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テモテへの手紙第一6章を開いてください。ここでのテーマは、「敬虔という財産」です。テモテへの手紙の学びが中断してしまったので、もう一度、そこに書かれていることを思い出したいと思います。テモテは、今、エペソにある教会にいます。パウロが長いこと、教え導いた教会がそこにありますが、その中に狼が入り込み、また長老たちでさえ、自分たちに信者たちを引き寄せようと、曲がったことを語るようになっていました。そこでパウロは、テモテをエペソの教会に置き、そこで牧会の務めをするように命じました。
テモテは若い牧会者です。年の若さから来る弱さや、未経験のために悩む問題もあります。また、テモテ自身、けっこうおくびょうな性格の持ち主です。テモテを信仰によって我が子のように愛していたパウロは、これらの弱さをすべて知っており、具体的な、実際的なアドバイスを彼に与えています。
パウロはまず、間違った教えをして、論争を引き起こしている者たちから避けるように命じています。彼らと言い争うのではなく、しっかりと心を砕いて、キリスト・イエスの健全な教えを教えるように命じています。また、公の礼拝において、祈ることを教え、女が教えたり支配することのないように戒めました。監督と執事の職につく人たちの資格も具体的に教えました。また、教会には尊敬に値する人たちとして、やもめや長老がいましたが、本当のやもめを教会で支えるように、家族がいる者は家族が扶養するように命じています。このように具体的なアドバイスを与えていますが、パウロは6章において、金銭に対して無欲であることをアドバイスしています。テモテ自身ももちろんそうですが、教会にいる人々全員が、そうであるように教えるよう命じています。
1A 満ち足りる心 1−10
1B 主人への奉仕 1−2
くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。
当時のローマ社会は、その半数が奴隷でした。現代の社会に言い換えるならば、雇用関係になります。被雇用者が雇用者を十分に尊敬するようみなさなければいけません。その理由は、神の御名と教えとが、そしられないためです。クリスチャンであると会社の中で話して、またイエスさまのことを職場の人たちに伝えて、なおかつ、仕事を怠けたり、真剣でなかったりすれば、会社の人たちは、クリスチャンのこと、またキリスト教のことを悪く言うかもしれません。そのようなことはあってはいけない、とパウロは言っています。職場における最大の証しは、その仕事の成果です。勤勉に働いて、その成果を上司に見せることにより、キリストの証しを立てることができます。
信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。
クリスチャンの会社、あるいは、上司がクリスチャンの場合、私たちが陥りやすい過ちは、なあなあになってしまうことです。もう彼はクリスチャンなのだから、証しを立てる必要はない、という気持ちになってしまいます。けれども、そうであってはいけない、とパウロは言います。その理由は、もし自分が一生懸命働けば、それによって自分の主にある兄弟が大きな利益をもたらします。兄弟を愛する愛のゆえに、一生懸命働くことができます。
2B 衣食への満足 3−10
パウロがなぜ、この6章において、奴隷に対する勧めをしているかと言いますと、現在の生活で満足した生活、今持っている財産で満ち足りることのできる敬虔さについて語るからです。イエスさまは、「労苦はその日その日に、十分にあります(マタイ6:34)」と言われましたし、伝道者の書にも、「日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすること」が、好ましいと書かれています(5:18)。
1C 言葉の争い 3−5
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
パウロはこれから、偽りの教えをする者たち、偽教師たちのことについて話します。パウロが生きていた時代だけではなく、私たちが今生きている時代にも、数々の違った教えがあり、主イエス・キリストの健全なことばに同意しない人たちがいます。なぜ、そのような教えを行なうのか、その理由について、またそのような教えを言い広めることによる実(結果)についてパウロは次から話します。
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。
偽りの教えをするのは、高慢になるからです。キリスト教会の中で、人々の目に留まるようになり、自分の教会に多くの人が集い、良い評判を聞くようになったりすると、人は、この高ぶりの誘惑にあいます。初めは正しいこと、健全なことを語っていたのに、だんだん本質からそれたような話をするようになってきます。曲がった教えをしている人たちは、その根に、キリスト・イエスの教えに従わない高慢があるからです。
そのような健全な教えから離れる人たちが次に行なうことは、ことばの争いです。人々にあえて、論争を引き起こすようなことを語り、それを面白がっているかのようでもあります。この類の論争は、現在、インターネットの掲示板で頻繁に見かけます。論争のための論争、本質的ではないことを取り扱って、あえて言い争いを引き起こすようなことをする投稿があります。
そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
偽りの教えをする人たちは、金銭においてもその欲望があります。「敬虔を利得の手段」というのは、キリスト教やミニストリーによって、金儲けをしようとする考えのことです。こうすれば、たくさんの読者を集めることができると思って、あえて過激なことを本の中に書いてみたり、説教の中で人に受けるようなことを話します。そこで、いつも紛争が生じるのです。
2C 金銭への愛 6−10
そこでパウロは、次から金銭を愛することについて警告を与えています。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
テモテへの手紙には、「敬虔」という言葉がたくさん出てきていました。2章2節には、高い地位にいる人たちのために祈るのは、私たちが敬虔に生きるためであると書かれています。3章16節には、キリストがこの世に来られたことを、「敬虔の奥義」と読んでいます。4章7節には、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」と命じられています。そして先ほど読んだところで、6章3節には、「敬虔にかなう教え」とありました。「敬虔」というのは、新共同訳では「信心」とも訳されており、神を畏れるうやうやしい態度とも言えますし、人間的に言えば「品行方性」でありましょう。けれども、単に品行方性なのではなく、主によって変えられた新しい歩みが、人々にも良い評判をもたらすところのふるまいです。
ですから、「敬虔」は、この世においては、まったく損する道であります。ビジネスの世界で不正をしても成功をするのが当たり前のところで、実直に働くことは愚かで、損をするように見えます。しかし、パウロはこれこそが、大きな利益を受ける道であると教えています。この言葉を心に焼き付ける必要があるでしょう。敬虔こそが、私たちが熱心に求めるべきことであり、敬虔こそが、私たちに大きな利益をもたらしてくれる、ということです。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
赤ちゃんは裸で生まれてきて、死んでいくときは、地上の財産を何一つもっていくことはできません。これは事実です。しかし、このことを多くの人が忘れ、ひたすら地上の富を蓄えようとします。しかし、自分はしょせん、何も持っていないのだということを知ることが大事です。
衣食があれば、それで満足すべきです。
今、神から与えられているものに満足できることは、すばらしいですね。パウロはここで、「衣食住」と言わず、「衣食」と言っているところが興味深いです。彼は旅をしており、自分が住んでいるところさえ定まっていませんでした。イエスさまも、人の子は枕するところもない、と言われました。私たちが、今、自分がいるところから離れたくない、今の生活の地位を保ちたいという欲求が、主のために働くことよりも優先しているのであれば、パウロがここで語っている心とは異なります。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
この世にある、さまざまな悪いことは、なぜ起こるのかを考えてみましょう。それは、「金」です。例えばポルノ産業が大きくなるのはなぜでしょうか。お金がほしいからですね。先ほど話した、人々をあえて論争に引き込もうとするような、奇論や偽りの教えを言い広めるのも、やはり金がその根にあります。ですから、お金を持ちたいと願うと、お金のことだけではなく、その他のあらゆる欲に引き込まれることになるのです。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
お金を追い求めるために、実際に信仰を捨てることさえあります。イエスさまは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言われました。
2A 永遠のいのちの獲得 11−21
これらは、偽りの教えを言い広める者たち、金を求める者たちの姿ですが、次は、本当に主にあって働く人たちが、熱心に求めるべきものが書かれています。
1B 信仰の戦い 11−16
1C 聖霊の実 11−12
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
パウロは、テモテを「神の人」と呼んでいます。すばらしい呼び名ですね。旧約聖書では、モーセがそのように呼ばれていました。
そして、パウロは、金銭を追い求めることを「避けなさい」と命じています。避けることは臆病なように見えますが、しかしもっとも効果ある勝利の道でもあります。この手紙の最後でも、「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい、と命じているし、また、テモテへの第二の手紙では、若いころの情欲から避けなさい、と命じています。私はとかく、問題に直面すると、その問題を自分で何とか解決しようとして、その深みにはまってしまう過ちを犯してしまいます。人が誤った教えを言い広めているとき、正義感からそれを正そうとしてしまいます。けれども、教会で語られるべき大切なことばは、もっともっとたくさんあるはずです。避けること、これは速やかな勝利への道です。
そして、熱心に追い求めるべきものは、まず、正しさ、敬虔です。正しさとは、人との関係において歪んでいるものがない、ということです。不正を行なっていない、信頼を喪失するようなことはしていない、人に害を与えておらず、むしろ益を与えている状態です。敬虔は、先ほど説明したように、神に対する誠実さです。祈り深くし、聖書を日々読み、人々にも証しを立てていく生活です。そして、愛と信仰と忍耐と柔和さは、聖霊が結ばせてくださる実ですね。これらを熱心に求めなければいけません。主の働き人は、とかく、目に見えるかたちでの成功話にとらわれてしまいます。人々が多く集まったとか、という話です。けれども、本当に求めるべきことから決してそれてはいけないことを、ここで教えられます。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
あなたがたはイエスの御名を信じて、永遠のいのちを持つ、ということばは、私たちは伝道をするときにいつも聞きます。そこでいつの間にか、私たちは、それが天国行きの切符であるかのように考え、その意味する重大なところを忘れてしまいます。信仰を保っていることは、それ自体が戦いであり、また永遠のいのちを持って生きることも、それ自体が戦いです。特に終わりのときには、イエスの御名にしか、救いの道は備えられていない、という信仰告白さえもが、なかなか言えなくさせるような時代になります。
先日、キリスト教系の新聞を読んでいるとき、日本における信仰年数が、たしか2.数年であったと書かれていました。3年にも満たないのです。多くの人が、イエスを信じるといい、また洗礼を受けるのですが、その後、信仰生活から離れて生きていきます。しかし、長いこと信仰を持っているとされている人たちの中にも、自分がクリスチャンであると言っている人たちにも、あまりにも多く、救いの喜びを失っていたり、キリストにある新しいいのちを忘れてしまっている人たちがいます。教会から離れて、世の人と何ら違いがなく生きている人もいます。また教会にずっと通っていても、その活動をこなしているのが精一杯で、律法主義的になっている人もいます。本当に、主との生き生きとした関係を、長いこと保っていることは、簡単なようで実はとても難しいのです。だから、「信仰の戦い」なのです。信じて永遠のいのちを保つこと、それ自体が、確かにイエスが自分にとって主であることを告白できるのは、信仰の戦いであります。
2C 主イエスの現われ 13−16
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。
イエスさまは、ポンテオ・ピラトの前で、ご自分がユダヤ人の王であることを隠すことなく、「あなたの言う通りです。」と言われました。パウロは、父なる神と主なるキリスト・イエスを引き合いに出して、テモテに厳かな命令をします。
私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。
「主イエス・キリストの現われ」とは、主の再臨のことを指しています。そして、「傷のない、非難されるところのない者」というのは、罪をまったく犯さないということではなく、教会の外の人たちにそしられるようなことのないような敬虔さを保ちなさい、ということです。
そして「現われ」という言葉に戻りますが、主イエス・キリストは、今、天において神の右に着座ししており、また私たちのために、執り成しの祈りをささげておられます。今、私たちの目では、この方を見ることはできません。けれども、定められた時が来たら、はっきりと、目に見えるかたちでイエスさまが現われてくるときがあります。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見ることになります。(1コリント13:12)」
そしてその現われは、どのようなものであるかを、パウロは次に示しています。その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
この世界には、さまざまな王と呼ばれるもの、主権者と呼ばれるものがたくさんあります。しかし、それらは単に、王の王であり主の主であり、最高主権者であられる神の操り人形でしかありません。各国の首相、大統領も、国連もなにもかもが、実は神の主権の中で動いているのです。そして、この神が、主イエスにあって、その再臨のときのご自分を現わしてくださるのです。
ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
あらゆる被造物には死、あるいは滅びがありますが、神ご自身にはありません。また、神は光の中に住まれ、天の御座におられる方で、だれも近づくことはできません。そして、神は霊ですから、だれも見たことも、また見ることもできない方です。神を見たという表現が、モーセが神を見たところで出てきます。けれども、その時でさえ、主の栄光の後姿であり、主ご自身を見たのではありません。しかし、この方の栄光をすべて見た方がおられ、それが独り子イエスであられ、父と子はひとりであります。
このように、信仰の戦いを勇敢に戦うときに、人々を支えるのは、主イエスの再臨なのです。自分が行なっていることが、目に見えるかたちで成果を見ることができないと思うときがあります。落胆するときがあります。多くの反対にあって、疲れるときがあります。けれども、それでも耐え抜けるその力は、主の主であり、王の王であり、唯一の主権者であり、天に住み、光に住み、死を知らない神が、主イエスにあって現われてくださることを思うからです。ここから目を離さないとき、私たちは希望にともなう忍耐が与えられ、主の愛と恵みの中にいつまでもとどまることができます。
2B 天に蓄えるべき富 17−21
次にパウロは、再び「金」について話します。この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。
すでに金持ちになっている人たちに対して、どのような勧めをすればよいか、パウロはテモテに教えています。一つは「高ぶらないように」です。お金を持っていると、人を高ぶらせます。次に、「たよりにならない富に望みを置かないように」です。富が与えるものは、安心感です。自分の生活に安定感を与えてくれますが、しかしそれは偽の安定感です。主が与え、主が取り去ります。まことの安心感は、主ご自身から来るものであり、主が備えてくださるという信仰から来ます。
むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
これはすばらしいですね。神は、私たちが、今与えられているものを楽しむようにさせてくださいます。例えば、とてもきれいな夕焼けを見るときに、自分を豊かにしてくれます。いつもいっしょにいてくれる妻を見るときに、自分はなんと富んでいるのだろうか、と思います。神はすでに、自分を楽しませてくれる富を与えてくださっているのです。
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
金持ちの人は、良い行ないにおいて富んでいるようにすることが有益です。いろいろな人たちを助け、祈り、主から与えられた財産を福音宣教のために上手に使っていくことが必要です。
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
イエスさまは、「天に宝を蓄えなさい」と言われましたが、金持ちの人は御国のために自分の財産を用いていくべきです。
テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。
これが、テモテへの手紙のまとめです。一つは「ゆだねられたものを守る」です。パウロが、主イエス・キリストの直接の啓示を受けましたが、それをテモテにゆだねようとしています。この啓示は、取捨選択できるようなものではなく、絶対真理ですから、パウロはテモテに何度も、「あなたに命じます」と命令として語っていました。これは、キリスト教会の牧会者すべてに当てはまるでしょう。パウロが語っていること、つまり聖書の教えを忠実に、しっかりと説き明かしていく務めにたずさわっています。そこに私的解釈はいっさい行なってはいけません。
次に、「霊知」と呼ばれる反対論を避けます。これがグノーシス主義であると考えられますが、自分たちだけに霊的な知識が与えられていると彼らは考えていました。人々には隠された神の計画があり、それを自分たちだけが示された、と考えます。今でも、似たような主張はキリスト教会の中にあります。しかし、それを避けなさいとパウロは命じました。
こうしてテモテへの手紙第一を読み終えましたが、牧会書簡は、「敬虔に生きる」ということが一つのテーマになっていました。敬虔というのは、この世にはもっとも受けない生き方ですが、けれども大きな利益をもたらします。金銭を追い求れば、大変なことになりますが、今の衣食に満足すれば、とても豊かな生活をすることができます。そして信仰の戦いを勇敢に戦わなければいけません。まことしやかな、人々を説得させる主張や論理が教会の中でさえ吹き荒れます。しっかりと、健全な教えの中にとどまっていなければいけません。