集を扇動して騒ぎを起しました。そして、パウロが初めにベレヤを離れ、アテネに行きました。それからテモテはアテネでパウロに落ち合います。この時点でパウロは、テサロニケにいる、新しく信者になったばかりの人たちが気になっていました。彼らが信仰にかたく踏みとどまっているだろうか。誘惑者がやって来て、彼らを誘惑しやしないだろうかと気にかかったのです。そして、テモテをテサロニケに送りました。そしてパウロは、アテネからコリントに行きます。テモテもシラスもコリントでパウロに落ち合いました。そしてテモテは、テサロニケの人々の信仰と愛について、良い知らせをもたらしました。このコリントの町で、パウロは、テサロニケ人への第一の手紙と第二の手紙を書いています。

 このように、パウロたちは、ユダヤ人からの激しい反対と迫害に遭い、激しい苦闘(Tテサロニケ2:2など)の中にいました。同じように、テサロニケにいた信者たちも、人々から反対と迫害を受けました。そこで、テサロニケ人への手紙には、「苦闘」とか「苦しみ」という言葉が、何度も繰り返されています。しかし、その中にあっても、この新しい信者たちは、なおもその信仰と愛において、非常にすぐれていたのです。彼らを支えていた真理は、「イエス・キリストが戻って来られる」ことでした。死者の中からよみがえり、天に昇られたイエスが、また同じ姿で戻って来られるということに希望を置いています。そこで、テサロニケ人への手紙は、「キリストの再臨」がテーマとなっています。

1A 伝えられた福音として 1−5
1B あいさつ 1
 パウロは、いつものようにあいさつから手紙を書き始めます。パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 「シルワノ」とありますが、これはシラスのことです。そして、テサロニケ人の教会を、「父なる神および主イエス・キリストにある」とパウロは書いています。これは、クリスチャンに対する、すばらしいほめ言葉です。神のうちにいて、キリストのうちにいることが、クリスチャンのすべてであると言って過言ではありません。

2B 感謝の祈り 2−5
 そして次に、自分が感謝の祈りをささげていることを伝えています。

1C 信仰の働き 2−3

 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

 他のパウロの手紙でもそうですが、彼は、テサロニケの人たちのためにいつも、祈っていました。彼は、一つ一つ、関わりを持って来た教会のために祈り、また関わりを持っていない教会の人々のためにさえも、祈っていました。

 その祈りの内容は、テサロニケ人たちの「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」についてでした。初めに、「信仰の働き」についてですが、この言葉は一見、矛盾したように聞こえます。なぜなら、働きがないのに、神を信じる者が、その信仰が義と認められると、ローマ4章5節には書いてあるからです。信仰と働き、あるいは行ないは相容れないものではないか、と考えることができます。

 けれども、本当は矛盾していません。聖書は、たしかに、信仰とは聞くことからはじまるのであり、律法の行ないではないと教えていますが、真の信仰は、必ず行ないを伴うものであると教えています。ヤコブが、「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)」と言っているとおりです。

 大切なことは、どのような聞き方をしているか、であります。聖書のことばを、何となく聞き流すこともできますし、真剣に自分のこととして聞き入ることもできます。聖書が教えている聞き方は後者であり、神のみことばを、神から自分に語られている権威あることばとして、自分のものとして受けいれます。事実、次の節には、テサロニケ人たちに福音が伝わったのは、「ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によって」とあります。また、2章13節には、人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」とあります。このように、神のみことばを聞き、受けいれるならば、その信仰には必ず行ないが伴い、良い実が結ばれるのです。

 そして、次に、「愛の労苦」とあります。これは、教会にいる兄弟たちの間にある愛、また外部の人たちに対する愛です。愛には、労苦が伴います。「愛しています」という言葉だけの愛は、聖書に書かれていません。使徒ヨハネは言いました。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけでなで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Tヨハネ3:18)」ですから、愛の労苦です。

 そして、パウロは他の個所で、「キリストの愛が私たちを駆り立てるのです。(Uコリント5:14)」と言っています。私たちが教会で奉仕をするとき、また誰かに良いことを行なっているとき、その動機が唯一、「キリストの愛」であるということです。人に見られたいと思ってしているのであれば、その奉仕は神に受け入れられません。また、いやいやながらであれば、むしろその奉仕を行なわない方がよいのです。私たちが、神に喜ばれるために必要なことは、唯一「信仰」だけなのです。キリストが、私の罪のために死んでくださったことを信じることが、神のこころを満足させます。ですから、神に受け入れられるために、何もする必要はないのです。ただ、神が、キリストにあって自分を受け入れてくださったことを喜び、そしてこの愛を他の人たちにも分かち合いたいと思う心が大事なのです。

 そして、三つ目は、「主イエス・キリストへの望み」とあります。これは、主イエスが、私たちのために戻って来られる、天から来られるという希望です。パウロは、コリント人第一13章にて、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。(13節)」と言いました。信仰と希望と愛は、すべて切っても切り離せない関係になっており、希望があるからこそ、信仰も強くされ、愛も純化されます。テサロニケの信者たちが、まだ信じたばかりの新しいクリスチャンであることを思い出してください。それなのにも関わらず、彼らの間にある兄弟愛と、信仰の働きがあったのは、キリスト・イエスにある希望があったからです。希望があるときに、今は、苦しみを受けているけれども、主が戻って来られるときには慰めがある。また、苦しめる者たちには、主は公平なさばきを行なってくださることを知っていました。

2C 愛され、選ばれた者 4−5
 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。

 パウロは、テサロニケの人たちが神に選ばれた者たちであることを確信していました。聖書には、神が、前もってだれを救いに選ぶかを定めておられる、という真理があります。私たちが、だれと結婚するかを決める権利があるのと同じように、神はだれを救いに導くかを選ぶ権利を持っておられます。このようなことを話すと、「それでは、人が滅びるように神は定めておられるのか。」とか、「私は神から選ばれているのか。」という人たちがいます。けれども、だれが選ばれており、だれが選ばれていないかを知ることは簡単です。イエス・キリストを自分の救い主として認めて、信じているかどうかです。信じているなら、選ばれています。信じようとしないでいるなら、もしかしたら選ばれていないかもしれません。けれども、救いはすべての人に用意されています。ただ自分が、イエスさまを救い主として受け入れればよいのです。

 神の選びについて考えるとき、大事なのは、パウロがここで言っているように、「神に愛されている」という、神の動機です。私たちが救われたのは、私たちのうちに神に好かれるようなものがあったからでもなく、私たちが何か神に愛されることを行なったからではなく、ただ神が愛してくださったから、選ばれたのです。むしろ、神に憎まれて当然のようなことを、行なってきました。しかし、神は愛であり、私たちがどのような罪人でも、愛してやまないのです。私たちがこれから、「神の選び」について聞くときは、この神の愛のことを思いましょう。これが、神が私たちに知ってほしいと望まれていることです。

 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

 先ほど説明したように、福音を聞くというのは、漫然とことばを聞いているのでもなく、また知的に同意することでもなく、力をもって、聖霊によって、強い確信によって聞くことです。コリント人への手紙でパウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Tコリント1:18)」と言いました。また、「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4)」と言っています。

 また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。

 パウロたちは、福音を口で伝えただけではなく、その福音の中に生きて、彼らの前で信仰の模範を示しました。このことについて、パウロは2章から詳しく話しています。

2A 信者たちの模範として 6−10
 このように、パウロは、テサロニケの人たちが福音を受け入れたことを、神に対して感謝していました。そして、実は、テサロニケの信者は、他の地域の人々の間で良い評判になっていました。パウロは次から、そのことについて言及します。

1B 伝えられる信仰 6−8
 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

 テサロニケの人たちも、パウロたちと同じように、激しい迫害に遭っていました。使徒行伝では、テサロニケのヤソンの家の者たちが、裁判所にひっぱり出されて、カイザルにそむいているという告発を受けました。そして保証金を払っています。このような苦難の中にいたのにも関わらず、彼らは喜んでいたのです。その理由は、その喜びは聖霊によるものだったからです。

 聖書が語っている「喜び」は、普段、一般に語られている喜びとは異なります。回りの状況が良ければ、私たち人間は喜び、悪くなれば不満になったり、不安に陥ります。しかし、聖書では、どのような状況のときにも喜べる喜びが与えられる、と教えています。

 どうしてそのように喜べるかと言いますと、クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も見ているからです。使徒ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(Tペテロ1:8」と言いました。神が、キリストの血によって私たちの罪を赦してくださったこと。永遠のいのちを賜ってくださったこと。神の国を相続していること。神の子どもとされていること、など、これらはみな、目に見えません。けれども、聖霊がこれらの真理を私たちに啓示してくださるので、信仰によって見ることができるのです。

 そこでパウロは祈りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1:17」御霊によって、初めて、私たちは、神が与えておられる霊的祝福を知ることができ、それゆえ喜ぶことができます。ですから、聖霊によってテサロニケの人たちは喜ぶことができました。

 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

 マケドニヤは、ピリピやテサロニケの町がある地方です。アカヤは、現在のギリシヤ南部地域、アテネやコリントがある町です。テサロニケの人たちは、この地域の信者にとっても、大きな励ましとなっていました。彼らがあれほどの苦しみを受けているのに、彼らは喜びに満たされていました。

 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。

 主のことばは、テサロニケの人々によって受け入れられただけではなく、彼らから出て行きました。

2B 他の人々の評判 9−10
 そして次に、他の人々が、テサロニケの人たちの人たちを、どのように話していたのかを、パウロは次に話しています。

 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

 初めに、パウロたちの宣教のことばが、テサロニケの人たちに神のみことばとして、権威あるものとして受け入れられました。そして、テサロニケの人々が回心したことについて、他の人々が言い広めていました。彼らは、その偶像から離れました。そして、神に立ち返りました。回心にはこの二つが必要ですね。離れることと、向かうことです。罪から離れて、神に向かいます。

 出エジプト記20章には、有名な十戒のことば、「あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。」とあります。これは、木や石でできた偶像だけではなく、私たちの思いの中で造りあげる偶像があります。私たちは、神が与えてくださった祝福を、神ご自身よりも大切にしてしまうことがよくあります。神が与えられた富を、神よりも大切にしてしまう。神が与えられた伴侶を、神よりも大切にしてしまう。神が与えられた仕事を、神よりも大切にしてしまいます。このようにして、心の中で偶像を造ってしまいます。ですから、偶像から離れて神に立ち返るというのは、キリストを信じてからずっと保ちつづける立場なのです。

 そして、「生けるまことの神に仕える」ようになりました。私たちは、だれかに仕えている存在です。だれかの奴隷になっています。私はすべてのものから自由になっているということはなく、何かに支配されながら生きています。パウロはローマ書6章で、私たちは、不義の奴隷が義の奴隷のどちらかでしかない、悪魔に仕えるか、神に仕えるかの二者択一であることを話しています。ですから、私たちは神にしたがうことによって、初めて罪から自由にされます。

 そして最後に、主イエスの再臨をテサロニケの人たちが待ち望んでいることが、他の人々が言い広めていることでした。主イエスは、よみがえられ、昇天されました。そして、天から同じ姿で戻って来られます。そして、戻って来られるのは、「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる」ことによってであることに、注目してください。

 聖書によれば、神が、不義を行なう者たちのために、その怒りを地上に下される時を定めておられることが分かります。ノアの時代に、水によって地上がさばかれたように、火によってさばかれると、ペテロは話しています(Uペテロ3:7)。けれども、この怒りから救い出すために、神はキリストを与えてくださいました。キリストは、世をさばくためではなく、救うために来られたのです(ヨハネ3:17)。したがって、キリストは、神がこの地上をさばかれる前に、キリストを信じる者たちをこの世から引き抜かれ、救い出してくださるようにしてくださいます。これを、ふつう「携挙」と私たちは読んでいます。この地上から天へと、キリスト者が携え上げられるのです。

 そして、この地上に大きな患難が下ります。そのときの情景は、聖書の預言の至るところに書かれていますが、黙示録6章から18章に詳しく書かれています。そして、不義と不正に対する神のさばきがくだるのです。そして、大患難の終わりに、主イエスが聖徒たちとともに地上に来られて、この地を回復し、神の国を立てられるのです。「みこころが、天になるごとく、地にもなさせたまえ」という主の祈りが、そのときに実現します。

 今、苦難を受けているテサロニケの人々は、この悪い世から救い出してくださるイエスさまを、待ち望んでいました。待って忍耐していました。彼らはこの希望に支えられて、日々を送っていました。今受けている苦しみは一時のものである。もしかしたら、今日、主が戻って来られるかもしれないと期待していました。そのため、今日、この日にできることを行なうことができました。イエスさまが言われた、「思い煩わずに、神の国と神の義を、まず第一に求めなさい。」という信仰が与えられていたのです。

 これは私たちクリスチャン、一人一人が持つべき希望です。終わりの時には、ますます、クリスチャンとして住みにくい世となってきています。罪と戦うと言っても、疲れて、喜びが失われてしまいます。しかし、そのとき、主を思い出してください。主があなたのために、戻って来てくださることを思ってください。すべの労苦に対して報いてくださる、その日を待ってください。そうすれば、テサロニケの人たちと同じように、信仰の強められ、愛も増し加わります。


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