アウトライン
1A 祈ることによって 1−7
1B 高い地位にある人 1−3
2B 神の救いのご計画 4−7
2A 控えることによって 8−15
1B 良い行ないによる飾り 8−10
2B 教えを受ける従順さ 11−15
本文
テモテへの手紙第一2章を学びます。ここでのテーマは、「平安で静かな生活」です。まず、前回学んだことをおさらいしましょう。
テモテは今、エペソにいます。パウロがテモテを、エペソにとどまらせて、そこの教会で起こっている問題に対処するように命じました。エペソは、パウロが長いこととどまって、みことばを教えた結果、多くの信者が与えられ、数々の不思議や奇蹟が行なわれたところです。けれども、その教会に狼がやって来ること、また、長老たちの中からも曲がったことを教えることを、パウロは予告しました。はたして、そのとおりになってしまったようです。そこでテモテがエペソにとどまって、牧会者として、みことばを教える奉仕を行なっていました。
エペソでは、律法について曲がったことを教えている者たちがいたようです。これこれは食べてはいけない、飲んではいけない、結婚してはいけないことや、また、系図などで、変てこな教えをしていたと考えられます。律法を教えていて、あたかも律法を大事にしているかのように見えて、実は、パウロが宣べ伝えていた福音から反れていたことを教えていました。
そのために、論争が起こりました。というよりも、そのような輩が論争をけしかけたと言ったほうがいいです。そしてこのテモテへの手紙は、こうした言い争いを避けて、教師たちの目標である「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」に焦点を当てるよう、テモテに命令しています。
そこで2章では、パウロは、公の場における秩序について話しています。教会において、公の集会において、争いや無秩序ではなく、静かさを保ち、本来の目標である神の救いを見つけていかなければならないことを教えます。
1A 祈ることによって 1−7
1B 高い地位にある人 1−3
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
「そこで、まず初めに」とパウロが言っていますが、1章で語られていた、無益な議論を避け、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことについて、まず初めに、と続きます。このような騒々しい、教会の秩序を乱すような要因に対して、何を行なわなければいけないでしょうか?それは、「祈り」です。議論ではなく祈りが、公の場において優先されていくとき、そこに、ここに書かれているように、敬虔にもとづく静けさと平安があるのです。私たちが議論ばかりをして、祈ることを忘れることが何とたくさんあることでしょうか。まず、すべてのことの初めに祈る、これが大切です。
そして、祈りについて、4つの種類の言葉が使われています。「願い」「祈り」「とりなし」そして「感謝」です。願いとは、人々の必要があって、その必要を神に知っていただくことです。もちろん、神は私たちの必要をすべて知っておられるのですが、けれども、私たちがその必要を知らせることによって、私たちは神との交わりをはじめることができます。ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」とあります。
次に「祈り」ですが、これは神へのデボーションというか、自分の霊と魂を神の前に供える、礼拝であります。ここではお願い事をすることから、ただ主を見つめ、主ご自身の御顔を求める時です。そして「とりなし」です。ここで使われているとりなしのギリシヤ語は、テモテ第一4章5節にある、食前の祈りの前に祈る「祈り」として、使われています。これは、権威ある王に対して、その王座の前に現われ近づいてひれ伏す、という意味があります。私たちは、このようにして、神に近づくことができます。そこはさばきの座ではなく、恵みの御座です。ヘブル書4章16節にこう書いてあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」そして、「感謝」です。神に願い事を知っていただき、神に顔を向け、そして神の御座に近づき、ただただ、主ご自身のなされたこと、行なわれていることに感謝します。
こうした祈りが必要ですが、これは「すべての人のために」行なわれるものとパウロは言っています。自分たちの気に入っている一定の人々だけではなく、ましてやクリスチャンだけではなく、文字通りすべての人です。これはなかなかできませんが、パウロは、このようにして自分の祈りの幅を広げていくように、とくに公で祈るときに、閉鎖的にならずに、身の回りにいる人々のために祈っていきなさいと勧めています。
そして、「また王とすべての高い地位にある人たちのために」とあります。なぜ彼らのために、祈らなければいけないのでしょうか。それは、2節にあるように、「敬虔に、威厳をもって、平安で静かな生活をするため」であります。ローマ人への手紙13章には、すべての上にあるもの、権威と呼ばれているものは神から来ている、と書いてあります。だから、権威には従いなさい、と勧めています。権威を知ることによって、私たちのうちに、争いや無秩序ではなく、平和と静かさ、また威厳と敬虔を保つことができるのです。
王や高い地位の人たちのために祈ることは難しいです。なぜなら、必ずしも自分が投票したい人ではないからです。けれども、私はこのみことばを読んで、すかさず小泉首相のために祈りました。すると、ここでパウロが言いたいことが理解できました。彼のために祈ることによって、首相としての権威を尊重することによって、自分のうちにも権威を尊ばなければいけない思いが生まれるのです。すると、言葉の争いなど、教会としてクリスチャンとして目的を失った無益なことから目を離して、神が求めておられる敬虔さや威厳さを保つことができます。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
このようにして祈ることは、神の前で良いこと、喜ばれることです。また、この神が「救い主」と呼ばれていることに注目してください。パウロは次に、神の救いのご計画について話します。
2B 神の救いのご計画 4−7
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
私たちがすべての人たちのために祈り、とくに王や地位の高い人たちのために祈るときに、自分が何をしなければいけないか、その理解が与えられます。それは、教会として、すべての人が救われてほしいというか神の願いを自分たちのものとしていくことです。自分たちだけという、霊的なエリート主義ではなく、あらゆる人に差別なく提供されている神の救いをまた思い返さなければいけないことを知ります。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
パウロは、ローマ人への手紙3章29節において、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。」と言いました。ユダヤ人が自分たちだけの神だと思っていても、それは彼らの唯一神信仰とは矛盾する、ということです。異邦人にとっても、ユダヤ人の神は彼らの神なのです。なぜなら神は唯一の方だからです。したがって、異邦人にも神は救いの御手をさし伸ばしておられて、この「すべての人が救われる」という神の望みは、異邦人の救いも含まれています。私たちが、救われそだなと考える人々と、救われそうもないな、と考える人々と区分けして祈ることができないのは、これが理由ですね。この救われそうもないな、と思っている人々を、神はお救いになりたいと願っておられます。
そして、この救いは、唯一キリスト・イエスのみによってもたらされます。仲介者は人としてのイエス様だけです。アメリカ人はキリストによって、日本人は仏陀によって救い、あるいは悟りを得るではないのです。すべての人が、イエスの御名によらなければ救いを得ることはできません。ですから、私たちの救霊への思いは、あらゆる人々に及びます。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
「贖いの代価」とは、奴隷市場で売られている奴隷を、代金を払って買い取って自分のものとする、という意味があります。神が、キリストのいのちという代価を支払われて、罪の奴隷であった私たちを買い取られ、ご自分のものとされました。キリストが十字架につけられたその時に、この贖いがなされた、というのが、ここでパウロが言っていることです。
そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ・・私は真実を言っており、うそは言いません。・・信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。
パウロは、はっきりと自分が何に任じられているかを意識していました。教会において主にお仕えする人々、とくに牧師はこの意識をはっきりと持っていなければいけませんね。主にあって、自分が牧会者として任じられているという、プロフェッショナルな意識です。
パウロは、三つの職務を意識していました。一つは「宣伝者」です。これは王からの布告を、言い広めて伝える者のことです。福音の新聞配達と言ったら、もっと分かりが良いでしょうか。そして、使徒です。これは一つの使命のために遣われされた者という意味です。キリストの権威によって、パウロはいろいろな所に遣わされました。そして、教師です。これはもちろん、みことばを教える者ですが、パウロの場合は、異邦人にみことばを教える教師に任じられました。
2A 控えることによって 8−15
こうしてパウロは、祈ることについてテモテに教えました。続けて祈りについて8節において、話しつづけます。
1B 良い行ないによる飾り 8−10
ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
男が祈りなさい、とパウロは勧めています。これはもちろん公の場において、男が祈ることを勧めていますが、「怒ったり言い争ったりすることなく」とありますね。ここが男の弱さです。論争があると、とくに神学的、政治的、何でも良いですが、論争を好む傾向があります。これがエペソの教会で、人前で男たちが行なっていたかもしれないことです。けれども、パウロは「祈りなさい」と言っています。「きよい手をあげて」とありますが、聖書では手をあげて祈る祈り方がたくさん書いてあります。敬虔な生き方に裏打ちされた祈りが、この「きよい手」です。
同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
ここから女の人たちへの指導に移っていきます。男は怒ったり、言い争いをすることによって、公の場を乱し、教会の本来の目標である、神の救いのご計画の実現をもたらすところの愛から離れてしまいます。女は、外見の美を求めることによって、公の場においてこの目標から離れさせることがあります。私は男なのでよく分からないですが、けれども、聖書が言っているのですから確かでしょう。外側の美に惹かれる傾向を、女性は持っているのです。
女性が美を求めることを聖書は禁じていないし、パウロもここでその美を否定しているのでも、禁じているのでもありません。しかし、それを過度に持ち出すことによって、人々の注意が主ご自身ではなく、その人自身に向けられていく傾向があるのです。男たちのことを考えるなら、性的に興味を惹かせるような身なりは、とくに礼拝においてはしてはいけません。とくに夏は、女性は十分に気をつけるべきです。暑いから、というのは理由になりません。これは律法的なのではなく、公の場における秩序の問題です。そして、同性に対しては、外見の身なりを見せる誘惑を避けなければいけません。女性だけの集まり、公の場における集まりで、その着こなしなどに、必要以上に気を使うのではなく、むしろ、もっと大事なこと、「良い行ない」を飾りをしていくことに気を使うべきです。自分が、外見の美で評判が良いのか、それとも、主への奉仕で評判が良いのか、それを吟味する必要があります。
2B 教えを受ける従順さ 11−15
次に、もう一つ、静けさと平安を保つのに必要な要素があります。それは、女が男に従うという秩序です。
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
これから女の人たちは、一切、発言してはいけません、というのは冗談です!ここでの「静かにして」というのは沈黙という意味ではなく、もっと砕けた言い方では「でしゃばる」でしょうか。でしゃばることなく、かつ、卑屈にならない、敬虔な従順がここで言う「静かに」であります。
そして、女の人が教えたりしてはいけない、というのも、誤解して読まないでください。聖書では、女がみことばを語り、預言をし、教えている個所がたくさん出てきます。旧約聖書では、女預言者フルダがいました。デボラもいます。新約聖書では、プリスキラが夫アクラとともに、説教者アポロを個人的に教えて、イエスの道をさらに正確に知らせました。伝道者ピリポの娘たちは預言者でした。テトスは、年上の婦人が年下の婦人を教えさせるようにパウロから指示されています。またテモテ自身も、母親と祖母から聖書の教えを受けています。女の人たちが教えることは、もちろん良いし、むしろその賜物を用いていくことを聖書は奨励しています。
ここで問題にされているのは、女が教会において、教える立場として指導的役割を果たすことであります。女が牧会的な役目を果たすことです。女の人たちで、非常に優れた人たちがいたとします。男の牧師は、彼女たちの忠告を受け入れ、大きな益を得ます。私も妻から多くの忠告を聞き、そのため、ロゴス・ミニストリーは保っているようなものです。主から知恵が与えられていると信じています。しかし、私は彼女に指導権は決して譲らないし、また彼女もそれを望んでいません。もともとそのような興味がなかったといえばそれまでですが、けれども聖書がそのように命じてもいるのです。男と女の間、とくに夫と妻との間には秩序があります。キリストにあって男と女は一つにさえていますが、それを理由に、一つの境界線を越えて、自分がリードするような立場を取ろうとするときには要注意だと思ってください。その集会、あるいは教会は必ずおかしくなります。
パウロは次に、このような秩序の根拠を話します。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
神が造られたときに、アダムを初めに造り、エバを次に造られました。創造における順序です。
また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
堕落においても順序がありました。女が初めに惑わしを受け、アダムが罪を犯しました。これは女がより惑わしを受けやすいということでは決してありません。そうではなく、女が男を支配するようなかたちで物事を進めていけば、そこには秩序がなくなり、人々が罪を犯しやすい環境を作ってしまいます。男がリーダーシップを取ることによって、その健全な環境が保たれます。
しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
ここは解釈が難しい個所です。子を産まない女はみな地獄に行ってしまうのでは絶対にないことは、他のパウロの書簡、また聖書全体からもそんな結論は出せません。ここの「子を産む」というのは、実はその前の節の、エバについての話の続きになっているというのが、私が感じていることです。つまり、創世記3章15節に出て来る、「女の子孫」です。確かに、エバが初めに惑わしを受けて、アダムが罪を犯し、罪が全世界にはいったのですが、女の子孫、つまり、イエス・キリストが処女マリヤから産まれることによって、救いが全世界にもたらされました。つまり、ここの「子を産む」というのは、マリヤの処女降誕のことである、というのが自然でしょう。
このイエスさまのことが、「愛と信仰と聖さ」によって伝わるというのが、パウロがここで言いたかったことではないか、と私は思います。つまり、女が教えることによって、人々に神の救いが伝えられるというよりも、神の秩序の中にあって良い行ないを飾り物とし、愛と信仰と聖さによって、無言の行ないであっても、それが人を救いへと導くのです。未信者の旦那さんを持っているクリスチャンの奥さんは、このことが大切になるかと思います。
こうして、「静かさ」が2章においてキーワードとなっていたことが分かりました。言い争いという背景の中で、祈りがまず優先されることが必要です。そして、女の人が先頭に立つことがないこと、男が責任者として立つことが必要であることが分かりました。そのときに、神の救いのご計画が教会を通して実現されます。