テサロケ人への手紙第一4章 「主イエスにある勧告」


アウトライン

1A 聖く保ちなさい 1−8
   1B 主を喜ばせる歩み 1−2
   2B 不品行を避ける 3−8
2A ますます愛し合いなさい 9−12
   1B 神から教えられた愛 9−10
   2B しっかりと仕事をする 11−12
3A 慰め合いなさい 13−18
   1B キリストにある死者 13−15
   2B 主の来臨 16−18


本文


 テサロニケ人への手紙第一4章を開いてください。ここでのテーマは、「主イエスにある勧告」です。さっそく1節を読んでみましょう。

1A 聖く保ちなさい 1−8
1B 主を喜ばせる歩み 1−2
 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。

 パウロは、この手紙の1章から3章まで、「思い起こす」ことを行なっていました。短期間でテサロニケを離れなければならなかったので、そこで行なわれたことを思い起こしながら話しました。そして4章は、「終わりに、兄弟たちよ。」という言葉で始まります。「主にあって、お願いし、また勧告します。」と言っていますが、ここからは勧告、すなわち勧めが書かれています。

 そしてその「勧め」は、「主にある」ものであることに気づいてください。パウロ自身のものではなく、主ご自身がお語りになっている勧めです。2節には、「主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを」とあります。3節には、「神のみこころは」とあります。15節には、「私たちは主のみことばとおりに言いますが」とあります。パウロは、ダマスコの途上で主イエスに会い回心し、それからアラビヤ地方に行きましたが、そのときに受けたのでしょうか、彼が直接、主イエスご自身から命令を受けています。これらのことをテサロニケ人たちに話すわけで、それゆえ、これは絶対であり、真理なのです。

 そして、この勧告は、手前の3章13節のことばが背景となっています。「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。主が再び来られるのだから、何々をしなさい、という命令をします。私たちは、主が再び来られることを思うときに、正しく反応しなければいけません。ある人は、終わりの時のことを聞くと恐い、と言いました。またある人は、心を騒がしていました。またある人は、日常生活を止める人さえいます。これらはみな、間違った反応であり、主イエスが再び来られることを正しく理解していません。けれども、パウロはこれから、主イエスが来られることによって、私たちがすべきことを教えてくれます。4章では、主に、三つのすべき事柄が書かれています。一つは、聖く保つことです。性的純潔を守ることです。もう一つは、ますます愛し合うことです。そして三つ目は、互いに慰め合うことです。

 あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。

 神を喜ばすように歩みなさい、と言っていますが、これが私たちクリスチャンとして歩むことの基準です。私たちは、これをしてはいけない、あれをしてはよい、という、一つ一つの規則によって生きるのではなく、「これは主を喜ばせることになるのか」という問いかけをしながら歩まなければいけません。例えば、テレビがあります。テレビ自体がいけないとか、良いとかいうものではありません。けれども、長時間見るのは良いことでしょうか?これも分かりません。短時間ならどうでしょう?これも分からないのです。場合場合によって異なるからです。けれども、つねに、「私は、このことをしていて、神を喜ばせているのか。それとも、自分や他人を喜ばせていることになるのか。」と自問すれば、解答が得られます。ですから、主イエスが来られることを考えるときに、「何々をしてはいけない。」という規則ではなく、「主を喜ばせる。」という、より高い次元のクリスチャン生活を営むことができるのです。

2B 不品行を避ける 3−8
 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。

 ここでは、性的に聖くなければならないことについて語られています。「聖くなる」というもともとの意味は、旧約聖書にあるように、神だけの目的のために別けられる、というものです。私たちの性を、神だけのもの、つまり神が定められた結婚相手だけに用いていく、ということになります。

 テサロニケの町は、他のローマ帝国の町と同様、とても道徳的にみだらなところでした。かつてローマ人には離婚する者は一人もいなかったそうです。けれども、ローマが帝国となってから離婚が急増しました。またテサロニケはマケドニア地方にあり、ギリシヤ地方の一部になっています。ギリシヤも、道徳的に酷いところでした。快楽のために売春婦を、日頃の性欲のために妾を、相続の子孫のために妻を、と言われていたそうです。ですから、聖く生きるということは、彼らにとっては思いもつかない考えだったのです。そこでパウロはこれが、はっきりとした神のみこころであることを教えています。

 なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。

 主は、正しくさばかれる神です。「復讐と報いは、わたしのもの。(申命12:19)」と申命記、またローマ書12章にあります。

 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

 聖潔を得ることが召しであります。3節には、聖くなることが神のみこころとあります。クリスチャンは、自分が神によって何に召されているのか、具体的にどのようなことを神から命じられているのかを結構、悩むことがあります。けれども、まず100パーセントはっきりしている、神の召しとみこころから出発することが大切です。ここでは、聖潔が神の召しであり、みこころなのです。私たちが次に何をしなければならないか、これで自ずと分かります。

 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

 これはとても大切ですね。みことばをもって忠告をするときに、忠告をする人に怒り出す人が多いです。けれども、その人はその忠告をしている人に怒っているのではなく、聖霊なる神ご自身に怒っているのです。

2A ますます愛し合いなさい 9−12
 ですから、主イエスが再び来られることを思うときに、私たちは聖潔へ召されていることを思わなければいけません。次は、ますます愛し合うことです。

1B 神から教えられた愛 9−10
 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。

 テサロニケの人たちは、ほんとうに互いに愛情を持っていたようです。パウロはこのことについては、自分が教えた以上に彼らが愛し合っているので、これは「神から教えられた」と言っています。マケドニヤ地方の兄弟たちにも、具体的なかたちで何らかの愛の行為をしていたようです。

2B しっかりと仕事をする 11−12
 しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。

 パウロは、さらに愛し合うことができる、と言っています。それは具体的には次のことによってです。

 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。

 仕事をせず、他の兄弟たちにおんぶにだっこのような人たちが、教会の中にいたようですね。このことについては、第二の手紙でパウロがきちっと戒めています。主が再び来られるときに、仕事をしなくなったり、あるいは、教会の活動を停止させたりするようなことがあると聞いていますが、それがいかに誤った行為であるかが、この個所を読むと分かります。私たちは主が近いことを知って、そこで自分が従事している仕事をきちんと行なっていることが大事なのです。

 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

 外の人々というのは、教会外の人々ということです。経済的にしっかりと自立して、それで教会外の人々にも、きちんとしていることを見せることができるようにしなければいけない、ということです。これが、ますます愛し合うことの一貫となっています。

3A 慰め合いなさい 13−18
 そして三つ目の勧めに入ります。ここでは「互いに慰め合う」ことです。

1B キリストにある死者 13−15
 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

 「眠った人々」とありますが、これは、イエスさまを信じて死んでいった人々のことです。ヨハネによる福音書11章の、ラザロの話を思い出してください。マルタがラザロを直してくださるようにイエスに頼んでから、イエスはなおご自分のところに二日間、とどまられました。そして、弟子たちには、「わたしたちの友ラザロは眠っています。」と言われました。弟子たちは、「眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いましたが、イエスは、「ラザロは死んだのです。」とはっきりと答えられています。そしてラザロは生き返るのですが、「眠っている」というのは、死んでいる状態が永続するのではない、やがてよみがえる時がある、という意味で使われている言葉なのです。決して、意識がなくなることではありません。ピリピ書1章23節には、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることなのです。」とありますが、世を去ることはつまりキリストとともにいることであり、死んだらすぐ主のご臨在の中にはいり、意識があるのです。

 テサロニケの人たちは、主イエスが間もなく来られることを待ち望んでいました。けれども、その前に死んでしまった人たちがいました。この人たちが、主イエスさまの再臨の栄光にあずかることができなくなってしまった、と思って、泣き悲しんでいたのです。あたかも、すべての望みはなくなってしまったかのように悲しみに沈んでいました。

 彼らが、パウロによって一ヶ月足らずのみことばの教えを聞いていた、新しい信者たちであることを思い出してください。その中で、主がすぐにでも来られることをここまで待ち望んでいた、という事実は、いかにそれが中心的な教えであるかを物語っています。。私たちは、聖書を順番に学んでいるのでもう気づいていると思いますが、使徒行伝と、ローマ人への手紙からのパウロの手紙は、ずっとキリストが再び来られることについて語られていました。

 この教えから、今日のキリスト教会が、いかに離れてしまったかを思います。幸せな結婚生活のためには、たくさん語られます。心の平安のための秘訣のようなものも、たくさん語られます。自尊心を高めるためのカウンセリングも流行します。そして、「○×伝道」などテクニックに傾いた活動もあります。このような人間中心、地上の事柄が中心となっているのが、今日のキリスト教会ではないでしょうか?そして、携挙のことについては、世界情勢が不安定になったり、政治経済の先行きが不安になっているときに、センセーショナルに語られるだけで、これが十字架と復活と並んで、キリスト信仰の根幹として語られていないことが、大きな問題なのです。しかし、テサロニケの人たちは、先に死んだ人がキリストの再臨を見逃したと勘違いするほど、再臨へ希望を置いていたのです。これは、キリスト信仰の根幹の教えなのです。

 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

 パウロは、イエスさまが再臨されるときは、この死んだ人たちは、必ずよみがえるのだ、と言っています。死者の復活です。イエスさまは、ラザロを直されなかったことをなじるマルタに、こう言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」イエスさまがよみがえられたのだから、イエスのうちにいる者たちも必ずよみがえります。これが、私たちが、生と死の中で生きなければいけない不条理に対する、究極の慰めです。イエスが、ラザロの死のことで泣いているマリヤを見て、泣き、また激しく憤られました。それは、死というものが、どれほど人間にひどい悲しみをもたらすものであるかを、イエスご自身が感じておられたからです。死は「最後の敵」であると、第一コリント15章には書かれています。しかし、これに高らかに勝利したのが、主ご自身であられ、また主に結びついている私たちクリスチャンなのです!ハレルヤ!

 そして、ここで大事なのは、この死者の復活が、キリストが再臨されるときにもたらされることであります。つまり、教会の携挙は、単に地上から教会が引き抜かれるという出来事ではなく、死者の復活のときなのです。このことを考えるとき、私たちはなおさらのこと、キリストの再臨を待ち望むように導かれるのではないでしょうか?

 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 パウロはここで、自分たちが、主が来られるときまで生き残っている、と言っています。将来の聖徒が、主が来られるときまで生き残っているとは言わず、自分たちが生き残っていると言ったのです。これを、「キリスト来臨の切迫性」という教理です。主は、今すぐにでも来られる。今、このメッセージを聞き終わる前に来られるかもしれない、という切迫性です。

 「主が来られる」と言って、もう二千年が経っているではないか、と言う人たちがいます。これが未信者からの声であるならまだしも、信者からも、主が今すぐに来られるという人たちを馬鹿にする人たちがいます。ならば、彼らはパウロを馬鹿にし、ペテロを馬鹿にし、ヨハネを馬鹿にし、ユダも、ヤコブもみな馬鹿にしていることになるのです。彼らはみな、自分たちが生きているときに、主が来られることを信じていたのです。パウロは、自分が死ぬことが分かって世を去りますと言ったとき、自分が生きているときに主が来られなかったと言ったことは間違いであった、と謝罪していません(2テモテ3:6−7)。ああ、私たちも、生きているときに主が来られることを、ますます確信していかねばなりません。

2B 主の来臨 16−18
 パウロは今、主にあって死んだ人々が、生き残っている私たちに優先することを話しました。彼らが、キリストの来臨に取り残されることは、決してありません。そこで次に、パウロは、主が戻って来られるときが、どのようなものであるかを語っています。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

 主は、ご自身が天から下って来られます。ここの「ご自身」のギリシヤ語はとても強く、「イエスご自身が戻られるのであり、他のだれでもない。」という意味があります。そして、主が来られるとき「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに」来られます。黙示録1章11節には、パトモス島にいたヨハネが、自分のうしろでラッパのような大きな声を聞きました。同じ声が、4章1節でもありました。「先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」主が戻って来られるときに、このような声が聞こえるのです。イエスご自身、ラザロを墓から呼び出されるときに、「ラザロよ。出てきなさい。」と大きな声で叫ばれました。同じように、大きな声があるのです。

 それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。

 キリストにある死者が初めによみがえり、生き残っている私たちが次に引き上げられます。けれども、「いっしょに」という言葉があるように、主とお会いするのは、同時間で同じ場所においてであります。

 キリストにある死者はよみがえりますが、生き残っている者たちは、一瞬にして復活のからだに変えられることとなります。コリント人への手紙第一15章には、こう書いてあります。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないのです。(51−53節)

 そしてここの「一挙に引き上げられる」という言葉は、ギリシヤ語で「ハルバゾー」という言葉で、「力ずくで引き抜く」という意味があります。これと同じギリシヤ語が、使徒行伝23章10節で使われています。パウロがエルサレムで、ユダヤ人たちに殺されそうになったとき、ローマの千人隊長がパウロを引き出して牢屋に入れました。そして、ユダヤ人たちの議会の前にパウロが立ちました。パウロは、「私はパリサイ人であり、死者の復活の望みのことで、さばきを受けているのです。」と言いました。するとパリサイ人とサドカイ人との間に激しい論争が起こり、その論争ともつれ合いのなかで、パウロの体が引き裂けそうにさえなりました。そこで千人隊長が、「パウロを彼らの中から力ずくで引き出し」たとあります。ここのギリシヤ語が、ハルパゾーなのです。私たちは、この地上から力ずくで引き出されます。

 そして、「雲の中で」とありますが、これは私たちが見る雲ではなく、神の栄光の雲ですね。ソロモンが神殿を建てて、神に祈ったあとに、主の栄光が宮に満ちました。そのため、祭司たちが主の宮に入ることができなかった、とありますが(2歴代誌7:2)、この栄光の雲であります。そして「空中」とあります。聖書には、天は三つの種類が書かれていますが、パウロが一度、引き上げられたところの「第三の天」または「パラダイス」があります。これは、主が御座に着かれているところの天です。そして、私たちがいつも目にしている大空があり、これも天です。そしてもう一つ、「空中」と書かれている天があります。ここには、あの悪魔や悪霊どももいるところで、第三の天でもなく、地上の天でもありません。その中間地帯であります。第三の天から、この天にまで主が下って来られるのです。

 そして、私たちが引き上げられる目的は何ですか?「主と会う」ことです。パウロは、あの有名な愛の章で、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私たちは一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12)」という言葉が、実現するのです。ああ、なんとすばらしいことでしょうか。私たちの罪を赦し、いのちを与えてくださった、私たちの贖い主を、顔と顔を合わせて見ることができるのです!

 このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 私たちは主とお会いするだけではなく、そのときからずっと主とともにいることになります。ああ、なんとすばらしいのでしょうか。私たちはイエスさまの愛のふところの中でずっと、憩うことができるのです。そして、主とともにいるだけではなく、先に死んでしまった人たちもいっしょに引き上げられたのですから、彼らとも再会できるのです。これは、愛する者を失った者たちに対する、限りない慰めの言葉です。

 そこでパウロがこう言います。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 そうですね、このことばをもって慰め合うことができます。パウロが、先ほど話したように、これは主ご自身がパウロにお語りになったことばですから、絶対的なものであり信頼に値するのです。同じように、自分のからだを聖く保つことも、主から命じられていることであり、絶対的なものであります。互いに愛することもそうです。私たちが、このように一つ一つのことばを、絶対的な真理のことばとして受け入れているときに、テサロニケの人たちのように慰めがあり、聖潔があり、愛があります。私たちはどうでしょうか?私たちの信頼は、このパウロのことば一つ一つに置かれているでしょうか。実際の生活の困難に面したとき、このことば一つ一つが、自分のよりどころとなっているでしょうか。誘惑にあうときに、神がこのことのためにさばきを行なわれるという警告を思い出すでしょうか。これらのことばが、私たちを生かしてくれます。


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