「死んだ後の状態」 2001/09/26


キリスト者の希望 − 天から来られるキリスト

テサロニケにいる信者たちは、激しい迫害と苦難の中にいました。そこで彼らを支えていたのは、主イエス・キリストが天から下って来られるという希望です。

また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。 テサロニケ人への手紙第一1:10

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。 テサロニケ人への手紙第一2:19

また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。 テサロニケ人への手紙第一3:13

今は苦しんでいるけれども、主にお会いする時が近づいているのだ、という希望によって慰めを受けていました。

そして、第一の手紙1章10節には、「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる」とありますが、この御怒りとは、神が不義と不法を行なう者どもたちに対して、また、彼らを苦しめる者たちに対して下される、神ご自身の地上に対する怒りです。

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。テサロニケ人への手紙第二1:7-10

したがって、苦しみの中にいる聖徒たちは、不法や不義に対して神が正しくさばいてくださるという真理の中で、安息を得ることができます。

しかし、テサロニケの人たちは、一つ悩み、悲しんでいることがありました。それは、主が再び来てくださる前に、キリストを信じつつも死んでいった人たちは、どうなるのかが分からなかったことです。携挙を見逃してしまったのではないか。彼らは今、どうなっているのか、という疑問がありました。

そこでパウロは、第一の手紙4章で、死者の復活について語ります。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。テサロニケ人への手紙第一4:13-18

パウロがここで言いたいのは、先にキリストにあって死んでいった人たちは、携挙を見逃したのではない。彼らは復活して、そして生き残っている私たちも引き上げられて、主にお会いし、また互いに再会することができる、ということです。

ただ、ここで「眠っている」とはどういう状態なのか、という質問を、ある方から受けました。今まもなくキリストにあって死ぬ人は、携挙の時までその復活を待たなければならないのか、ということです。これはとても良い質問であり、クリスチャンが知るべき大事なことであります。


死んだ後にどうなるのか?

初めにはっきりと知らなければならないのは、私たちは死んだ後も、その意識ははっきりとしているということです。「眠っている」とありますが、これは実際に眠っていて無意識の中にいるのではなく、死んでいる状態が永続しない、一時的である、ということを意味します。

イエスは、マルタからラザロが死にそうになっていることを聞き、すぐにラザロの家に行かず、二日間とどまっていました。(以下ヨハネ11章参照)それから出かけましたが、イエスは弟子たちに、「私たちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」と言われました。弟子たちは、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いました。主ははっきりと答えられました。「ラザロは死んだのです。」主がおっしゃられた「眠っている」というのは、今は死んでいるが、よみがえる、という意味でおっしゃっていました。

第一の手紙4章においても、「眠った人々」とパウロが言っている後に、「死んでいる人々(15節)」、「キリストにある死者(16節)」と言っています。したがって、「眠っている」というのは、「意識がない」ということでは決してありません。

聖書では、むしろ、はっきりと、死んだ後にある、祝福と栄光について語っています。パウロは、ピリピ人にこう言いました。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 ピリピ人への手紙1:23」世から去ることは、そのままキリストとともにいることになります。ある伝道者はこう言いました。「あなたが、寝床で最後の息を引き取るとき、次の呼吸は天において、主の栄光の中でするであろう。」死を迎えるのは、主とともにいる第一歩であるのです。ハレルヤ!したがって、キリスト者は、死へ至る病床の中にいても、力強いのです。


中間状態?

けれども、天において主とともにいる時、その人の状態はどのようになっているのでしょうか?テサロニケ第一4章16節を読むと、携挙のときに、彼らがよみがえるとあります。まだ携挙ではないから、彼らはまだ、復活していないのか。すると、どのような状態であるのか、という疑問です。

したがって、私たちは、「中間状態」があるのか、と思ってしまいます。復活のからだはないのだが、けれども、主とともにいるという、霊だけの状態があるのか、と考えます。しかし、それは聖書には示されていません。むしろ、この肉体のからだを脱ぎ捨てるのは、新しい復活のからだを身につけるためである、とパウロは言っています。

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。コリント人への手紙第二5:1-4

天の住まいとは、復活のからだのことで、地上の幕屋とは私たちの今の肉体であります。コリント書第一15章後半を読みますと、私たちが復活するとき、現在持っている肉体の要素がかき集められて復活するのではなく、天からの、新しい御霊のからだをいただく、とあります。したがって、私たちが主にあって死ぬとき、その後すぐに、天において、復活のからだをいただく、ということになります。


永遠の概念

そうすると、また疑問が生じます。「しかし、キリストにある死者が復活するのは、携挙のときではないか。もう死んでしまった人たちが、すでに復活しているのであれば、携挙のときにはどうなるのか?」という疑問です。さて、ここからが本題です。

きよきよの部屋におけるエッセイ、「聖書の時間空間」でも取り上げましたが、神は永遠の方であり、終わりのことを初めにお語りになるような、時間空間を超えたところにおられる方です。「永遠」というのは、単に時間が長く続くということではなく、昔も今も未来も、すべてを「一点」に持っておられる方なのです。ですから、頭がパンクしてしまうかもしれせんが、神にとっては、今、エバから、善悪の木からの実を受け取って食べているのも今であるし、白い大きな御座でご自身着座されているのも、今であると言うことができます。

こうやって考えると、上の疑問は次のように考えられます。「キリストにあって死んだ人は、その後すぐによみがえり、携挙の恵みにあずかっている。」ということです。私たちにとっては、携挙はまだ未来なのです。しかし、彼らは、すでに引き上げられていて、生き残っている私たちとともに主にお会いしているのです。?????となられるでしょう。私も同じです。しかし、これこそが、愛する者を失ってしまった人が、究極的に慰めを得る霊的真理であると言えましょう。

細かい聖書解釈は変ってくるかもしれません。けれども、大事なことは、

「死ぬ人は、すぐに主のもとにいる。」
「死ぬ人は、すぐに復活のからだを得る。」
「死ぬ人は、携挙の恵みにあずかる。(あるいは、あずかっている。)」

という、三つの明瞭なみことばにおける真理を心に抱くことです。


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