うわべで判断しない 2001/01/22

昨日学んだ、コリント人第ニ11章において、にせ使徒たちが、肉によって誇っていることを学んでいたとき、イエスさまの次のみことばが、頭に浮かびました。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)」内実ではなく、外見で判断するところに過ちがあります。

いくつかの「うわべ」の具体例をあげてみたいと思います。

1.男と女。
この掲示板のように、ハンドルネームを使ったネット上の対話において、その人が男か女か分からないときがありました。男の人だと思ったら、後になって女性であることを知るようなことが、何回かありました。私はそのとき、自分がうわべで人を判断していることに気づきました。つまり、理路整然と自分の意見を述べ、自分とは直接関わりのない事柄にも関心を示しているのは男性の発言であり、身の回りのことに話題が集中し、感情を表現するような発言は女性のものであるという偏見があったことです。しかし、霊的な事柄においても、知的な事柄においても、神は女性と男性とまったく同じように造られていることを、聖書は教えています。

また、しばしば、女性が男性よりも、霊的・知的に優れていることがあります。エサウを愛したイサクに対しヤコブを愛したリベカや、自分の子を主に一生涯ささげることを誓ったハンナなどはその一例です。

2.人種
私はしばしば、日本人論なるものを読んで、首をかしげるときがあります。日本人が、あたかも他の民族とは異なる特別な素質があるような議論を読むときに、「日本人って、宇宙人なのだろうか?」といった皮肉を感じてしまいます。日本人であろうと、アメリカ人(彼らは人種ではなく市民権によって成り立っていますが)、韓国人であろうと、アフリカ人であろうと、すべて人間であり、人間である以上備わっている、共通の真理や原理・原則があるわけです。

主イエス・キリストは、人種や宗教、性別に関係なく、「人間」であれば、分け隔てなく私たちと関わってくださいます。イエスさまを信じますか、と聞くときに、「私は日本人ですから…」という言い訳は、ここにおいて通用しないのです。

3.年齢
アメリカにいたときに、日本の新聞を購読している、ある日系一世の方が面白いことをおっしゃっていました。「投稿欄を見ると、必ず名前の下に年齢が記されている。その人の発言と年齢に、何の関係があるのか。」私も、そのときに初めて、よ〜く考えてみると、実に滑稽であることに気づきました。「現在の国会の状況は、燦燦たるものである」云々と述べている発言が、23歳の人と67歳の人で変わってくるものなのでしょうか?私が通っていたアメリカの牧師訓練校にて、50代のおじさんと、20代前半の青年が、ハンバーガーショップで対等に和気藹々と議論を交わしているのを見て、私は、これがあるべき姿だよな〜と思いました。

聖書には、年長者に対して尊敬を払うように命令されています。しかし、若い牧会者テモテに対して、「年が若いからと言って、だれにも軽く見られないようにしなさい。(气eモテ4:12)」とパウロは勧めています。教会は、年齢、性別、職種、人種を越えたところの、神のみことばと聖霊の主権によって支配されている共同体です。年長者にも若者にもそれぞれにある「甘え」を自分から排し、他者に、キリストが死なれたほどの兄弟姉妹として、敬いながら接していかなければいけません。

4.教派・教団・神学・「〜主義」
他の方の掲示板にて、私は、根本主義と福音主義の違いについて説明してもらうよう、お願いされたことがありました。私は私なりの定義を書いたのですが、他の方は一様に、「〜主義」というラベルを張ることが、そもそも間違いである、という意見に一致していました。私も、ほんとうにその通りだと思いました。専門家が、自分の主義・主張を明確にするために、便宜上用いる言葉として、「〜主義」という表現は有益だと思います。また、個々の教会だけでは成し遂げられない働きのために、似たような考えを持っている人たちが集まって教団を作るということも有益だと思います。けれども、そうした目的も何もなく、やみくもに専門用語を用いることは、信者たちの交わりにとって、妨げにさえなるのです。未信者の方には、なおさらのこと困惑をもたらすことでしょう。

5.「牧師先生」と「平信徒」
私は、この区別が大嫌いです!(笑)牧師訓練校にいたときまでは、「きよきよ」と呼ばれていた僕が、日本に帰ってきて、「〜先生」と呼ばれるようになって違和感を持っています。だって、今までと変わりなく、汚れた罪人であるっていうことは、自分が一番良く知っていますから。

牧師や伝道師だって、同じ欠陥だらけの信徒なのです。機能面で、牧会の働きにおいて、牧師は指導者としての尊敬を得なければいけないと思いますが、それ以上の存在では決してありません。私が受ける誘惑は、自分が「クリスチャン」であること以上の、何者かであるかのような幻想を抱いてしまうことです。

また、その反対に、牧会という働きとその賜物以上のものを信徒が求めることも、牧師の友人からよく聞きます。「先生は、この前、挨拶してくれなかった。…」ということを不満に思うのであれば、自分がどれほど、他の信者に挨拶をしているでしょうか?「教会には、弱い人たちがやって来るのですよ。牧師はその人たちのことを、もっと気にかけなければ。」と言われるのであれば、その言っている本人が、その弱い人のために重荷を持てばよろしいのではないでしょうか。私は「万人祭司」というのは、そういう意味だと思っています。すべての信者が祭司のように、大きな責任と使命を課せられているということです。そして牧師は、祭司の務めをそれぞれの信者が果たしていることができるように、祈りとみことばの養いにとって手助けする人であります。


「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)」30歳そこそこの、正規の学びをされていないイエスさまが、群集に対しておっしゃられたことばです。この方は、うわべではなく、そのことばと行ないによってメシヤであると証明されました。私たちも、ことば、態度、愛、信仰、純潔を(1テモテ4:12)求めていく者でありたいものです。


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