コリント人への手紙第二10章 「主から与えられた働き」

アウトライン

1A 神に由来する力 1−11
   1B 霊的な戦い 1−6
   2B 人を立て上げる権威 7−11
2A 慎み深い働き 12−18

本文

 コリント人への手紙第二10章を開いてください。ここでのテーマは、「主から与えられた働き」です。コリント書第二も、終わりに近づいてきました。そこで、この手紙の背景になっている、偽使徒の存在を明らかにしています。パウロたちが、コリントにおいて教会を建て上げたあと、エルサレムから来たという、偽物の自称使徒たちがやって来ました。パウロの信用を失墜するような誹謗中傷を言いふらしました。そのため、パウロとコリントの信徒たちとにある信頼関係が傷つけられてしまいました。ですから、パウロの心も傷つき、その傷ついた心でこの第二の手紙を書き出しています。パウロは心を大きく開いて、自分の思いを信徒たちに書き表しました。そして、彼らへの信頼を自己確認した上で、繊細な話題である献金について、大胆に語りました。それが8章と9章です。そして、パウロは事の核心に迫り、このにせ使徒たちに強い姿勢で臨むことを言い伝えます。それが10章です。

1A 神に由来する力 1−11
1B 霊的な戦い 1−6
 それでは1節を読みます。さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。

 
この、「面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。」というのは、コリントの教会の中にいる偽使徒やそれにくみしている者たちが話している言葉です。彼らは、このようにして、パウロの信用を傷つけるような言葉を語っています。パウロは、その中傷に対して、「キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。」と言っています。中傷に対して、むきになって怒るようなことをしたり、また、彼らをさばこうとはしない、と言うことです。


 キリストの柔和と寛容、これが、クリスチャンの特徴となっていなければならず、また、主の働き人が持っていなければいけない姿勢であります。柔和とは、自己主張の反対語であります。自分を主張しない、ということが柔和です。そして寛容は、悪に対して早まったさばきを下さない、ということであります。私たちクリスチャンが、主にある働きの中にたずさわるときに、コリントのにせ使徒たちが行なっていたような、中傷や、不当な取り扱いを受けたりします。私は、そのときに非常に怒ったり、何とかして、自己弁明をしようとする衝動にかられます。けれども、それは、クリスチャンとしてふさわしくない態度なのです。キリストが、不当な取り扱いを受けられたときに、怒られたでしょうか。キリストが、根も葉もない告発を聞いていたときに、言い返されたでしょうか。必要なときには、イエスさまも声を出されました。しかし、基本的に、ご自分を主張せず、また悪もすぐにさばくようなことをなさいませんでした。私たちが、偽物、不正、悪などの諸々の攻撃に対して、この柔和と寛容の姿勢を貫かなければいけません。

 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。

 偽使徒たちは、また別の中傷を行なっていたようです。肉に従って歩んでいるかのように話しているようです。パウロは、「勇敢にふるまおう」と言っています。これは、偽使徒たちがどのようなことを行なっていたかの背景を知らないと理解できないでしょう。彼らが何を行なっていたかについては、
11章に書かれています。例えば、11章4節。「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」とあります。彼らは一言で言うと、カルト化した教師たちと言えるでしょう。異端の教えを教えていました。そして、異なる霊を受ける、とありますから、オカルト的でさえあったようです。そして、1120節を見てください。「事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。」この偽教師たちは、まるで暴力団のような者たちであったようです。奴隷のように信者たちを酷使し、彼らの金をまきあげ、まただまし、非常に横柄な態度を取り、そして、信徒の顔をなぐっていました。このような状況ですから、パウロが勇敢に行動するのは当然なことなのです。けれども、彼は、「強気にふるまうことがなくて済むように願っています。」と言っています。キリストにある柔和と寛容です。強行な姿勢に出るのは、彼にとって極力避けたいことなのです。

 けれども、もしコリントの人たちだけで彼らを追い出すことができなければ、パウロ自身が対処しなければいけません。そこでパウロは、戦うことについて次から語ります。クリスチャンが、自分たちに向けられた攻撃に対して、どのように立ち向かわなければいけないかを教えています。

 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。


 パウロは、肉の武器ではなく、神から与えられるところの霊の武器によって戦うことを教えています。異端の教え、オカルト、暴力と強奪というような深刻な問題が起こっている中で、彼は、霊の武器をもって立ち向かうと言っているのです。

 パウロは3節で大切なことを教えています。私たちは、このように肉のからだを持っており、また、目に見える物理的な世界、肉の世界の中に生きています。ですから、目に見えるところで繰り広げられることは、目に見えるものによって対処しようとするのが当たり前のことです。例えば、私たちが不当な扱いを受けたら、警察に届けたり、裁判で告訴したりします。これが、肉に従って戦うということです。けれども、聖書は、目に見える肉の世界だけではなく、目に見えない霊の世界があることを語っています。この霊の世界が、実際は肉の世界を動かしているのです。私たちクリスチャンは、このことに気づかなければいけません。私たちは肉のなかに歩んでいるのですが、肉の武器をもって戦ってはならないのです。まず霊の武器を取り上げて、その武器によって、目に見えるところにある問題に対処するのです。具体的には、エペソ書6章に神の武器が列挙されています。真理の帯、正義の胸当て、救いのかぶと、福音の備えの履物があります。そして、信仰の大盾、御言葉の剣、そして最後に御霊による祈りがあります。これらを身につけ、また取り上げて、私たちは、肉の世界で起こっていることに立ち向かっていくのです。

 その武器は、神の御前で要塞をも破壊することができる、とパウロは言っています。なぜなら、キリストがすでに、十字架と復活のみわざによって、すでに悪魔に勝利されたからです。コロサイ書2章15節では、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」と書いてあります。また使徒ヨハネは、「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(Tヨハネ5:4)」と言いました。私たちはキリストにあって、圧倒的な勝利者なのです。ですから、私たちがこの霊の武器を用いないことは、本当に滑稽なことなのです。悪魔は、何とかして私たちを肉の領域に引き込もうとします。問題を起こして、私たちを慌てふためかせ、落胆させ、自分たちで対処させようとします。しかし、私たちが一歩引き下がって、祈り始めたらどうなるでしょうか。「神さま、イエスさまの御名によって、この問題に立ち向かいます。あなたは、御子にあって、すでに勝利を与えてくださいました。」と祈り始めたときに、決定的な打撃をサタンに加えることになります。私たちはすでに勝利者なのですから、霊の領域に入ればもうこちらのものです。ですから、私たちの課題は、すぐに霊の戦いであることに気づくことです。霊の戦いであることに気づけば、すぐ祈ることができます。祈ることができれば、悪魔に立ち向かうことができます。立ち向かうことができれば、悪魔は逃げていきます。そして、問題は解決へと向かいます。

 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、パウロは、彼らが行なっている中傷を、「さまざまな真弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」と呼んでいます。霊の武器によって、その高ぶりをキリストに服従させる、と言っています。けれども、これは、私たち一人一人の思いの中での戦いにも当てはめることができます。「すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」とありますが、私たちが肉の欲望による思いを持ったときに、すぐにそれをとりこにしてキリストの服従させてしまうのです。また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。不従順を罰するというのは、そのにせ使徒たちを罰することであります。使徒の働き13章には、パウロが、バルイエスという魔術師に対してこのような処置を取ったのを見ることができます。バルナバとパウロを迎えた総督セルギオ・パウロを何とかして信仰の道から遠ざけようとしましたが、パウロは、聖霊に満たされて、彼をにらみつけ、「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。と言った。と言いました。「するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。(使徒13:10-11」とあります。このような霊的権威が、使徒パウロには与えられていました。

2B 人を立て上げる権威 7−11
 しかし、パウロは、罰することのために神から与えられた権威を行使したくはありません。次に、人を倒すことのためではなく立て上げることを求めるパウロのことばがあります。

 あなたがたは、うわべのことだけを見ています。

 
偽使徒たちは、パウロの容姿や身体の障害について酷評していたようです。また、彼の話しぶりもなっていないとけなしていました。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。

 
これは、カルト化した教師たちにある態度ですね。自分たちこそがキリストにつながっている者たちであり、その他の者はみな、神の救いからはずされている、という極めて横柄な態度です。自分たちだけが、神に選ばれた特別なグループである。私たちから離れたら、あなたは地獄に落ちる、という態度であります。そこで、パウロは、「私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、よく考えなさい。」と言っているのです。


 あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

 
パウロは、使徒として、神から大きな権威が授けられていました。彼はこの権威をどのように用いたでしょうか。まず福音を宣べ伝えることで、人々を滅びから救いへと導きました。これが、与えられた権威の中でももっとも大きな力でしょう。パウロはまた、主の御名によって、足なえの人を立ち上がらせたりし、多くの不思議としるしを行ないました。さらに、みことばを教えて、信者がキリストに根ざし、成長するのを手助けしました。神から与えられた権威を、人を倒すためではなく、むしろ立てるために用いたのです。私たちクリスチャンにも、同じ権威が神から授けられています。私たちの口は、ヤコブが言っているように、からだ全体を制御することができるほど強いものです。この口によって、人を勇気づけ、慰め、励まし、さらに前進するように動かすことができます。しかし、同じ口によって、人の一生をだめにしてしまうこともできます。私たちは、塩味のきいた恵みのことばを語るように勧められています。クリスチャンは、倒すためではなく立てるために召され、遣わされています。


 私は手紙であなたがたをおどしているかのように見られたくありません。

 パウロの、ためらいがここにも表れています。強硬な行動に出ることを嫌がっています。

 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。

 
コリント人への第一の手紙は、大胆であり、力強いものでした。けれども、実際に会ってみると、弱々しいではないか、話しぶりもなっていない、とあざけりました。しかし、パウロは、この手紙を書いている同じ権威をもって、あなたたちを対処する、と警告しています。


2A 慎み深い働き 12−18
 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

 パウロはここから、「推薦」という問題を取り扱っています。主の働き人は、人々からある程度の信頼を得ることによって、初めて奉仕をすることができます。もし信頼がなければ、奉仕をする相手がいなくなってしまいます。ですから評判とか信頼が主の働きには必要なのですが、この信頼を自分自身で作り出そうとしたのが、偽使徒たちの問題でした。彼らは、自分たちで自分自身を推薦していました。これはどういうことかと言いますと、例えば、ある教会における洗礼を受けた者たちの数が年に
20人あったとします。日本においては、かなりの数ですよね。けれども、実態はそのほとんどの人が信仰から離れたりして、二人しか教会にとどまっていなかったとします。けれども、その牧師が、自分の働きを周囲の人たちに認められるために、「私たちの教会で、去年、20人の受洗者が与えられました。教会は急ピッチで成長しています。」と言ったとします。これが、パウロがここで語っているところの「自己推薦」です。本当の姿よりもより大きく見せる。大げさに語る。あたかも自分自身が行なったものであるかのように、人々に言い広めることが自己推薦です。

 このことは、主の働きの中にいれば、だれでも経験するような誘惑です。自分の信用を勝ち得たい、人々に認められたいとだれでも思います。しかし、ここにおいても、私たちは肉に拠り頼まず、御霊に頼らなければいけません。攻撃があったときに、肉の武器ではなく御霊の武器によって戦うように、人々の信用も自分自身で得ようとするのではなく、主から賦与される、与えられることを知らなければなりません。

 そこでパウロは次から「限度内」という言葉を使って、自分ではなく主によって広げられていく働きについて説明していきます。私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。

 
私たち働き人には、ここに書いてあるとおり、主がそれぞれ割り当ててくださった領域があります。主が私たちに任せておられる奉仕があります。私たちが第一に意識すべきことは、忠実であることです。任せられたものを忠実に管理していくことです。イエスさまは、「あなたは、小さなことに忠実であったから、大きなものを任せよう。」と言われました。これが、主の働きを行なうときの大前提です。


 そして私たちが主の働きをするときに、信仰が与えられます。これから満たしていかなければいけない必要、果たさなければいけない使命、これから起こるところの幻を、神は私たちに示してくださいます。自分には、あまりにもはっきりしていて、明らかなのに、他の人には理解されないものがあります。しかし、それは神によって、自分に与えられた信仰なのです。信仰によって見ることができているのです。例えば、チャック・スミス牧師は、みことばを教えて、羊を愛していくという教会の使命に気づきました。また妻は、アメリカにいるときに、子供たちにみことばを教えることが日本では、多くの実を結ばせることになる、という信仰が与えられました。こうした信仰を、神が私たちに与えてくださいます。そして、その道が開かれるのを忍耐して待つのです。また、私たちが主の働きをするのに、主から賜物が与えられます。その賜物を用いることによって、教会全体の徳を高めることができます。例えば、私は、聖書を教えることが、人々を励まし、徳を高めていることに気づきました。これは自分自身が行なっているのではなく、主が行なってくださっていることを強く確信しています。

 このように、神さまは私たちに恵みを賜わり、それぞれに信仰と賜物を与えてくださいます。そして、この与えられたものに従って忠実に主に仕えるのです。これが、他の個所では、「慎み深い考え方をする」とか、「自分自身をわきまえる」というように言われています。例えば、ローマ書12章3節です。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」自分が主から与えられている働きの中にとどまること、その中に生きて、そこから離れないこと。それ以上のことに立ち入って、思い上がることのないようにすること。これが、「限度内で動く」ということであります。パウロの場合、彼には異邦人に福音を宣べ伝えるという信仰が神によって与えられました。また、彼は使徒の賜物が与えられていたので、教会を建て上げることができました。そこで、彼は異邦人の土地である小アジヤ、マケドニヤ、アカヤの地方まで足を伸ばし、コリントにおいても教会を建て上げたのです。これは、彼にとってごく自然なことであり、主から与えられたものを忠実に行なった結果なのです。

 私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。

 
パウロは、コリントまでキリストの福音を携える行くことができました。このことが、主が彼の働きを広げてくださった証拠であり、コリントも彼の働きの領域内であることを証ししています。ですから、彼のコリントの教会への働きかけは、無理に手を伸ばしているのではありません。


 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。パウロはここで、主が他の人々に与えられた領域に、自分自身が立ち入らないことも限度内で動くことである、と言っています。パウロがコリントに来て、初めて福音を宣べ伝えました。そして教会を建て上げました。彼が去った後に、アポロが来て、彼が据えた土台を基として水を注ぎました。こうしてコリントの信徒たちは、神によって成長することができ、教会がしっかりと据えられたのです。ところが、にせ使徒たちは、パウロが据えた土台そのものをひっくり返そうとしたのです。もうすでにあるものを壊して、自分たちこそがこのコリントの教会における使徒であると主張しました。ここに問題があります。他の人たちの働きがすでにあり、他の働き手が必要ではないのに、その領域内に入り込むことは限度を超えています。なぜ、このようなことを行なうのでしょうか。これも、自分が与えられたところの、神からの賜物と信仰をわきまえ知っていないからです。自分自身に任されたものに自信が持てていません。そこで、人々から認められなければいけないという、心理的・精神的な必要を満たそうとしてしまいます。そのときに、他人の働きの領域に入り込んでしまうのです。

 それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。

 
パウロは、今話しましたように、使徒の賜物を持っています。まだ福音が宣べ伝えられていないところに行って、宣教を行ない、そして教会を建てていきます。これが、パウロが神から与えられた使徒としての使命です。だから、彼は、コリントよりも先のスペインに行こうとしていることを、ローマ
15章から知ることができます。ところが、偽使徒たちは、自分たちが使徒であると言いながら、まだ福音が宣べ伝えられていないところに行きません。もうすでに他の人が建て上げた教会の中に入っていきます。そこに問題があります。もし使徒であれば、他の地域に行って福音を宣べ伝えるのです。そして、もしたとえば、預言者であるならば、すでに建てられた教会の中にある秩序と権威の下で奉仕をするはずです。これが限度内で動くということであり、他の人の働きを誇らないことであります。

 このように話したあと、パウロは、根本的に知らなければいけないことを、次に教えます。誇る者は、主にあって誇りなさい。

 
この一言が、すべての根幹でありましょう。自分自身に拠り頼むことをせず、主に依存しなさい、ということです。主にふみとどまり、主を待ち望み、主が開かれた門から入っていき、主によって押し出されていく。自分ではなく、主にあって動いていきます。これは、先ほどの戦いの武器についても、同じことが言えます。中傷されても、必死になって反論するのではなく、主に対して祈っていく。このように、主に対する信頼と依頼心があってこその、主の働きです。主との関係がいかに深まっているかに、すべてがかかっています。

 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。

 
主にあって誇るような働きをしているとき、主がその働きを広げてくださいます。それゆえ、人々の信頼は、自分自身で行なう必要はなく、主が行なってくださいます。それゆえ、主がまことの推薦者なのです。


 こうして、「神によって与えられた働き」という題で話させていただきました。あらゆる働きの源は、神から来ます。戦うときも、肉の武器ではなく、祈りの武器を用います。人々の評判も、自分自身で行なうのではなく、主に与えられたところの信仰と賜物にしたがって、忠実に仕えるところに、与えられます。働きに必要な権威も信頼も、みな神から来るのです。


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