議論について − 2002/01/25
ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(1テモテ1:3−7)
テモテへの手紙は、しばしば牧会書簡と呼ばれる。パウロが、エペソにある教会を牧しているテモテに、具体的な命令を与えている手紙である。また、テモテはおそらく30歳ぐらいであろう、年が若い。私自身、奉仕をし、また若いので、直接関わることばかりだ。悔い改め、砕かれ、また深く慰められることの多い手紙である。
このエペソの教会で起こっていたのは、使徒行伝20章28節にあるように、教会の中に偽りの教えを持ちこむ狼が入っていたり、また長老たち自身が曲がったことを教え、自分たちのところに信者たちを引き寄せようとしていたところだ。そこで、パウロはテモテをエペソにとどまらせ、そこでみことばを宣べ伝え、また教える務めにつかせた。テモテが若い牧者として持っている弱さをパウロはよく知っており、その部分を励まし、強める言葉になっている。その言葉の中で繰り返し出てくるのが、上の聖書個所にあるような、無益な論争を避けるように、という命令である。若者は正義感が強く、どうしても意見を貫きたいと思うからであろうか、すぐに言葉のあらそいをしてしまうということをパウロは知っていたのか、「避けなさい(1テモテ6:20)」という勧めをした。
パウロによると、大事なのは「信仰による神の救いのご計画の実現」であり、また、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出る愛」が目標になっていなければいけないという。2章には、男は争わずに、清い手を上げて祈りなさい、とあるし、またテモテに対して、「聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい(1テモテ5:13)」と言った。言い争いをするのではなくまず祈り、静かに落ち着いた生活をたもち、言い争いをするのではなく、聖書を読み、教え、勧めることに専念しなさい、ということである。
私もこのことは、自分自身によく当てはまる。「きよきよの部屋」には終末論のことやイスラエルのことなどが多くかかれており、これらは、普通「議論」の対象として取り扱われる。しかし、本望は、「信仰による神の救いのご計画の実現」が自分のうちに、また読者のうちに成ることであり、自分の主張を戦わせることではない。例えば、携挙についての議論が盛んだ。私が携挙について教えていると、すぐに携挙はいつ来るのか、という「時期」についての議論になる。私には、はっきりとした立場があるが、けれども、それを鮮明に出すことはあまりしない。どのような立場であるか聞かれたり、立場を明らかにしなければならないときのみ、答えるようにしている。それは、携挙の時期よりも、その内容のほうが、もっともっと重要だからだ。
携挙は、実に希望に満ちた出来事である。このことを考えるだけで、わくわくする。先日、ある掲示板で、携挙の意義と目的について、みことばを列挙したことがある。
地上に下る神の怒りから、私たちを救い出してくださるためです。
「やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった・・・(テサロニケ人への手紙第一1:10)」
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(テサロニケ人への手紙第一5:9)」
私たちをこの世にある試練と誘惑から救い出されるためです。
「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(ペテロの手紙第二2:9)」
復活のからだ、栄光のからだを私たちに与えるためです。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3:20-21)」
キリストにある死者を生き返らせるためです。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、・・・(テサロニケ人への手紙第一4:16)」
主によって、清めのさばきを受けるためです。
「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(コリント人への手紙第一3:13)」
主から、賞賛と報いを受けるためです。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4:5)」
主ご自身に顔と顔を合わせてお会いするためです。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。(コリント人への手紙第一13:12)」
これらの御言葉を聖霊によって、信仰をもって読む人は、パウロが言ったように、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりでなく患難さえも喜んでいます。(ローマ5:2)」となるはずだ。その人が、たとえ私が信じている携挙の時期と違う説を取っていても、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出る愛」がその人にうちに育まれるのであれば、目的はすべて果たしたのである。僕と同じ説を取ってもらう必要はない。
このような、キリストにある希望を共有している人が、互いに自分たちの聖書理解を確認するために議論するのであれば、それは箴言に書かれているように「鉄で鉄を研ぐ」作業となり、有益である。異なる説を聞いて、さらに聖書そのものの理解が深まり、そしてますます、「神の救いのご計画の実現」に役立つのである。しかし、とかく賛否両論を生む議題は、この目的からそれていくことがある。これをぜひとも避けたい、と自分に言い聞かせているし、まずもって苦手だ。
予定論について論争するよりも、神がキリストにあって私たちを愛しておられる、その愛について思い巡らしたい。(エペソ1:4−5)
聖霊のバプテスマについ論争するよりも、実際にバプタイズされて、御霊の賜物のすばらしさを味わいたい。(1コリント1:5−7)
現代のイスラエル国について論争するよりも、イスラエルが神の証しとなっており、聖書がほんとうに真実のことばであることを、もっともっと確信を持ちたい。(イザヤ44:8)
その結果、自分のうちに愛、喜び、平安、忍耐、寛容、親切が育まれ、聖霊に満たされるようになりたい。
自分に神さまが任してくださったことをわきまえて、それに専念することができるよう努めたいと思うこの頃である。
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